All Chapters of ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー: Chapter 11 - Chapter 20

105 Chapters

第11話  夜は、まだ答えをくれない

 夜の街は、思ったよりも賑やかだった。  平日のはずなのに、ネオンは眩しく、人の声は絶えない。「この辺、変わったよな」 大崎慎也が、グラスを傾けながら言った。「そう?昔は、もっと雑多だった?」「真琴、こういうの覚えてる?」 カウンター越しに差し出されたのは、ショットグラスだった。  テキーラ。  懐かしすぎて、思わず笑ってしまう。「まだ飲ませる気?」「真琴なら平気でしょ」 そう言われて、否定できない自分がいた。 広告代理店にいた頃。  仕事帰りに飲んで、笑って、夜を使い切るように生きていた。  楽しかった。  確かに、あの頃の自分は、輝いていたと思う。「今は、ああいう生活してないんだろ?」 大崎が、探るように聞く。「……してない」 正直に答える。「病院の仕事は、楽しい?」 一瞬、言葉に詰まる。 楽しいか。  やりがいはある。  誰かの役に立っている実感もある。 でも――「落ち着いてはいる」 それが、今の精一杯だった。「真琴らしくない答えだな」 そう言って、大崎は笑った。 グラスが空になり、二軒目に移る流れになる。  自然だった。  拒む理由も、なかった。 二人で歩く夜道。  距離が、少し近い。「真琴さ」 信号待ちで、大崎が足を止める。「俺、正直に言うとさ……また会えて嬉しかった」 街灯の下で、彼の表情が少しだけ真剣になる。「懐かしさだけじゃない」 胸の奥が、静かに波打つ。 こういう言葉に、昔は迷いなく身を委ねていた。  楽しいなら、それでいい。  未来なんて、その時考えればいい。 ――でも、今は違う。 バーの個室。  照明は落ち着いていて、音楽が低く流れている。 肩が触れ合う距離。  大崎の指が、真琴のグラスに触れる。「変わったって言ったけどさ」 囁くような声。「俺は、今の真琴も、嫌いじゃないかな」 そのまま、視線が絡む。 一瞬で、分かる。  これは、越えられる距離だ。 体温。  香水の匂い。  昔と同じ、でも少し違う空気。 真琴は、目を逸らさなかった。 唇が近づく。  ほんの少し、ためらい。 ――ここで、戻れる。 でも、戻らなくてもいい。 そんな二つの声が、同時に聞こえた。 唇が触れる寸前で、真琴はそっと手を上げた。「――ストップ」
Read more

12話

「でもさ……仕事の方は卒業してないんだろ?」「……してないね。むしろ留年してる」「は?」「今の仕事、行き詰まってんの」「え、病院の?」「病院もだけど……全部。仕事の内容に気持ちが追いつかないの。  気づいたら“誰の人生だっけ?”ってなる」「真琴らしくねぇなぁ」「そう。私らしくない」 大崎はグラスを持ち上げ、真琴をまっすぐ見る。「広告業界に戻りたいんじゃないのか?」 真琴の指が止まる。  喉がきゅっと締まるような感覚。 その質問が、真意を突いたようで、真琴は泣きそうになったが、ぐっとこらえた。「……それ聞く?」「聞くよ。逃げんな」「逃げてないって」「じゃあ答えろって」 真琴はグラスを握りしめる。「……分かんない」「分かんない、は逃げ」「違う。怖いの」「怖い?」真琴は大崎の顔を見た。怖いという弱音を吐いたことで、真琴の中の涙腺が決壊した。真琴は大粒の涙が、頬を流れるまま、拭うことも忘れ、大崎に胸の内を吐き出していた。「三浦さんにも引き留められたのに、振り切ってでてきちゃったし… しかも、今の若い子たち、みんなキラキラしてて……眩しすぎて直視できないし…」「お前も昔キラキラしてたよ」 そう言って大崎は少し黙る。  それから、ふっと笑った。「じゃあさ。俺から聞くけど」「うん」「輝けなかったら終わりなの?」「……終わりじゃないけど」「じゃあ戻れよ。終わりじゃないなら。怖いのはみんな同じだって。俺も怖いし」「大崎も?」「しょっちゅう。だから飲んでんだろ?」「それは逃げじゃないの?」「逃げだよ。でも逃げながらでも戻れる時は戻る。  戻る方がしんどいって分かってても、戻る方が“生きてる感じ”すんだよ」「……ずるいなぁ、その言い方」 真琴は泣き笑いで答える。「ずるくない。本音」 大崎の言った「本音」という言葉が、真琴の胸に刺さる。 しばらく無言で考えていた真琴は言った。「じゃあさ」「ん?」「戻りたいと思ってる自分を、否定しないでおく。  まだ決断はしないけど……そういう自分がいるってことだけ、認めとく」「先延ばし?」「大人の微調整」「やっぱ真琴だわ」「褒めてんの?」「本音」 鍵を返すように、グラスを軽くぶつけ合った。「また飲もうね」「ああ。次はキスなしで」「最初からな
Read more

第13話  かつての場所からの呼び声

 その電話が掛かってきたのは、夕方だった。 真琴は病院の更衣室で、バッグを肩に掛けながらスマートフォンを取り出す。  画面に表示された名前を見た瞬間、足が止まった。 三浦隼人。 一拍、呼吸が遅れる。 ――やっぱり。 胸の奥で、そう思った自分に、真琴は少し驚いた。  要件は、聞かなくても分かる気がした。 しかもその“分かっていた内容”は、喉から手が出るほど、  ずっと待っていたものだったのかもしれない。 それでも、すぐには出られなかった。 更衣室の隅で、スマートフォンを握りしめたまま、  数秒、立ち尽くす。 病院の廊下から聞こえてくる足音。  誰かの話し声。  いつもと同じ、変わらない日常。 ――ここじゃない。 その思いが、はっきりと浮かぶ。 意を決して、通話ボタンを押した。「……もしもし」『久しぶりだな、秋山』 低く、落ち着いた声。  聞き慣れた、前職の上司の声だった。「お久しぶりです」『元気か』「……はい」 短いやり取りのあと、  三浦は本題に入った。『大崎から聞いた』 その名前に、真琴の心臓が、少しだけ強く打つ。『アイツの近くに引っ越したんだってな』「……はい」『で、今は違う病院だとか』 否定はしなかった。『相変わらずだな。急に、全部捨てるところ』 責める口調ではない。  むしろ、苦笑混じりだった。 数秒の沈黙。 そして。『戻って来い』 その一言が、まっすぐに、真琴の胸に刺さった。 真琴は、すぐには返事ができなかった。 喉の奥が、ぎゅっと詰まる。  視界が、少しだけ滲む。 泣きそうになる。 ――ずるい。 そう思った。 こんなふうに、  あっさり言われてしまったら。『今の若い連中は、頭は柔らかいが、腰が軽すぎる』『お前は違う』『叩かれても、粘る』 その言葉ひとつひとつが、過去の自分を正確に呼び戻す。 終電まで続いた会議。  無茶な修正。  胃が痛くなるような現場。 それでも。 あの場所で、真琴は確かに輝いていた。「……今は、病院で――」『知ってる』 三浦は、遮るように言った。『親友のためだろ』 胸の奥が、また揺れる。 そうだ。  病院勤めは、本来、楓を助けるためだった。 ネットでの風評被害。  経営が軌道に乗るまでの、人手不足。 
Read more

第14話  戻ってきた女

 広告代理店のビルを見上げた瞬間、胸の奥が、わずかにざわついた。  懐かしいはずなのに、完全には馴染まない。 真琴は、深く息を吸い、エントランスへ足を踏み入れる。 受付を通り、エレベーターに乗る。  扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。 三浦から『戻って来い』と電話をもらってから、すでに半年近くが経っていた。 病院での業務の引継ぎや、新たに引っ越し。 退職手続きに、入社手続き。 会社を辞めたり、再就職したりするには、色々な手続きがあって、ここへ出社するまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。 ――戻ってきた。  そう思った途端、逃げ場がなくなった気がした。 フロアに足を踏み入れると、空気が違う。  キーボードの音。  電話の声。  若い社員たちの張りつめた表情。「……秋山さん?」 誰かが、小さく声を上げる。「前にいた人だよね?」 「え、本当に?」 ひそひそとした声が、波紋のように広がる。  好奇心と警戒が混じった視線が、真琴に集まる。「来たな」 奥から現れた三浦隼人は、相変わらず威圧感のある男だった。「紹介する。今日から戻る、秋山だ」 その一言で、空気が一瞬、止まる。 ――“戻る”。 歓迎でもなく、拒絶でもない。  ただ、事実として突きつけられた言葉。 若い社員たちは、軽く会釈をする。  中には、露骨に値踏みするような目を向ける者もいた。 午前中は、現状説明と資料の共有で終わった。  頭は回る。  内容も理解できる。 けれど、真琴の神経は、ずっと張りつめていた。「秋山さん、この数字、どう見ます?」 若い男性社員にそう聞かれ、一瞬だけ言葉に詰まる。 ――試されている。「……甘い。想定が楽観的すぎる」 少しだけ、言葉を選ばなかった。 周囲が静まり返る。  男性社員は、驚いたように目を瞬かせたあと、素直に頷いた。「……確かに」 三浦が、口元だけで笑う。 昼休み、真琴は一人で席に残った。  若い社員たちは連れ立ってランチに向かう。「秋山さんも行きます?」  そう声をかけられ、一瞬迷う。「今日は、いい。みんなで行ってきて」 理由はなかった。  ただ、今は一人でいたかった。 午後の会議では、容赦なく意見を求められた。「秋山、どう思う」 遠慮はない。  期待も、甘えもない
Read more

第15話  近づかない距離 

 返信を打とうとして、真琴の指は止まった。  光る画面の上に浮かぶ文字入力欄は、いつもより白く、どこか眩しすぎるように感じられた。胸の奥で、言葉にならない感情がゆっくりと渦を巻く。簡単な返事さえ、今の自分にはひどく難しい作業だった。『大変だったけど、なんとか』  そう書いて、消す。 消去キーを押すたび、まるで自分の弱さそのものを削り落としているような気がした。だが、弱音を吐きたいわけじゃない。心配を引き出すための言葉でもない。ただ事実を、少しだけ正直に伝えようとしただけなのに、どうしても形にならなかった。  それでも、平気なふりもしたくなかった。 強がりも、甘えも、どちらも今の自分には違う。ちょうどいい言葉が見つからないまま、真琴は画面を見つめ、喉の奥に引っかかった感情をそっと飲み込んだ。 結局、短く返す。『忙しかった』 送信ボタンを押した瞬間、指先にほんのわずかな震えが残った。やり取りを断ち切るつもりはない。ただ、これ以上自分を装うことも、本音を暴くこともできなかっただけだ。 すぐに、既読がついた。『そっか。じゃあ、軽く飲まない?』 その誘いに、胸が揺れる。  じわり、と熱が広がった。思っていたよりも強く。読み流せるはずの一行なのに、心が勝手に反応してしまう。グラスの触れ合う音、立ち飲みバーのネオン、あの夜の体温までが一瞬で蘇り、胸の奥で静かに軋んだ。  初日の仕事で削られた心が、温もりを欲しがっている。確かに欲しがっている。だが同時に、分かっていた。 ――今の自分は、逃げに行こうとしている。 仕事に戻ると決めたはずなのに、弱った自分を簡単に預けられる場所へ流れ込みそうになっている。誘いは優しいのに、その優しさが“退路”のように見えてしまう自分が、嫌だった。『今日はやめとく』 送信した瞬間、少しだけ後悔した。  「言いすぎた」後悔ではなく、「言い足りなかった」後悔でもなく、ただの反射。自分でもよく分からない種類の後悔。画面を伏せれば消えてくれるかと思ったが、消えてはくれなかった。『無理してない?』 大崎のメッセージは、優しかった。  その言葉は、手を差し出す距離のまま、踏み込まない温度で届いた。だが今は、その優しさが、今は重い。寄り添うための重さではなく、「これ以上は触れない」と告げる重さ。  そしてさらに、真琴は気
Read more

第16話  追ってこない男

 翌日も、その翌日も。  大崎からは、何の連絡も来なかった。 スマートフォンを手に取っては、画面を伏せる。  通知音が鳴るたびに一瞬だけ胸が跳ねるが、表示されるのは業務連絡や広告ばかりだった。 ――何を待ってるの? そう自分に問いかけてみても、真琴には答えが出なかった。  期待していたわけじゃない。  あの夜、弱音を吐いて泣いたのは、自分が疲れていただけだ。  それくらい、ちゃんと分かっている。 それに、今こうして元の職場に戻れたのは、大崎が三浦に自分のことを話してくれたおかげだ。  感謝はしている。  本当に。 ただ――。 あの夜のことを、大崎がどう受け取ったのかだけが、分からなかった。「重かったかな……」 小さく呟いて、真琴は首を振る。  考える必要はない。  今は色恋沙汰に心を割いている場合じゃない。 戻ってきた職場で、結果を出す。  それが一番大切だ。 頭では分かっているのに、  夜になると、人恋しさがじわじわと心を侵食してくる。 誰かに触れたいわけじゃない。  ただ、ひとりじゃないと確認したいだけ。 そんな気持ちを、仕事の忙しさで押し込めるようにして、真琴は日々を過ごしていた。 職場に復帰してしばらくした頃、同じ年ということで仲良くなったのが、城里茜だった。「真琴、今日も定時上がりでしょ? ごはん行こ」 明るく声をかけてくる茜は、人懐っこくて、距離の詰め方が上手だった。「いいよ。何食べたい?」「えー、真琴が決めて。2ヶ月もお姉さんなんだから」「その“2ヶ月”って…あんまり変わらないじゃない!」 そう言いながらも、真琴は少し笑ってしまう。 楓と一緒にいた頃は、いつも自分が甘える側だった。  楓が決めて、楓に頼って、楓に守られていた。 でも、茜といるときは違う。「真琴って、落ち着いてるよね。私、つい頼っちゃう」「そう?」「うん。なんか、ちゃんとしてる」 その言葉に、胸が少しだけちくりとした。 ――ちゃんとしてる、か。 本当は、そんなことない。  ただ、そう見せるのが上手になっただけだ。 仕事終わりに並んで歩きながら、他愛のない話をする。  茜の愚痴を聞いて、相槌を打って、時々笑う。 この時間は、真琴にとって確かに癒しだった。 ひとりじゃないと思える。  誰かと同じ方向
Read more

第17話

 たった一年くらい、現場を離れていただけなのに――。  オフィスに戻った初日、真琴はその事実を否応なく突きつけられた。 後輩たちは、驚くほど逞しくなっていた。  資料の作り方も、言葉の選び方も、クライアントへの距離感も、すでに「現場の人間」のそれだ。  去年入社したばかりだったはずの後輩たちが、打ち合わせの場で当たり前のように意見を述べ、主導権を握っている。 その輪の外で、真琴はほんの少し、居心地の悪さを覚えていた。 極めつけは、昼休みの雑談だった。「秋山さんって、意外とサバサバしてますよね」 「でもさ、年上感あるよね」 「わかる。おばさんってほどじゃないけど」 悪意がないのは分かる。  ただの無邪気な言葉だ。  それでも、胸の奥に、小さく棘が刺さる。 ――おばさん。 頭では理解している。  自分も、かつては同じような言葉を、何の気なしに使っていた側だったことを。 そんな真琴の様子を見ていたのだろう。  打ち合わせが終わったあと、上司の三浦が、ふっと軽く肩を叩いた。「ずっとこの世界でやっていくのであれば、それは通過点だ」 低く、ぶっきらぼうな声。  だが、そこには慰めとも叱責ともつかない、三浦なりの気遣いがあった。「お前がどう受け止めるかだけで、誰もが通っていく道だ」 真琴は一瞬、言葉に詰まる。  反論したい気持ちと、図星を突かれたような悔しさが、同時に込み上げた。 間違いなく、みんなトシを取っていく。  それは事実だ。  それに抗っても、「痛い」と言われるだけで、結局は認めるしかない。「今の私の年齢は、ある意味“過渡期”なんですよ」 そう言い返した声は、自分でも思った以上に強かった。 秋山真琴。  もうすぐ三十二歳。 結婚や出産を、否応なく意識させられる年齢。  結婚は、いくつになってもできる。  でも、出産は違う。  すでに「高齢出産」という言葉が、現実味を帯びて迫ってくる。 仕事に没頭していた頃は、子どもが欲しいなんて、考えたこともなかった。  それなのに今は、夜になると、ふとした拍子にそんなことを考えてしまう。 ――だからといって、今はそんなことを考えている場合じゃない。 真琴は自分に言い聞かせるように、思考を切り替えた。 仕事に戻れた。  それだけでも、十分すぎるほどのチャン
Read more

第18話  Night Indigo

 ドアを押し開けた瞬間、低く流れるジャズと、甘く焦げたようなアルコールの匂いが、真琴を包み込んだ。重厚なベースの振動が床板をわずかに震わせ、控えめなピアノの旋律が夜の水のように滑り込んでくる。空気そのものが音楽で満たされているようで、肌に触れる温度さえ柔らかく感じられた。 懐かしい。  それが、真琴の頭に最初に浮かんだ感情だった。言葉にするより先に胸の奥から湧き上がり、記憶の扉が勝手に開いていくような感覚。忙殺され、すり減り、余裕を失っていた日々の向こう側に置き忘れていた“自分”が、ゆっくりと戻ってくる。 カウンターの照明は、相変わらず少し暗い。ぼんやりとした琥珀色の光がグラスの輪郭を縁取り、酒棚のボトルに柔らかなハイライトを落としている。明るすぎないからこそ、人の表情は深く読み取れず、想像の余白が生まれる。その曖昧さが、この店の良さだった。ここでは誰も、相手の心の奥まで踏み込みすぎない。けれど確かに寄り添ってくれる。そんな距離感が、かつての真琴を何度も救ってくれた。 以前の自分は、ここで何度、気持ちを切り替えてきただろう。徹夜明けのプレゼン後、失恋の夜、案件が頓挫した明け方、褒められた帰り道、叱責を受けた夜――。このドアを開けるだけでスイッチが切り替わり、張りつめた心が緩み、また立ち上がれる気がした。今夜も同じだと、身体が覚えている。「いらっしゃいませ」 カウンターの向こうから声がかかる。柔らかいのに芯がある、夜の底から響くような声。顔を上げた瞬間、真琴は小さく息を呑んだ。信じられない、というより、確かめる暇もなく心臓を掴まれたような驚き。 一年以上も来ていなかったのに――  榊レンの笑顔が、そこにあった。薄暗い照明の中でもはっきりと浮かび上がる穏やかな目元、柔らかく弧を描く口角。店の時間だけが止まっていたのではなく、“自分を覚えていてくれた人”がここに存在していたという事実に、真琴は動けなくなる。「お久しぶりです。お元気でしたか?」 久しぶりに聞く、その声。喉の奥まで込み上げる感情を、真琴は必死に押し戻す。泣いてしまえば、この場所の温度を壊してしまう気がしたから。再会の一言目を涙で濡らしたくなかったから。「……うん」 それだけで精一杯だった。返事は短いのに、声帯が震えてしまいそうで怖かった。彼の問いかけに救われている自分を、悟られたくな
Read more

第19話  ソルティドッグの意味

 「Night Indigo」のカウンターに座ると、時間の流れが少し緩やかになる気がした。  ジャズの低い音が、言葉と感情の隙間を埋めてくれる。 真琴は、ソルティードッグのグラスを両手で包み込みながら、ポツリポツリと話し始めていた。「……楓の病院に、しばらく勤めていたんです」 榊レンは、グラスを磨きながら、静かに耳を傾けている。「急に広告代理店を辞めて、資格取って、事務で入って……自分で選んだんですけどね」 言葉は止まらない。「楓、すごく頑張ってて。冬真とも、ほんとに仲が良くて……見てると、安心する反面、ちょっとだけ、置いていかれた気もして」 ソルティドッグを一口飲み、すぐに続ける。「で、結局、戻れたんです。広告代理店に」 少しだけ、胸を張るように言った。「戻るなんて、もう無理だと思ってたから。正直、ほっとしました。でも……」 そこで言葉が途切れる。  自分でも、何を言いたかったのか分からなくなった。 気づけば、ずいぶん長い時間、一方的に話していた。  真琴は、小さく息を吐き、ようやくグラスを置いた。 その沈黙の中で、榊レンが穏やかに口を開く。「真琴さんはどう思ってるんですか?」 その問いに、真琴は答えられなかった。 口を開きかけて、閉じる。  言葉にしようとした瞬間、胸の奥で何かが絡まり、形にならなかった。 榊レンは、それ以上追及せず、少し間を置いてから、別の話題を切り出した。「真琴さんはいつも、ソルティドッグを頼まれますが、カクテル言葉をご存じでしたか?」 不意の問いに、真琴は首を横に振る。「……いいえ」 榊レンは、静かに言った。「ソルティドッグのカクテル言葉は『寡黙』です」 その言葉が、静かに、しかし確実に胸に刺さる。「あなたは、人のことはよく話しますが、自分の感情については、いつも話しませんよね。まさに『寡黙』です」 一番痛いところを、正確に突かれた気がした。  反論も、言い訳も浮かばない。 真琴は、グラスの縁を指でなぞりながら、小さく笑った。「……そう、かもしれませんね」 結局、自分のことは曖昧なまま。  何かを決めるでも、何かを吐き出すでもなく、真琴は席を立った。「今日は、ありがとうございました」 そう言って、会計を済ませ、出口へ向かう。 その背中に、榊レンの声が届いた。「今度
Read more

第20話  着飾る理由

 翌朝、真琴はいつもより少し早く目が覚めた。  目覚ましが鳴る前だったのに、頭は妙に冴えている。 カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨夜の言葉が、何度も脳裏をよぎった。――今度来るときは、前の真琴さんのように、着飾って、自信のあるカッコイイ女性の姿で来てくれることをお待ちしております。 誰かに評価されたわけでも、責められたわけでもない。  それなのに、あの一言は、胸の奥に深く残っていた。 真琴はベッドを抜け出し、クローゼットを開ける。  そこには、無難なジャケット、動きやすさ重視のパンツ、色味を抑えた服が並んでいる。 広告代理店に戻ってから選んだ服たちだ。  目立たず、浮かず、隙を見せないための鎧。 ふと、クローゼットの奥にしまい込んだままの服に目が留まる。  少し明るめのワンピース。  ラインのきれいなジャケット。 ――着なくなった、というより、着る理由がなくなった服。 真琴は、それを取り出してベッドの上に広げた。 着飾る、という言葉に、ずっと抵抗があった。  若さに縋っているようで、必死に見える気がして。  年齢を誤魔化しているようで、怖かった。 でも、昨夜気づいた。  自分はいつから、下を向いて歩くようになったのだろう。 病院にいた頃も。  代理店に戻ってからも。 “目立たないように”  “期待されすぎないように”  “傷つかないように” そうやって、自分で自分を小さくしていたのかもしれない。 真琴は、そのワンピースに袖を通した。  鏡の前に立つ。「……悪くないじゃん」 小さく、そう呟く。  そこに映る自分は、確かに年齢を重ねている。  でも同時に、経験を積んだ顔でもあった。 若さとは違う。  でも、それは失われた価値ではない。 出勤途中、街を歩きながら、真琴は意識的に背筋を伸ばした。  足の裏で、しっかりと地面を感じる。 昨日までとは、視界が少し違う。  人の目が気にならないわけじゃない。  でも、「どう見られるか」より、「どう立っているか」を考えている自分に気づく。 オフィスに入ると、後輩の一人が、ちらりと真琴を見て言った。「あれ、秋山さん、今日なんか雰囲気違いますね」 真琴は、一瞬だけ驚き、それから微笑んだ。「そう?」「はい。なんか……カッコイイです」 その
Read more
PREV
123456
...
11
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status