LOGIN命の瀬戸際で出会ったのが、鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)だった。 温和で品のあるその佇まいに、柊真帆(ひいらぎ まほ)は、この人となら一生を共にできると、そう信じた。 だが、龍司に言われるがまま、彼の「忘れられない人」のために離婚訴訟を引き受けたことをきっかけに、五年間の結婚生活が、すべて嘘だったと知る。 自分への深い愛情も、愛妻家という世間の評判も、そして——彼が負っていたはずの脚の障害さえも。 彼は、巧みに言葉を操り、真帆を騙し続けた。 けれど、真帆だって決して一方的にやられるだけの存在じゃない。 離婚届を手にしたその日、真帆は再び世間の非難を一身に浴びた。 だが彼女は、それを逆手に取り、逆境の中から立ち上がった。 そして—— 五年間、彼女を探し続けていた執着深い男が、夜を越えて駆けつけ、片膝をついて指輪を差し出した。 「真帆。俺を救ってくれた君を、手放すつもりなんてない」 これは、裏切りの先で「本当の幸せ」を掴み取る、一人の女性の逆転劇。
View More「……ふふ」乾いた笑いが、喉の奥からこぼれた。真帆も、ここまで来ればもう察しがついた。これは間違いなく波の仕業だと。けれど、理由を問いただす気にもならなかった。行ったのなら、それで終わり。どうせ今さら何を聞いたところで、龍司がまた都合のいい言い訳を重ねるだけだろう。真帆は知恵にメッセージを送り、店員を呼んで予定通り料理を頼んだ。人数は変わらない。ただ、向かいに座るのが男ではなく、親友になっただけ。こっちの方が、ずっと気が楽だ。知恵はすぐに駆けつけ、席に着くなり龍司の悪口を一気に吐き出した。それがおかしくて、真帆は彼女のために「気を鎮める用」のスープを追加で頼んだ。夜は、そのまま一緒にマンションへ戻った。......書斎で仕事をしていると、電話の着信音に思考を断ち切られた。表示された名前を見て、真帆は少しだけ指を止め、それから電話に出た。「真帆、今どこだ?」聞こえてくる声は、相変わらず穏やかで柔らかい。かつてはその声が好きだった。以前の真帆なら、それだけで気持ちが和らいだだろう。けれど今は、何も感じない。「家にいる」真帆は短く答えた。「もう帰ったのか?」龍司は少し驚いた様子だ。「さっき、運転手が迎えに行ったらいなかったって言うから……」彼は、真帆が別荘に戻ったのだと思ったのだろう。胸に残る後ろめたさと同時に、どこか安堵しているのが伝わってきた。真帆は訂正しなかった。それは拗ねているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。ただ、説明する気力がなかったのだ。郊外の店は人通りも少ない。本当に急用があったなら、電話一本くらい入れられたはずだ。それなのに、何時間も経ってから運転手を寄こす。それが彼の誠意なのだ。電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。龍司は彼女が怒っているのだと思ったのだろう。今日の件で、自分に非があることも分かっていた。「……ごめん。急に席を外したのは、湊が熱を出して……すぐ病院に連れて行く必要があったんだ」さらに声を低くして続けた。「突然で、連絡できなかった。湊がよくなったら、埋め合わせは必ずする」また、その名前だ。予想はしていたが、実際に聞くと、可笑しさが込み上げてくる。「いいのよ。子どもが最優先でしょう」それも、波の
真帆が去ったあと、波は念のため寝室を確認しに行った。衣類はほとんど減っていないが、通帳、身分証、印鑑など、生活に必要なすべての書類がきれいに持ち出されていた。波は、それを見て察した。自分もかつて、本気で離婚を決意したとき、これらのものだけを持って家を出た。経験者だからこそ、それが何を意味するのか、いやと言うほど分かった。これは、戻るつもりのない出方だと。だが、そのことを龍司に伝える気はさらさらなかった。......朝食を終えた頃、龍司の秘書・黒川から電話が入った。海外プロジェクトでトラブルが起きたという。龍司は即座に出張を決め、家を空けた。戻ってきたのは、三日後だが、真帆の姿はなかった。何度か電話をかけたが、呼び出し音のあとに流れるのは無機質な音声だけ。胸の奥に嫌な予感が広がり、龍司は直接瑞穂坂法律事務所へ向かった。真帆は事務所で書類整理をしていた。振り返った瞬間、龍司の姿が目に入ったが、彼女が口を開く前に龍司が問いかけた。「……ここ数日、家に帰ってないのか?」詰問に近い口調だ。彼の知る限り、真帆が外泊を重ねたことなど一度もない。「案件が立て込んでいてね。ずっと動きっぱなしだったから、ここ数日は本当に余裕がなくて。いっそ近い方がいいと思って、知恵のところに泊まってるの」真帆の表情は相変わらず穏やかで、まるで、すべて想定内だと言わんばかりの落ち着きだった。真帆は車椅子を押し、彼を休憩室へ案内した。「急な出張だったって聞いたけど。帰ってきたなら、少しは家で休めばいいのに」話題を逸らしていると分かっていても、龍司は乗らなかった。「……知恵さんの家に泊まるのはいい。でも、どうして犬まで連れて行ったんだ?」「湊が怖がるでしょう?」彼は言葉を失い、自分の言い方を思い返し、胸に小さな後悔が広がった。「真帆……君は、そんなに気を遣わなくてもいい。いつも遠慮がちで、正直……見ていてつらいんだ」つらい、だなんて。——五年間騙され続けたこっちの心は、とっくに砕けているのに。真帆は、かすかに笑った。「私たちの間に、そんな言葉はいらないでしょ」彼女は時計に目を落とし、続けた。「もう遅いし、先に帰ったら?」「いや」龍司は首を振った。「君が終わるまで待つ。一緒に食事しよう」断る理由
真帆はふっと笑った。その笑い声が、扉の隙間から廊下へと流れ出た。龍司は驚き、思わず顔を上げた。車椅子を操作して外へ出たが、そこにあったのは階段を上っていく真帆の後ろ姿だけ。理由も分からないまま、胸騒ぎが広がった。彼は専用エレベーターで二階へ上がった。寝室では、真帆が段ボール箱を外へ運び出しているところだった。「真帆、何してるんだ?」彼は眉を寄せて声をかけた。真帆は顔を上げ、何でもないことのように笑った。「新しい案件を受けたの。依頼人の家庭があまり裕福じゃなくて。事務所のみんなで、着なくなった服を送ろうって話になったの。少しでも助けになればと思って」「……こんなにもか?」龍司は箱の山に目を向けた。「多いに越したことはないでしょ」真帆は平然と嘘を重ねる。「家には、まだたくさんあるし」それでも龍司の胸騒ぎは消えず、車椅子を回し、ウォークインクローゼットへ入る。減ってはいるが、ごく一部だ。それを確認して、ようやく息をついた。……と、そのとき。視線が、ぴたりと止まった。「……結婚したときの、あの髪飾りは?」——本来、華やかに迎えられるはずだった結婚式は、鷹宮家の意向で簡素なものになり、真帆はウェディングドレスすら着られなかった。それでも、彼女を粗末には扱わなかった龍司は、特注の髪飾りを真帆に用意してくれたのだ。それは、新婚初夜の贈り物だった。真帆は命のように大切にして、定期的に自分で手入れをしてきた。あの日、彼女は決めたのだ。たとえ彼が一生歩けなくても、たとえ夫婦らしい関係になれなくても、この人を一生支えよう、と。箱を動かす手が、一瞬止まった。真帆は小さく息を吸い、目の奥に浮かんだ自嘲を押し隠し、淡々と言った。「波が気に入ったみたいで。少し借りたいって言うから」「……貸したのか?」「たまにしか頼まれないし、断ったら、私が意地悪したみたいでしょ」こんな場面で、また大人のふりをしてしまった。龍司の顔色が、わずかに曇る。「あとで、俺から言って返してもらう」「そのうちでいいわ」真帆は箱をすべて廊下へ出し終え、軽く手を払った。「もう遅いし、あなたも休んだら?」龍司は、少し戸惑った。結婚してからずっと、彼女は別室にいながらも眠るまで世話を焼いてくれていた。こ
真帆の背中が、二人の視界から完全に消えた。龍司は思わず眉を寄せ、何か言うべきだった気がして口を開きかけたが、すでに波に車椅子を押され、反対方向へと進み始めていた。何だろう、真帆の様子がどこか違う。ただ、どこがどう変わったのかまでは、分からない。車に乗り込むと、龍司は目を閉じた。ここ数日の出来事が、断片的に頭をよぎる。波が何度か声をかけたが、彼は反応しなかった。下唇を強く噛みしめ、涙が滲むのを必死でこらえる。やがてかすかなすすり泣きが聞こえると、龍司はようやく目を開け、驚いて問いかけた。「……どうしたんだ?」「龍司、怒ってるの?」波は赤くなった目で、いかにも傷ついた様子で見上げた。「湊が、苺を傷つけちゃって……そのせいで、真帆さんまで悲しませたから……」龍司は少し黙り込み、視線を車窓の外へ向けた。「……いや」「じゃあ、どうして真帆さんに子犬を?湊は……」「ただの犬だ」龍司はこれ以上の議論を許さない口調で短く呟いた。「波。そこまで神経質になることじゃない」「龍司?」波は驚いたように瞬きをする。しかし、龍司は初めて彼女の感情に向き合おうとせず、声を少し低くして続けた。「どうしても湊が怖がるなら、君たちを別の家に移してもいい」波の顔色が、さっと変わった。「ち、違うの。私はそんな意味で……」「ならいい」龍司は再び目を閉じた。眉間には、はっきりと疲労が刻まれていた。「真帆は、これまでずっと鷹宮家で我慢してきた。理不尽な思いも、何度もしてきたはずだ。心の拠り所として犬を飼うくらい、何もおかしくない」一拍置いて、淡々と続けた。「湊は……犬に近づかなければいい」波は、掌が白くなるほど強く拳を握りしめた。胸の奥では、抑えきれない感情が渦を巻く。……一方、真帆は真っ先に私立探偵へ連絡を入れた。波の態度は、どう考えても不自然だったから。それから寝室へ戻り、静かに荷物をまとめ始めた。必要なものだけを選び、箱に詰め、クローゼットの奥へ押し込む。最後に、龍司が署名した書類をバッグに入れ、小さなキャリーケースを引いて出ようとしたときだった。リビングから、小さく澄んだ鳴き声が聞こえた。真帆は足を止めた。キャリーの中で、小さな子犬が不安そうにこちらを見ている。……置いていけなかっ