トタン壁が肩を寄せ合うように連なり、家々は一本の身体のように路地へ張り付いている。路地は人ひとりがぎりぎり通れる幅しかなく、すれ違うときには息遣いが触れ合う。足元には泥と生活排水が混じり、裸足の感触がこの街の朝を告げる。家の前では、手動の火起こし棒を擦る音が続き、やがて小さな炎が生まれる。煤で汚れた鍋が火にかかり、米と香辛料の匂いが路地に満ちる。女たちは桶に水を張り、衣服を石に叩きつけて洗う。布が水を打つ音が、子どもたちの笑い声と混じり合う。電気は不安定で、昼間の光が頼りだ。洗濯物が頭上に張られ、色あせた布が太陽を細かく裂く。貧しさは壁の薄さに滲んでいるが、人の手の温もりは、この狭い路地に確かに残っている。その少年には、名前がない。少なくとも、呼ばれる名前を持っていなかった。路地の端で腐りかけのパンをかじり、他人の家族の笑い声を横目に聞いているあいだも、誰一人として彼を呼ばない。叱る声も、急かす声も、愛称もない。名前は人と人を結ぶ糸だが、彼の世界では最初から結ばれていなかった。家族の輪の中では、名前が飛び交う。父の名、母の名、子どもを呼ぶ短い声。そのたびに、少年の胸の奥で何かが小さく崩れる。自分が存在している証が、音として一度も空気を震わせたことがないからだ。彼はパンを噛みしめながら、自分が「誰」なのかを考えない。考えても答えがないことを、もう知っている。ただ息をして、食べて、夜を迎える。それだけが許された役割だった。この街には、名前を持たない子どもがいる。そしてその事実は、空腹よりも静かで、深く残酷だった。
Last Updated : 2026-01-07 Read more