Masuk「君の声で、何度もイッてしまった」──そんな秘密、言えるわけがない。 深夜、壁越しに聞こえる甘い囁き。ASMR配信者の声に溺れる夜を重ねていた涼介は、ある日、声の主と出会ってしまう。 白石奏。中性的な美貌と、耳を蕩かす声の持ち主。 だが奏は、すべてを知っていた。壁の向こうで乱れる涼介の息遣いも、自分の声に堕ちていることも。 「僕の声、好き? ……君だけに届けてたんだよ」 穏やかな笑顔に隠された独占欲。逃がすつもりなんて、最初からない。 声で繋がり、声で溺れる。壁一枚から始まる、執着溺愛ラブ。
Lihat lebih banyak梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、それだけだ。涼介は自分の感情を押し殺し、ただの「隣人」以上の関係になることを恐れていた。 誤配達の日、初めて奏と顔を合わせた瞬間、涼介は恋に落ちた。一目惚れだった。声だけを知っていた時からひかれていたが、あの中性的で繊細な美貌を見た瞬間、涼介の心は完全に奪われた。整った顔立ち、細い体、柔らかな物腰。そして何より、あの声。すべてが、涼介の理想そのものだった。 だが、その想いを口にすることはできなかった。 ゲイであることを隠して生きてきた涼介は、誰かに本気で恋をすることが怖かった。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。そう自分に言い聞かせてきた。これまでも何度か、男性にひかれたことはあった。けれど、その度に自分の感情を押し殺してきた。相手が同じ気持ちである保証はない。むしろ、嫌悪される可能性の方が高い。 それに、奏が自分をどう思っているのかも分からない。配信では「大切な人」と言っていたけれど、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、涼介には判断がつかなかった。奏はナレーターとして、配信者として、言葉を巧みに操る人だ。その言葉をそのまま受け取っていいのか、涼介には分からなかった。 もし告白して、拒絶されたら? 今のこの心地よい関係が、壊れてしまったら? その恐怖が、涼介の足を止めていた。 * その日は、木曜日だった。 朝から雨が降っていて、涼介は折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。しかし午後になって雨は止み、夕方には薄日さえ差していた。
2-1 偶然という名の必然 土曜の誤配達から三日が経った。 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。 水曜日の朝だった。 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。「おはようございます」 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。「あ……おはようございます」 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。「ゴミ出しですか?」「ええ、まあ」 当たり前の
土曜日の昼過ぎ。 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。 買い物に行かなければ。 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。 コンビニでいいか。 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。 インターホンが鳴ったのはその時だった。「宅配便でーす」 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。「黒川さんですか?」「はい」「お届け物です。サインお願いします」 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。「……白石奏様?」 宛名が違う。 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。 誤配達か。 涼介は溜息をついた。 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。 隣に届けるしかないだろう。 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。 インターホンを押す。 数秒の沈
――白石奏は、配信を終えた後、静かに壁に手を当てた。 コンクリートの冷たさが、掌に伝わる。 この壁の向こうに、「あの人」がいる。 奏は目を閉じ、壁の向こうの気配を感じ取ろうとした。 かすかな息遣い。シーツが擦れる音。そして、押し殺した嗚咽。 ――泣いている。 奏は、その音を聞くたびに、胸が締め付けられる思いがした。 同時に、言いようのない高揚感も覚えていた。 自分の声が、誰かを泣かせている。自分の言葉が、誰かの心を動かしている。 奏が四〇三号室に引っ越してきたのは、一か月前のことだった。 声優の夢を諦め、ナレーターとして再出発を図った奏にとって、東京都内の家賃は高すぎた。仕事は不安定で、収入もままならない。そこで、少しでも家賃を抑えるために郊外のこのマンションを選んだのだ。 築十五年、駅から徒歩七分の1LDKの部屋。家賃八万円。 フリーランスのナレーターにとっては、それでも大きな負担だった。企業向けのナレーション案件は、月によって収入が大きく変動する。今月は三十万円稼げても、来月は五万円かもしれない。そのように不安定な生活の中で、八万円の家賃は決して安くはなかった。 引っ越してきた当初、奏は隣人の存在をほとんど意識していなかった。 四〇二号室の住人は、深夜に帰宅し、早朝に出勤する。生活時間が完全にずれていて、顔を合わせる機会はなかった。 足音から推測するに、男性だろう。背が高く、体重はそれほど重くない。歩き方は規則正しく、几帳面な性格が窺える。革靴の音がするから、おそらく会社員なのだろう。毎日深夜に帰ってくるということは、かなり忙しい仕事に就いているはずだ。 奏は、音から人を読み取ることに長けていた。 声優養成所で鍛えた耳は、かすかな音の変化も聞き分ける。足音、ドアの開閉音、シャワーの音。それらから、隣人の生活パターンを把握することは難しくなかった。 毎日深夜に帰宅し、シャワーを浴び、すぐに寝る。週末も変わらない生活