All Chapters of 今世では手放すことを決めた: Chapter 1 - Chapter 10

13 Chapters

第1話

私と深月悠斗(みづき ゆうと)は幼馴染だったが、生涯お互いを恨み続けた。彼は私を恨んだ。勝手に記憶を取り戻させ、彼の初恋の人の水瀬清香(みなせ さやか)を飛び降り自殺に追い込んだと。私も彼を恨んだ。一生私、桜庭蛍(さくらば ほたる)のことを愛すると約束したのに、記憶を失った後で他の女を好きになったと。結婚して十年、私たちは関係が氷のように冷たく、一番知ってる赤の他人になった。だが私が難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、街中の人々が彼に離婚を勧めた時。悠斗は私に隠れて三千段の石段を這い上がり、仏前で昼夜を問わず祈り続けた。ただ私が生きられるようにと。臨終の際、彼は私を抱いて一晩中座り続け、額を私の頬に寄せて低く呟いた。「蛍、この人生で君への責任は全て果たした。もし来世があるなら、もう俺の記憶を戻さないでくれ。俺と清香の幸せを叶えてくれ」涙が目尻から滑り落ちた。ようやく分かった。少年時代の愛を足枷にして彼の一生を縛るべきではなかったのだと。再び目を開けると、悠斗を見つけたあの日に戻っていた。今度は、彼の記憶を取り戻させることを諦める。少年時代の恋人を、彼の初恋の人へと向かわせよう。……「深月様は記憶を失っているせいで、家に帰られるのは難しい状態です。ですがご安心ください。神経系統の最高権威の専門医に連絡を取りました。すぐに記憶を取り戻せるはずです」医者のセリフは全く同じだった。前世で失踪した悠斗を見つけた時と、寸分違わず。ただ今回は、あの時の喜びや焦りは心になかった。私は首を横に振って拒否し、二つのことをした。一つ目は、病院で極めて綿密な全身検査を受けること。二つ目は、ALSの診断書を持って深月家の両親に婚約解消を申し出ること。悠斗の母は私の手を握って首を激しく振り、目を真っ赤にした。「この婚約は解消できないわよ。悠斗はあなたをあんなに好きなのよ。あなた以外とは結婚しないわ……」私は何も言わず、ただ一枚の写真を見せた。写真には、悠斗が水族館で人魚を演じる女性を見つめている姿が写っていた。その眼差しは優しく、彼女に夢中だった。「彼を難病患者の私と無理に結婚させるより、好きな人と一緒にいさせてあげたい。もう彼の足枷になりたくないんです」前世で、悠斗が失踪した後、私は五
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第2話

「彼に数日だけ私の傍にいて欲しかっただけなんです。ほんの数日だけ!」声が最後には泣き声になっていた。私は静かに聞いていたが、視線は彼女を通り越して、その背後の悠斗に止まった。男の瞳は瞬きもせずに私を睨み、全身の筋肉が張り詰めていた。目の奥には、今にも爆発しそうな嵐の気配が醸し出されていた。かつて私の傍で影のように寄り添っていた守り人が、今は他人の傍の「番犬」になっていた。私が清香に少しでも危害を加えようものなら、すぐに飛びかかって私の肉を引き裂くつもりだろう。どうにもやり切れない気持ちだった。ただ一つはっきりしていた。この人生では、もう自分勝手に悠斗を傍に縛り付けることはできないと。私は口元に浅い笑みを浮かべ、清香に言った。「怖がらなくていいわ。二人を引き裂きに来たんじゃない。ただ二人を深月家に連れて帰りに来ただけ」清香は驚いて、信じられないという顔で確認した。「二人を?」「そう」私は頷いた。「あなたは彼の恋人よ。あなたを残したら、彼も一緒に来てくれないでしょう?荷物をまとめて、悠斗と一緒に深月家に帰ってね」私の声は平坦だった。「叔父様と叔母様もあなたのことには了承してる。二人のことに反対していないわ」清香は大きな喜びに打たれ、悠斗の手を掴んで、彼に向かって格別に嬉しそうに笑い、振り返って荷物をまとめに行った。悠斗はこの時ようやく、私が清香に悪意を持っていないと確信した。彼は唇を引き結び、態度が少し和らいだ。「さっきは悪かった。清香を傷つけに来たのかと思った」彼の感情の良し悪しは、全て清香次第だった。誰も覚えていない。かつて清香がしつこく纏わりついていた時、彼は煩わしげに私の懐に飛び込んできて、わざと怖がるようなフリをして、私を「妻」として外に向かって主張するよう催促していたことを。「蛍は彼女たちに言わなきゃ。俺は君だけのものだって。語気は厳しくね」彼は眉を寄せて凶悪な顔を作って、私に真似させた。最後にはいつも笑い転げて、ソファの上で騒ぎ続けた。残念なことだ。悠斗は、もう私のものではない。私は口角を引き上げ、二人を連れて深月家に戻った。私を紹介する番になると、深月家の人々は何と言えばいいのか分からず迷っているようだった。私から口を開いた。「私は彼と一緒
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第3話

部屋に戻ると、悠斗に関する古い品々を集めて、火の中に投げ込んだ。炎が熱風を巻き上げて襲ってきたが、私は全身が、刺すような冷たさの氷水に浸かっているような気分だった。その後数日間、庭では工事の音がずっと鳴り響いていた。悠斗がかつて私のために手植えした庭に敷き詰められた白百合の花が、全て掘り起こされ、清香の最も好きな赤い薔薇に植え替えられた。一緒にピアノを弾きながら、夕日を見たガラスの温室が叩き壊され、清香が運動しやすいプールに改築された。私たちが心を確かめ合った藤の花でできたアーチすら取り除かれ、清香の愛する蓮の花の池に作り直された。蓮の種を植えた日、清香が庭で突然私を呼び止めた。彼女は顎を高く上げて、わざと薬指の指輪を私に見せびらかした。「悠斗が部屋でこの指輪のデザインが描かれた図を見つけて、一目で未来の花嫁のために準備したものだって分かったんですって。それで何晩も徹夜して自分で作って、プロポーズしてくれたの」彼女は指を揺らした。「この指輪、素敵でしょ?」飛ぶ鳥と魚のデザインは、私がかつて最も愛したデザインだった。私は頷いて、真摯な口調で言った。「とても素敵。あなたの手にぴったりね」清香の表情が突然曇った。「でも私は気に入らないの」「このデザインが誰のために準備されたものか、あなたも私も分かってる」彼女は鋭い眼差しで私を見つめた。「あなたはいつも悠斗に興味がないって言うけど、彼の過去のあなたへの想いは、時限爆弾みたいなものよ。私は安心できない」「それで、どうしたいの?」私は尋ねた。「私は……」言葉が終わらないうちに、清香は突然身を翻し、整備したばかりの蓮池の汚水の中に真っ直ぐに飛び込んだ。私は大きな力で横に突き飛ばされ、よろめいて地面に倒れた。足首に鋭い痛みが走り、手のひらが整備の時に砕けた石に擦れて、ヒリヒリとした痛みが腕を伝って広がった。起き上がる前に、悠斗が狂ったように水に飛び込むのが見えた。悠斗が清香を抱き上げ岸に上がった時、二人とも泥水にまみれて、みすぼらしい姿だった。だが悠斗は自分のことなど構わず、慌てて清香の顔の泥を拭い、声は焦りに満ちていた。「清香!大丈夫か?喉に水が入ったか?目は痛くないか?怪我は?」清香はしばらくしてようやく首を横に振り、上目遣
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第4話

ボディガードはすぐに意図を理解し、私を掴み上げ水に投げ込んだ。冬の池の水は骨まで凍りつくほど冷たかった。水に入った途端、全身が震えて、必死に岸に這い上がろうとしたが、肩を押さえられて押し戻された。「桜庭さん、指輪が見つからない限り、岸には上げられません」ボディガードの声は冷徹だった。「苦しみたくないなら、早く探すことです」私は唇を噛み、諦めて汚水の中を漂い、冷たくなっていく指先で泥水の中を何度も何度も探った。汚水が袖口から流れ込み、指先が凍りついて感覚を失った。夜明けから日暮れまで探し、悠斗の両親が帰ってくる時間になって、ようやく指輪を見つけた。指輪を握りしめて、一歩一歩悠斗の部屋のドアまで辿り着き、軽くノックした。悠斗がドアを開けた後、暗い目で私を見た。「今回は許してやる。今後は清香に近づくな」言葉が終わると、彼は私の手から指輪を奪い、そのまま手のひらを返した。指輪は弧を描いて廊下の窓の外に投げ捨てられ、深い夜の闇に落ちた。「清香はこのデザインが気に入らないそうだ。新しく作り直す」私は自分が必死に探し出した指輪が闇に消えるのを見て、口角を引き上げた。そうだ。彼が既に過去を重荷だと決めつけているなら、当然この古い痕跡を持つ指輪の存在など容認できないだろう。……悠斗の両親は清香に対してずっと苦々しい蟠りがあったようだが、結局説得され、渋々婚約パーティーの準備を始めた。この婚約パーティーは極めて豪華に催された。パーティーに招待された者たちは時折私の方を見ながらヒソヒソと話していた。「桜庭さんって本当に可哀想ね。自分が苦労して探し出した恋人が、結局他人と結婚するなんて」「二人は幼馴染で、家柄も釣り合っていたのに。皆二人が結ばれると思ってたのに、まさかこんな事故が起こってしまうなんてね」「俺が桜庭さんなら、間違いなくあのクズ男と腹黒女に一回ずつ殴ってやるね。こんなパーティーに出席なんか絶対しない」この時、清香が最高級ブランドのドレスを身に纏い、優雅に宴会場の中心に歩いていった。悠斗が彼女の手を取り、その眼差しは優しい光で溢れていた。「本日はお越し頂いてありがとうございます」彼は咳払いをしてから話し出す。その声からは普段の仄暗い気配が消え、気品ある清らかさが滲んでいた。「では、
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第5話

つい最近、商業対決で悠斗に窮地に追い込まれた宿敵のようだった。しばらくして、拉致犯がようやくビデオ通話を繋いだ。「深月、一人は二十年来の幼馴染で元恋人、もう一人は記憶を失った後に深く愛すると決めた恋人。お前はどっちを救う?」悠斗は表面上は冷静を保っていたが、視線が清香の肩の赤い痣に触れた瞬間、突然冷静さを失った。「清香の髪一本でも傷つけたら、お前ら橘家全員をあの世行きにしてやる!」私は目を閉じた。目頭が熱くなり、涙が目尻から音もなく滑り落ちた。何も期待することはなかったはずだ。悠斗の選択は予想できていたはずだ。拉致犯が突然高々と笑い出した。「本当に選ばせてやるとでも思ったか!」言葉が終わると同時に、私は引きずられてガラスの箱に押し込まれ、横には温かい体が密着していた。私たちを入れたガラスの箱がそのまま海に投げ込まれ、大きな水しぶきが上がった。箱の底には石が結ばれていて、加速して沈んでいく。私は素早くハイヒールを脱ぎ、硬い金属のヒールでガラスの面を激しく叩いた!激流がガラスの破片とともに四肢を切り裂いたが、歯を食いしばって気絶している清香を箱から引きずり出し、必死に水面に向かって泳いだ。やっとの思いで水面に浮き上がった時、既に力尽きかけていたが、休む暇もなく、急いで清香を流木に押し上げ、指先で軽く彼女の頬に触れた。「しっかり生きて」あなたが生きてさえいれば、彼のこの人生の執着に帰着点ができる。流木を支えながら岸に向かって泳いでいると、呪われたALSが突然発作を起こし、腕が瞬時に感覚を失った。私は力なく深海に沈んでいった。水面に揺れる光を見上げながら、ゆっくりと目を閉じた。もういい、このままで。意識が完全に消える前、朦朧とした中で誰かが必死に自分に向かって手を伸ばすのが見えた。幻覚だろうか?再び目を開けると、目に映ったのは病院の真っ白な天井だった。看護師が私を見て、動転したように駆け寄ってきた。「本当によかった!やっと目覚めましたね!二日間も昏睡してたんですよ!このまま目覚めなかったら、病院は身元不明ということで抗生物質を止めるところでした!肺炎は薬を止めると再発してしまうから、目が覚めて本当によかったです!」私は嗄れた声で尋ねた。「昏睡している間、誰も見舞いに来なか
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第6話

病院中で噂になっていた。あの深月社長が、清香に水難事故の後遺症がないか確認するために、世界中の精神医学の権威を呼び寄せたらしいと。清香の診察が終わると、彼女は甘えた声で元気になったら一緒に外に遊びに行きたいから、悠斗に靴をプレゼントしてほしいと言った。悠斗はそれを聞いて、無力感と懇願の混じった声で呟いた。「靴のプレゼントはダメだ。清香、君と別れたくない」言葉が終わった途端、突如悠斗の頭の中に覚えのない記憶がフラッシュバックされた。それは日差しの照るよく晴れた日だった。そよ風が窓辺の風鈴を揺らし、チリンチリンと音を立て、藤の花の香りを運んできた。少女がはにかみながらプレゼントの箱をこちらに差し出し、記憶の中の彼はそれを受け取った。箱の中に入っている物が何かに気づいた時、彼は心が砕け散ったような感覚がした。「昔から靴を贈ると別れるって言われてるのに、君は俺と別れたいのか」少女は彼の大袈裟な様子に驚いて目を丸くしたが、彼女の顔は霧がかかったように、どうしてもはっきり見えない。「悠斗、そんなに私と離れるのが怖いの?」「当然だ。君に俺から離れる機会は、永遠に与えない」悠斗は無意識に胸を押さえた。心臓がこの記憶のせいで激しく脈打っていた。記憶の中の自分は、あの少女に対して執拗なまで大切に感じていた。まるで彼女の手を離せば、残りの人生は永遠に止まない大雨に濡れ続けるかのように。悠斗は少し焦りを感じた。この人は誰だろう?まさか桜庭蛍なのか?馴染みのある苛立ちが再び湧き上がってきた。今までのどの時よりも激しく。何か極めて重要なものが、少しずつ自分から離れていくような気がした。婚約パーティーでの拉致事件を思い出した。蛍と清香が海に投げ込まれた瞬間、彼の心は誰かの手に激しく握りしめられたようで、考える間もなく、体が先に海に飛び込んでいた。蛍が清香を引きずって水面に浮き上がり、清香を浮木に押し上げて、自分は糸の切れた凧のように深海に沈んでいくのが見えた。理性は彼に告げた。先に清香を救うべきだと。彼女は自分の婚約者で、自分の愛する人を救うのは当然だと。蛍の周りには部下がいる。そのうちの誰かが救う。彼女は死なない。だが体が清香にどんどん近づいていく時、本能が彼の手を引っ張り、あの底知れない深
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第7話

悠斗はほぼ瞬時に彼女の演技を見抜いたが、それでも彼女の意に従い、彼女を懐に抱き寄せ、背中を軽く叩きながら、ボタンを押して医者を呼んだ。このような芝居は既に何度も繰り返されていた。悠斗が蛍を探す素振りを見せる度に、清香はいつも病気を装って彼の注意を逸らす。回数が重なると、悠斗も次第に清香の気持ちが分かってきた。清香は蛍を恐れている。だがもし蛍が本当にただの幼馴染なら、清香がこんなに警戒する必要があるだろうか?混乱した思考が絡まった糸のようになり、彼は荒唐無稽な考えすら浮かんだが、すぐに自分で打ち消した。もし過去に本当に蛍を愛していたなら、彼女がどうして自分と清香が一緒にいるのを容認できるわけがないよな?彼は黙って清香の額の髪を払いのけ、震え続ける睫毛を見つめた。彼女が全く眠っていないことを知っていた。清香こそが自分が認めた生涯の最愛のはずなのに、蛍に過去の関係を問いただしたところで何になるというんだ?清香を傷つけるだけだ。割に合わない。悠斗はもう蛍を探すことは口にしない事を決心し、以前と変わらず清香に細やかに尽くした。ただ理性が冷静になればなるほど、思考は勝手に遠くへ飛んでしまう。もし蛍が本当に過去の恋人なら、自分が清香を愛したことは、蛍にとって何を意味するのだろう?彼がまた上の空になった時、清香は唇を噛み、爪を掌に深く食い込ませながらも、わざと甘えた口調で不満を言った。「悠斗、もう!また私の話を聞いてない!もう私のこと愛してないの?」悠斗はすぐに我に返り、姿勢を正した。「悪かった」「じゃあ、さっき私が何を言ったか覚えてる?」彼は正直に首を横に振った。清香は心細そうに言った。「最近ずっと悪夢を見るの。蓮見山のお寺で心を清めたいの。あそこのお守りはとても霊験あらたかで、お参りに行けば悪夢を見なくなるって……」悠斗はしばらく沈黙した後、頷いた。「分かった」二人は蓮見寺へ行き、悠斗は清香のために特別な数珠を授かった。寺の規則によると、供養する者が自ら数珠を入れたお守りを崖の最高峰に掛けて初めて、願いが叶うという。「無事に戻ってくる」彼は清香の肩を叩いて安心させた。悠斗はお守りを口に咥え、腰の安全ロープを確認してから、素手で滑りやすい崖を這い上がった。地上十メートルの時は、
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第8話

「あなたはいつも誕生日が月初めだから月が見えないって言うけど」少女の声は泣き声混じりだった。「これからは月がなくても大丈夫。私が銀河を灯してあげる」彼は手を伸ばして彼女の涙を拭おうとし、指先に触れた温もりが、胸の中で焼け付くような灼熱の痛みに変わった。悠斗は水の中で必死にもがいた。呼吸のためではなく、あの霧を払って、その顔をはっきり見たかった。頭に無数の針で同時に刺されたような痛みに体を丸めたが、それでも意識を手放さなかった。長い格闘の時間を経て、意識が完全に曖昧になる前に、ようやくはっきり見えた。あの涙を浮かべて笑う目は、蛍のものだった。「蛍……」彼は呟き、水に飲み込まれる瞬間、全ての封じられていた記憶が、決壊した洪水のように、轟然と脳裏に流れ込んできた。国外に来てから、私の最初の酷い身体の状態から今の状態へと徐々に安定するまで、まるで一世紀が過ぎたかのように長く感じた。その間、義理の兄の神宮寺昼人(じんぐうじ ひると)が私の面倒を丁寧に見てくれた。大小様々な病院を駆け回り、医師の指示通りの食事をグラム単位で精確に測りながら作り、私が何気なく故郷の料理が食べたいと口にすると、街中の東国料理屋さんを探し回って、炊き込みご飯や肉まんを買ってきてくれた。昼人の料理の腕は、時間が磨き上げたものだ。何年も前、両親があの交通事故で亡くなった後、私は泣きながら部屋に閉じこもって食事を拒んだ。成人したばかりの彼が不器用にエプロンを身につけ、レシピを見ながら少しずつ私の好きな料理の作り方を覚えてくれた。当時の私は母が残したウサギのぬいぐるみを離さないまま、毎晩枕を濡らすほど泣いた。彼は黙って両親の遺品を片付け、桜庭家の重荷を一人で背負いながら、私を庇い、兄でもあり父でもあるように、私の世界を支え続けてくれた。昔から兄さんの傍にいると安心感に包まれた。私は頬杖をついて窓の外を眺め、近所の家の子供たちが赤いマフラーをつけた雪だるまを一列に作っているのを見て、その雪だるまの丸々とした姿が愛らしくて、思わず笑い声が漏れた。「お兄ちゃん、私も雪遊びしたい」そう言いながら目の前の物静かな兄さんを期待の眼差しで見つめた。兄さんは私の自由を制限したことはないが、私が一人で外出する度に、彼に隠しきれない心配の表情が浮かぶ
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第9話

兄さんは何を言いたいのだろう?兄さんが悠斗と同じ?いつか突然私を忘れて、他の誰かのために私を傷つけるという意味?いや、そんなはずはない。私はすぐにその考えを否定した。兄さんは悠斗じゃない。絶対にそんなことはしない。だが兄さんのあの中途半端な言葉は、やはり私を少し苛立たせた。この人はいつもこうだ。意味深な事しか言わず、残りは私に推測させる。私は俯きながら庭に歩いていき、雪かき用のスコップを掴んで雪の地面に激しく突き刺した。まるで足下の雪を、兄さんの謎めいた表情に見立てているかのように。ガシャン──スコップが突然手から外れ、地面に落ちて鈍い音を立てた。腰を屈めて拾おうとしたが、腕が半分の高さで固まって、動かせなくなった。誰かを呼ぶ前に、体がふわりと軽くなり、しっかりと横抱きにされた。兄さんの胸に顔を埋めると、彼の力強い鼓動がはっきりと聞こえた。一つ、また一つと、まるで私を安心させるメトロノームのリズムのように。医者は私のALSを治療不可能な難病だと言った。薬物療法とケアで病状の進行を遅らせることしかできないと。筋肉が少しずつ力を失い、硬直し、萎縮して、最後には雪に凍りつくように、呼吸すらできなくなる。ベッドに横たわり、兄さんが布団をかけてくれるのを見ながら、何気なく冗談を言ってみたくなった。「外が寒すぎたから、凍っちゃったみたい」昼人は私の首元に身を屈めながら、少し震えの混じった声で言った。「そうだな。天気が暖かくなったら、いずれ溶ける」今度は私が黙る番だった。とても長い時間が経ってから、私はようやく軽く口を開き、真剣な口調で言った。「兄さん、私はこんな状態だから、誰かの妻にも、誰かの恋人にも相応しくない」私は婉曲な言い方で、受け止める事のできない兄さんの深情を拒絶した。だが兄さんは顔を上げ、身を傾けて近づき、その視線が真っ直ぐ私を突き刺さった。そこに渦巻く深情の濃さは私を怯えさせた。ずっと気付かなかった。だが彼の表情が突然和らぎ、口調は当たり前のことを言うかのように平静だった。「蛍が俺を兄さんとして選べば、俺は家族として蛍の世話をする。もし蛍が俺を恋人として選べば、俺は家族の基礎の上に、夫としての愛を蛍に加えるだけだ。結局は何も違わない」彼は少し間を
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第10話

蛍……この名前が悠斗の脳裏で何度も響き、鈍い馴染みを伴っていた。記憶に突然、細く清らかな姿が浮かび上がった。少女が庭に咲き誇った白百合の花畑の中に立ち、笑みを浮かべて彼を見ていた。「悠斗、温室で胡蝶蘭が咲いたの。一緒に見に行こうよ」悠斗は自分が我慢できずに近づいていくのを見たが、少女に触れた瞬間、その姿は激しく砕け散り、無数の蝶となって飛び去った。空から彼女の哀しく清らかなため息が聞こえてきた。「悠斗、私たちに未来はない」「蛍!」病室で、悠斗が勢いよく目を開き、一声の叫びが静寂を引き裂いた。「悠斗!目が覚めたの!」清香は最初狂喜したが、すぐに泣き崩れた。「やっと目が覚めた……もしもう目覚めなかったら、本当に私どうすればいいか分からなかった。叔父様も叔母様も私を恨むし、私も罪悪感で死にそうだった……あなたに数珠を持たせなければよかった。全部私のせい……」悠斗は静かに聞いていたが、視線はかつて宝物のように大切にしていた女性の顔に落ちたまま、嗄れた声で尋ねた。「蛍は?」清香はそれを聞いて固まり、唇を噛んで、悠斗の前でなお目薬を差したかのように泣き続けた。「まだ彼女のこと言うの?あなたが入院してこんなに長いのに、一度も来なかったのよ。あんな薄情な女、あなたが順風満帆な時は寄ってきて、落ち目になったら遠くに離れていくだけ。何で彼女のことを考えるの?私に言わせれば……」「彼女はそんな人じゃない」悠斗は眉をひそめて彼女の言葉を遮り、目には疑う余地のない確信があった。蛍がどんな人か、彼は誰よりもよく知っている。「彼女が来ないのは、単に怒ってるだけだ」記憶を失った時に蛍にしたことを思い出すと、心臓の痛みに息が詰まった。彼は勢いよく布団を跳ね除け、大股で扉に向かった。その後ろを清香がしっかりと抱きつき引き留めた。彼女はどんなに鈍くても、彼の今までとは違う明瞭とした目を見て取り、彼が全てを思い出したのだと分かった。またこうだ。蛍が現れさえすれば、彼の目には他の誰も入らなくなる。それでも彼女は諦めきれず、嗚咽しながら態度を低くした。「悠斗、ごめんなさい。私桜庭さんを誤解してたわ。彼女が私の婚約指輪を捨てたのには事情があったのかも。婚約パーティーの拉致事件も、きっと彼女の自
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