江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。 シュッ、シュッ。 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。「……ふぅ」 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。 ごほっ、ごほっ、ごほっ。 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。 鉄の味。 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。「……また、少し減ったね」 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握
Terakhir Diperbarui : 2025-12-14 Baca selengkapnya