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Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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2-5 週末デート

「今度の休み、よかったら出かけませんか?」 水曜日の夜、奏からそう誘われた。 涼介は一瞬、自分の耳を疑った。出かける。二人で。それはつまり、デートということではないのか。「どこに行くんですか?」「映画と、ランチと……あとは、散歩でもしようかなって。黒川さんの行きたいところ、どこでもいいよ」 奏は微笑んでいた。その笑顔には、期待と緊張が入り混じっているように見えた。「喜んで」 涼介は即答した。断る理由など、どこにもなかった。    * 土曜日。 涼介は朝から緊張していた。何を着ていくか、三十分以上悩んだ。小さなウォークインクローゼットの中を何度も行き来し、何着も試しては脱ぎ捨てた。結局、白いシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけカジュアルな格好を選んだ。 鏡の前で髪を整えながら、涼介は自分を笑った。こんなに念入りに身支度をするのは、いつ以来だろう。デートだ。奏とのデート。その事実だけで、涼介の心は浮き立っていた。 約束の十時、マンションのエントランスで奏と待ち合わせた。 奏は淡いブルーのカットソーに細身の黒いパンツを合わせ、焦げ茶の髪を後ろで緩く束ねていた。その姿は、涼介の心臓を掴んで離さなかった。細い首筋、華奢な肩、すらりと伸びた足。どこを見ても、涼介の目は釘付けになった。「おはよう、黒川さん」「おはようございます」 二人は電車に乗り、都心へ向かった。 車内は混んでいて、吊り革につかまって立つしかなかった。人混みの中、奏の体が涼介に押し付けられる形になった。「ごめん、狭くて」「いえ、大丈夫です」 大丈夫ではなかった。奏の体温が涼介の体に伝わってくる。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。心臓がバクバクいって、きっと奏にも聞こえているのではないかと思った。電車の揺れに合わせて奏の体が涼介に当たる。そのたびに、涼介の全身に電流が走った。 目的地の渋谷で降り、まず映画館へ向かった。 観
last updateDernière mise à jour : 2026-01-07
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2-6 声だけの夜

 週末のデートから数日が経った。 涼介と奏の関係は、まだ曖昧なままだった。告白し合い、手を繋ぎ、名前で呼び合うようにはなった。けれど、それ以上のことはしていない。キスも、体の関係も、まだだった。 涼介はそれを焦ってはいなかった。奏との関係を、ゆっくりと築いていきたいと思っていた。 けれど、体は正直だった。 夜、壁の向こうから奏の声が聞こえてくると、涼介の体は熱くなった。彼は配信を聴きながら、何度も自分を慰めた。そのたびに罪悪感を覚えたが、止められなかった。奏の声は、涼介にとって最も強力な媚薬だった。 そして、その夜が来た。    * 水曜日の夜。 涼介は残業を終えて帰宅し、シャワーを浴びてベッドに横になった。深夜零時を過ぎている。奏の配信が始まる時間だ。 涼介は壁に耳を当てた。 しばらく待つと、奏の声が聞こえてきた。「……今夜は、特別な配信をしようと思う」 奏の声が、いつもより低く、熱を帯びていた。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応した。「聴いてくれてる人に、僕の全部を見せたい。聴かせたい」 涼介の心臓が、跳ね上がった。 全部を見せる。それは、どういう意味だろう。「今夜は……僕の声で、気持ちよくなってほしい」 奏の声が、囁くような調子になった。涼介の体は、反射的に反応した。下腹部に、熱が集まっていく。「目を閉じて。僕の声だけを聴いて」 涼介は言われるまま、目を閉じた。暗闇の中、奏の声だけが響く。「僕は今、ベッドに横になってる。薄暗い部屋で、一人で」 奏の声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。「でも本当は、一人じゃないよね。壁の向こうに、君がいる」 涼介の呼吸が、浅くなった。奏は自分に向けて話している。間違いない。「僕のこと、考えてくれてる? 今、何を想像してる?」 涼介は想像していた。奏がベッドに横たわっ
last updateDernière mise à jour : 2026-01-08
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第三章 声と身体の間で

 3-1 体調不良と看病  三日間、壁の向こうから声が聞こえなかった。  最初の夜は、涼介は深くは気に留めなかった。奏の配信は毎晩欠かさず行われていて、深夜〇時を過ぎると決まって壁の向こうから低く甘い囁きが聞こえてくる。涼介がこのマンションで奏の声を初めて聴いてから、一度も途切れたことがなかった。  それでも、一日くらいは休むこともあるだろう。体調が悪いのかもしれないし、仕事が立て込んでいるのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、涼介はベッドに入った。  けれど、眠れなかった。  いつもなら深夜〇時を過ぎると、壁の向こうから奏の声が聞こえてくる。低く甘い囁きが、涼介の鼓膜を撫でる。その声を子守唄代わりにして、涼介は眠りに落ちるのが習慣になっていた。奏と恋人同士になってからは、壁越しの声を聴くことに罪悪感はなくなった。むしろ、奏が自分のために声を届けてくれているのだと思うと、胸が温かくなった。  声がない夜は、静かすぎた。マンションの廊下を誰かが歩く足音、遠くを走る車のエンジン音、エアコンの低い唸りなど、普段なら気にも留めない音が、やけに大きく聞こえる。聴覚の鋭い涼介には、静寂は決して無音ではなかった。むしろ、奏の声がないからこそ、雑音がより鮮明に耳に届いた。  奏の声だけが、聞こえない。  その事実が、涼介の胸に小さな棘のような不安を芽生えさせたのだ。  明日は聞けるだろう。そう思いながら、涼介は浅い眠りについた。  二日目の夜も、配信はなかった。  涼介は仕事中も奏のことが頭から離れなかった。会議中にぼんやりとして、上司に名前を呼ばれて我に返る。資料の数字を何度も見直しても、頭に入ってこない。プレゼンの準備をしなければならないのに、手が止まってしまう。&nbs
last updateDernière mise à jour : 2026-01-09
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3-2 ただそばにいること

 奏の熱が完全に下がったのは、三日後のことだった。 その間、涼介は毎日奏の部屋に通った。仕事から帰ると真っ先に四〇三号室のドアを叩き、奏の様子を確認した。おかゆを作り、薬を飲ませ、汗を拭いた。看病という名目で、涼介は奏のそばにいられたのだ。 奏は日に日に回復していった。二日目には自分で起き上がれるようになり、三日目には簡単な食事を自分で作れるまでになった。顔色も良くなり、声にも艶が戻ってきた。 あの甘い声が、少しずつ本来の響きを取り戻していく。涼介はその変化を、毎日そばで見守っていた。奏が咳をするたびに背中をさすり、水を飲ませ、額に手を当てて熱を確かめた。そうしているうちに、涼介は気づいた。自分が、どれほど奏のことを好きになっているのかに。 今まで、涼介は誰かの世話をしたことがなかった。実家を出てからはずっと一人暮らしで、誰かと生活を共にすることもなかった。それが当たり前だと思っていた。一人でいることが、涼介にとっては楽だったのだ。誰にも気を遣わなくていい。誰にも本当の自分を見せなくていい。そうやって、涼介は自分を守ってきた。 けれど今、奏の看病をしながら、涼介は初めて知った。誰かのために何かをすることの喜びを、誰かに必要とされることの温かさを。 看病の三日間は、涼介にとって幸せな時間だった。奏のそばにいられること、奏に必要とされること、奏の回復を見守れること。それは、涼介が今まで知らなかった種類の充足感だった。「涼介さん、もう大丈夫だよ」 熱が下がった日の夜、奏は申し訳なさそうに言った。「三日間も、ずっと面倒見てもらって……本当にありがとう」「気にしないでください。俺がしたくてしたことですから」 涼介は微笑んだ。その言葉に嘘はなかった。「お詫びに、何かご馳走させてよ」 奏が言った。「まだ外出は無理でしょう」「うん、だから……僕が作る。涼介さんに、ちゃんとした料理を食べてもらいたい」「奏さんが作るんですか? まだ体調が……」
last updateDernière mise à jour : 2026-01-10
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3-3 初めてのキス

 涼介は椅子から立ち上がり、奏を抱きしめた。 細い体が、涼介の腕の中に収まる。奏の体温が、涼介の胸に伝わってくる。シャンプーの香りが、ほのかに漂う。心臓が、うるさいほど鳴っている。自分のものなのか、奏のものなのか、もう分からなかった。「奏さん……」 涼介は奏の顔を見つめた。至近距離で、奏の瞳が涼介を捉えている。深い茶色の瞳に、涼介自身の姿が映り込んでいた。長い睫毛が、ゆっくりと伏せられていく。 涼介は奏の唇に、自分の唇を重ねた。 柔らかかった。 奏の唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて、温かかった。触れた瞬間、涼介の全身に電流が走った。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。 これが、キスか。 涼介は今まで、誰ともキスをしたことがなかった。二十八年間、ずっと。自分がゲイだと気づいてからも、誰かと唇を重ねることはなかった。怖かったのだ。自分の欲望を認めることが。誰かに触れることで、隠してきたものがすべて露わになってしまうのが。 けれど今、奏の唇に触れて、涼介は思った。 ――ああ、これでよかったんだ。 最初のキスが、奏でよかった。他の誰でもない、奏だから、こんなにも幸せなのだ。 最初は、ただ唇を重ねるだけだった。触れて、離れて、また触れる。その繰り返し。奏の唇の感触を確かめるように、何度も、何度も。 奏の唇は、柔らかくて、少しだけ乾いていて、甘い味がした。涼介は夢中でその感触を味わった。もっと触れたい。もっと感じたい。もっと、奏を知りたい。 キスをしながら、涼介の頭の中ではさまざまな感情が渦巻いていた。 嬉しい。幸せだ。信じられない。こんなことが、自分に許されるのか。ずっと隠してきた。ずっと我慢してきた。本当の自分を、今、奏の前で曝け出している。 怖い。怖いけど、止められない。 奏の存在が、涼介の中でどんどん大きくなっていく。胸の奥が熱くて、苦しくて、それなのにもっと欲しいと思ってしまう。 ――俺は、この人のことが好きだ。 その
last updateDernière mise à jour : 2026-01-11
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3-4 初めての夜

 二人はキスを交わしながら、いつの間にかベッドルームへと移動していた。 奏の部屋のベッド。涼介が三日間、看病のために傍らで過ごした場所だ。あの時は奏の回復だけを願っていた。けれど今は、全く違う理由で、同じ場所にいる。 間接照明のオレンジ色の光が、部屋を柔らかく包んでいる。カーテンの隙間から、夜の闇が覗いている。壁際に置かれた配信ブースが、薄暗がりの中でシルエットを作っていた。あのブースから、毎晩あの声が発せられていた。涼介を虜にした、あの甘い囁きだ。壁一枚を隔てて、涼介はずっとあの声を聴いていた。 今、その声の主が、涼介の腕の中にいる。壁越しではなく、直接。「涼介さん……」 奏が涼介の名前を呼んだ。その声は、配信で聴くどの声よりも近く、どの声よりも熱を帯びていた。直接耳に届く奏の声は、涼介の鼓膜を震わせ、脳の奥まで染み込んでいく。「僕の声、もっと近くで聴きたい……?」 その問いかけに、涼介は頷いた。声にならなかった。喉が渇いていた。緊張と期待で、言葉がうまく出てこない。けれど、涼介の体が全てを語っていた。震える指先も、早鐘を打つ心臓も、奏を求めていることを。 奏が涼介のシャツのボタンに手をかけた。 細い指が、一つ目のボタンに触れる。外す。二つ目に触れる。外す。その動きは驚くほどゆっくりで、焦らすように丁寧だった。ボタンが一つ外れるたびに、涼介の肌が露わになっていく。夜気に触れた肌が、かすかに粟立つ。「緊張してる?」 奏が尋ねた。視線は涼介の胸元に落ちたまま、指は止めずに。三つ目のボタンが外れる。四つ目。「……してます」 涼介は正直に答えた。声が掠れていた。「僕もだよ」 奏が顔を上げて、涼介を見た。その瞳の奥に、涼介と同じ熱が揺らめいている。緊張。期待。そして、抑えきれない欲望。「すごく、緊張してる。涼介さんとこうなるのを、ずっと想像してた。壁の向こうで涼介さんが僕の声を聴いてる時、どんな顔をしているか、どんなふうに息を乱してい
last updateDernière mise à jour : 2026-01-12
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3-5 藤井との対峙

 涼介と奏が体を重ねてから、二週間が経った。お互いを自然と「さん」を付けずに呼び合うようになっていた。 その間、二人は毎日のように会っていた。仕事から帰ると、どちらかの部屋で夕食を食べ、一緒に過ごした。週末は一緒に出かけ、夜は同じベッドで眠った。 七月の終わり、東京は連日の猛暑に見舞われていた。朝から気温が三十度を超え、昼間には三十五度に達することも珍しくない。アスファルトが熱を帯び、街全体が蒸し風呂のようになっていた。 涼介の日常は、完全に変わっていた。 今まで、涼介の人生は仕事だけだった。朝起きて、会社に行き、遅くまで働き、疲れ切って帰宅し、眠る。その繰り返しだった。楽しみなど、何もなかった。 けれど今は違う。奏がいる。奏に会えると思うと、仕事も頑張れた。奏の声を聴くと、疲れが吹き飛んだ。奏に触れると、生きている実感が湧いた。 涼介は、初めて「幸せ」という言葉の意味を知った。 その日も、涼介は早めに仕事を切り上げて帰宅した。電車の中で奏にメッセージを送ると、すぐに返事が来た。『今日も僕の部屋で夕飯にしよう。待ってるね』 その言葉だけで、涼介の顔が緩んだ。周りの乗客に見られたら恥ずかしいと思いながらも、笑顔を抑えられなかった。 最寄り駅で降り、マンションへ向かって歩く。夕方になっても気温は下がらず、シャツが汗で背中に張り付いた。早くシャワーを浴びて、奏に会いたい。 マンションのエントランスが見えてきた時、涼介は足を止めた。 エントランスの前に、誰かが立っている。スーツ姿の男。黒髪を短く刈り込み、眼鏡をかけている。 見覚えのある顔だった。 駅前のカフェで、奏と親しげに話していた男。奏の元恋人、藤井だ。 涼介の胸の奥で、何かが冷たく軋んだ。胃の辺りがきゅっと締め付けられる。手のひらが、じわりと汗ばんだ。 藤井は涼介に気づいていないようだった。スマートフォンを見ながら、誰かを待っている様子だ。額には汗が滲み、スーツの肩も湿っている。この暑さの中、どれくらい待っているのだろう。 奏を待っているのだ。
last updateDernière mise à jour : 2026-01-13
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3-6 執着と不安

 奏が涼介の唇を塞いだ。 いつもより激しいキスだった。舌と舌が絡み合い、息が混じり合う。涼介は奏の体を強く抱きしめた。離したくなかった。誰にも渡したくなかった。藤井の顔が、まだ頭の中にちらついている。奏と五年間一緒にいた男。涼介よりずっと長く、ずっと深く、奏を知っている男。 その男に、奏を渡してたまるか。 涼介は自分でも驚いていた。こんなにも激しい感情を抱くなんて、今まで経験したことがなかった。職場では常に冷静で、感情を表に出さないのが涼介のスタイルだった。けれど奏の前では、その仮面が剥がれ落ちていく。嫉妬という感情が、涼介の内側を焼き尽くすように燃えている。「涼介……」 キスの合間に、奏が囁いた。その声はいつもより低く、熱を帯びていた。「嫉妬してくれたんだね。藤井を見た時、すごく怖い顔してた」「当たり前です」 涼介は答えた。声が震えていた。「奏を取られるかと思いました。あいつに、奏を奪われるんじゃないかって」「取られないよ。僕は涼介のものだから」「でも、藤井さんは五年も奏と一緒にいた。俺より、ずっと長く……」「時間なんて関係ない」 奏が涼介の頬を両手で包んだ。「僕が愛してるのは涼介だけ。藤井のことは、とっくに終わってる」「本当ですか?」「本当。涼介だけ。涼介以外、誰もいらない」 奏の言葉に、涼介の中で何かが弾けた。 今まで抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。嫉妬。不安。そして、奏が自分のものだと確かめたいという原始的な欲求。 涼介は奏の肩を掴んで、じっと見つめた。「涼介……?」 奏が不思議そうに涼介を見上げた。「今夜は……俺から求めたいんです」 涼介の声は、自分でも驚くほど低かった。「奏が俺のものだって、この体で確かめたい」 奏の目が、一瞬見開か
last updateDernière mise à jour : 2026-01-14
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第四章 蜜月と亀裂

4-1 甘い日常 八月に入っても、東京の猛暑は衰える気配を見せなかった。 朝から気温は三十度を超え、昼間には三十五度に達することも珍しくない。アスファルトが熱を蓄え、街全体が蒸し風呂のようになっている。蝉の声が朝早くから響き渡り、夜になっても熱気は消えない。 けれど涼介にとって、この夏は今まで経験したどの夏よりも心地よかった。 奏と恋人になって、二か月が経っていた。 あれから二人の関係は、目に見えて変化した。毎日のように互いの部屋を行き来し、夕食を一緒に食べ、そのまま同じベッドで眠る。朝起きると奏の寝顔があり、目が覚めた奏が涼介の頬にキスをする。そんな日々が当たり前になりつつあった。「おはよう、涼介」 その日も、奏の甘い声で目が覚めた。 低く、柔らかく、まるで蜂蜜が耳の奥に流れ込んでくるような声。カーテンの隙間から差し込む朝日が、奏の焦げ茶の髪を金色に染めている。長い睫毛が朝日に照らされて、まるで絹糸のように輝いていた。 聴覚フェチの涼介にとって、奏の声で目覚めることは最高の贅沢だった。どんな高級ホテルのモーニングコールよりも、どんな心地よい音楽よりも、奏の声が涼介を優しく現実に引き戻してくれる。「おはようございます」 涼介は寝ぼけた声で答えた。まだ意識がぼんやりとしている。「敬語」 奏が眉をひそめた。口元はかすかに笑っているが、目は少しだけ拗ねている。その表情が可愛くて、涼介の胸がきゅっと締め付けられる。「あ……おはよう、奏」「うん、おはよう」 奏が微笑んで、涼介の唇に軽くキスをした。柔らかな唇の感触が、涼介の意識を優しく目覚めさせる。 恋人になってから、奏は涼介に敬語をやめるよう何度も言った。最初は照れくさくて抵抗があったが、今では自然に「奏」と呼べるようになっている。ただ寝起きだけは、まだ癖が抜けない。六年間の社会人
last updateDernière mise à jour : 2026-01-15
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4-2 仕事のすれ違い

 幸せな日々は、長くは続かなかった。 八月の半ば、涼介の仕事が急激に忙しくなった。 海外事業部が担当するシンガポールのプロジェクトが、大詰めを迎えていた。現地企業との合弁事業で、数十億円規模の案件だ。エネルギー関連の機械設備を現地で製造・販売する計画で、両国政府も注目している。 涼介はそのプロジェクトの主要メンバーとして、毎日深夜まで働くことを余儀なくされていた。「黒川、この資料、明日の朝までに仕上げてくれ」 上司の村田部長が、涼介のデスクに分厚い書類を置いた。時計を見ると、すでに午後十時を回っている。オフィスには涼介と村田、それから数人の同僚しか残っていなかった。蛍光灯の白い光が、疲労で重い涼介の目に突き刺さる。「明日の朝……ですか」「ああ。シンガポール側から追加の要求が来てな。現地の法規制に関する詳細な分析が必要だ。お前なら大丈夫だろう」 村田は当然のように言って、自分のデスクに戻っていった。 涼介は書類に目を通しながら、心の中でため息をついた。「お前なら大丈夫」。その言葉は信頼の表れではない。涼介が断らないことを知っていて、便利に使っているだけだ。 もう何年も、こうだった。涼介は仕事ができる。英語も堪能で、海外との交渉も得意だ。シンガポール側の担当者とも良好な関係を築いている。けれど、自己主張が苦手で、上に媚びるのも下手だ。だから、いつも「便利な人材」として扱われる。難しい仕事は涼介に回され、成果を出しても正当に評価されない。 分かっていた。分かっていて、何も変えられなかった。 これが自分の生き方だと、半ば諦めていた。 涼介はパソコンに向かい、作業を始めた。頭の片隅で、奏のことを考えていた。今日も会えない。昨日も会えなかった。一昨日も、その前も。 ここ一週間、涼介は奏にほとんど会えていなかった。 帰宅するのは毎日深夜二時過ぎ。奏の配信が終わった後だ。疲れ切った体をベッドに投げ出し、すぐに眠りに落ちる。朝は六時に起きて、シャワーを浴びて、また会社へ。奏の顔を見る暇もなかった。 
last updateDernière mise à jour : 2026-01-16
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