再婚先は偏執大物

再婚先は偏執大物

By:  白川 露Ongoing
Language: Japanese
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命の瀬戸際で出会ったのが、鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)だった。 温和で品のあるその佇まいに、柊真帆(ひいらぎ まほ)は、この人となら一生を共にできると、そう信じた。 だが、龍司に言われるがまま、彼の「忘れられない人」のために離婚訴訟を引き受けたことをきっかけに、五年間の結婚生活が、すべて嘘だったと知る。 自分への深い愛情も、愛妻家という世間の評判も、そして——彼が負っていたはずの脚の障害さえも。 彼は、巧みに言葉を操り、真帆を騙し続けた。 けれど、真帆だって決して一方的にやられるだけの存在じゃない。 離婚届を手にしたその日、真帆は再び世間の非難を一身に浴びた。 だが彼女は、それを逆手に取り、逆境の中から立ち上がった。 そして—— 五年間、彼女を探し続けていた執着深い男が、夜を越えて駆けつけ、片膝をついて指輪を差し出した。 「真帆。俺を救ってくれた君を、手放すつもりなんてない」 これは、裏切りの先で「本当の幸せ」を掴み取る、一人の女性の逆転劇。

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Chapter 1

第1話

柊真帆(ひいらぎ まほ)が鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)に離婚を切り出したその日、彼女は世間の非難を一斉に浴び、炎上の中心に立たされていた。

——【星嶺市の有名弁護士、良心なき弁護で障害のある夫を捨てる】

——【薄情な妻、その正体は義妹を死へ追いやった女】

車椅子に座った龍司は、眉をひそめながら手元の離婚協議書をめくっていた。

しかし、龍司はこの離婚を、彼女の一時的な感情のもつれだとしか受け取っていなかった。

「離婚なんてあり得ない。真帆、そんな子供じみたことを言うな」

龍司はどこまでも穏やかで、彼女を包み込むように優しい声で言った。

それは五年前、あの激しい雨の夜、原形を留めないほど潰れたタクシーの中から、命がけで彼女を救い出してくれたときと、何ひとつ変わらないものだった。

自分の脚はすでに血と傷にまみれ、目を背けたくなるほどの惨状だったというのに、彼が最初に口にしたのは、「怪我はないか?」という、彼女を気遣う言葉だった。

それなのに——

そんな温厚で誠実に見えた男が彼女を五年もの間、欺き続けていたのだ。

三日前、龍司の祖父が急病で倒れたという知らせを受け、真帆は手にしていた案件を放り出し、友人宅で商談中だと聞いていた龍司を探しに向かった。

そしてその家の玄関先で、彼女は信じられない光景を目にした。

三年間車椅子生活を送っているはずの夫が、何事もなかったかのように自分の足で立っていたのだ。

室内では龍司の友人たちが数人集まり、冗談交じりに囃し立てている。

「龍司、もう三年も前に完治してるのに、いつまで家族に隠すつもりなんだ?」

「特に奥さんの真帆さんなんて、誰よりも龍司の脚が治ることを願ってたはずだろ」

龍司は脚を組み、長年肌身離さず使っていた車椅子を、まるでガラクタのように部屋の隅へと放り投げた。

穏やかな表情の奥にわずかな複雑さを滲ませながら、低く言った。

「……そうでもしなければ、彼女と別々の部屋で暮らす理由がなくなる」

「は?」

友人の一人が思わず声を荒らした。

「五年も献身的に世話をしてくれた人にそんな仕打ち、よくできるな!」

その言葉を聞いた隣の男が慌てて彼の足を蹴った。

そして、龍司に赤ワインのグラスを差し出しながら、探るような目で問いかける。

「そういえば、江口波(えぐち なみ)の離婚裁判、勝たせたのは真帆さんだったよな。……龍司、お前、まだ彼女に未練があるんじゃないのか?」

龍司は答えなかった。

ただ、視線だけが静かに沈んでいくのを見て、皆が察した。

「彼女にはもう子どももいる。五年前ですら家に反対されたのに、今さら無理だろ」

「それに真帆さんとは、もう結婚して五年だ。あれほど尽くしてくれた人を、他の女のために捨てるのか?」

「……この五年間、彼女に不自由はさせていない。捨てる、という言い方は……」

龍司は言葉を濁したまま、グラスの中身を一気に飲み干した。

彼をよく知る者たちは、こうして曖昧な態度を取る彼の心は、もうすでに別の場所にあるのだと分かっていた。

その会話を、扉の外で立ち尽くした真帆はすべて聞いていた。

五年か。

五年という月日。

彼の脚は、とっくに治っていて、彼はずっと自分を騙していた。

真帆は一歩、また一歩と後ずさりし、逃げるように外へ出た。

唇に伝わったのは、苦くしょっぱい味。

頬に手を当てると、涙で濡れていた。

義母の鷹宮敏子(たかみや としこ)からは、

【龍司は見つかった?】

【道中気をつけなさい】

【ひとまず容体は落ち着いたから】

というメッセージが立て続けに届いていた。

暖かい室内を出ると、冬の寒風が容赦なく吹きつけた。

だが、その冷たい温度でさえ、胸の奥に広がる虚無には及ばなかった。

人命に関わることだから、どれほど顔を合わせたくなくても、彼に知らせないわけにはいかない。

何度も電話をかけたが、龍司は出なかった。

仕方なく、義母のメッセージを転送した。

なぜ、彼女はいつも息子本人ではなく、自分に連絡をさせるのだろう。

「龍司の脚は真帆を助けたせいで傷ついた」

そう信じさせられてきたこの五年間、真帆は幾度も責められてきた。

真冬の寒空の下に彼女を呼び出したのも、きっと息子の代わりに彼女を凍えさせていのだろう。

タクシーで病院へ向かう途中も、友人のあの一言が、頭から離れなかった。

「波に、まだ未練がある」

耐えきれず、弁護士仲間の友人に電話をかけた。

「……波が海外へ行く前のこと、少し調べてもらえない?」

「波?もう離婚裁判は終わったんじゃなかった?」

相手は不思議そうだったが、真帆は詳しく説明せず、調査を頼んだ。

病院に着いたとき、すべてはもう手遅れだった。

病棟の前は、嗚咽と慟哭が渦巻いていた。

——龍司の祖父は、既に亡くなっていた。

真帆は、その場に釘付けになったように立ち尽くし、しばらく何も理解できなかった。

やがて、涙を拭いながら敏子が人混みをかき分けて来た。

「龍司は?」

「連絡は入れました。でも——」

パァン!

言葉を言い終える前に、頬に鋭い痛みが走った。

身体がよろめくのも構わず、憎悪のこもった罵声が、頭上から降り注いだ。

「この疫病神が!」

夫を失い、悲嘆に暮れる龍司の祖母は、腫れ上がった目で真帆を睨みつけた。

「三年前、あんたが現れてから龍司は脚を失った!今度は夫と孫を、最後に会わせもしなかった……あの人は、息を引き取る間際まで孫の名を呼んでいたのに……」

言葉はやがて嗚咽へと変わり、龍司の祖母は泣き崩れた。

周囲の親族たちも、それに合わせるように真帆を責め立てた。

真帆は、頭が割れるように痛かった。

「龍司が彼女を庇って脚を失った」その罪悪感から、彼女は彼との結婚を選んだ。

五年間。

どれほど責められても、彼女は耐えてきた。

唯一、龍司の祖父だけが、彼女を庇ってくれていた。

「天災人災は、人の力ではどうにもならない」と、そう言ってくれた。

——その人が、もういない。

家で唯一、彼女を守ってくれる存在がいなくなった。

それはまるで、ずっと昔と同じだ。

守ってくれる人を失い、自分は不要なものとして、ごみのように追い出される。

真帆は瞬きすら忘れ、乾ききった目で立ち尽くしていた。

一滴の涙も流さない彼女を見て、龍司の祖母の怒りはさらに激しくなった。

「薄情な女め!」

杖を振り上げ、彼女の肩へ叩きつけようとした、その時——

「やめろ!」

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リスリス
リスリス
めっちゃいいところで更新がとまったーーー 真帆には幸せになってほしい。 波と湊はすごい痛い目みてほしい。 更新楽しみにしてます
2026-02-08 01:44:28
5
0
ritsu
ritsu
真帆は2人の男に裏切られたんだね 真帆は弁護士だから自分の守り方や手段は正当で 龍司にとって従順じゃない真帆は手強いでしょう タイトルどおり龍司と離婚するんだろうけど 胡散臭い魅力のないペテン師だから離婚後を早く 読みたい
2026-01-12 22:18:25
12
0
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第1話
柊真帆(ひいらぎ まほ)が鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)に離婚を切り出したその日、彼女は世間の非難を一斉に浴び、炎上の中心に立たされていた。——【星嶺市の有名弁護士、良心なき弁護で障害のある夫を捨てる】——【薄情な妻、その正体は義妹を死へ追いやった女】車椅子に座った龍司は、眉をひそめながら手元の離婚協議書をめくっていた。しかし、龍司はこの離婚を、彼女の一時的な感情のもつれだとしか受け取っていなかった。「離婚なんてあり得ない。真帆、そんな子供じみたことを言うな」龍司はどこまでも穏やかで、彼女を包み込むように優しい声で言った。それは五年前、あの激しい雨の夜、原形を留めないほど潰れたタクシーの中から、命がけで彼女を救い出してくれたときと、何ひとつ変わらないものだった。自分の脚はすでに血と傷にまみれ、目を背けたくなるほどの惨状だったというのに、彼が最初に口にしたのは、「怪我はないか?」という、彼女を気遣う言葉だった。それなのに——そんな温厚で誠実に見えた男が彼女を五年もの間、欺き続けていたのだ。三日前、龍司の祖父が急病で倒れたという知らせを受け、真帆は手にしていた案件を放り出し、友人宅で商談中だと聞いていた龍司を探しに向かった。そしてその家の玄関先で、彼女は信じられない光景を目にした。三年間車椅子生活を送っているはずの夫が、何事もなかったかのように自分の足で立っていたのだ。室内では龍司の友人たちが数人集まり、冗談交じりに囃し立てている。「龍司、もう三年も前に完治してるのに、いつまで家族に隠すつもりなんだ?」「特に奥さんの真帆さんなんて、誰よりも龍司の脚が治ることを願ってたはずだろ」龍司は脚を組み、長年肌身離さず使っていた車椅子を、まるでガラクタのように部屋の隅へと放り投げた。穏やかな表情の奥にわずかな複雑さを滲ませながら、低く言った。「……そうでもしなければ、彼女と別々の部屋で暮らす理由がなくなる」「は?」友人の一人が思わず声を荒らした。「五年も献身的に世話をしてくれた人にそんな仕打ち、よくできるな!」その言葉を聞いた隣の男が慌てて彼の足を蹴った。そして、龍司に赤ワインのグラスを差し出しながら、探るような目で問いかける。「そういえば、江口波(えぐち なみ)の離婚裁判、勝たせた
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第2話
龍司が病院に姿を現した。そしてそのすぐ後ろには波の姿があった。龍司は車椅子に座ってはいるものの、長年身に沁みついた名家の人間特有の気品は、少しも損なわれていない。車椅子を押しながら、亜麻色のロングドレスに身を包む波の姿は柔らかく、か弱く見えた。そんな二人は誰が見ても、理想のカップルだった。「龍司……」龍司の祖母は、孫の姿を見た途端、堰を切ったように泣き崩れた。「見なさい、あなたが娶った嫁がどんな女か!おじいさまが亡くなったのに、彼女は一滴の涙も流さないのよ。こんな情のない女」「おばあちゃん、そんな言い方は……」龍司が遮る。「今はまず、おじいちゃんを安らかに見送ることが最優先でしょ。真帆も、わざとじゃないから。責めるなら……」龍司は言葉を切り、呆然と立ち尽くす真帆に視線を向けた。わずかに腫れた左の頬には、くっきりと五本の指紋の跡が残っていた。その様子に、ほんの一瞬、気づかれないほどの痛みが彼の瞳を掠めたが、次の瞬間、彼はいつものように「自分が悪い」という顔で言った。「……俺が商談中にスマホを見なかったせいだ。真帆からの電話も、メッセージも見逃してしまった。おばあちゃん、どうしても怒りが収まらないなら、俺を殴ってくれ。おじいちゃんに申し訳ないことをしたのは、俺だ……」その姿はあまりに誠実で、「妻を守る夫」そのものだった。だが真帆は思った。もし彼が何年も脚のケガを偽るようなことをしなければ、自分はこんな屈辱を受けずに済んだのではないか。すべての元凶でありながら、彼はまるで救世主のように振る舞っている。龍司の祖母は真帆を責め立てる一方で、血の繋がった孫の龍司を責めることはできず、ただ泣き続けるばかりだった。その背にそっと手を添えたのは、波だった。涙を浮かべたその横顔は、いっそう人の心を打つ。「おばあさま……龍司の言うとおりです。おじいさまはもう旅立たれたのですから、これから鷹宮家を支えるのは、あなただけです。もしおばあさままで倒れてしまったら、おじいさまも、安心できません……」波は、鷹宮家の養女だった。その養親が亡くなった後は、ずっと龍司の祖母のもとで育てられ、誰よりも可愛がられてきた。六年前、波が留学のために海外へ行くと決まった夜、龍司の祖母が一晩中泣き明かした、という話も
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第3話
龍司が父親で、波が母親なら、自分は——正妻である自分は、一体、何なのだろう。その言葉に、今度は知恵が沈黙した。何か言おうとした矢先、真帆がわざと軽い調子で遮った。「私が龍司と結婚するって言ったときは、あれだけ反対したのに。今度は離婚を止めるの?」「それとは話が違うでしょ」知恵は、呆れて頭を抱えながら言った。「あのとき結婚を止めたのは、あなたが恩返しのために火の中へ飛び込もうとしてたからよ。今、離婚を勧めないのは……龍司が身体に障害を抱えていることもあるし、それに、あなたのご両親のことだって……」彼女は深く息を吐き、続けて言った。「分かってる?彼と離婚するのが、どれだけ大変か」「知恵、龍司は……」真実を打ち明けようとしたその瞬間、階下から、耳をつんざくような悲鳴が響いた。心臓が跳ね上がり、真帆は電話を切る間もなくスマホを投げ出し、階段を駆け下りた。一階奥のペットルームが、赤く染まっていた。雪のように白かった小さな苺が、血にまみれ、床の上で痙攣するようにもがいている。そこには、もう、かつての愛らしさはどこにもなかった。そして、その前に立っていたのは、血の付いた小さなハンマーを握る湊だった。それは、真帆が犬小屋を組み立てるときに使った道具だ。「くさい犬!もうこれで驚かせられないだろ!」そう叫び、再び振り下ろそうとした。「やめて!」真帆は叫び、足元をふらつかせながら、その小さな体に縋りついた。「苺……苺?」苺は、地面に横たわり、か細い声で鳴くだけだ。物音を聞きつけた使用人の和恵が駆けつけ、目の前の惨状に、言葉を失った。慌てて湊を引き離し、身分も忘れて声を荒げた。「坊ちゃん!ほんの少し目を離した隙に、どうしてこんなことを……奥さま……」和恵は、床の血と真帆の真っ青な顔を見るに堪えず、視線を逸らした。「……とにかく、動物病院へ。もしかしたら……もしかしたら、助かるかもしれません……」そう言いながらも、声は次第に弱くなっていった。だが真帆は、その一言にすがるように苺を抱き上げ、外へ飛び出した。別荘の玄関を出た瞬間、誰かと激しくぶつかった。「龍司!」真帆は衝撃で地面に倒れ込んだ。肘に鋭い痛みが走ったが、真帆は腕の中の苺を、必死に庇った。龍司は反射的に立
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第4話
自分の言い方がきつすぎたと気づいたのか、龍司は小さく息を吐き、調子を和らげた。「真帆……そんなつもりで言ったんじゃない。おじいちゃんが亡くなったばかりだろう。今は、これ以上波風を立てたくないんだ。もしおばあちゃんの耳に入ったら……結局、困るのは君じゃないか」息が詰まった真帆は信じられないという顔で彼を見た。「……それ、私を脅してるの?」「真帆、そんな言い方をしなくてもいいだろう」龍司は眉を寄せ、穏やかな口調の奥に、拒絶を許さない色を滲ませた。「ただ湊に謝るだけだ。そんなに時間は取らせない」「私が行かなかったら?」弁護士として長年仕事をしてきた真帆は、脅しを受けること自体は初めてではない。だが、まさか長年共に過ごしてきた夫に脅しを受けるとは……胸の奥に、細かな痛みが広がった。目を赤くしながらも、なお踏みとどまろうとする彼女の様子に、龍司の胸にわずかなためらいがよぎった。彼は額を押さえ、ため息をついた。「真帆……病院に行って、湊を少し安心させてやってくれ。それさえしてくれるなら、君の望みは、何でも聞く。どうだ?」その言葉に、真帆ははっと顔を上げた。聞き間違いではないかと、もう一度、確かめた。「……何でも?」「ああ。何でもだ」彼女が揺らいだのを見て、龍司は畳みかける。「苺がいなくなって、俺だってつらい。でも、どんな理由があっても、親は幼い子に、心の傷を残すわけにはいかない」——親?親は父母や祖父母のことだろう。いつから彼が親を名乗るようになったの?けれど真帆は、それ以上言葉を費やす気にはなれなかった。彼女が耳を奪われていたのは、「何でも聞く」という言葉だった。病院に着くと、運転手が車椅子を降ろした。これまで、その役目を担っていたのは真帆だったが、今回は、彼女は手を出さなかった。龍司は、彼女がまだ苺のことで気を落としているのだろうと解釈し、特に何も言わなかった。病室では、波が湊に果物を剥いている。二人の姿を見て、すぐに立ち上がった波の目は赤く、泣いた跡がはっきり残っていた。「真帆さん、大丈夫?」彼女は親しげに手を取った。「私が湊を甘やかしすぎたの。でもまだ小さいから……どうか気にしないで」そう言ってから、振り向いて声をかけた。「湊、真帆おばさんに謝りなさい
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第5話
深夜。真帆は書斎で、龍司との離婚協議書を書き上げた。翌朝は何事もなかったかのように、いつも通り事務所へ向かった。だが、車を停めたその瞬間、髪を振り乱した女が、突然目の前に飛び出してきた。反射的に、真帆はドアロックをかけた。「この女!人でなしの弁護士!うちの息子の名誉を返しなさい!」女は錯乱したように叫び、手にしていたレンガを振り上げ、車の窓を叩き割った。ガシャン!乾いた音とともにガラスが砕け散り、その破片で真帆は腕を負傷した。騒ぎに気づいた駐車場の警備員が駆けつけ、二、三人がかりで中年の女を取り押さえた。そのうちの一人が、真帆に声をかけた。「先生、大丈夫ですか?」真帆は首を振り、車を降りた。女は押さえつけられた後なおも、罵声を浴びせ続けている。その顔を見て、真帆はようやく思い出した。三年前に担当した、少女への性加害事件だ。当時、被害者の両親が泣き腫らした目で、事務所を訪ねてきた。証拠が乏しく、多くの法律事務所が受任を断っていた案件だったが、真帆は引き受け、証拠集めに一年半を費やし、ようやく勝訴にこぎつけた。加害少年たちは有罪となったが、その中の一人が、今、目の前で叫んでいる女の息子で、当時、名門校に合格したばかりだったと聞いている。女はかつて金で口止めしようとしたが、真帆は一度も目を向けず、即座に拒んだ。「先生?」警備員に呼ばれ、真帆は我に返った。「どう対応しますか?」「警察を呼んでください」そして砕けた車窓を一瞥し、淡々と告げた。「修理代は請求します。謝罪も、必要なら正式に」そう告げると、彼女は目を細めた。事件はすでに終結して一年以上経っている。復讐するなら、もっと早いはず。恨みがあるなら、今さら出てくる理由がない。警備員が女を連れて行こうとすると、女は狂ったように暴れ、汚い言葉を駐車場中に響かせた。真帆は聞く耳を持たず、その場を離れた。あの件で、自分は何一つ間違ったことをしていない。だから、罵声など気にもならなかった。だが、知恵は違った。真帆の腕に走る傷を見るなり、顔色が変わった。「ダメ、絶対病院で診てもらうから」真帆が何を言っても彼女は譲らず、結局、救急外来で診てもらった。想像以上に傷は深く、縫合が必要だ。処置の途中、知恵は外へ出て電話を受け
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第6話
「……星ヶ丘の、西園寺家?」真帆は聞き間違いかと耳を疑った。子犬をあやしていた指先が、無意識に震える。「そう。うちの母方の実家だよ」龍司は続けて穏やかに説明した。「母さんの母、つまり俺の祖母が再婚してね。その相手が西園寺家の人だったんだ。母さんは血のつながりはないけど、そこで育てられたんだ」真帆は信じられないという顔をして言った。「……今、何て言ったの?」五年前真帆と龍司が結婚したとき、結婚式は、龍司の脚のこともあって簡素なものだった。婚姻届を提出し、鷹宮家の人間と小さな食事会を開いただけ。敏子の実家からは誰一人として出席せず、使いの者が祝儀と贈り物を届けただけだった。——もし、敏子が西園寺家の人間なら。——では、「あの人」は……五年前の悪夢が、一気に押し寄せてくる。真帆は氷水の中に突き落とされたように全身の血が引き、硬直した。ようやく異変に気づいた龍司が、心配そうな目で覗き込む。「真帆、どうした?」「……な、何でもない」唇を引き結び、それ以上考えないようにした。それでも、かすかな震えは隠しきれない。龍司は、真帆が西園寺家という名前に圧倒されたのだと思ったのか、冷え切った彼女の指を包み込んで彼女を慰めた。「大丈夫だ。何があっても、俺が守る」その言葉が、かえって胸に刺さった車は別荘の前で停まった。待っていたかのように、波がすぐに駆け寄ってくる。「龍司、お帰りなさい」運転手と一緒に龍司を車椅子へ移し、手厚い世話をする様子だ。「真帆さんが怪我をしたって聞いて、一日中気が気じゃなかったの。いったい、何があったの?」その声に混じる、かすかな愉悦を感じ取り、真帆は車のドアを閉める手を止めた。「……どうして、私が怪我をしたことを?」視線が鋭くなった。朝の騒動は、龍司にも話していない。まして、今日会ったこともない波が知っているはずはない。言葉に詰まる波を見据え、真帆はキャリーを持ったまま一歩詰め寄った。「教えて。どうして知っているの?」「龍司……」一瞬、波の視線が龍司へ泳いだ。だが彼の意識が真帆に向いているのを見て、唇を噛みしめた。「……病院に知り合いがいるの。私が鷹宮家と関係があるって知ってるから……気を利かせて教えてくれただけよ」「ずいぶん都合がい
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第7話
真帆の背中が、二人の視界から完全に消えた。龍司は思わず眉を寄せ、何か言うべきだった気がして口を開きかけたが、すでに波に車椅子を押され、反対方向へと進み始めていた。何だろう、真帆の様子がどこか違う。ただ、どこがどう変わったのかまでは、分からない。車に乗り込むと、龍司は目を閉じた。ここ数日の出来事が、断片的に頭をよぎる。波が何度か声をかけたが、彼は反応しなかった。下唇を強く噛みしめ、涙が滲むのを必死でこらえる。やがてかすかなすすり泣きが聞こえると、龍司はようやく目を開け、驚いて問いかけた。「……どうしたんだ?」「龍司、怒ってるの?」波は赤くなった目で、いかにも傷ついた様子で見上げた。「湊が、苺を傷つけちゃって……そのせいで、真帆さんまで悲しませたから……」龍司は少し黙り込み、視線を車窓の外へ向けた。「……いや」「じゃあ、どうして真帆さんに子犬を?湊は……」「ただの犬だ」龍司はこれ以上の議論を許さない口調で短く呟いた。「波。そこまで神経質になることじゃない」「龍司?」波は驚いたように瞬きをする。しかし、龍司は初めて彼女の感情に向き合おうとせず、声を少し低くして続けた。「どうしても湊が怖がるなら、君たちを別の家に移してもいい」波の顔色が、さっと変わった。「ち、違うの。私はそんな意味で……」「ならいい」龍司は再び目を閉じた。眉間には、はっきりと疲労が刻まれていた。「真帆は、これまでずっと鷹宮家で我慢してきた。理不尽な思いも、何度もしてきたはずだ。心の拠り所として犬を飼うくらい、何もおかしくない」一拍置いて、淡々と続けた。「湊は……犬に近づかなければいい」波は、掌が白くなるほど強く拳を握りしめた。胸の奥では、抑えきれない感情が渦を巻く。……一方、真帆は真っ先に私立探偵へ連絡を入れた。波の態度は、どう考えても不自然だったから。それから寝室へ戻り、静かに荷物をまとめ始めた。必要なものだけを選び、箱に詰め、クローゼットの奥へ押し込む。最後に、龍司が署名した書類をバッグに入れ、小さなキャリーケースを引いて出ようとしたときだった。リビングから、小さく澄んだ鳴き声が聞こえた。真帆は足を止めた。キャリーの中で、小さな子犬が不安そうにこちらを見ている。……置いていけなかっ
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第8話
真帆はふっと笑った。その笑い声が、扉の隙間から廊下へと流れ出た。龍司は驚き、思わず顔を上げた。車椅子を操作して外へ出たが、そこにあったのは階段を上っていく真帆の後ろ姿だけ。理由も分からないまま、胸騒ぎが広がった。彼は専用エレベーターで二階へ上がった。寝室では、真帆が段ボール箱を外へ運び出しているところだった。「真帆、何してるんだ?」彼は眉を寄せて声をかけた。真帆は顔を上げ、何でもないことのように笑った。「新しい案件を受けたの。依頼人の家庭があまり裕福じゃなくて。事務所のみんなで、着なくなった服を送ろうって話になったの。少しでも助けになればと思って」「……こんなにもか?」龍司は箱の山に目を向けた。「多いに越したことはないでしょ」真帆は平然と嘘を重ねる。「家には、まだたくさんあるし」それでも龍司の胸騒ぎは消えず、車椅子を回し、ウォークインクローゼットへ入る。減ってはいるが、ごく一部だ。それを確認して、ようやく息をついた。……と、そのとき。視線が、ぴたりと止まった。「……結婚したときの、あの髪飾りは?」——本来、華やかに迎えられるはずだった結婚式は、鷹宮家の意向で簡素なものになり、真帆はウェディングドレスすら着られなかった。それでも、彼女を粗末には扱わなかった龍司は、特注の髪飾りを真帆に用意してくれたのだ。それは、新婚初夜の贈り物だった。真帆は命のように大切にして、定期的に自分で手入れをしてきた。あの日、彼女は決めたのだ。たとえ彼が一生歩けなくても、たとえ夫婦らしい関係になれなくても、この人を一生支えよう、と。箱を動かす手が、一瞬止まった。真帆は小さく息を吸い、目の奥に浮かんだ自嘲を押し隠し、淡々と言った。「波が気に入ったみたいで。少し借りたいって言うから」「……貸したのか?」「たまにしか頼まれないし、断ったら、私が意地悪したみたいでしょ」こんな場面で、また大人のふりをしてしまった。龍司の顔色が、わずかに曇る。「あとで、俺から言って返してもらう」「そのうちでいいわ」真帆は箱をすべて廊下へ出し終え、軽く手を払った。「もう遅いし、あなたも休んだら?」龍司は、少し戸惑った。結婚してからずっと、彼女は別室にいながらも眠るまで世話を焼いてくれていた。こ
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第9話
真帆が去ったあと、波は念のため寝室を確認しに行った。衣類はほとんど減っていないが、通帳、身分証、印鑑など、生活に必要なすべての書類がきれいに持ち出されていた。波は、それを見て察した。自分もかつて、本気で離婚を決意したとき、これらのものだけを持って家を出た。経験者だからこそ、それが何を意味するのか、いやと言うほど分かった。これは、戻るつもりのない出方だと。だが、そのことを龍司に伝える気はさらさらなかった。......朝食を終えた頃、龍司の秘書・黒川から電話が入った。海外プロジェクトでトラブルが起きたという。龍司は即座に出張を決め、家を空けた。戻ってきたのは、三日後だが、真帆の姿はなかった。何度か電話をかけたが、呼び出し音のあとに流れるのは無機質な音声だけ。胸の奥に嫌な予感が広がり、龍司は直接瑞穂坂法律事務所へ向かった。真帆は事務所で書類整理をしていた。振り返った瞬間、龍司の姿が目に入ったが、彼女が口を開く前に龍司が問いかけた。「……ここ数日、家に帰ってないのか?」詰問に近い口調だ。彼の知る限り、真帆が外泊を重ねたことなど一度もない。「案件が立て込んでいてね。ずっと動きっぱなしだったから、ここ数日は本当に余裕がなくて。いっそ近い方がいいと思って、知恵のところに泊まってるの」真帆の表情は相変わらず穏やかで、まるで、すべて想定内だと言わんばかりの落ち着きだった。真帆は車椅子を押し、彼を休憩室へ案内した。「急な出張だったって聞いたけど。帰ってきたなら、少しは家で休めばいいのに」話題を逸らしていると分かっていても、龍司は乗らなかった。「……知恵さんの家に泊まるのはいい。でも、どうして犬まで連れて行ったんだ?」「湊が怖がるでしょう?」彼は言葉を失い、自分の言い方を思い返し、胸に小さな後悔が広がった。「真帆……君は、そんなに気を遣わなくてもいい。いつも遠慮がちで、正直……見ていてつらいんだ」つらい、だなんて。——五年間騙され続けたこっちの心は、とっくに砕けているのに。真帆は、かすかに笑った。「私たちの間に、そんな言葉はいらないでしょ」彼女は時計に目を落とし、続けた。「もう遅いし、先に帰ったら?」「いや」龍司は首を振った。「君が終わるまで待つ。一緒に食事しよう」断る理由
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第10話
「……ふふ」乾いた笑いが、喉の奥からこぼれた。真帆も、ここまで来ればもう察しがついた。これは間違いなく波の仕業だと。けれど、理由を問いただす気にもならなかった。行ったのなら、それで終わり。どうせ今さら何を聞いたところで、龍司がまた都合のいい言い訳を重ねるだけだろう。真帆は知恵にメッセージを送り、店員を呼んで予定通り料理を頼んだ。人数は変わらない。ただ、向かいに座るのが男ではなく、親友になっただけ。こっちの方が、ずっと気が楽だ。知恵はすぐに駆けつけ、席に着くなり龍司の悪口を一気に吐き出した。それがおかしくて、真帆は彼女のために「気を鎮める用」のスープを追加で頼んだ。夜は、そのまま一緒にマンションへ戻った。......書斎で仕事をしていると、電話の着信音に思考を断ち切られた。表示された名前を見て、真帆は少しだけ指を止め、それから電話に出た。「真帆、今どこだ?」聞こえてくる声は、相変わらず穏やかで柔らかい。かつてはその声が好きだった。以前の真帆なら、それだけで気持ちが和らいだだろう。けれど今は、何も感じない。「家にいる」真帆は短く答えた。「もう帰ったのか?」龍司は少し驚いた様子だ。「さっき、運転手が迎えに行ったらいなかったって言うから……」彼は、真帆が別荘に戻ったのだと思ったのだろう。胸に残る後ろめたさと同時に、どこか安堵しているのが伝わってきた。真帆は訂正しなかった。それは拗ねているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。ただ、説明する気力がなかったのだ。郊外の店は人通りも少ない。本当に急用があったなら、電話一本くらい入れられたはずだ。それなのに、何時間も経ってから運転手を寄こす。それが彼の誠意なのだ。電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。龍司は彼女が怒っているのだと思ったのだろう。今日の件で、自分に非があることも分かっていた。「……ごめん。急に席を外したのは、湊が熱を出して……すぐ病院に連れて行く必要があったんだ」さらに声を低くして続けた。「突然で、連絡できなかった。湊がよくなったら、埋め合わせは必ずする」また、その名前だ。予想はしていたが、実際に聞くと、可笑しさが込み上げてくる。「いいのよ。子どもが最優先でしょう」それも、波の
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