再婚先は偏執大物

再婚先は偏執大物

By:  白川 露Updated just now
Language: Japanese
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命の瀬戸際で出会ったのが、鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)だった。 温和で品のあるその佇まいに、柊真帆(ひいらぎ まほ)は、この人となら一生を共にできると、そう信じた。 だが、龍司に言われるがまま、彼の「忘れられない人」のために離婚訴訟を引き受けたことをきっかけに、五年間の結婚生活が、すべて嘘だったと知る。 自分への深い愛情も、愛妻家という世間の評判も、そして——彼が負っていたはずの脚の障害さえも。 彼は、巧みに言葉を操り、真帆を騙し続けた。 けれど、真帆だって決して一方的にやられるだけの存在じゃない。 離婚届を手にしたその日、真帆は再び世間の非難を一身に浴びた。 だが彼女は、それを逆手に取り、逆境の中から立ち上がった。 そして—— 五年間、彼女を探し続けていた執着深い男が、夜を越えて駆けつけ、片膝をついて指輪を差し出した。 「真帆。俺を救ってくれた君を、手放すつもりなんてない」 これは、裏切りの先で「本当の幸せ」を掴み取る、一人の女性の逆転劇。

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第1話
柊真帆(ひいらぎ まほ)が鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)に離婚を切り出したその日、彼女は世間の非難を一斉に浴び、炎上の中心に立たされていた。——【星嶺市の有名弁護士、良心なき弁護で障害のある夫を捨てる】——【薄情な妻、その正体は義妹を死へ追いやった女】車椅子に座った龍司は、眉をひそめながら手元の離婚協議書をめくっていた。しかし、龍司はこの離婚を、彼女の一時的な感情のもつれだとしか受け取っていなかった。「離婚なんてあり得ない。真帆、そんな子供じみたことを言うな」龍司はどこまでも穏やかで、彼女を包み込むように優しい声で言った。それは五年前、あの激しい雨の夜、原形を留めないほど潰れたタクシーの中から、命がけで彼女を救い出してくれたときと、何ひとつ変わらないものだった。自分の脚はすでに血と傷にまみれ、目を背けたくなるほどの惨状だったというのに、彼が最初に口にしたのは、「怪我はないか?」という、彼女を気遣う言葉だった。それなのに——そんな温厚で誠実に見えた男が彼女を五年もの間、欺き続けていたのだ。三日前、龍司の祖父が急病で倒れたという知らせを受け、真帆は手にしていた案件を放り出し、友人宅で商談中だと聞いていた龍司を探しに向かった。そしてその家の玄関先で、彼女は信じられない光景を目にした。三年間車椅子生活を送っているはずの夫が、何事もなかったかのように自分の足で立っていたのだ。室内では龍司の友人たちが数人集まり、冗談交じりに囃し立てている。「龍司、もう三年も前に完治してるのに、いつまで家族に隠すつもりなんだ?」「特に奥さんの真帆さんなんて、誰よりも龍司の脚が治ることを願ってたはずだろ」龍司は脚を組み、長年肌身離さず使っていた車椅子を、まるでガラクタのように部屋の隅へと放り投げた。穏やかな表情の奥にわずかな複雑さを滲ませながら、低く言った。「……そうでもしなければ、彼女と別々の部屋で暮らす理由がなくなる」「は?」友人の一人が思わず声を荒らした。「五年も献身的に世話をしてくれた人にそんな仕打ち、よくできるな!」その言葉を聞いた隣の男が慌てて彼の足を蹴った。そして、龍司に赤ワインのグラスを差し出しながら、探るような目で問いかける。「そういえば、江口波(えぐち なみ)の離婚裁判、勝たせた
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第2話
龍司が病院に姿を現した。そしてそのすぐ後ろには波の姿があった。龍司は車椅子に座ってはいるものの、長年身に沁みついた名家の人間特有の気品は、少しも損なわれていない。車椅子を押しながら、亜麻色のロングドレスに身を包む波の姿は柔らかく、か弱く見えた。そんな二人は誰が見ても、理想のカップルだった。「龍司……」龍司の祖母は、孫の姿を見た途端、堰を切ったように泣き崩れた。「見なさい、あなたが娶った嫁がどんな女か!おじいさまが亡くなったのに、彼女は一滴の涙も流さないのよ。こんな情のない女」「おばあちゃん、そんな言い方は……」龍司が遮る。「今はまず、おじいちゃんを安らかに見送ることが最優先でしょ。真帆も、わざとじゃないから。責めるなら……」龍司は言葉を切り、呆然と立ち尽くす真帆に視線を向けた。わずかに腫れた左の頬には、くっきりと五本の指紋の跡が残っていた。その様子に、ほんの一瞬、気づかれないほどの痛みが彼の瞳を掠めたが、次の瞬間、彼はいつものように「自分が悪い」という顔で言った。「……俺が商談中にスマホを見なかったせいだ。真帆からの電話も、メッセージも見逃してしまった。おばあちゃん、どうしても怒りが収まらないなら、俺を殴ってくれ。おじいちゃんに申し訳ないことをしたのは、俺だ……」その姿はあまりに誠実で、「妻を守る夫」そのものだった。だが真帆は思った。もし彼が何年も脚のケガを偽るようなことをしなければ、自分はこんな屈辱を受けずに済んだのではないか。すべての元凶でありながら、彼はまるで救世主のように振る舞っている。龍司の祖母は真帆を責め立てる一方で、血の繋がった孫の龍司を責めることはできず、ただ泣き続けるばかりだった。その背にそっと手を添えたのは、波だった。涙を浮かべたその横顔は、いっそう人の心を打つ。「おばあさま……龍司の言うとおりです。おじいさまはもう旅立たれたのですから、これから鷹宮家を支えるのは、あなただけです。もしおばあさままで倒れてしまったら、おじいさまも、安心できません……」波は、鷹宮家の養女だった。その養親が亡くなった後は、ずっと龍司の祖母のもとで育てられ、誰よりも可愛がられてきた。六年前、波が留学のために海外へ行くと決まった夜、龍司の祖母が一晩中泣き明かした、という話も
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第3話
龍司が父親で、波が母親なら、自分は——正妻である自分は、一体、何なのだろう。その言葉に、今度は知恵が沈黙した。何か言おうとした矢先、真帆がわざと軽い調子で遮った。「私が龍司と結婚するって言ったときは、あれだけ反対したのに。今度は離婚を止めるの?」「それとは話が違うでしょ」知恵は、呆れて頭を抱えながら言った。「あのとき結婚を止めたのは、あなたが恩返しのために火の中へ飛び込もうとしてたからよ。今、離婚を勧めないのは……龍司が身体に障害を抱えていることもあるし、それに、あなたのご両親のことだって……」彼女は深く息を吐き、続けて言った。「分かってる?彼と離婚するのが、どれだけ大変か」「知恵、龍司は……」真実を打ち明けようとしたその瞬間、階下から、耳をつんざくような悲鳴が響いた。心臓が跳ね上がり、真帆は電話を切る間もなくスマホを投げ出し、階段を駆け下りた。一階奥のペットルームが、赤く染まっていた。雪のように白かった小さな苺が、血にまみれ、床の上で痙攣するようにもがいている。そこには、もう、かつての愛らしさはどこにもなかった。そして、その前に立っていたのは、血の付いた小さなハンマーを握る湊だった。それは、真帆が犬小屋を組み立てるときに使った道具だ。「くさい犬!もうこれで驚かせられないだろ!」そう叫び、再び振り下ろそうとした。「やめて!」真帆は叫び、足元をふらつかせながら、その小さな体に縋りついた。「苺……苺?」苺は、地面に横たわり、か細い声で鳴くだけだ。物音を聞きつけた使用人の和恵が駆けつけ、目の前の惨状に、言葉を失った。慌てて湊を引き離し、身分も忘れて声を荒げた。「坊ちゃん!ほんの少し目を離した隙に、どうしてこんなことを……奥さま……」和恵は、床の血と真帆の真っ青な顔を見るに堪えず、視線を逸らした。「……とにかく、動物病院へ。もしかしたら……もしかしたら、助かるかもしれません……」そう言いながらも、声は次第に弱くなっていった。だが真帆は、その一言にすがるように苺を抱き上げ、外へ飛び出した。別荘の玄関を出た瞬間、誰かと激しくぶつかった。「龍司!」真帆は衝撃で地面に倒れ込んだ。肘に鋭い痛みが走ったが、真帆は腕の中の苺を、必死に庇った。龍司は反射的に立
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第4話
自分の言い方がきつすぎたと気づいたのか、龍司は小さく息を吐き、調子を和らげた。「真帆……そんなつもりで言ったんじゃない。おじいちゃんが亡くなったばかりだろう。今は、これ以上波風を立てたくないんだ。もしおばあちゃんの耳に入ったら……結局、困るのは君じゃないか」息が詰まった真帆は信じられないという顔で彼を見た。「……それ、私を脅してるの?」「真帆、そんな言い方をしなくてもいいだろう」龍司は眉を寄せ、穏やかな口調の奥に、拒絶を許さない色を滲ませた。「ただ湊に謝るだけだ。そんなに時間は取らせない」「私が行かなかったら?」弁護士として長年仕事をしてきた真帆は、脅しを受けること自体は初めてではない。だが、まさか長年共に過ごしてきた夫に脅しを受けるとは……胸の奥に、細かな痛みが広がった。目を赤くしながらも、なお踏みとどまろうとする彼女の様子に、龍司の胸にわずかなためらいがよぎった。彼は額を押さえ、ため息をついた。「真帆……病院に行って、湊を少し安心させてやってくれ。それさえしてくれるなら、君の望みは、何でも聞く。どうだ?」その言葉に、真帆ははっと顔を上げた。聞き間違いではないかと、もう一度、確かめた。「……何でも?」「ああ。何でもだ」彼女が揺らいだのを見て、龍司は畳みかける。「苺がいなくなって、俺だってつらい。でも、どんな理由があっても、親は幼い子に、心の傷を残すわけにはいかない」——親?親は父母や祖父母のことだろう。いつから彼が親を名乗るようになったの?けれど真帆は、それ以上言葉を費やす気にはなれなかった。彼女が耳を奪われていたのは、「何でも聞く」という言葉だった。病院に着くと、運転手が車椅子を降ろした。これまで、その役目を担っていたのは真帆だったが、今回は、彼女は手を出さなかった。龍司は、彼女がまだ苺のことで気を落としているのだろうと解釈し、特に何も言わなかった。病室では、波が湊に果物を剥いている。二人の姿を見て、すぐに立ち上がった波の目は赤く、泣いた跡がはっきり残っていた。「真帆さん、大丈夫?」彼女は親しげに手を取った。「私が湊を甘やかしすぎたの。でもまだ小さいから……どうか気にしないで」そう言ってから、振り向いて声をかけた。「湊、真帆おばさんに謝りなさい
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第5話
深夜。真帆は書斎で、龍司との離婚協議書を書き上げた。翌朝は何事もなかったかのように、いつも通り事務所へ向かった。だが、車を停めたその瞬間、髪を振り乱した女が、突然目の前に飛び出してきた。反射的に、真帆はドアロックをかけた。「この女!人でなしの弁護士!うちの息子の名誉を返しなさい!」女は錯乱したように叫び、手にしていたレンガを振り上げ、車の窓を叩き割った。ガシャン!乾いた音とともにガラスが砕け散り、その破片で真帆は腕を負傷した。騒ぎに気づいた駐車場の警備員が駆けつけ、二、三人がかりで中年の女を取り押さえた。そのうちの一人が、真帆に声をかけた。「先生、大丈夫ですか?」真帆は首を振り、車を降りた。女は押さえつけられた後なおも、罵声を浴びせ続けている。その顔を見て、真帆はようやく思い出した。三年前に担当した、少女への性加害事件だ。当時、被害者の両親が泣き腫らした目で、事務所を訪ねてきた。証拠が乏しく、多くの法律事務所が受任を断っていた案件だったが、真帆は引き受け、証拠集めに一年半を費やし、ようやく勝訴にこぎつけた。加害少年たちは有罪となったが、その中の一人が、今、目の前で叫んでいる女の息子で、当時、名門校に合格したばかりだったと聞いている。女はかつて金で口止めしようとしたが、真帆は一度も目を向けず、即座に拒んだ。「先生?」警備員に呼ばれ、真帆は我に返った。「どう対応しますか?」「警察を呼んでください」そして砕けた車窓を一瞥し、淡々と告げた。「修理代は請求します。謝罪も、必要なら正式に」そう告げると、彼女は目を細めた。事件はすでに終結して一年以上経っている。復讐するなら、もっと早いはず。恨みがあるなら、今さら出てくる理由がない。警備員が女を連れて行こうとすると、女は狂ったように暴れ、汚い言葉を駐車場中に響かせた。真帆は聞く耳を持たず、その場を離れた。あの件で、自分は何一つ間違ったことをしていない。だから、罵声など気にもならなかった。だが、知恵は違った。真帆の腕に走る傷を見るなり、顔色が変わった。「ダメ、絶対病院で診てもらうから」真帆が何を言っても彼女は譲らず、結局、救急外来で診てもらった。想像以上に傷は深く、縫合が必要だ。処置の途中、知恵は外へ出て電話を受け
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第6話
「……星ヶ丘の、西園寺家?」真帆は聞き間違いかと耳を疑った。子犬をあやしていた指先が、無意識に震える。「そう。うちの母方の実家だよ」龍司は続けて穏やかに説明した。「母さんの母、つまり俺の祖母が再婚してね。その相手が西園寺家の人だったんだ。母さんは血のつながりはないけど、そこで育てられたんだ」真帆は信じられないという顔をして言った。「……今、何て言ったの?」五年前真帆と龍司が結婚したとき、結婚式は、龍司の脚のこともあって簡素なものだった。婚姻届を提出し、鷹宮家の人間と小さな食事会を開いただけ。敏子の実家からは誰一人として出席せず、使いの者が祝儀と贈り物を届けただけだった。——もし、敏子が西園寺家の人間なら。——では、「あの人」は……五年前の悪夢が、一気に押し寄せてくる。真帆は氷水の中に突き落とされたように全身の血が引き、硬直した。ようやく異変に気づいた龍司が、心配そうな目で覗き込む。「真帆、どうした?」「……な、何でもない」唇を引き結び、それ以上考えないようにした。それでも、かすかな震えは隠しきれない。龍司は、真帆が西園寺家という名前に圧倒されたのだと思ったのか、冷え切った彼女の指を包み込んで彼女を慰めた。「大丈夫だ。何があっても、俺が守る」その言葉が、かえって胸に刺さった車は別荘の前で停まった。待っていたかのように、波がすぐに駆け寄ってくる。「龍司、お帰りなさい」運転手と一緒に龍司を車椅子へ移し、手厚い世話をする様子だ。「真帆さんが怪我をしたって聞いて、一日中気が気じゃなかったの。いったい、何があったの?」その声に混じる、かすかな愉悦を感じ取り、真帆は車のドアを閉める手を止めた。「……どうして、私が怪我をしたことを?」視線が鋭くなった。朝の騒動は、龍司にも話していない。まして、今日会ったこともない波が知っているはずはない。言葉に詰まる波を見据え、真帆はキャリーを持ったまま一歩詰め寄った。「教えて。どうして知っているの?」「龍司……」一瞬、波の視線が龍司へ泳いだ。だが彼の意識が真帆に向いているのを見て、唇を噛みしめた。「……病院に知り合いがいるの。私が鷹宮家と関係があるって知ってるから……気を利かせて教えてくれただけよ」「ずいぶん都合がい
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第7話
真帆の背中が、二人の視界から完全に消えた。龍司は思わず眉を寄せ、何か言うべきだった気がして口を開きかけたが、すでに波に車椅子を押され、反対方向へと進み始めていた。何だろう、真帆の様子がどこか違う。ただ、どこがどう変わったのかまでは、分からない。車に乗り込むと、龍司は目を閉じた。ここ数日の出来事が、断片的に頭をよぎる。波が何度か声をかけたが、彼は反応しなかった。下唇を強く噛みしめ、涙が滲むのを必死でこらえる。やがてかすかなすすり泣きが聞こえると、龍司はようやく目を開け、驚いて問いかけた。「……どうしたんだ?」「龍司、怒ってるの?」波は赤くなった目で、いかにも傷ついた様子で見上げた。「湊が、苺を傷つけちゃって……そのせいで、真帆さんまで悲しませたから……」龍司は少し黙り込み、視線を車窓の外へ向けた。「……いや」「じゃあ、どうして真帆さんに子犬を?湊は……」「ただの犬だ」龍司はこれ以上の議論を許さない口調で短く呟いた。「波。そこまで神経質になることじゃない」「龍司?」波は驚いたように瞬きをする。しかし、龍司は初めて彼女の感情に向き合おうとせず、声を少し低くして続けた。「どうしても湊が怖がるなら、君たちを別の家に移してもいい」波の顔色が、さっと変わった。「ち、違うの。私はそんな意味で……」「ならいい」龍司は再び目を閉じた。眉間には、はっきりと疲労が刻まれていた。「真帆は、これまでずっと鷹宮家で我慢してきた。理不尽な思いも、何度もしてきたはずだ。心の拠り所として犬を飼うくらい、何もおかしくない」一拍置いて、淡々と続けた。「湊は……犬に近づかなければいい」波は、掌が白くなるほど強く拳を握りしめた。胸の奥では、抑えきれない感情が渦を巻く。……一方、真帆は真っ先に私立探偵へ連絡を入れた。波の態度は、どう考えても不自然だったから。それから寝室へ戻り、静かに荷物をまとめ始めた。必要なものだけを選び、箱に詰め、クローゼットの奥へ押し込む。最後に、龍司が署名した書類をバッグに入れ、小さなキャリーケースを引いて出ようとしたときだった。リビングから、小さく澄んだ鳴き声が聞こえた。真帆は足を止めた。キャリーの中で、小さな子犬が不安そうにこちらを見ている。……置いていけなかっ
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第8話
真帆はふっと笑った。その笑い声が、扉の隙間から廊下へと流れ出た。龍司は驚き、思わず顔を上げた。車椅子を操作して外へ出たが、そこにあったのは階段を上っていく真帆の後ろ姿だけ。理由も分からないまま、胸騒ぎが広がった。彼は専用エレベーターで二階へ上がった。寝室では、真帆が段ボール箱を外へ運び出しているところだった。「真帆、何してるんだ?」彼は眉を寄せて声をかけた。真帆は顔を上げ、何でもないことのように笑った。「新しい案件を受けたの。依頼人の家庭があまり裕福じゃなくて。事務所のみんなで、着なくなった服を送ろうって話になったの。少しでも助けになればと思って」「……こんなにもか?」龍司は箱の山に目を向けた。「多いに越したことはないでしょ」真帆は平然と嘘を重ねる。「家には、まだたくさんあるし」それでも龍司の胸騒ぎは消えず、車椅子を回し、ウォークインクローゼットへ入る。減ってはいるが、ごく一部だ。それを確認して、ようやく息をついた。……と、そのとき。視線が、ぴたりと止まった。「……結婚したときの、あの髪飾りは?」——本来、華やかに迎えられるはずだった結婚式は、鷹宮家の意向で簡素なものになり、真帆はウェディングドレスすら着られなかった。それでも、彼女を粗末には扱わなかった龍司は、特注の髪飾りを真帆に用意してくれたのだ。それは、新婚初夜の贈り物だった。真帆は命のように大切にして、定期的に自分で手入れをしてきた。あの日、彼女は決めたのだ。たとえ彼が一生歩けなくても、たとえ夫婦らしい関係になれなくても、この人を一生支えよう、と。箱を動かす手が、一瞬止まった。真帆は小さく息を吸い、目の奥に浮かんだ自嘲を押し隠し、淡々と言った。「波が気に入ったみたいで。少し借りたいって言うから」「……貸したのか?」「たまにしか頼まれないし、断ったら、私が意地悪したみたいでしょ」こんな場面で、また大人のふりをしてしまった。龍司の顔色が、わずかに曇る。「あとで、俺から言って返してもらう」「そのうちでいいわ」真帆は箱をすべて廊下へ出し終え、軽く手を払った。「もう遅いし、あなたも休んだら?」龍司は、少し戸惑った。結婚してからずっと、彼女は別室にいながらも眠るまで世話を焼いてくれていた。こ
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第9話
真帆が去ったあと、波は念のため寝室を確認しに行った。衣類はほとんど減っていないが、通帳、身分証、印鑑など、生活に必要なすべての書類がきれいに持ち出されていた。波は、それを見て察した。自分もかつて、本気で離婚を決意したとき、これらのものだけを持って家を出た。経験者だからこそ、それが何を意味するのか、いやと言うほど分かった。これは、戻るつもりのない出方だと。だが、そのことを龍司に伝える気はさらさらなかった。......朝食を終えた頃、龍司の秘書・黒川から電話が入った。海外プロジェクトでトラブルが起きたという。龍司は即座に出張を決め、家を空けた。戻ってきたのは、三日後だが、真帆の姿はなかった。何度か電話をかけたが、呼び出し音のあとに流れるのは無機質な音声だけ。胸の奥に嫌な予感が広がり、龍司は直接瑞穂坂法律事務所へ向かった。真帆は事務所で書類整理をしていた。振り返った瞬間、龍司の姿が目に入ったが、彼女が口を開く前に龍司が問いかけた。「……ここ数日、家に帰ってないのか?」詰問に近い口調だ。彼の知る限り、真帆が外泊を重ねたことなど一度もない。「案件が立て込んでいてね。ずっと動きっぱなしだったから、ここ数日は本当に余裕がなくて。いっそ近い方がいいと思って、知恵のところに泊まってるの」真帆の表情は相変わらず穏やかで、まるで、すべて想定内だと言わんばかりの落ち着きだった。真帆は車椅子を押し、彼を休憩室へ案内した。「急な出張だったって聞いたけど。帰ってきたなら、少しは家で休めばいいのに」話題を逸らしていると分かっていても、龍司は乗らなかった。「……知恵さんの家に泊まるのはいい。でも、どうして犬まで連れて行ったんだ?」「湊が怖がるでしょう?」彼は言葉を失い、自分の言い方を思い返し、胸に小さな後悔が広がった。「真帆……君は、そんなに気を遣わなくてもいい。いつも遠慮がちで、正直……見ていてつらいんだ」つらい、だなんて。——五年間騙され続けたこっちの心は、とっくに砕けているのに。真帆は、かすかに笑った。「私たちの間に、そんな言葉はいらないでしょ」彼女は時計に目を落とし、続けた。「もう遅いし、先に帰ったら?」「いや」龍司は首を振った。「君が終わるまで待つ。一緒に食事しよう」断る理由
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第10話
「……ふふ」乾いた笑いが、喉の奥からこぼれた。真帆も、ここまで来ればもう察しがついた。これは間違いなく波の仕業だと。けれど、理由を問いただす気にもならなかった。行ったのなら、それで終わり。どうせ今さら何を聞いたところで、龍司がまた都合のいい言い訳を重ねるだけだろう。真帆は知恵にメッセージを送り、店員を呼んで予定通り料理を頼んだ。人数は変わらない。ただ、向かいに座るのが男ではなく、親友になっただけ。こっちの方が、ずっと気が楽だ。知恵はすぐに駆けつけ、席に着くなり龍司の悪口を一気に吐き出した。それがおかしくて、真帆は彼女のために「気を鎮める用」のスープを追加で頼んだ。夜は、そのまま一緒にマンションへ戻った。......書斎で仕事をしていると、電話の着信音に思考を断ち切られた。表示された名前を見て、真帆は少しだけ指を止め、それから電話に出た。「真帆、今どこだ?」聞こえてくる声は、相変わらず穏やかで柔らかい。かつてはその声が好きだった。以前の真帆なら、それだけで気持ちが和らいだだろう。けれど今は、何も感じない。「家にいる」真帆は短く答えた。「もう帰ったのか?」龍司は少し驚いた様子だ。「さっき、運転手が迎えに行ったらいなかったって言うから……」彼は、真帆が別荘に戻ったのだと思ったのだろう。胸に残る後ろめたさと同時に、どこか安堵しているのが伝わってきた。真帆は訂正しなかった。それは拗ねているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。ただ、説明する気力がなかったのだ。郊外の店は人通りも少ない。本当に急用があったなら、電話一本くらい入れられたはずだ。それなのに、何時間も経ってから運転手を寄こす。それが彼の誠意なのだ。電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。龍司は彼女が怒っているのだと思ったのだろう。今日の件で、自分に非があることも分かっていた。「……ごめん。急に席を外したのは、湊が熱を出して……すぐ病院に連れて行く必要があったんだ」さらに声を低くして続けた。「突然で、連絡できなかった。湊がよくなったら、埋め合わせは必ずする」また、その名前だ。予想はしていたが、実際に聞くと、可笑しさが込み上げてくる。「いいのよ。子どもが最優先でしょう」それも、波の
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