Masuk「君の声で、何度もイッてしまった」──そんな秘密、言えるわけがない。 深夜、壁越しに聞こえる甘い囁き。ASMR配信者の声に溺れる夜を重ねていた涼介は、ある日、声の主と出会ってしまう。 白石奏。中性的な美貌と、耳を蕩かす声の持ち主。 だが奏は、すべてを知っていた。壁の向こうで乱れる涼介の息遣いも、自分の声に堕ちていることも。 「僕の声、好き? ……君だけに届けてたんだよ」 穏やかな笑顔に隠された独占欲。逃がすつもりなんて、最初からない。 声で繋がり、声で溺れる。壁一枚から始まる、執着溺愛ラブ。
Lihat lebih banyak挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。