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Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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4-3 仲直り

 喧嘩をしてから、三日が経った。 その間、奏からの連絡は一切なかった。涼介がメッセージを送っても既読がつくだけで、返信はない。インターホンを押しても応答がない。完全に拒絶されていた。 涼介は地獄のような三日間を過ごした。 仕事は相変わらず忙しかったが、頭の中は奏のことでいっぱいだった。会議中も資料作成中も、奏の泣き顔が浮かんで消えない。「帰って」と言われた時の奏の声が、耳にこびりついている。あの冷たい声が、何度も涼介の頭の中で再生される。 眠れない夜が続いた。ベッドに横たわっても、壁の向こうの静寂が涼介を責め立てるようだった。奏の配信の声が聞こえないことが、これほど辛いとは思わなかった。奏の声がない夜は、静かすぎて、寂しすぎて、涼介は自分の呼吸の音すら煩わしく感じた。 涼介は何度も、スマートフォンに保存した奏の配信を再生した。録音された奏の声は、涼介の渇きを一時的に癒やしてくれる。けれど、それは本物ではない。奏の声が聴きたい。生のリアルタイムで、涼介だけに向けられた奏の声が。 同僚の山下が、涼介の様子の変化に気づいた。「黒川、大丈夫か? 顔色悪いぞ」「大丈夫だ」「大丈夫には見えないけどな。彼女とでも喧嘩したか?」 山下の言葉に、涼介はぎくりとした。彼女ではないが、恋人とは喧嘩している。それを山下に言えるはずもなかった。「別に」「そうか。まあ、何かあったら言えよ。俺でよければ聞くから」 山下が涼介の肩を軽く叩いて、自分のデスクに戻った。涼介はその背中を見送りながら、複雑な気持ちになった。 山下は気のいい同僚だ。要領がよく、時には涼介の手柄を横取りすることもあるが、根は悪い人間ではない。けれど、涼介は山下に本当のことを言えない。自分がゲイであること、恋人がいること、その恋人と喧嘩したこと。全部、隠さなければならない。 隠し事ばかりの人生だ。 職場では本当の自分を出せない。プライベートでも、奏以外には本当の自分を見せられない。唯一、全てを曝け出せる相手が奏だった。そんな奏との関係が、今、危機に瀕している。
last updateDernière mise à jour : 2026-01-17
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4-4 海外赴任の辞令

 仲直りから一週間後、涼介の人生を変える出来事が起こった。 その日の朝、涼介は上司の村田部長に呼び出された。村田のデスクに近づくと、村田は珍しく緊張した面持ちで涼介を見た。「黒川、人事から話がある。十時に第三会議室に来てくれ」 村田の表情は、いつもより硬かった。涼介は嫌な予感を覚えながら頷いた。 十時になり、涼介は第三会議室に向かった。ドアをノックして中に入ると、すでに人事部の課長と村田部長が席についていた。窓から差し込む朝日がテーブルの上に長い影を落としている中、涼介は指定された席に座り、二人の顔を見た。「黒川君」 人事部の課長が口を開いた。五十代の、白髪交じりの男だ。表情は柔和だが、目は鋭い。「単刀直入に言う。来月から、シンガポール支社に赴任してもらいたい」 涼介の頭が、一瞬真っ白になった。「シンガポール……ですか」「ああ。期間は一年。現地の合弁事業を軌道に乗せるために、君の力が必要なんだ」 一年。シンガポールに、一年。 涼介の脳裏に、奏の顔が浮かんだ。奏の笑顔、奏の声、奏の温もり。それら全てから、一年間離れなければならない。 ――奏の声が、一年も聴けなくなる。 その事実が、涼介の心臓を鷲掴みにした。「黒川君の実力なら問題ない」 村田部長が言った。「英語も堪能だし、海外との交渉も得意だ。シンガポール側からも、黒川君を指名されている」「指名……ですか」「ああ。これまでのプロジェクトで、君の仕事ぶりを高く評価してくれてる。ぜひ、黒川君に来てほしいとのことだ」 涼介は黙っていた。頭の中で、さまざまな考えが渦巻いている。 シンガポールへの赴任。一年間。キャリアアップにはなるだろう。海外勤務の経験は、今後の昇進にもプラスになる。会社としても、表面上は涼介を高く評価してくれているということだ。 でも、涼介には分かっていた。これは本当の「評価」ではない。
last updateDernière mise à jour : 2026-01-18
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4-5 奏の異変

 赴任の返事をしてから、涼介は自分の様子がおかしくなっていることを自覚していた。 奏と一緒にいる時も、どこか上の空になってしまう。会話をしていても、反応が遅れる。笑おうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。奏と目を合わせようとしても、罪悪感で視線を逸らしてしまう。 そして、奏も涼介の変化に気づいているようだった。 奏の態度が、少しずつ変わってきている。涼介を見る目には、以前にはなかった不安の色が滲んでいる。涼介が何か言おうとすると、奏は身構えるような表情をする。何か悪い知らせを待っているかのように、怯えた目で涼介を見つめる。 涼介は、奏を傷つけていることを知っていた。 何も言わないことで、奏を不安にさせている。隠し事をすることで、奏の信頼を裏切っている。あの喧嘩の時と同じだ。また同じ過ちを繰り返しているのだ。分かっていながら、言い出せない自分が情けなかった。 その日の夜、涼介は自分の部屋で壁に耳を澄ませていた。 深夜零時を過ぎると、いつものように壁の向こうから奏の配信が聞こえてくる。涼介はベッドに横たわりながら、奏の声に耳を傾けた。 けれど今夜は、いつもと違った。 奏の声には、どこか棘があった。甘いはずの囁きが、時折鋭く響く。穏やかなはずのトーンが、不安定に揺れる。いつもなら滑らかに紡がれる言葉が、今夜は時折詰まる。 聴覚フェチの涼介には、その微細な変化がはっきりと分かった。奏の声は、涼介の知らない奏を映し出していた。傷ついた奏、不安な奏、怯えている奏だった。「今夜は……ちょっと、落ち着かないんだ」 壁越しに、奏の声が聞こえてきた。「大切な人がいるんだけど……その人、僕に何も教えてくれないんだ。何か隠してるのは分かるのに、聞いても答えてくれない」 涼介は息を呑んだ。奏が、配信で自分たちのことを話している。リスナーには誰のことか分からないだろうが、涼介には痛いほど分かった。「信じたいんだ。その人のこと、信じたい。でも、何も教えてもらえないと、不安になる。僕のこと、本当に大切
last updateDernière mise à jour : 2026-01-19
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第五章 現実という壁

5-1 束の間の穏やかさ 涼介がシンガポール赴任を打ち明けてから、五日が経った。 九月に入り、東京の空気は少しずつ秋の気配を帯び始めていた。朝晩の風には涼しさが混じり、蝉の声も聞こえなくなっている。夏の終わりを告げる季節の移ろいが、涼介の胸を締め付けた。街路樹の葉も、わずかに色づき始めている。季節は確実に移り変わっていく。それと同じように、涼介と奏の時間も、刻一刻と終わりに近づいていた。 赴任まで、あと九日。 その事実が、涼介の頭の中で時計のように、常に刻まれていた。奏と過ごせる時間が、一日また一日と減っていく。その焦燥感が、涼介の胸の奥で燻っていた。夜、眠りにつく前に、涼介は必ず残りの日数を数えてしまう。九日。あと九日しかない。その数字が、涼介の心に重くのしかかっていた。 けれど、奏との関係は穏やかだった。 あの夜、すべてを打ち明けてから、二人の間にあった壁はなくなっていた。隠し事がなくなったことで、涼介は奏の前で自然体でいられるようになった。そして奏も、涼介を責めることなく、残された時間を大切にしようとしてくれていた。奏の優しさが、涼介には眩しかった。自分が一か月も黙っていたことを、奏は許してくれた。その寛容さに、涼介は改めて奏への愛おしさを感じていた。「涼介、今日の夕飯、何がいい?」 土曜日の朝、奏が涼介の部屋のキッチンに立ちながら尋ねた。冷蔵庫を覗き込む奏の後ろ姿を、涼介はソファから眺めていた。焦げ茶の髪が朝日に照らされて、金色に輝いている。細い肩のラインが、Tシャツ越しにうっすらと見える。その姿が、涼介には愛おしくてたまらなかった。「なんでもいいよ。奏の作るものなら」「それじゃ決められないよ。ちゃんと言って」 奏が振り返って、口を尖らせた。その声には、甘えるような響きがあった。低く柔らかい声が、涼介の耳に心地よく届く。その仕草が可愛くて、涼介は思わず笑ってしまった。「じゃあ……カレーが食べたい」「カレー? また? 先週も作ったじゃん」「奏のカレーが好きなんだ。スパイスの配合が絶妙で」「も
last updateDernière mise à jour : 2026-01-20
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5-2 SNSの炎上

 異変が起きたのは、二日後の月曜日の夜だった。 涼介はいつものように残業を終え、マンションに帰ってきた。時計を見ると、午後十時を少し回っていた。今夜は比較的早く帰れた方だった。週末のデートの余韻がまだ残っていて、涼介の心は穏やかだった。水族館で見たクラゲの映像が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。 奏にメッセージを送ろうとスマートフォンを取り出した時、画面に大量の通知が表示されていることに気づいた。 SNSの通知だった。 涼介はほとんどSNSを使わない。アカウントは持っているが、閲覧専門で、投稿することはほとんどなかった。だから、こんなに通知が来ることは珍しい。嫌な予感が、涼介の胸をよぎった。 不審に思いながらアプリを開くと、涼介の目に飛び込んできたのは、奏の名前だった。『ASMR配信者KANA、本名は白石奏だった!』『人気配信者の素顔が判明! 男性との同棲疑惑も』『声優崩れの配信者、恋人と同棲中?』 涼介の血の気が、一気に引いた。 震える手でスマートフォンを操作し、関連する投稿を探した。そこには、奏の個人情報が晒されていた。本名、年齢、経歴、そして涼介との関係を匂わせる投稿まであった。涼介の心臓が、激しく打ち始めた。こめかみが熱くなり、視界が狭くなる。『KANAの隣人らしき男性の目撃情報あり』『マンションの前で手を繋いでいたとの証言』『配信の内容から、明らかに特定の相手に向けた内容がある』 投稿には、憶測と悪意が入り混じっていた。奏のプライバシーが、無遠慮に暴かれている。そして、その中には涼介との関係を示唆するものまであった。匿名の誰かが、奏の人生を面白半分に暴いている。その悪意に、涼介は吐き気を覚えた。 涼介は急いで奏の部屋に向かった。インターホンを押す。返事がない。何度押しても、反応がなかった。「奏! いるんだろ! 開けてくれ!」 涼介はドアを叩いた。返事はない。けれど、奏が部屋にいることは分かっていた。廊下から見える窓に、明かりが灯っているからだ。「奏、頼むから開けてくれ。話が
last updateDernière mise à jour : 2026-01-21
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5-3 涼介の決断

 奏が涼介の部屋に移って、三日が経った。 赴任まで、あと四日。 炎上は少しずつ沈静化しつつあったが、奏の心の傷は癒えていなかった。 奏は一日のほとんどを、涼介の部屋のソファで過ごしていた。テレビを見るでもなく、スマートフォンを触るでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めている。時折、涼介と言葉を交わすが、以前のような明るさはない。声のトーンも低く、抑揚がない。まるで、奏の中の何かが壊れてしまったようだった。 音に敏感な涼介には、奏の声の変化が痛いほどよく分かった。奏の声から、生気が失われている。ああの甘い響き、艶やかな色気、そして聴く者を魅了する力。それらが全て、消えてしまっていた。涼介が最も愛した奏の声が、今は抜け殻のように空虚だった。 涼介は、自分の無力さを痛感していた。 奏を慰める言葉は、たくさん知っている。けれど、どんな言葉も奏の心には届いていないようだった。涼介が何を言っても、奏は力なく微笑むだけだ。「ありがとう」「大丈夫」。そう言いながら、目には光がない。その笑顔が、涼介には痛かった。 仕事のキャンセルも相次いでいた。 奏は毎日、事務所からの連絡を受けていた。そのたびに、奏の表情が曇る。また一つ仕事が消えた。さらに、奏のキャリアも傷ついた。奏が長年かけて築いてきたものが、音を立てて崩れていった。涼介には、それを止める術がなかった。 ある夜、奏が小さな声で言った。「涼介、僕……もう、声を出せないかもしれない」 涼介の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。「どういう意味だ」「声を出そうとすると、怖くなるんだ。僕の声を聴いた誰かが、また悪口を言うんじゃないかって。僕の声が、誰かを不快にさせるんじゃないかって」 奏の目には恐怖が浮かんでいた。その目は、助けを求めるように涼介を見つめている。「マイクの前に立てない。声を出そうとすると、喉が詰まる。頭の中で、誹謗中傷の言葉がぐるぐる回って……」「奏……」「僕の声なんて、価
last updateDernière mise à jour : 2026-01-22
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5-4 奏の覚悟

 奏の言葉に、涼介は息を呑んだ。「決めた? 何を」「涼介、シンガポールに行って」 その言葉は、涼介の予想とは正反対だった。涼介は奏を見つめた。奏の目には、強い決意が宿っていた。「でも、奏は……」「僕は大丈夫。涼介がいない間に、僕も強くなる」 奏の声は、いつになく強かった。ここ数日聞いていなかった力強さが宿っている。その声を聞いて、涼介は驚いた。奏の声が、少しだけ戻ってきている。「奏……」「涼介が僕のために会社に掛け合ってくれたって知って、嬉しかったけど……同時に、これじゃ駄目だって思った」 奏は涼介の手を強く握った。奏の手が、涼介の掌の中で温かく震えている。「僕のせいで、涼介のキャリアを潰すわけにはいかない。涼介はシンガポールで頑張るべきなんだ。僕のことを心配してチャンスを逃すなんて、絶対に駄目だ」「でも、奏を一人残していけない」「一人じゃないよ」 奏が微笑んだ。その笑顔には、まだ悲しみの影があった。けれど、決意の光も宿っていた。涼介が初めて見る、強い奏の笑顔だった。「僕には、僕の人生がある。涼介がいなくても、僕は生きていける。声を出せなくなったのは、涼介のせいじゃない。僕が弱かっただけ」「弱いなんて……」「弱かったんだよ。誹謗中傷に負けて、自分の声を否定した。大好きな配信を、自分から手放そうとした。それは、僕の弱さだ」 奏の目から、涙がこぼれた。けれど、その声は震えていなかった。その声には、強い決意が込められていた。「でも、もう負けない。涼介がシンガポールで頑張るなら、僕もここで頑張る。涼介が帰ってきた時、胸を張って『待ってたよ』って言えるように」「奏……」「だから、行って。シンガポールに。僕は、涼介を信じて待ってるから」 涼介は言葉を失った。 奏が、こんなにも強いとは思わな
last updateDernière mise à jour : 2026-01-23
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5-5 別れの夜

 赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
last updateDernière mise à jour : 2026-01-24
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エピローグ 新しい声で

 シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
last updateDernière mise à jour : 2026-01-25
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番外編 永遠の声

一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
last updateDernière mise à jour : 2026-01-26
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