ログイン「君の声で、何度もイッてしまった」──そんな秘密、言えるわけがない。 深夜、壁越しに聞こえる甘い囁き。ASMR配信者の声に溺れる夜を重ねていた涼介は、ある日、声の主と出会ってしまう。 白石奏。中性的な美貌と、耳を蕩かす声の持ち主。 だが奏は、すべてを知っていた。壁の向こうで乱れる涼介の息遣いも、自分の声に堕ちていることも。 「僕の声、好き? ……君だけに届けてたんだよ」 穏やかな笑顔に隠された独占欲。逃がすつもりなんて、最初からない。 声で繋がり、声で溺れる。壁一枚から始まる、執着溺愛ラブ。
もっと見る深夜零時を過ぎていた。
誰のために。何のために。
そんな問いが浮かぶたびに、涼介は意識的にそれを押し殺してきた。考えても仕方がない。自分で選んだ道だ。総合商社の海外事業部。入社六年目。周囲からはエリートコースだと言われる。だが、涼介自身はその言葉を素直に受け取れたことがなかった。
エレベーターのボタンを押す。四階。築十五年の中規模マンション。新入社員時代に借りて以来、六年間ずっとここに住んでいる。
都心から電車で四十分。同僚たちの多くは会社近くの高級マンションを選ぶ。だが、涼介にはこの距離が必要だった。仕事とプライベートを切り離すため、そして誰にも詮索されないためだ。
自分の私生活を、誰にも覗かれたくない。
自分が何者であるかを、誰にも知られたくない。
エレベーターが四階に着く。長い廊下を歩きながら、涼介は無意識に隣の部屋――四〇三号室のドアに目をやった。
一か月ほど前、あの部屋に誰かが越してきた。引っ越し業者のトラックを見かけたし、何度か廊下で物音を聞いた。だが、顔を合わせたことは一度もない。それでいいと、涼介は思っていた。隣人と親しくなる必要などない。
四〇二号室の扉を開ける。真っ暗な部屋。電気をつける気力もなく、涼介は靴を脱いだ。
1LDKの部屋。一人暮らしには十分な広さだが、最低限の家具しかない。ここは寝に帰るだけの場所だ。六年間住んでいるのに、愛着らしい愛着もない。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。鏡の前に立つと、疲れ切った自分の顔が映っていた。
整った顔立ちだと言われる。長身で、黒髪短髪で、精悍な印象だ。だが、涼介自身はその評価に違和感を覚えていた。外見が整っていることと、人生がうまくいくことは、まったく別の話だ。
今日のプレゼン資料も、そうだった。
シンガポールの新規プロジェクトに関するプレゼン資料を、涼介は一週間かけて作り上げた。市場分析、競合調査、収益予測を盛り込んだ資料だ。徹夜もした。休日も返上した。なのに、発表したのは同期の山下だった。
『黒川が作った資料だけど、発表は山下に任せよう。黒川、お前は裏方が向いてる』
上司の言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。
悔しいと思う自分がいる。だが、その悔しさを表に出すこともできない。言い返すこともできない。自己主張が苦手なのだ。昔からそうだった。
わかっている。わかっているのに、変えられない。
涼介はワイシャツのボタンを外し、浴室に向かった。シャワーを浴びる。熱い湯が疲れた体を叩く。
湯気の中で、涼介は目を閉じた。
仕事の虚しさ。評価されない苛立ち。それだけでも十分に疲れるのに、涼介には、もうひとつ常に心の奥に重しのように沈んでいるものがあった。
--俺は、ゲイだ。
その事実を、涼介は誰にも明かしていない。
気づいたのは高校生の頃だった。女子には何も感じないのに、男子の声や仕草に、心臓が跳ねる。大学に入り、何人かの男性と関係を持って、確信に変わった。自分は男が好きだ。女性には性的な興味を持てない。
今は「これが自分だ」と認めている。だが、認めることと、公にすることは別だ。偏見の目で見られるかもしれない。出世に響くかもしれない。そんな恐怖が、涼介を縛っていた。
だから、隠している。
常に「演じている」感覚がある。本当の自分を隠し、社会が求める「普通の男」を演じ続けている。その疲労は、仕事の疲れとはまた別の種類の疲れだった。
シャワーを止め、バスタオルで髪を拭く。下着だけを身につけ、涼介はベッドに倒れ込んだ。
明日も朝から会議がある。眠らなければ。そう思いながら目を閉じる。疲れているのに、神経が高ぶって眠れない。嫌なことばかりがぐるぐると頭の中を巡る。
*
その時だった。
声が、聞こえた。
涼介は、思わず目を開けた。
空耳だろうか。このマンションの壁はコンクリート製で、隣の生活音などほとんど聞こえない。六年間住んでいて、隣人の声を聞いたことは一度もなかった。
だが、今――確かに何かが聞こえた。
涼介は息を殺した。
静寂の中で、耳を澄ませる。深夜の静けさ。エアコンの低い唸り。遠くを走る車の音。それ以外に――。
『今夜も来てくれたんだね……ありがとう』
聞こえた。
壁の向こうから届くそれは、囁きだった。低く、甘い、男の声。普通の人なら気づかないほどかすかな音。だが、涼介の耳は、その声をはっきりと捉えていた。
心臓が、跳ねた。
涼介には、人より聴覚が鋭敏だという自覚があった。子供の頃からそうだった。他の人には聞こえない音が聞こえ、かすかな物音まで拾ってしまう。便利なこともある。だが、大抵は煩わしかった。
そして、声に、異常なほど反応してしまう体質だった。
声フェチ。そう自覚したのは、大学生の頃だ。好みの声を聞くと、体が熱くなる。思考が鈍る。理性が溶ける。それは性的な興奮と直結していて、涼介はずっとその体質を持て余してきた。
低くて落ち着いた声に弱い。囁くような声に弱い。息を含んだ声にも弱い。コントロールできない。自分でも気持ち悪いと思う。だが、どうしようもなかった。
今、壁の向こうから届く声は――まさに、涼介の「好み」のど真ん中だった。
『疲れてるでしょう……大丈夫、僕がそばにいるから』
囁きが、鼓膜を撫でる。
低すぎず、高すぎない。中低音の柔らかな声だ。息を含んでいて、まるで耳元で直接話しかけられているかのような錯覚を覚える。温かくて、優しくて、包み込むような声だ。
涼介は無意識に、壁に近づいていた。ベッドから体を起こし、壁に手をつく。冷たいコンクリートの感触。その向こうに、声の主がいる。
ASMR。その言葉が、涼介の頭をよぎった。数年前から流行っている囁き声の配信で、何度か聴いたことがある。だが、どの配信者の声も、涼介にとっては「惜しい」ものばかりだった。
だが、今聞こえている声は、違う。
『頑張ったね、今日も。えらいよ』
頑張った。
涼介の目から、不意に涙がこぼれた。
自分でも驚いた。何を泣いているんだ。知らない人の声を聞いているだけなのに。配信か何かの、不特定多数に向けた言葉なのに。
だが、その「頑張ったね」という言葉が、涼介の心に深く刺さった。誰にも言われたことがなかった。頑張っていると認めてもらったことがなかった。「黒川は優秀だから当然」。そういう評価ばかりで、努力を労ってもらったことがない。
だから、たとえ自分に向けられた言葉でなくても、こんなにも心が揺さぶられる。
『ゆっくり休んで……僕の声、聞こえてる?』
聞こえている、と心の中で答える。
涼介は壁に額を押し当てた。冷たいコンクリートの感触が、熱くなった肌に心地いい。
聞こえすぎている。
この声が、体の奥に染み込んでいく。神経の隅々まで浸透していく。頭の中がぼんやりとして、嫌なことが遠ざかっていく。この声だけを聴いていたい。この声に包まれていたい。
そう思った瞬間、涼介は自分の体が反応していることに気づいた。
下腹部に熱が集まっている。下着の中で、すでに半分ほど硬くなっている。
――馬鹿か、俺は。
涼介は自分を罵った。隣人の声で興奮するなど、どうかしている。壁越しに盗み聞きしているようなものだ。気持ち悪いし、変態だ。
そう自分を責めながら、涼介は壁から離れられなかった。
『今日も一日、お疲れ様。嫌なことあった? あったよね、きっと。でも大丈夫。僕が癒してあげる』
まるで、自分のことを言われているようだった。
『力を抜いて……そう、いい子だね』
いい子。
そう言われた瞬間、涼介の体がびくっと震えた。
誰かに褒められたかった。認められたかった。「いい子」だと言ってほしかった。子供じみた願望だと、自分でもわかっている。二十八歳の大人が、「いい子」と言われて喜ぶなんて、滑稽だ。
だが、涼介の体は正直だった。
下腹部の熱が、さらに増していく。下着の中で、もう完全に硬くなっている。
『おやすみ……また明日ね』
声が、途切れた。
静寂が戻る。涼介は荒い息をつきながら、壁にもたれかかった。体中が熱い。汗が滲んでいる。心臓がバクバクと音を立てている。
終わった。声が止んだ。
ほっとした。
同時に――ひどく、寂しくなった。
もっと聴いていたかった。あの声を、もっと。
涼介は自分の欲望に愕然とした。隣人の声を盗み聞きして、興奮して、もっと聴きたいと願うなんて。変態にもほどがある。
*
だが、体の熱は鎮まらなかった。
下腹部の硬さは、まだ収まっていない。むしろ、声が止んでからの方が、欲望が強くなっている。あの声を脳内で再生しながら、体が勝手に反応している。
涼介は、逡巡した。
やめておくべきだ。こんなことをしたら、もう後戻りできない。隣人の声で自慰をするなんて、自分でも倫理的に問題があると思う。
だが――。
『頑張ったね、今日も。えらいよ』
あの声が、頭から離れなかった。
涼介は、ゆっくりと手を下ろした。
下着の中に手を入れる。自分自身を握った瞬間、低い呻きが漏れた。熱い。硬い。先端からは、すでに透明な液が滲んでいた。
あの声を思い浮かべる。低く甘い囁きだ。耳の奥をくすぐるような響きだ。
『大丈夫、僕がそばにいるから』
手が動く。ゆっくりと上下に。
『いい子だね』
その言葉を脳内で再生した瞬間、涼介の体がびくんと跳ねた。
あっけなかった。あまりにもあっけなく、涼介は果てた。
声を殺して、痙攣するように達する。手の中に、熱いものが溢れる。何度も、何度も、脈打つように吐き出される。
荒い息をつきながら、涼介は天井を見上げた。
快感の余韻が、体の隅々まで広がっている。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
気持ちよかった。今まで自慰をした中で、一番気持ちよかった。
その瞬間、罪悪感が津波のように押し寄せてきた。
何をやっているんだ、俺は。
二十八歳にもなって。隣人の声で自慰をするなんて。顔も知らない人の声で、こんなに興奮して、あっという間に果てるなんて。
気持ち悪い。最低だ。変態だ。
涼介は汚れた手を見つめながら、自己嫌悪に沈んでいった。
ティッシュで手を拭い、汚れた下着を脱ぐ。新しい下着に履き替え、涼介はベッドに横たわった。
これからは気をつけよう。イヤホンをして音楽を聴きながら眠ろう。そうすれば、壁の向こうの声など聞こえない。
そう自分に言い聞かせながら、涼介は知っていた。
――また、聴きたくなる。
あの声を。あの甘い囁きを。壁の向こうから届く、禁断の音を。
イヤホンをしても、きっと外してしまう。あの声が聴きたくて、夜が待ち遠しくなる。そして壁に耳を押し当てて、あの声を貪る。
そういう自分の姿が、ありありと想像できた。
怖い。
でも、止められない。
あの声には、涼介の何かを狂わせる力があった。理性も自制も常識も、すべてを溶かしてしまう力が。
眠りに落ちる直前、涼介の脳裏にあの声が蘇った。
『僕の声、聞こえてる?』
聞こえている。
聞こえすぎている。
だから――もう、逃げられない。
深夜一時を過ぎていた。涼介は夢の中でも、あの声を追いかけていた。低く、甘い、囁くような声。顔も名前も知らない、壁の向こうの隣人の声。
この声が自分の人生を変えてしまうなど――涼介はまだ、想像すらしていなかった。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。