恋骨(こいぼね)――あわいの刻、愛を彫る

恋骨(こいぼね)――あわいの刻、愛を彫る

last updateLast Updated : 2025-12-24
By:  佐薙真琴Ongoing
Language: Japanese
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【江戸の闇、愛の形、燃える命。】 時は天保の改革前夜、根津の裏長屋。 「あわい屋」の女職人・お龍(おりゅう)は、夜ごと男根を模した性具“張形”を彫り続けていた。だが、彼女の肉体は労咳に蝕まれ、死の足音は確実に近づいていた。 「死ぬ前に、永遠に残る愛を作りたい」 不能の侍・清次とのプラトニックな絆、美しき遊女・夕霧との肉欲の溺愛。三つの傷ついた魂が交錯する時、お龍は禁断の領域へ踏み込む。自らの骨、血、髪を漆に混ぜ、業火の中で焼き上げる“究極の分身”とは?

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Chapter 1

第一章 漆の匂いと鉄の味

 江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。

 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。

 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。

 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。

 シュッ、シュッ。

 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。

 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。

 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。

「……ふぅ」

 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。

 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。

 ごほっ、ごほっ、ごほっ。

 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。

 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。

 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。

 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。

 鉄の味。

 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。

「……また、少し減ったね」

 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。

 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。

 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握していた。

 微熱が常にある。その熱は、お龍の感覚を研ぎ澄ませていた。

 医学的に言えば、結核菌がもたらす慢性的な低酸素状態と微熱は、患者に一種の多幸感と、異常なほどの知覚過敏をもたらすことがあるという。お龍にとって、世界は常に過剰なほど鮮やかだった。

 行灯の炎の揺らぎが、網膜に焼きつくような軌跡を描く。

 隣の部屋から聞こえる衣擦れの音が、雷鳴のように鼓膜を震わせる。

 そして何より、触覚だ。

 お龍は作りかけの張形を手に取った。まだ荒削りの柘植の木肌。その微細な凹凸が、指先の指紋を通して脳髄に直接流れ込んでくる。

「ここが、違う」

 彼女は再び鑿を握った。

 依頼主は、日本橋の呉服屋の後家だった。亡き夫を忘れられず、夜ごとその面影を求めて泣いているという。お龍は先日、その後家と寝た。彼女の体を知り、その膣内の収縮と温度、そして彼女の記憶の中にある夫の「形」を聞き出すためだ。

 後家は泣きながら言った。『あの人のあれは、少し左に曲がっていたの。根元に小さな火傷の跡があって……』

 お龍は、その記憶を木に翻訳する。

 言葉を形に。情念を物質に。

 刃先をミリ単位で動かす。左への湾曲を作るために、木目の流れを計算する。逆目に刃を入れれば木が毛羽立つ。順目に、しかし大胆に削り込む。

 削り出された木屑が、金色の粉のように舞い散る。

 その時、ふいに背後で気配がした。

「また、そんなものを彫っているのか」

 低い、男の声だった。

 お龍は振り返らなかった。その声の主が誰であるか、匂いで分かっていたからだ。雨の匂いと、古びた紙の匂い。そして、どこか寂しい白檀の香り。

 清次(せいじ)だった。

「あら、清次さん。いつからそこに?」

 お龍は鑿を置かずに答えた。

「今しがただ。戸が開いていたぞ」

 清次が土間に上がり込み、濡れた傘を立てかける音がした。彼は浪人である。仕官の口もなく、長屋で寺子屋の真似事をして糊口を凌いでいる。

 お龍にとって、清次は特別な「恋人」の一人だった。

 彼は、あがり框(かまち)に腰を下ろし、お龍の背中をじっと見つめた。

「咳が酷いようだな」

「季節の変わり目ですから」

「嘘をつけ。痩せたじゃないか」

「余計な肉が落ちて、手元が狂わなくていいんですよ」

 お龍は軽口を叩きながら、ようやく彼の方を向いた。

 清次は整った顔立ちをしているが、その瞳には深い諦念の影が差している。彼は、刀を抜けない侍だった。そして、女を抱けない男だった。

 心因性の不能。

 ある事件を境に、彼の男根は二度と硬くならなくなったという。

 それでも、お龍は彼を愛していた。

 性交を伴わない愛。

 それは、お龍の奔放な性生活の中で、唯一の静寂(サンクチュアリ)だった。

「それで? 今日は何の用です?」

「……別になんでもない。ただ、お前の顔が見たかっただけだ」

 清次は不器用に視線を逸らした。その視線の先には、お龍が彫り進めている張形がある。彼はそれを嫌悪しているわけではないが、直視することを避けているようだった。それは彼自身の欠落を突きつける鏡だからだ。

「これ、もうすぐ仕上がりますよ」

 お龍はあえて張形を持ち上げて見せた。

「呉服屋の奥様の、亡くなった旦那様の身代わりです」

「身代わり、か」

 清次が自嘲気味に笑った。

「木っ端に魂など宿るものか」

「宿りますよ」

 お龍の声は真剣だった。熱を帯びた瞳が、暗がりの中で怪しく光る。

「魂というのはね、清次さん。雲のような形のないものじゃありません。もっと物理的な、重さと手触りのあるものです。汗の匂い、筋肉の張り、血管の脈動……そういう『情報』の集積こそが、人が人である証拠なんです」

 彼女は張形の表面を、愛おしげに撫でた。

「肉体は滅びます。旦那様の体はもう灰になってしまった。でも、奥様の記憶の中には、その形が残っている。私がそれを木に彫り出し、漆で皮膚を作り、奥様がそれを体内で温めれば……そこには確かに、旦那様が『在る』ことになるんです」

 お龍の職人としての哲学――いや、信仰に近い狂気だった。

 彼女は知っていた。漆(うるし)という樹液の特異性を。

 漆は、酸素を取り込んで硬化する。乾くのではなく、呼吸して固まるのだ。それは生きている塗料である。人間の肌と同じ有機物であり、数百年経っても腐らない強靭な被膜を作る。

 だからこそ、張形には漆が必要なのだ。

 永遠に腐らない肌を作るために。

「お前の言っていることは、俺には難しすぎる」

 清次はため息をつきながらも、懐から小さな包みを取り出した。

「これ。南天の実だ。咳止めにいいと聞いた」

 お龍は目を見開いた。

「あら……嬉しい」

 彼女は小走りに近寄り、その包みを受け取った。二人の指先が触れ合う。清次の指は冷たく、乾燥していた。お龍の指は熱く、湿っていた。

 そのコントラストが、二人の関係性を物語っていた。

「ありがとう、清次さん」

 お龍は彼の手に自分の手を重ねた。

「……泊まっていく?」

 その問いかけに、清次の体に緊張が走ったのが分かった。彼は一瞬、迷うような素振りを見せたが、やがて首を横に振った。

「いや、やめておく。俺がいても、邪魔なだけだろう」

 彼は視線を、お龍の背後にある作業台――そこには数々の張形が並んでいる――に向けた。

「お前には、木屑の恋人がたくさんいるからな」

 それは皮肉ではなく、悲しい事実の確認だった。

 清次は立ち上がり、逃げるように背を向けた。

「薬、ちゃんと煎じて飲めよ」

「ええ。気をつけて」

 清次が去った後、再び工房に静寂が戻った。

 お龍は南天の実の包みを、神棚のように設えられた棚に置いた。そこには、他の愛人たちから貰ったかんざしや、手紙も並んでいる。

 彼女はポリアモリー……つまり複数愛者だった。清次だけではない。吉原の遊女、若い歌舞伎役者、近所の八百屋の娘……彼女は多くの人間と関係を持ち、そのすべてを等しく愛していた。

 だが、その愛し方は歪だった。

 お龍は、愛する人たちを「観察」していたのだ。彼らの体の形、快感のツボ、匂い、声のトーン。それらを収集し、自分の脳内の引き出しに分類して保存する。

 なぜなら、自分が先に死ぬからだ。

(私は、何も残せない)

 子供を産むこともできない体だ。

 この労咳の体では、誰かの人生を背負うこともできない。

 だから、せめて「快楽」だけを残そうとした。

 悲しみを忘れさせ、死の恐怖を中和する、純粋な快楽の装置。それを完璧な工芸品として残すことだけが、お龍にとっての「愛の証明」だった。

 再び咳が出た。今度はもっと深いところから。

 お龍は作業台に戻った。

 熱に浮かされた頭で、柘植の木を見つめる。

 幻覚だろうか。木目が、人の血管のように脈打って見えた。

「待っててね。今、命を吹き込んであげるから」

 彼女は鑿を振るった。

 その夜、お龍は夢を見た。

 自分が一本の大木になり、その内部を無数のシロアリに食い荒らされる夢だった。シロアリたちは清次の顔をしており、またある時は遊女の夕霧(ゆうぎり)の顔をしていた。彼らは泣きながらお龍を齧(かじ)り、その体内に巣を作っていく。

 痛みはなかった。

 あるのは、自分が彼らの一部になっていくという、おぞましくも甘美な充足感だけだった。

 目が覚めたとき、枕元には愛猫の「文(ふみ)」が座っていた。

 文は生まれつき目が盲(つぶ)れている。白い毛並みの三毛猫だ。

 文は音もなくお龍の胸の上に乗ると、その温かい舌で、お龍の頬についた涙の跡を舐め取った。

 ザリ、ザリ。

 猫の舌の感触が、鑿の跡のようだった。

「お前だけだね、私の本当の姿が見えているのは」

 お龍は文を抱きしめた。猫の体温と、自分の高熱が混ざり合う。

 窓の外では、夜明け前のカラスが鳴いていた。

 今日もお龍は彫るだろう。命を削り、愛を彫る。それが、死へ向かう行進曲であることを知りながら。

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第一章 漆の匂いと鉄の味
 江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。 シュッ、シュッ。 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。「……ふぅ」 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。 ごほっ、ごほっ、ごほっ。 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。 鉄の味。 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。「……また、少し減ったね」 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握
last updateLast Updated : 2025-12-14
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第二章 木目の指紋
 雨が上がった翌日の午後は、空気が澄んで、木材の乾燥には最良の日和だった。 お龍は工房の縁側に座り、さまざまな種類の木材を広げていた。 檜(ひのき)、朴(ほお)、椿(つばき)、そして南洋から渡ってきたという黒檀(こくたん)。 それぞれの木には個性がある。檜は香りが高く、殺菌作用があるため、清浄な用途に向いている。朴は柔らかく加工しやすいが、耐久性に欠ける。黒檀は石のように硬く、冷たい。「お龍さん、いるかい?」 路地の方から、鈴を転がすような高い声がした。 吉原の遊女、夕霧(ゆうぎり)である。 彼女は今日、非番の日を利用して、「あわい屋」を訪ねてきたのだ。派手な打掛ではなく、地味な町娘のような着物を着ているが、その歩き方ひとつに染み付いた色気は隠しようがない。「あら、夕霧。珍しいじゃない」「ちょっと近くまで来たからさ。……嘘よ、あんたに会いたくて足が勝手に向いちゃった」 夕霧は悪戯っぽく舌を出して、慣れた様子でお龍の隣に腰掛けた。 彼女からは、高級な白粉(おしろい)と、微かな伽羅(きゃら)の香りがした。それは遊郭という閉ざされた世界の匂いだ。「精が出るねえ。また新しい注文かい?」 夕霧は広げられた木材の一本を手に取った。真っ白な木肌の檜だ。「ええ。神田の商家の旦那さんからよ。奥方が不感症で悩んでいるらしくて、少し刺激の強いものを、とね」「男ってのは勝手だねえ。自分の腕が悪いのは棚に上げて、道具に頼ろうってんだから」 ケラケラと笑う夕霧の横顔を、お龍は眩しそうに見つめた。 夕霧は美しい。透けるような白い肌、切れ長の目、そして何より、生命力に溢れている。彼女の体は、お龍の病んだ肉体とは正反対の、瑞々しい果実のようだ。「ねえ、お龍さん」 夕霧がふと真顔になり、お龍の手を取った。「あんたの手、随分と荒れてるよ。……また、無理してるんじゃないのかい?」 夕霧の指が、お龍の指のささくれを優しく撫でる。その指先は温かく、柔らかかった。「職人の手だからね。仕方ないわ」「嘘だ。あんたの手は、冷たすぎる」 夕霧は、お龍の手を自分の着物の懐――帯の間へと引き入れた。そこは温かかった。乳房の膨らみと、心臓の鼓動が直接伝わってくる。「……夕霧……」「あたしが温めてあげる」 真昼の縁側である。人通りは少ないとはいえ、誰に見られるかも分からな
last updateLast Updated : 2025-12-14
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第三章 鏡の中の遊女
 根津の町に、初夏を告げる祭囃子が遠く聞こえる季節になった。だが、「あわい屋」の空気は張り詰めていた。 お龍の病状が悪化していた。 朝、布団から起き上がるだけで息が切れる。痰に混じる血の量が増え、色は鮮血からどす黒い凝血へと変わっていた。 それでも、彼女は鑿を置かなかった。 むしろ、取り憑かれたように制作に没頭していた。 今の依頼品は、吉原でも指折りの太夫(たゆう)からの注文だった。『普通の木では満足できない。私の肌に負けない、艶(つや)のあるものを』 お龍が選んだのは、漆黒の「黒柿(くろがき)」だった。数万本に一本しか出ないと言われる、黒い紋様が入った希少な柿の木だ。その模様は、まるで墨を流したように妖しく、見る者を不安にさせる美しさがあった。「……硬い」 黒柿は石のように硬い。鑿の刃がすぐに零(こぼ)れる。 お龍は何度も砥石で刃を研ぎ直し、脂汗を流しながら削り続けた。 その作業中、夕霧が駆け込んできた。 普段の落ち着き払った様子はない。顔色は蒼白で、髪も乱れていた。「お龍さん! 大変だ!」「どうしたの、藪から棒に」「手入れだよ! 北町奉行所の!」 お龍の手が止まった。「吉原に?」「違う、ここら辺の裏長屋一帯さ! 『好色本や淫具を作っている不埒者』を狩り出すって……今、隣の版木屋がやられた!」 お龍は背筋が凍るのを感じた。 いよいよ来たか。 清次の警告通りだった。水野忠邦の「天保の改革」の余波が、この路地裏まで押し寄せてきたのだ。「逃げなきゃ! 道具を持って!」 夕霧はお龍の手を引こうとした。 だが、お龍は動かなかった。動けなかったのだ。 彼女の視線は、作りかけの黒柿の張形に釘付けになっていた。「まだ……磨きが終わっていない」「何を言ってるんだい! 命とどっちが大事なんだ!」「これが私の命だよ!」 お龍が叫んだ。その拍子に激しく咳き込み、床に鮮血を撒き散らす。 夕霧は悲鳴を上げそうになるのを堪え、お龍を背中から抱きしめた。「馬鹿っ……! あんたって人は……!」 その時、表通りから怒声と、戸板を蹴破る音が聞こえてきた。「御用だ! 神妙にしろ!」 捕り手の足音が近づいてくる。砂利を踏む草鞋(わらじ)の音が、死神の足音のように響く。「……隠そう」 夕霧が言った。彼女の目には覚悟の色があった。「床
last updateLast Updated : 2025-12-14
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第四章 禁忌の足音
 翌日、夕霧が持ってきたのは、寺の墓守に金を握らせて手に入れた「人骨」……ではなく、古い卒塔婆(そとば)の木片だった。さすがに人骨そのものを掘り出す度胸は、夕霧にも、そして墓守にもなかったのだ。「ごめんよ、お龍さん。これくらいしか……」「いいの。ありがとう」 お龍は、風雨に晒されて灰色に変色した卒塔婆を受け取った。そこには戒名が書かれているが、すでに判読不能になっている。 死者の魂が染み付いた木。 お龍はそれを細かく砕き、炭にした。 彼女の計画は少し変更された。他人の骨を使うのではない。やはり、自分のものでなければ意味がない。 だが、生きている自分の骨を取り出すわけにはいかない。 そこで彼女が目をつけたのは、「髪」と「血」と「爪」だった。 古来より、これらは呪術的な意味を持つ身体の一部である。 お龍は自分の長く伸びた髪を切り落とした。それを細かく刻み、漆のペーストに混ぜ込む。 さらに、喀血した際の血を、丁寧に濾紙(ろし)で漉(こ)し、顔料であるベンガラの代わりに混ぜる。 血の鉄分が漆と反応し、独特の黒味を帯びた赤色――「どす赤」に変色する。「綺麗……」 お龍はその色を見て、うっとりと呟いた。 それは生命の色であり、同時に死の色でもあった。 工房は今や、錬金術師の実験室の様相を呈していた。 部屋の四隅には結界のように注連縄(しめなわ)が張られ、中央には奇妙な匂いのする壷が置かれている。 清次が訪ねてきたのは、そんな時だった。「……おい、この異様な雰囲気は何だ」 清次は部屋に入るなり、眉をひそめた。「新しい技法の実験中ですよ」 お龍は短くなった髪を揺らしながら微笑んだ。痩せこけた頬、落ち窪んだ目、しかし瞳だけが爛々と輝いている様は、さながら鬼気迫る巫女のようだった。「髪を切ったのか」
last updateLast Updated : 2025-12-15
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第五章 骨の還る場所
 江戸が燃えている。 それは比喩ではなく、物理的な事実としての地獄だった。明暦の大火以来と言われる紅蓮(ぐれん)の炎が、乾燥しきった木造家屋を次々と舐め尽くし、夜空を焦がしている。 お龍は、その赤熱する風の中を、一人逆行していた。 人は皆、川へ、広場へと逃げていく。その流れに逆らって歩くことは、川を遡る鮭のように困難であり、そして自滅的だった。 熱い。 皮膚がチリチリと音を立てて乾いていくのが分かる。肺の中に入ってくる空気は、酸素を含まない熱湯のようだ。吸うたびに気管支が焼け爛(ただ)れ、喉の奥から鉄の味が溢れ出す。 しかし、お龍の意識は、かつてないほど澄み渡っていた。 医学的に言えば、極度の低酸素状態と高熱による脳内麻薬の過剰分泌が、彼女を一種のトランス状態に導いていたのだろう。 彼女の目には、燃え盛る町が「巨大な生き物の体内」に見えていた。 崩れ落ちる柱は、折れた肋骨だ。 吹き上がる火柱は、動脈から噴き出す鮮血だ。 舞い散る火の粉は、細胞の核だ。「……綺麗」 お龍はうわ言のように呟いた。 彼女は職人だ。構造を見る。材質を見る。 火事という破壊の現象の中にさえ、彼女は「解体」という美学を見出していた。世界の外皮が剥がれ落ち、その内側にある純粋なエネルギーが露出しようとしている。 足がもつれ、何度も転んだ。 膝の皮が剥け、着物の裾が焦げた。 それでも彼女は立ち上がり、根津の路地裏を目指した。 なぜ戻るのか。 そこに「あわい屋」があるからだ。 あそこはただの仕事場ではない。彼女の子宮であり、墓場であり、世界との唯一の接点だった。 作りかけの道具は清次に託した。魂の分身は逃がした。 ならば、その抜け殻である「私」は、元の鞘(さや)に戻らなければならない。 ようやく、見慣れた路地に辿り着いた。 奇跡的に、あわい屋のある長屋の一角だけが、まだ炎に包まれていなかった。風
last updateLast Updated : 2025-12-16
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第六章 逃亡者の荷物
 清次は走っていた。 心臓が破裂しそうだった。肺が悲鳴を上げている。だが、足は止まらなかった。 彼の胸には、桐の箱が抱かれている。 それは赤ん坊よりも軽く、しかし世界そのもののような重さを持っていた。「どけ! どいてくれ!」 清次は狂乱する群衆をかき分けた。 上野広小路あたりは、地獄の様相を呈していた。大八車(だいはちぐるま)が横転し、家財道具が散乱し、逃げ惑う人々が将棋倒しになっている。 一人の大男が、清次の肩にぶつかってきた。「邪魔だ!」 男は激情に駆られ、清次を突き飛ばそうとした。 清次は転びそうになったが、箱だけは高く掲げて守った。その代わり、腰の大小(刀)が地面に打ち付けられた。 カチャリ、と音がした。「てめぇ、どこ見て歩いてやがる!」 男が逆上して掴みかかってくる。 清次の目が据わった。 彼は刀を抜かなかった。抜く必要がなかった。 彼は箱を左手に抱え直し、右手で刀の鞘(さや)ごとその男のみぞおちを突き上げた。 古流剣術の「鞘当て」。 男は呻き声を上げて崩れ落ちた。 清次は自分でも驚いていた。体が勝手に動いたのだ。 かつて彼を不能にし、剣を捨てさせたトラウマ――「人を傷つけることへの恐怖」が、この瞬間だけは消えていた。 なぜなら、彼には守るべきものがあったからだ。 これは単なる木彫りの道具ではない。お龍の命だ。お龍の骨だ。 彼女が削り、磨き、血を混ぜて塗り上げた、魂の結晶だ。「……俺は、これを届けねばならない」 誰に? 未来に。 お龍という女がいた証を、灰にさせずに残すこと。それが、不能の侍である自分に与えられた、唯一にして最大の使命だった。 隅田川の土手まで出ると、少しだけ熱気が和らいだ。 川面には無数の船が浮かび、対岸へ逃げようとする人々でごった返している。「清次さん!」
last updateLast Updated : 2025-12-17
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第七章 窯変
 あわい屋の工房は、今や巨大な窯(かま)の内部と化していた。 四方の壁が燃え落ち、天井の梁が焼け落ちてくる。 温度は百度、二百度と上がっていく。 だが、お龍はもう熱さを感じていなかった。 皮膚の痛覚受容体はとうに焼き切れてしまったのか、あるいは脳が痛みを快楽信号に変換してしまったのか。 彼女は、全裸で、全身に漆を塗った姿で、燃え盛る部屋の中央に座していた。 膝の上には、盲目の猫・文がいる。 不思議なことに、文も逃げようとしなかった。ただ静かに、お龍の鼓動を聞いている。 視界が歪む。 炎の色が変わった。 赤から橙へ。橙から白へ。そして、青へ。 それは陶磁器を焼くときに見られる「窯変(ようへん)」の輝きに似ていた。 極限の高熱の中で、物質が化学変化を起こし、予期せぬ色と質感を獲得する現象。 お龍の意識の中で、過去と現在が融解した。 ――初めて鑿を握った日の記憶。 ――清次と初めて会った雨の日の匂い。 ――夕霧の肌の柔らかさと、その内側の温かい粘膜の感触。 ――喀血した時の、あの鮮烈な赤。 それら全てが、炎の中で混ざり合い、一つの塊になっていく。(ああ、そうか) お龍は悟った。 私は、張形を作っていたんじゃない。 私は、「人間の寂しさ」の型を取っていたんだ。 人は一人では生きられない。体と体が触れ合わなければ、自分の輪郭さえ確かめられない。 だから人は、他者を求める。埋まらない穴を埋めようとする。 私の仕事は、その穴にぴたりとハマる「永遠」を作ることだった。「……できた」 お龍は呟いた。 何ができたのか。 彼女自身が、完成したのだ。 肉体という檻(おり)が焼け落ち、魂という液体が蒸発して、世界そのものと交わる瞬間。 天井の太い梁が、音を立てて崩れ落ちてきた。 それはスローモーショ
last updateLast Updated : 2025-12-18
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第八章 灰の中のダイヤモンド
 火事が鎮火したのは、三日後のことだった。 江戸の町の三割が焼失したと言われる大火だった。 見渡す限りの焼け野原。黒く焦げた柱が墓標のように立ち並び、まだあちこちから白い煙が上がっている。 清次は一人、根津の跡地を歩いていた。 足元には、瓦礫と灰。 熱気はまだ残っており、草鞋の底を通して伝わってくる。「……あわい屋は、この辺りか」 目印など何もない。だが、清次の足は正確にその場所を覚えていた。何度も通った道だ。匂いの記憶が、彼を導く。 やがて、彼はある一点で足を止めた。 そこは、周囲よりも激しく燃えた形跡があった。漆や油を大量に保管していたからだろう。地面の土までが変色し、ガラス質に固まっている。 清次は膝をつき、灰を掘り返し始めた。 手で。爪が割れ、指先が血に滲むのも構わずに。 何を探しているのか、自分でも分からなかった。骨か? 道具か? ザリッ。 指先に、硬いものが触れた。 石ではない。もっと有機的な感触。 清次は慎重に周囲の灰を取り除いた。 そこに現れたのは、奇妙な塊だった。 黒く炭化した何かが、折り重なっている。 よく見ると、それは人が座禅を組んでいるような形をしていた。そしてその胸元には、小さな獣の形が融合している。 お龍と、文だ。 完全に炭化している。触れれば崩れてしまいそうなほど脆(もろ)い。 だが、その形は崩れていなかった。 そして、その「炭化像」の中心、お龍が抱きしめていたあたりに、異様に光るものがあった。 清次は息を呑んだ。 それは、焼け残った張形……ではなかった。 高熱で溶けた南蛮鏡のガラスと、お龍が体に塗りたくった漆、そして彼女自身の骨の成分……カルシウム……が化学反応を起こし、一種の「釉薬(ゆうやく)」となって、炭化した体の表面をコーテ
last updateLast Updated : 2025-12-19
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第九章 瓦礫の庭
 江戸の復興は、破壊と同じくらい暴力的なエネルギーで始まった。 火が消えるや否や、焼け出された人々は灰をかき出し、焼け残った木材を拾い集め、バラック小屋を建て始めた。あちこちで金槌(かなづち)の音が響き、材木を挽く鋸(のこぎり)の音が絶え間なく聞こえる。それはまるで、巨大な蟻塚が再生していくような、生々しい生命力の合唱だった。 清次と夕霧は、隅田川の東、深川の外れにある廃寺の軒下を仮の住処(すみか)としていた。 奇妙な同居生活だった。 元武士の浪人と、元吉原の高級遊女。そして、その中心には、桐の箱と、布に包まれた「黒い塊」が鎮座している。「……寒いね」 夕霧が薄い煎餅布団をかぶりながら呟いた。 冬の風が、板壁の隙間から容赦なく吹き込んでくる。「ああ。だが、火事の熱よりはマシだ」 清次は焚き火に枯れ枝をくべながら答えた。 彼の手は荒れ放題だった。この一ヶ月、彼は日雇いの人足として働き、瓦礫の撤去や運搬で銭を稼いでいた。武士の誇りなど、とうに捨てた。今あるのは、夕霧とお龍の遺骨を守らねばならないという使命感だけだった。 夕霧もまた、遊女としての華やかさを失っていた。 化粧道具も着物もすべて焼けた。今は清次が拾ってきた男物の古着をまとい、髪を無造作に束ねている。それでも、彼女の肌の白さと、ふとした仕草に宿る色気は消えていなかった。「ねえ、清次さん」 夕霧が焚き火の明かりの中で言った。「あたしたち、これからどうなるんだろうね」「どうもならんさ。ただ生きるだけだ」「……吉原には、戻らないよ」 彼女は膝を抱えた。 吉原もまた大半が焼失したが、仮設の小屋ですぐに営業を再開しているという噂だった。借金証文が焼けていようがいまいが、楼主たちは遊女を逃がしはしない。「戻らなくていい。お前はもう自由だ」「自由って、飢え死にする自由かい?」 夕霧は自嘲気味に笑ったが、その目は真剣だった。
last updateLast Updated : 2025-12-20
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第十章 贋作の都
 それから三年が過ぎた。 江戸の町は見事に復興を遂げていた。 新しい家々が立ち並び、日本橋の往来は以前にも増して活気に溢れている。火事の記憶は薄れ、人々は再び享楽と消費の日々に没頭し始めていた。 その復興の影で、奇妙なブームが起きていた。 「あわい屋お龍」の贋作(がんさく)騒動である。 裏の骨董市場や、好色家たちのサロンでは、お龍の張形が高値で取引されていた。しかし、その九割九分は偽物だった。 どこかの職人が真似て作った粗悪品に、「お龍作」の焼印を押して売りさばいているのだ。 深川の路地裏に、「清(せい)」という名の小さな古道具屋があった。 主人は無口な男で、いつも右足を少し引きずって歩く。そして奥には、決して客前に顔を出さない美しい女房がいるという。 清次と夕霧の、今の姿である。 ある日、一人の若侍が店を訪れた。 身なりは良いが、眼光が鋭く、ただの客ではない雰囲気を纏っている。「主(あるじ)はいるか」 帳場に座っていた清次は、顔を上げずに答えた。「私ですが」「……これを見てほしい」 若侍は、風呂敷包みを解いた。 中から出てきたのは、一本の張形だった。 素材は檜。丁寧な彫りが施され、朱色の漆が塗られている。一見すると見事な出来栄えだ。「ある商人から、『あわい屋お龍』の真作だと言われて三十両で買った。だが……どうも腑に落ちない。貴殿は、お龍の作風に詳しいと聞いた」 清次は、その張形を手に取ることはしなかった。 一瞥しただけだ。「偽物です」 即答だった。 若侍の眉がピクリと動いた。「なぜ手に取って見ない? 触りもせずに分かるのか」「匂いが違います」 清次は静かに言った。「お龍の作品には、匂いがある。漆の匂いだけではない。……血の匂いと、渇望の匂いがするんです」
last updateLast Updated : 2025-12-21
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