ホーム / 恋愛 / 再婚先は偏執大物 / チャプター 271 - チャプター 280

再婚先は偏執大物 のすべてのチャプター: チャプター 271 - チャプター 280

338 チャプター

第271話

あなたが私に隠していたあの件のように、どれだけ上手く隠したって、結局知ってしまうことになるのだから……その言葉だけは、真帆は心の中で静かに唱えた。全部を言葉にするつもりはなかった。お互い、分かっていればそれでいい。口にしてしまえば、もっと惨めになるだけだ。一雄は何も言わず、ただ静かに真帆を見ていた。真帆は唇を結び、静かに言った。「ごめん、私もう行かないと」今の彼女は、一秒でも早くここから逃げ出したかった。もう一雄を見たくなかったし、見る勇気もなかった。だが、突然腕を強く掴まれて、真帆は足を止めた。振り返ると、一雄がしっかりと彼女の腕を掴んでいた。彼は何も言わなかった。でも真帆は、その黒い瞳の奥に籠るかすかな懇願を見た。昔の一雄は冷たく、自分から誰かに何かを求める人ではなかった。なのに今は、自分のためにこんな顔をしている……少しも心が動かなかったと言えば、嘘だった。ただ、真帆が一番嫌いなことは、捨てられることと、騙されることだった。一雄は、その両方をした。真帆は彼を見て、静かに口を開いた。「私、もうはっきり言ったつもりだった。一雄、あなたの周りには女の人なんていくらでもいるでしょう。鶴見さんがいなくなったら今度は葉月さん、あなたはずっと困らない人のはずなのに、どうして私じゃなきゃ駄目なの?」「そんな奴ら、お前と比べられるわけないだろ!」一雄は怖かった。本当に怖くて、真帆を引き止めたかった。でも、今まで一度も誰かを引き止めたことがない彼には、どう言えば真帆が残ってくれるのか分からなかった。彼は目を赤くして、長い間真帆を見つめた。もう一度口を開いた時、その声は震えていた。「真帆……俺は信じない。本当に少しも俺の気持ちを感じなかったのか?」「感じてた」真帆は否定しなかった。否定したくなかった。「一雄……あなたの愛を、そんなに惨めなものにしないで」その言葉が落ちた瞬間、一雄の指先から少しずつ力が抜けた。惨め……そうだ。今の自分は、惨めそのものだった。でも、真帆が残ってくれるなら、惨めでもいい。何かを決めたように、一雄はもう一度指を強く握った。「真帆……頼む。お願いだから、駄目か……?」彼はどんどん手に力を込めた。少しでも手を離したら、真帆がもう二度と戻らない気がした。「俺は惨め
続きを読む

第272話

仕事の面では毎日頭を抱えていた。社内では会長である浩一郎に抑え込まれ、外では競合から虎視眈々と狙われる。表でも裏でも何度も妨害された。それでも一雄は毎日きっちり定時で帰っていた。どれだけ仕事が忙しくても、必ず家へ戻った。そしていつからか、そんな日々そのものが心地よくなっていた。外で一日戦って、家へ帰れば愛する人が待っている。男にとってそれがどれだけ幸せなことか。このまま真帆と暮らしていけるなら、西園寺グループの社長という立場を失っても構わないと、本気で思っていた。浩一郎が最後まで反対するなら、自分から全部手放す覚悟までしていた。今、浩一郎は動いていないのに。それなのに、二人は結局一緒にいられない。いったい何が間違っていたんだろう。真帆は全力で走った。冷たい風を正面から受け、頬に当たるたび痛かった。熱い涙が目から溢れたが、落ちる前に風に乾かされた。彼女は行き先もなく、一人で街を走り続けた。道行く人たちは不思議そうに振り返ったが、それでも真帆に止まる気はなかった。周囲の音も景色も、全部意識から遠ざかっていく。まるでこの世界には、自分しかいないみたいだった。「そこの人!赤信号ですよ!」交差点に立っていた警察官が、真帆が道路へ飛び出していくのを見て、すぐ笛を吹いて止めた。でも真帆には届かなかった。「危ない!車!」警察官が追いかけようとした、次の瞬間、一台の車が勢いよく走ってきた。耳を裂くようなクラクションが鳴り響き、真帆はようやく振り返った。だが、車は目の前に迫っていた。「危ない!」ドン!キィィィッ!警察官の声とブレーキ音が、真帆の耳に重なった。真帆は地面へ弾き飛ばされ、身体は勢いのまま前へ転がった。温かいものが、少しずつ身体から流れていく感覚がした……少しずつ霞む視界の中で、周囲に人が集まっているのが見えた。さっきの警察官も隣にしゃがみ込んで、何度も自分を呼んでいた。……もう、このまま眠ろう。真帆はゆっくり目を閉じた。すると、頭の中に知恵の顔が浮かんだ。和幸の顔も浮かんだ。そして、一雄の顔が浮かんだ瞬間、胸が少し痛んだ。意識は少しずつ遠のいていった。もしこのまま終われるなら、自分は解放される。……それでいい。育ての母に会えるなら、一人で全部背負って生きるより、ずっと楽かもしれない。
続きを読む

第273話

地下駐車場。聖奈は白衣を脱ぎ、私服に着替えると、おとなしく初男の後ろをついて歩いた。「学校まで送ろうか?」初男は車のロックを解除し、後ろにいる聖奈を振り返った。「急いでないです」聖奈は手を振って笑った。「先輩、お腹空きました。よかったら何か食べてから学校送ってくれませんか?」せっかく今日は初男と休みが被った。この機会を、聖奈は逃したくなかった。初男は少し眉を寄せた。「さっき昼食食べたばかりじゃなかった?」鈍感過ぎるでしょ……聖奈は心の中で突っ込んだ。大事なとこそこじゃないでしょ?重点は、先輩と一緒に行くことなんだけど!?「お腹空いたんです。それにさっきもそんなに食べてないし……」聖奈は口を尖らせた。「そんなに食べてない?」初男は真面目な顔で頷き、指を折って数え始めた。「ご飯二杯、手羽先六本、味噌汁一杯、おかず三皿だけか。別に多くないな」「……」聖奈は気まずそうに口元を引きつらせた。「いや、その、私……」彼女は言葉に詰まった。実のところ、聖奈が食べた量は二人分だった。そのうちの一人分は、患者の和幸の分だった。しかし、和幸は機嫌悪く、全然食べなかった。食べ物を無駄にしないという精神で、全部聖奈が食べたのだ。そしてその現場を、回診に来た初男にしっかり見られた。「先輩、あれは……もったいないじゃないですか。残して捨てるのも……」聖奈は必死に言い訳したが、その声はどんどん小さくなった。……うん。言葉を並べながら、自分でも苦しい言い訳だと思った。「何食べたい?」諦めようとしていた時、初男がぽつりと言った。その一言で、消えかけていた心の火が一気についた。聖奈は目を輝かせ、信じられないという顔で初男を見た。「行かないのか?」驚く聖奈の顔を見てからかいたくなった初男は、車のドアを開け、そのまま乗ろうとした。「食べないなら帰るか」「食べます!」聖奈は慌てて彼の上着を掴み、反射的に言った。「藤田おばあさんのところ行きたいです」「藤田おばあさんのところってどこ?」初男は少し困惑した。そんな店、聞いたことがなかった。「えっと……」聖奈は言葉に詰まった。前に一雄と行ったことはある。でもその時は一雄が運転していた。方向音痴の自分が道なんて覚えているはずもなかった
続きを読む

第274話

「スマホ置いてきちゃって、取りに戻った」初男はそう言いながら、白衣のポケットからスマホを取り出し、何気なく尋ねた。「富田先生は?」「緊急手術が入って、今オペ室です」初男は軽く頷いた。「じゃあ、それは?」「富田先生に言われて、電話で患者さんのご家族に急いで連絡するところなんです。交通事故に遭われて、かなり重傷で、手術の同意書にサインが必要なので」「そう」初男は頷いた。看護師は、警察から渡された真帆のスマホに入っていた連絡先一覧を確認した。番号を押そうとしたところで、連絡先の中に初男の名前を見つけた。彼女は顔を上げ、帰ろうとしていた初男を呼び止めた。「石黒先生」「どうした?」初男と聖奈は同時に振り返った。「この患者さん、先生のお知り合いですか?連絡先一覧の中に先生の番号が入っていて……」その言葉に、初男は眉を寄せ、大股で看護師のところへ向かうと、青いファイルを手に取って患者名の欄を素早く確認した。柊真帆。その三文字を見た瞬間、初男は思わず声を漏らした。聖奈も驚いて固まった。彼女は初男の手からファイルを奪い取った。そして自分の目でその名前を確認した瞬間、信じられないように目を見開いた。「……今、なんて言った?」初男は看護師を見た。「交通事故?」「は、はい……」看護師は、こんなに焦る初男を見るのが初めてで、言葉を詰まらせた。「先輩、間違いじゃないですか?同姓同名かもしれないですよね?真帆さんが交通事故なんてありえないです!」聖奈はそう言った。でも心の中では不安だった。和幸の怪我もまだ治っていないのに、その上、真帆まで何かあったら……それでも彼女は、間違いであってほしいという気持ちに縋った。「間違いじゃない」初男は静かに目を伏せた。その一言で、聖奈の最後の希望は消えた。「私の知っている柊真帆は一人しかいないし、私の番号を持ってる真帆も一人しかいない」「じゃ、じゃあ早く手術着に着替えて入りましょう!」聖奈はそう言って外へ走り出そうとした。だが足を踏み出した瞬間、初男に腕を掴まれた。聖奈は不思議そうに振り返った。初男は何も言わなかった。代わりに机の上に置かれていた手術同意書を手に取り、ペン立てから一本抜き取ると、迷わず自分の名前を書いた。「これを富田先生に渡して、すぐ手術を
続きを読む

第275話

初男はそう言って、小さく息をついた。「君は私のところで研修してる医師であって、病院に正式採用された主治医じゃない。だから全部の手術に入れるわけじゃないんだ。分かるか?」「でも……真帆さんが心配です……」聖奈は目を伏せた。行けないことは分かっていたがもう知ってしまった以上、何も知らないふりで休みに入るなんてできるわけがない!。そんな気持ちを見抜いたみたいに、初男はそっと彼女の肩を叩いた。「大丈夫。富田先生は専門医としても経験がある。私より長く現場にいる人だ。あの人がいるなら、真帆は大丈夫」聖奈は静かに頷いた。「少し外行ってくる。君は診察室で待ってなさい」そう言い終えると、初男は彼女に何か言わせる前にスマホを持って出て行った。初男は知っていた。一雄が真帆の恋人だということを。だから、真帆が事故に遭ったことは伝えた方がいいと思った。もちろん、真帆が事故に遭った原因を初男が知っていたら、一雄には連絡しなかっただろう。逃げれば逃げるほど、避けたいことはむしろ近づいてくる。真帆と一雄みたいに。電話を受けた一雄は、まだレストランにいた。連絡を受けた瞬間、彼はすぐに車を走らせて病院へ向かった。一雄は法定速度ギリギリの速度で車を走らせた。運転中、一雄は心臓が胸から飛び出しそうだった。ひどく後悔していた。真帆が走り出した時、どうして追いかけなかったんだろう。追いかけていたら、こんなことにはならなかった。交通事故。また交通事故だ。今回も、本当に事故だったのだろうか。エレベーターはなかなか来なかった。一雄は待てず、そのまま階段を駆け上がった。四階に着いた一雄は、走ってきたせいで少し息が上がっていた。初男と聖奈は手術室の前で待っていた。一雄が来た瞬間、聖奈はすぐ駆け寄って、涙で顔を濡らした。「あ、一雄兄ちゃん……」口を開いたが、声が詰まった。「真帆さんが……」一雄は手を伸ばし、慰めるように彼女の肩を軽く叩いた。それから初男を見た。目には不安が滲んでいた。「真帆は、どうですか?」「分かりません」初男は眉を寄せ、一雄の前まで歩いた。「看護師の話だと怪我は軽くありません。骨折も何箇所があります。でも命に関わる状態ではないと思います」一雄は目を伏せ、深く息を吐いた。張り詰めていた心が、その言葉で少しだけ落ち着いた
続きを読む

第276話

「一雄さん」初男はゆっくりと一雄の前まで歩いていき、静かに口を開いた。「手術はいつ終わるか分かりませんし、一雄さんももう午後ずっとここに立っているでしょう。近くで少し何か食べませんか?」一雄は目を閉じて首を横に振った。今の彼に食事をする余裕なんてなかった。心の中は後悔と自責でいっぱいだった。「行きましょう」初男は譲らなかった。「真帆の友人として、彼女の代わりに一雄さんに聞きたいことがあります」その言葉に、一雄はわずかに目を上げた。だが、一雄が何か言うより前に、初男はもう先にエレベーターの方へ歩いていた。病院を出た二人は、高級レストランにも行かず、個室も選ばず、ごく普通の屋台へ向かった。店と呼べるほどのものでもなく、置かれているのは何卓かのテーブルと小さな屋台車だけで、出している料理もすべてその場で作られたものだった。初男は空いた席へ腰を下ろし、一雄の反応をさりげなく観察した。一雄はさりげなく周囲を見回し、簡素な机と椅子に一度視線を落としてから、そのまま向かいへ座った。その様子を見て、初男は少し口元を緩めた。「一雄さん、何食べますか?」「同じものでいい」一雄は適当に答えた。食欲なんてなかった。真帆のことも、西園寺家のことも、気がかりだった。初男は牛丼を二つ頼んだ。店主は愛想よく「肉を多く入れておくよ」と笑っていた。ただ、一雄がそこに座っている姿だけが浮いて見えた。「すみません、一雄さん」初男は周囲を見回して苦笑した。「病院から急に呼ばれるかもしれないですし、真帆に何かあるかもしれないので、今日は遠くへ行かず、近くで済ませたいと思いまして」一雄は表情を変えず頷いた。けれど、その説明をそのまま信じたわけではなかった。「真帆の代わりに何を聞きたいんですか?」病院は中心部にある。周囲にはそれなりの店もいくらでもあるし、ここは病院から一番近い場所でもない。初男がわざわざここへ連れてきたのには、何か理由があるに違いない。「先に食べましょう」初男がそう言った直後、店主が湯気の立つ牛丼を二つ運んできた。「七味入れたかったら好きに入れてね。うちの調味料は、自家製だから美味しいよ」店主は笑いながらそう言うと、また仕事へ戻っていった。初男は割り箸を割ると、牛肉を一切れ口に入れてゆっくり噛んだ。一雄は箸を持た
続きを読む

第277話

「本当に好きだから、それがダメなんですか」一雄は初男の視線を受け止めて、少し冷たい口調で言った。「注意されても体に悪いものを食べる患者がいるなら、その人は最初から痛みも後悔も引き受ける覚悟をしてるってことでしょう」初男の話が遠回しに自分と真帆のことを言っていることくらい、一雄は分かっていた。初男の目に映る自分は、その患者と同じなのだろう。真帆は本来触れてはいけない存在だ。無理に一緒にいようとすれば、後に直面する問題を背負い切れなくなる。そう言われているのと同じだった。一雄は苦く口元を上げた。自分は全部覚悟していた。なのに最後に尻込みしたのは真帆だった。しかも理由は、浩一郎の言葉だった。「一昨日、真帆は一人で海へ行きました」初男は静かに口を開いた。声には不快感が滲んでいた。「私が電話を受けた時、掛けてきたのは知らない男の子でした。海へ着いた時、真帆は泥酔していて、砂浜に寝ていて、何も分かっていませんでした」初男は一雄を見た。「一雄さん、もしあの日、その男の子がいなかったらどうなっていたと思いますか。考えたことありますか?」一雄は眉を寄せた。そんなこと、何も知らなかった。「石黒先生、あなたが真帆の友人なのは知っています」一雄の目は冷えていた。初男が自分たちのことに口を出しているように感じていた。「でも俺と真帆のことは、俺たちが解決します。事情も知らない人間に、俺たちを評価されたり、口を出したりする資格はない」言葉に迷いはなかった。反論を許さなかった。初男は真剣な顔で数秒見つめた。それから突然、少し笑った。「一雄さん、私は毎日たくさん患者を診ていますし、本来こういうことに首を突っ込みたいわけじゃないです」彼は少し目を伏せた。「でも、この世界で真帆を大事に思ってる人は多くないんです。私たちみたいな近くにいる人間まで見てあげなかったら、まだ同じ目に遭わせることになるじゃありませんか」「真帆は俺の婚約者です」一雄は淡々と言った。でも、その目には怒りが浮かんでいた。「俺が守ります。石黒先生は自分の患者だけ見ていてください。真帆のことは、もう気にしなくて構いません」そう言い終えると、一雄は椅子から立ち上がり、そのまま背を向けて歩いて行った。夕暮れの
続きを読む

第278話

【手術は成功。安心して】「よかった!」初男からのメッセージに、聖奈は嬉しそうに声を上げ、笑顔を見せた。「何がよかったんだ?」和幸は驚いて顔をしかめた。聖奈は和幸からの問いに一瞬固まったが、慌てて笑顔を引っ込めた。「別に、和幸さんには関係ない。怪我してるんだから、余計なこと考えなくていいの」「……」和幸は呆れて黙った。「はいはい、ちゃんと休んで。何かあったら呼んでね」聖奈は誤魔化すように少し声を大きくした。「先輩のところに行って報告してくるから。ついでに休みもらってくるし、ちゃんと大人しくしていて。勝手に動かないでね」「分かった、分かった」和幸は手を振り、小さくぼやいた。「毎日子どもみたいに扱ったり説教したりして……立場逆だろ……」一雄は真帆の病室から一歩も離れなかった。手術で血の気を失った顔を見ているだけで、胸が痛かった。聖奈はできるだけ音を立てないように、そっと病室のドアを開けた。「お兄ちゃん」ゆっくり病室へ入り、ベッドの横まで来て声をかけた。「大丈夫。先輩も言ってたけど、真帆さん、大したことない」真帆を大事そうに見つめる一雄の姿を、聖奈はじっと見ていた。女の子なら誰だって、こんなふうに愛してくれる人がそばにいてくれたらって、一度くらい思うだろう。真帆さんは幸せだ。好きな人が、ちゃんと自分を好きでいてくれて。自分とは違う。好きでも、伝える勇気がない。一雄は目を真帆から逸らさなかった。聖奈の言葉にも、小さく頷いただけだった。しばらくして、ようやく口を開いた。「聖奈、和幸はまだ病室か?」「うん」聖奈は答えた。「脚がまだ少し不自由なくらいで、他は問題ない。先輩が、ギプス外れたら退院できるって」「顔見てくる」一雄は椅子から立ち上がり、真帆の布団を直した。その目にはここを離れがたいという気持ちが浮かんでいた。聖奈はそれに気づき、自分から言った。「一雄兄ちゃん、私ここにいる。真帆さん見てるから、大丈夫。行ってきて」一雄は少し笑って頷いた。どう考えても、和幸は自分と真帆のせいで浩一郎側の人間にやられた。友達としても、それ以外の意味でも、行かないわけにはいかなかった。歩きながら、一雄は自嘲気味に笑った。自分は病院と何か縁でもあるんだろうか。清子はまだ入院中、
続きを読む

第279話

和幸は松葉杖をつきながら片足で跳ねるようにベッドへ戻ると、一雄に向かって愚痴をこぼし始めた。「お前らのせいで俺、もう一週間も家帰れてないんだぞ。しかも親には秘書使って誤魔化して、海外遊びに行ってるって言わせたのに、結局うちの親父に不真面目だと怒られた。俺ここまで損してるんだから、ちゃんと責任取ってくれるよな?」 一雄は否定も肯定もせず、厚いギプスが巻かれた和幸の脚を見て目を伏せた。「お前が欲しがってた特許、利益の三パーセントを譲る」「おいおい」和幸は舌打ちした。「俺がそんな目先の利益を気にする男に見えるか?」そう言ったあと、急に口調を変え、目に笑みを浮かべた。「まあ、一雄がどうしてもって言うなら断らないけどな。だって一雄は発注側だろ?契約ってのは、受ける側が従うもんだからな?」その言葉に、一雄は小さく笑った。和幸は昔からこうだった。長い付き合いだけど、本気で真面目な顔をしてるところなんてあまり見たことがない。「そうだ、ひとつ言っとく」和幸は松葉杖を横へ置いた。「葉月風香って女、知ってるよな?」一雄は頷いた。でも、この場面でその名前が出る理由は分からなかった。「彼女、見た目ほど優しくないぞ。気をつけとけ」その言葉に、一雄は眉を寄せた。「和幸、お前何か知ってるのか?」「別に何も知らない」和幸は白目をむいて一雄を見た。「ただ言っとくけど、その女にちょっと手使われたくらいで魂まで持ってかれるなよ。もしその女のせいで真帆を裏切ったら、俺は黙って見てないからな」「俺がそんな人間に見えるか?」一雄は聞き返した。「真帆がいなかったこの五年間、西園寺家に何人の女を押しつけられたと思ってる?俺が誰かに本気になったことあったか?」「それは分かんないだろ。案外その風香って小悪魔に落とされるかもしれないしな」和幸は冗談めかして鼻で笑った。和幸は真帆を通して一雄と知り合った。この五年、一雄とは一切連絡を取らなかった。避けられない場でも、自分から話しかけることは絶対になかった。もし本当に真帆と一雄が別れることになったら、和幸が選ぶのは、間違いなく真帆だった。一雄は真帆の入院のことは言わず、少し雑談してから病室を後にした。真帆を轢いた運転手は、すでに警察が身柄を確保していた。初男のところへ警察から連絡が入り、
続きを読む

第280話

その言葉に、一雄は冷たく口元を吊り上げた。視線を、手錠をかけられたまま取調べ椅子に座る男へ移したが、何も言わなかった。取調官もその視線の先を追い、すぐに察した。「ま、まさか……一雄さんの婚約者を轢いたの、この人なんですか?」「そちらが石黒先生に電話して、事情聴取に来てほしいと言ったんじゃないですか?」一雄は片手をポケットに入れたまま、男を見る目に冷酷さを滲ませた。「石黒先生は忙しい。俺の婚約者が事故に遭ったんだから、当然俺が来た。聞きたいことがあるなら聞いてくれ。俺からこの人に聞きたいこともある」「はい、分かりました」取調官は頷いた。「では一雄さん、先に隣で少し休んでいてください。取調べの間は、警察関係者以外は立ち会えませんので」その言葉に、一雄は取調官を一瞥すると、そのまま踵を返して出て行った。星ヶ丘警察に来るのは、これが初めてではなかった。前回は、自分の一番近しい人間をここへ送り込んだ。三十分ほど経った頃、警察署長の梅木忠直(うめき ただなお)が自ら休憩室までやって来た。一雄を見ると笑顔で手を差し出した。「一雄さん」「梅木さん」一雄も手を差し出して握り返した。「婚約者の件を聞きましてね、それで少し様子を見に来ました」「お手数をおかけします」一雄は言葉だけ丁寧に返した。「彼女は元々身体もあまり強くないんです。今回は怪我も軽くありません。本当なら近いうちに婚約式を開く予定でしたが、今回の件で延期せざるを得なくなりました。だから、その運転手には直接説明し、責任を取ってもらいたいんです」「それは……」忠直は少し困ったように言葉を濁した。「一雄さん、確かに真帆さんは被害者ですが、先に交通ルールを破って赤信号を渡ったのも真帆さんなんです。警察官も笛で制止していますが、それでも真帆さんは止まらなかったので事故になりました。ですから、この件は運転手だけに責任があるとは言えません」忠直はそう言って一雄の表情を窺い、普段と変わらない様子なのを確認してから続けた。「署長として双方が納得できる形にはしますが、真帆さんにも責任がないわけではありません。意識が戻ったら、この件について一定の責任は負っていただくことになるでしょう」「分かりました」一雄は否定もせず頷いた。「ですが、先に運転手と会わせてください。それくら
続きを読む
前へ
1
...
2627282930
...
34
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status