壁越しの溺愛ボイス

壁越しの溺愛ボイス

last update最終更新日 : 2026-01-29
作家:  海野雫完了
言語: Japanese
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概要

現代

ハッピーエンド

溺愛

独占欲

BL

「君の声で、何度もイッてしまった」──そんな秘密、言えるわけがない。 深夜、壁越しに聞こえる甘い囁き。ASMR配信者の声に溺れる夜を重ねていた涼介は、ある日、声の主と出会ってしまう。 白石奏。中性的な美貌と、耳を蕩かす声の持ち主。 だが奏は、すべてを知っていた。壁の向こうで乱れる涼介の息遣いも、自分の声に堕ちていることも。 「僕の声、好き? ……君だけに届けてたんだよ」 穏やかな笑顔に隠された独占欲。逃がすつもりなんて、最初からない。 声で繋がり、声で溺れる。壁一枚から始まる、執着溺愛ラブ。

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第1話

プロローグ 壁の向こうの声

 深夜零時を過ぎていた。

 黒川涼介くろさきりょうすけは、マンションのエントランスで鍵を取り出しながら、重い息を吐いた。肩が鉛のように重い。目の奥がじんじんと痛む。今日も終電ギリギリだった。

 誰のために。何のために。

 そんな問いが浮かぶたびに、涼介は意識的にそれを押し殺してきた。考えても仕方がない。自分で選んだ道だ。総合商社の海外事業部。入社六年目。周囲からはエリートコースだと言われる。だが、涼介自身はその言葉を素直に受け取れたことがなかった。

 エレベーターのボタンを押す。四階。築十五年の中規模マンション。新入社員時代に借りて以来、六年間ずっとここに住んでいる。

 都心から電車で四十分。同僚たちの多くは会社近くの高級マンションを選ぶ。だが、涼介にはこの距離が必要だった。仕事とプライベートを切り離すため、そして誰にも詮索されないためだ。

 自分の私生活を、誰にも覗かれたくない。

 自分が何者であるかを、誰にも知られたくない。

 エレベーターが四階に着く。長い廊下を歩きながら、涼介は無意識に隣の部屋――四〇三号室のドアに目をやった。

 一か月ほど前、あの部屋に誰かが越してきた。引っ越し業者のトラックを見かけたし、何度か廊下で物音を聞いた。だが、顔を合わせたことは一度もない。それでいいと、涼介は思っていた。隣人と親しくなる必要などない。

 四〇二号室の扉を開ける。真っ暗な部屋。電気をつける気力もなく、涼介は靴を脱いだ。

 1LDKの部屋。一人暮らしには十分な広さだが、最低限の家具しかない。ここは寝に帰るだけの場所だ。六年間住んでいるのに、愛着らしい愛着もない。

 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。鏡の前に立つと、疲れ切った自分の顔が映っていた。

 整った顔立ちだと言われる。長身で、黒髪短髪で、精悍な印象だ。だが、涼介自身はその評価に違和感を覚えていた。外見が整っていることと、人生がうまくいくことは、まったく別の話だ。

 今日のプレゼン資料も、そうだった。

 シンガポールの新規プロジェクトに関するプレゼン資料を、涼介は一週間かけて作り上げた。市場分析、競合調査、収益予測を盛り込んだ資料だ。徹夜もした。休日も返上した。なのに、発表したのは同期の山下だった。

『黒川が作った資料だけど、発表は山下に任せよう。黒川、お前は裏方が向いてる』

 上司の言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。

 悔しいと思う自分がいる。だが、その悔しさを表に出すこともできない。言い返すこともできない。自己主張が苦手なのだ。昔からそうだった。

 わかっている。わかっているのに、変えられない。

 涼介はワイシャツのボタンを外し、浴室に向かった。シャワーを浴びる。熱い湯が疲れた体を叩く。

 湯気の中で、涼介は目を閉じた。

 仕事の虚しさ。評価されない苛立ち。それだけでも十分に疲れるのに、涼介には、もうひとつ常に心の奥に重しのように沈んでいるものがあった。

 --俺は、ゲイだ。

 その事実を、涼介は誰にも明かしていない。

 気づいたのは高校生の頃だった。女子には何も感じないのに、男子の声や仕草に、心臓が跳ねる。大学に入り、何人かの男性と関係を持って、確信に変わった。自分は男が好きだ。女性には性的な興味を持てない。

 今は「これが自分だ」と認めている。だが、認めることと、公にすることは別だ。偏見の目で見られるかもしれない。出世に響くかもしれない。そんな恐怖が、涼介を縛っていた。

 だから、隠している。

 常に「演じている」感覚がある。本当の自分を隠し、社会が求める「普通の男」を演じ続けている。その疲労は、仕事の疲れとはまた別の種類の疲れだった。

 シャワーを止め、バスタオルで髪を拭く。下着だけを身につけ、涼介はベッドに倒れ込んだ。

 明日も朝から会議がある。眠らなければ。そう思いながら目を閉じる。疲れているのに、神経が高ぶって眠れない。嫌なことばかりがぐるぐると頭の中を巡る。

 その時だった。

 声が、聞こえた。

 涼介は、思わず目を開けた。

 空耳だろうか。このマンションの壁はコンクリート製で、隣の生活音などほとんど聞こえない。六年間住んでいて、隣人の声を聞いたことは一度もなかった。

 だが、今――確かに何かが聞こえた。

 涼介は息を殺した。

 静寂の中で、耳を澄ませる。深夜の静けさ。エアコンの低い唸り。遠くを走る車の音。それ以外に――。

『今夜も来てくれたんだね……ありがとう』

 聞こえた。

 壁の向こうから届くそれは、囁きだった。低く、甘い、男の声。普通の人なら気づかないほどかすかな音。だが、涼介の耳は、その声をはっきりと捉えていた。

 心臓が、跳ねた。

 涼介には、人より聴覚が鋭敏だという自覚があった。子供の頃からそうだった。他の人には聞こえない音が聞こえ、かすかな物音まで拾ってしまう。便利なこともある。だが、大抵は煩わしかった。

 そして、声に、異常なほど反応してしまう体質だった。

 声フェチ。そう自覚したのは、大学生の頃だ。好みの声を聞くと、体が熱くなる。思考が鈍る。理性が溶ける。それは性的な興奮と直結していて、涼介はずっとその体質を持て余してきた。

 低くて落ち着いた声に弱い。囁くような声に弱い。息を含んだ声にも弱い。コントロールできない。自分でも気持ち悪いと思う。だが、どうしようもなかった。

 今、壁の向こうから届く声は――まさに、涼介の「好み」のど真ん中だった。

『疲れてるでしょう……大丈夫、僕がそばにいるから』

 囁きが、鼓膜を撫でる。

 低すぎず、高すぎない。中低音の柔らかな声だ。息を含んでいて、まるで耳元で直接話しかけられているかのような錯覚を覚える。温かくて、優しくて、包み込むような声だ。

 涼介は無意識に、壁に近づいていた。ベッドから体を起こし、壁に手をつく。冷たいコンクリートの感触。その向こうに、声の主がいる。

 ASMR。その言葉が、涼介の頭をよぎった。数年前から流行っている囁き声の配信で、何度か聴いたことがある。だが、どの配信者の声も、涼介にとっては「惜しい」ものばかりだった。

 だが、今聞こえている声は、違う。

『頑張ったね、今日も。えらいよ』

 頑張った。

 涼介の目から、不意に涙がこぼれた。

 自分でも驚いた。何を泣いているんだ。知らない人の声を聞いているだけなのに。配信か何かの、不特定多数に向けた言葉なのに。

 だが、その「頑張ったね」という言葉が、涼介の心に深く刺さった。誰にも言われたことがなかった。頑張っていると認めてもらったことがなかった。「黒川は優秀だから当然」。そういう評価ばかりで、努力を労ってもらったことがない。

 だから、たとえ自分に向けられた言葉でなくても、こんなにも心が揺さぶられる。

『ゆっくり休んで……僕の声、聞こえてる?』

 聞こえている、と心の中で答える。

 涼介は壁に額を押し当てた。冷たいコンクリートの感触が、熱くなった肌に心地いい。

 聞こえすぎている。

 この声が、体の奥に染み込んでいく。神経の隅々まで浸透していく。頭の中がぼんやりとして、嫌なことが遠ざかっていく。この声だけを聴いていたい。この声に包まれていたい。

 そう思った瞬間、涼介は自分の体が反応していることに気づいた。

 下腹部に熱が集まっている。下着の中で、すでに半分ほど硬くなっている。

 ――馬鹿か、俺は。

 涼介は自分を罵った。隣人の声で興奮するなど、どうかしている。壁越しに盗み聞きしているようなものだ。気持ち悪いし、変態だ。

 そう自分を責めながら、涼介は壁から離れられなかった。

『今日も一日、お疲れ様。嫌なことあった? あったよね、きっと。でも大丈夫。僕が癒してあげる』

 まるで、自分のことを言われているようだった。

『力を抜いて……そう、いい子だね』

 いい子。

 そう言われた瞬間、涼介の体がびくっと震えた。

 誰かに褒められたかった。認められたかった。「いい子」だと言ってほしかった。子供じみた願望だと、自分でもわかっている。二十八歳の大人が、「いい子」と言われて喜ぶなんて、滑稽だ。

 だが、涼介の体は正直だった。

 下腹部の熱が、さらに増していく。下着の中で、もう完全に硬くなっている。

『おやすみ……また明日ね』

 声が、途切れた。

 静寂が戻る。涼介は荒い息をつきながら、壁にもたれかかった。体中が熱い。汗が滲んでいる。心臓がバクバクと音を立てている。

 終わった。声が止んだ。

 ほっとした。

 同時に――ひどく、寂しくなった。

 もっと聴いていたかった。あの声を、もっと。

 涼介は自分の欲望に愕然とした。隣人の声を盗み聞きして、興奮して、もっと聴きたいと願うなんて。変態にもほどがある。

 だが、体の熱は鎮まらなかった。

 下腹部の硬さは、まだ収まっていない。むしろ、声が止んでからの方が、欲望が強くなっている。あの声を脳内で再生しながら、体が勝手に反応している。

 涼介は、逡巡した。

 やめておくべきだ。こんなことをしたら、もう後戻りできない。隣人の声で自慰をするなんて、自分でも倫理的に問題があると思う。

 だが――。

『頑張ったね、今日も。えらいよ』

 あの声が、頭から離れなかった。

 涼介は、ゆっくりと手を下ろした。

 下着の中に手を入れる。自分自身を握った瞬間、低い呻きが漏れた。熱い。硬い。先端からは、すでに透明な液が滲んでいた。

 あの声を思い浮かべる。低く甘い囁きだ。耳の奥をくすぐるような響きだ。

『大丈夫、僕がそばにいるから』

 手が動く。ゆっくりと上下に。

『いい子だね』

 その言葉を脳内で再生した瞬間、涼介の体がびくんと跳ねた。

 あっけなかった。あまりにもあっけなく、涼介は果てた。

 声を殺して、痙攣するように達する。手の中に、熱いものが溢れる。何度も、何度も、脈打つように吐き出される。

 荒い息をつきながら、涼介は天井を見上げた。

 快感の余韻が、体の隅々まで広がっている。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。

 気持ちよかった。今まで自慰をした中で、一番気持ちよかった。

 その瞬間、罪悪感が津波のように押し寄せてきた。

 何をやっているんだ、俺は。

 二十八歳にもなって。隣人の声で自慰をするなんて。顔も知らない人の声で、こんなに興奮して、あっという間に果てるなんて。

 気持ち悪い。最低だ。変態だ。

 涼介は汚れた手を見つめながら、自己嫌悪に沈んでいった。

 ティッシュで手を拭い、汚れた下着を脱ぐ。新しい下着に履き替え、涼介はベッドに横たわった。

 これからは気をつけよう。イヤホンをして音楽を聴きながら眠ろう。そうすれば、壁の向こうの声など聞こえない。

 そう自分に言い聞かせながら、涼介は知っていた。

 ――また、聴きたくなる。

 あの声を。あの甘い囁きを。壁の向こうから届く、禁断の音を。

 イヤホンをしても、きっと外してしまう。あの声が聴きたくて、夜が待ち遠しくなる。そして壁に耳を押し当てて、あの声を貪る。

 そういう自分の姿が、ありありと想像できた。

 怖い。

 でも、止められない。

 あの声には、涼介の何かを狂わせる力があった。理性も自制も常識も、すべてを溶かしてしまう力が。

 眠りに落ちる直前、涼介の脳裏にあの声が蘇った。

『僕の声、聞こえてる?』

 聞こえている。

 聞こえすぎている。

 だから――もう、逃げられない。

 深夜一時を過ぎていた。涼介は夢の中でも、あの声を追いかけていた。低く、甘い、囁くような声。顔も名前も知らない、壁の向こうの隣人の声。

 この声が自分の人生を変えてしまうなど――涼介はまだ、想像すらしていなかった。

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プロローグ 壁の向こうの声
 深夜零時を過ぎていた。 黒川涼介は、マンションのエントランスで鍵を取り出しながら、重い息を吐いた。肩が鉛のように重い。目の奥がじんじんと痛む。今日も終電ギリギリだった。 誰のために。何のために。 そんな問いが浮かぶたびに、涼介は意識的にそれを押し殺してきた。考えても仕方がない。自分で選んだ道だ。総合商社の海外事業部。入社六年目。周囲からはエリートコースだと言われる。だが、涼介自身はその言葉を素直に受け取れたことがなかった。 エレベーターのボタンを押す。四階。築十五年の中規模マンション。新入社員時代に借りて以来、六年間ずっとここに住んでいる。 都心から電車で四十分。同僚たちの多くは会社近くの高級マンションを選ぶ。だが、涼介にはこの距離が必要だった。仕事とプライベートを切り離すため、そして誰にも詮索されないためだ。 自分の私生活を、誰にも覗かれたくない。 自分が何者であるかを、誰にも知られたくない。 エレベーターが四階に着く。長い廊下を歩きながら、涼介は無意識に隣の部屋――四〇三号室のドアに目をやった。 一か月ほど前、あの部屋に誰かが越してきた。引っ越し業者のトラックを見かけたし、何度か廊下で物音を聞いた。だが、顔を合わせたことは一度もない。それでいいと、涼介は思っていた。隣人と親しくなる必要などない。 四〇二号室の扉を開ける。真っ暗な部屋。電気をつける気力もなく、涼介は靴を脱いだ。 1LDKの部屋。一人暮らしには十分な広さだが、最低限の家具しかない。ここは寝に帰るだけの場所だ。六年間住んでいるのに、愛着らしい愛着もない。 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。鏡の前に立つと、疲れ切った自分の顔が映っていた。 整った顔立ちだと言われる。長身で、黒髪短髪で、精悍な印象だ。だが、涼介自身はその評価に違和感を覚えていた。外見が整っていることと、人生がうまくいくことは、まったく別の話だ。 今日のプレゼン資料も、そうだった。 シンガポールの新規プロジェクトに関するプレゼン資料を、涼介は一週間かけて作り上げた。市場
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第一章 声に堕ちる
1-1 息が詰まる日常 月曜日の朝は、いつも憂鬱だった。 黒川涼介は、混雑する通勤電車の中で吊り革につかまりながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。郊外のマンションから都心のオフィスまでは片道四十分で、その通勤時間だけが、涼介にとって唯一の「無」になれる時間だった。 車窓の向こうでは、住宅街が途切れ、高層ビルが増え始めている。灰色のコンクリートと、朝日を反射するガラスの壁。東京という街は、どこまでも無機質で、どこまでも他人に無関心だ。それが涼介には心地よかった。誰も涼介のことを見ていない。誰も涼介のことを気にしていない。大勢の中に紛れて、透明人間のように生きていられる。 イヤホンからは、ジャズのボーカル曲が流れている。低く、甘い女性の声。ビリー・ホリデイの古いレコードをデジタル化したものだ。涼介はこの曲を、もう何百回聴いたか分からないほどだ。歌詞の意味など、とうに忘れてしまった。ただ、この声の響きだけが、涼介の心を静めてくれる。 音楽を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられた。 声というものには、不思議な力がある。言葉の意味を超えて、直接心に染み込んでくる何か。涼介はその「何か」に、物心ついた頃から惹かれ続けてきた。母親の子守唄、ラジオから流れるDJの声、映画の中の俳優の台詞。涼介の記憶は、いつも「声」と結びついている。 電車が駅に着くたびに、人が乗り降りする。スーツ姿のサラリーマン、制服を着た学生、買い物袋を持った主婦。誰もが自分の世界に閉じこもり、他人に関心を持たない。スマートフォンの画面を見つめる人、目を閉じて眠る人、ぼんやりと宙を見つめる人。 それでいい、と涼介は思う。 誰にも注目されず、誰にも干渉されない。それが、涼介にとって最も心地よい状態だった。 都心のターミナル駅で電車を降り、オフィスビルに向かう。涼介が勤める総合商社は、駅から徒歩五分の高層ビルに入っている。朝の八時半、出勤ラッシュの人波に紛れながら、涼介は無表情で歩を進めた。 エントランスを抜け、エレベーターに乗り、十二階のフロアに降りる。自動ドアが開いた瞬間、オフィス特有の空気が涼介を包み込んだ。空調の音、コピー機の稼働音、そして無数の人の声。「おはようございます」 受付の女性に軽く会釈をして、自分のデスクに向かう。 海外事業部のフロアは、すでに活気に満
last update最終更新日 : 2026-01-01
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1-1-2
 昼休み、涼介は一人でビルの屋上に出た。 ここは涼介の秘密の場所だった。社員のほとんどは社員食堂やコンビニで昼食を済ませるので、屋上に来る人間はほとんどいない。風が強い日は特に誰も来ない。今日は曇り空で、冷たい風が吹いていた。 涼介はベンチに座り、イヤホンを耳に押し込んだ。音楽が流れ始める。低く、甘い、囁くような声。 この声を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられる。 オフィスで被っている仮面を外し、誰にも見せない本当の自分に戻れる。感情を持ち、傷つき、求めている自分。誰かに認められたいと願い、誰かに優しくされたいと渇望している自分。 涼介には、もう一つの秘密があった。 ゲイであること。 それは、この会社で生きていく上で、絶対に知られてはいけないことだった。 総合商社という男社会で、ゲイであることがバレたらどうなるか。涼介は、想像するだけで背筋が凍る思いだった。陰で何を言われるか分からない。出世に響くかもしれない。最悪の場合、居場所を失うかもしれない。 時代は変わりつつある、と人は言う。LGBTQへの理解が進み、多様性を認める社会になりつつある、と。だが、涼介が生きているのは「理想の社会」ではなく、「現実の職場」だ。飲み会での下ネタ、「彼女いないの?」という何気ない質問、「男なんだから」という無意識の偏見。それらが日常的に飛び交う環境で、カミングアウトする勇気など、涼介にはなかった。 だから涼介は、完璧に「普通の男」を演じてきた。 合コンに誘われれば営業スマイルで参加し、「いい人いないの?」と聞かれれば「仕事が忙しくて」と笑ってごまかす。女性と付き合ったことがないのは「奥手だから」で通してきた。飲み会では適度に相槌を打ち、下ネタには曖昧に笑い、誰とも深い関係を築かないようにしてきた。 誰も疑わない。涼介は完璧に「普通の男」を演じていた。 でも、それは演技だ。 本当の自分は、誰にも見せられない。「お、黒川。ここにいたのか」 声がして、涼介は顔を上げた。山下が屋上のドアから出てくるところだった。
last update最終更新日 : 2026-01-02
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1-2 声の虜囚
 また、だ。 あの夜から一週間が経っていた。毎晩のように、壁の向こうから声が聞こえてくる。一か月前に越してきた隣人の存在を意識し始めたのは、つい最近のことだった。 涼介は息を殺し、耳を澄ませた。「……今夜も、聴いてくれてありがとう」 低く、甘い、囁くような声。 息を含んだ、柔らかな響き。 涼介の全身に鳥肌が立った。普通の人なら絶対に聞き取れないほどの微かな音だ。このマンションはコンクリート造りで、通常の生活音はほとんど聞こえない。なのに、涼介の耳にはすべてが克明に届いてしまう。呼吸のリズム、唇が動く気配、声帯が震える振動までも。「疲れてる? 大丈夫……僕がそばにいるから」 心臓が跳ね上がる。 その声を聴くたびに、涼介の体は正直に反応した。背筋がぞわりと震え、指先が痺れ、下腹部に熱が溜まっていく。声のトーン、息遣い、言葉の間。すべてが涼介の神経を刺激する。 ――まずい。 自分でも分かっていた。これは、まともな状態じゃない。見知らぬ隣人の声に、こんなにも支配されるなんて。普通じゃない。異常だ。 でも、やめられなかった。「目を閉じて。深呼吸して。今日も一日、頑張ったね」 声が、耳の奥に染み込んでくる。まるで蜂蜜のように甘く、羽毛のように柔らかく。涼介の全身を包み込み、疲れ切った心を優しく撫でていく。 まるで自分に向けて語りかけられているような錯覚に陥る。涼介の呼吸が浅くなる。下腹部に熱が溜まっていくのを感じて、涼介は唇を噛んだ。シーツを握りしめる手に、力が入る。「おやすみ……また明日ね」 声が途切れた。 静寂が戻る。 涼介は呆然と天井を見つめていた。心臓がまだ激しく脈打っている。額に汗が滲み、シーツを握りしめた指が震えていた。 たった数十秒の声だった。それだけで、涼介の体は限界まで熱を持っていた。「……くそ」 
last update最終更新日 : 2026-01-02
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1-3 気づかれている
 ――白石奏は、配信を終えた後、静かに壁に手を当てた。 コンクリートの冷たさが、掌に伝わる。 この壁の向こうに、「あの人」がいる。 奏は目を閉じ、壁の向こうの気配を感じ取ろうとした。 かすかな息遣い。シーツが擦れる音。そして、押し殺した嗚咽。 ――泣いている。 奏は、その音を聞くたびに、胸が締め付けられる思いがした。 同時に、言いようのない高揚感も覚えていた。  自分の声が、誰かを泣かせている。自分の言葉が、誰かの心を動かしている。  奏が四〇三号室に引っ越してきたのは、一か月前のことだった。 声優の夢を諦め、ナレーターとして再出発を図った奏にとって、東京都内の家賃は高すぎた。仕事は不安定で、収入もままならない。そこで、少しでも家賃を抑えるために郊外のこのマンションを選んだのだ。 築十五年、駅から徒歩七分の1LDKの部屋。家賃八万円。 フリーランスのナレーターにとっては、それでも大きな負担だった。企業向けのナレーション案件は、月によって収入が大きく変動する。今月は三十万円稼げても、来月は五万円かもしれない。そのように不安定な生活の中で、八万円の家賃は決して安くはなかった。 引っ越してきた当初、奏は隣人の存在をほとんど意識していなかった。 四〇二号室の住人は、深夜に帰宅し、早朝に出勤する。生活時間が完全にずれていて、顔を合わせる機会はなかった。 足音から推測するに、男性だろう。背が高く、体重はそれほど重くない。歩き方は規則正しく、几帳面な性格が窺える。革靴の音がするから、おそらく会社員なのだろう。毎日深夜に帰ってくるということは、かなり忙しい仕事に就いているはずだ。 奏は、音から人を読み取ることに長けていた。 声優養成所で鍛えた耳は、かすかな音の変化も聞き分ける。足音、ドアの開閉音、シャワーの音。それらから、隣人の生活パターンを把握することは難しくなかった。 毎日深夜に帰宅し、シャワーを浴び、すぐに寝る。週末も変わらない生活
last update最終更新日 : 2026-01-03
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1-4 運命の誤配達
 土曜日の昼過ぎ。 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。 買い物に行かなければ。 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。 コンビニでいいか。 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。 インターホンが鳴ったのはその時だった。「宅配便でーす」 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。「黒川さんですか?」「はい」「お届け物です。サインお願いします」 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。「……白石奏様?」 宛名が違う。 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。 誤配達か。 涼介は溜息をついた。 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。 隣に届けるしかないだろう。 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。 インターホンを押す。 数秒の沈
last update最終更新日 : 2026-01-03
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第二章 境界線を越えて
2-1 偶然という名の必然 土曜の誤配達から三日が経った。 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。 水曜日の朝だった。 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。「おはようございます」 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。「あ……おはようございます」 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。「ゴミ出しですか?」「ええ、まあ」 当たり前の
last update最終更新日 : 2026-01-04
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2-2 雨の夜の傘
 梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、それだけだ。涼介は自分の感情を押し殺し、ただの「隣人」以上の関係になることを恐れていた。 誤配達の日、初めて奏と顔を合わせた瞬間、涼介は恋に落ちた。一目惚れだった。声だけを知っていた時からひかれていたが、あの中性的で繊細な美貌を見た瞬間、涼介の心は完全に奪われた。整った顔立ち、細い体、柔らかな物腰。そして何より、あの声。すべてが、涼介の理想そのものだった。 だが、その想いを口にすることはできなかった。 ゲイであることを隠して生きてきた涼介は、誰かに本気で恋をすることが怖かった。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。そう自分に言い聞かせてきた。これまでも何度か、男性にひかれたことはあった。けれど、その度に自分の感情を押し殺してきた。相手が同じ気持ちである保証はない。むしろ、嫌悪される可能性の方が高い。 それに、奏が自分をどう思っているのかも分からない。配信では「大切な人」と言っていたけれど、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、涼介には判断がつかなかった。奏はナレーターとして、配信者として、言葉を巧みに操る人だ。その言葉をそのまま受け取っていいのか、涼介には分からなかった。 もし告白して、拒絶されたら? 今のこの心地よい関係が、壊れてしまったら? その恐怖が、涼介の足を止めていた。    * その日は、木曜日だった。 朝から雨が降っていて、涼介は折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。しかし午後になって雨は止み、夕方には薄日さえ差していた。
last update最終更新日 : 2026-01-04
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2-3 甘い誘惑
 雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元で響く。至近距離で聞く奏の声は、配信で聴くよりもずっと生々しかった。息遣いまで聞こえる。その声に導かれるまま、涼介は包丁を動かした。 平日の夜は、仕事終わりに一緒にコンビニに寄ることが増えた。たまたま会うこともあれば、涼介が帰宅する時間に奏がエレベーターホールで待っていることもあった。「お帰り、黒川さん」 その言葉を聞くたびに、涼介の胸が温かくなる。待っていてくれる人がいる。それだけで、深夜の残業も耐えられる気がした。疲れ切った体が、奏の声を聴いた瞬間に少しだけ軽くなる。 映画も一緒に観た。奏の部屋で、奏が好きだという古い恋愛映画を。「この映画、何度観ても泣いちゃうんだ」 奏が目を潤ませながら言った。涼介は隣で、その横顔を見つめていた。画面の光に照らされた奏の顔は、とても美しかった。涙で濡れた睫毛が、光を反射している。その姿に、涼介は息を呑んだ。 恋人のようで、まだ恋人じゃない。 その曖昧な関係が、涼介には心地よくもあり、もどかしくもあった。    * その日の夜、涼介は壁に耳を当てて奏の配信を聴いていた。 いつもと同じ、深夜の囁き声。しかしこの夜、奏の言葉は明らかに涼介を意識していた。「今日は、雨の話をしようかな」 奏の声が、壁を通して涼介の耳に届く。その声は、いつもよりゆっくりと、丁寧に紡がれていた。「雨の日って……誰かと一つ
last update最終更新日 : 2026-01-05
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2-4 元恋人の影
 日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマートフォンを裏返しにしてテーブルの上に置いた。スマートフォンはしばらく振動し続けたが、やがて静かになった。しかし、奏の表情は、晴れないままだった。「大丈夫ですか?」 涼介は気になって尋ねた。奏の様子が、明らかにいつもと違ったからだ。「……うん、大丈夫。ちょっと面倒な人がいてね」 奏の答えは、曖昧だった。それ以上聞くなという空気が、奏の周りに漂っていた。涼介は「面倒な人」という言葉の意味を、考えずにはいられなかった。 涼介はそれ以上追及しなかった。けれど、胸の中にかすかな不安が芽生えた。    * 数日後、涼介は仕事帰りに駅前のカフェの前を通りかかった。 ガラス越しに店内が見える。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。 焦げ茶のセミロング。奏だ。 涼介は足を止めた。奏の向かいに、男が座っている。三十代前半くらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。眼鏡をかけていて、知的な印象を与える。 二人は親しげに話していた。男が何か言うと、奏が小さく笑う。その笑顔は、涼介に見せるものとは少し違う気がした。もっと気安くて親密な笑顔。昔からの知り合い同士が見せる、遠慮のない表情だった。 涼介の胸に、チクリと痛みが走った。 誰だ、あの男は。奏と、どういう関係なのだ。あの日、電話に出たくないと言っていた相手だろうか。 涼介は自分の感情に驚いた
last update最終更新日 : 2026-01-06
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