All Chapters of ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話  値引きシールの向こう側

 仕事帰りに立ち寄った、いつものスーパー。 閉店まであと一時間を切った総菜コーナーには、赤い値引きシールが並び始めていた。 秋山真琴は、何の気なしに、ひじきの煮物のパックを手に取る。 貼られていたのは――「30円引き」。 その瞬間だった。 商品棚の横、すり切れたステンレスの壁に映った自分の姿が、視界に入った。 くすんだ照明。 仕事帰りの地味な服装。 肩から提げたバッグの重み。 ――あ。 喉の奥が、ひゅっと鳴る。 「すべてを投げ捨てて、逃げたい」 理由は分からない。 ただ、そう思った。 ステンレスに映る自分の顔は、どこか擦り切れて見えた。 何度も磨かれて、角がなくなった金属みたいに。 これが、今の私? 慌てて視線を逸らし、真琴はひじきのパックをカゴに入れた。 なぜか胸の奥が落ち着かず、他の商品を見る気になれない。 レジを済ませ、外に出ると、夜風が頬を撫でた。 春先のはずなのに、少しだけ冷たい。 親友の楓を助けるつもりだった。 それは、嘘じゃない。 広告代理店で積み上げてきたキャリアを手放し、 診療報酬請求事務の資格を取り、 楓が立ち上げた外科病院を手伝った。 「ありがとう、真琴がいてくれて本当に助かる」 そう言って笑う楓の顔を見るたび、 自分の選択は間違っていないと思っていた。 ――思おうとしていた。 病院を辞めると決めたとき、 真琴は楓に、こう伝えた。「実家に戻らなきゃいけなくなって」「え……急だね」「うん。ちょっと、いろいろあって」 本当の理由は言わなかった。 言えなかった。 楓は一瞬だけ、何か言いたそうな顔をしたが、 すぐに微笑んで、「そっか」と頷いた。「今まで、本当にありがとう」 それだけだった。 あっさりしすぎていて、 胸の奥が、ちくりと痛んだ。 少し離れた街に引っ越し、就職活動は思った以上に難航した。 結局、資格があるからという理由で、別の病院に採用された。 生活のための就職。 そう割り切ったはずだった。 毎日、同じ時間に出勤し、 書類を整理し、 数字をパソコンに打ち込む。 退勤後は、スーパーで値引き品を買って帰る。 それだけの生活。 アパートの部屋に戻り、 買ってきたひじきの煮物を皿に移す。 テレビをつけても、内容は頭に入らない。 缶ビールを開
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第2話

「楓が自分で病院の経営をするの!?」裁判が終わり、賠償金と慰謝料を手にした楓は、勤務医ではなく、開業医になることを決めた。莫大な賠償金が入ったといっても、病院を経営しようと思ったら、もっと莫大な金額が掛かる。普通の会社を経営するのとはわけが違う。医療機器を幾つも置き、看護師も雇わなければならない。そんなことを一瞬で考えながら、真琴は「楓………大丈夫なの……その、お金とか…」と聞いた。ここはいつものイタリアンレストラン。「今回は、重大発表がある」と楓に言われてやってきた。今の楓は、無職の医師だ。真琴は楓の姿を見つけ、テーブルの向かいに座った。「ごめん、帰り際にチーフに捕まっってさ~。アイツ、ホント空気読まないんだから!!」と言いながら、ワインを注文する。「楓、食事はした?」突風が吹くようにやって来て、座ってワインを注文するまでに、3分経ってないだろう。真琴の勢いに、楓は圧倒されていた。「………まだ。真琴…ちょっと落ち着いて座ってよ」と苦笑する。真琴も。、手に取りかけたメニューを置き、「ゴメン。今回のイベント広告が大変で、テンションが上がったままきちゃったから…」と、届いたワインのグラスを手に取ると、楓に掲げて一口飲んだ。「相変わらずなんだから……体調は……良さそうね」楓が呆れて、真琴の顔色を見る。真琴は腕を出して、「楓先生、脈拍も!」と言う。「慌てて来た挙句に、ワイン飲んじゃったんだから、心拍数が上がってて当たり前でしょ!!」と、真琴の手を軽く叩いた。二人は顔を見合わせ、一緒に笑うと、「私、病院の経営をしようと思ってるの」と、楓が言った。真琴はワインを吹き出しそうになりながら、「楓が!? 自分で病院の経営をするの!?」という、冒頭のセリフに行きついた。楓はテーブルに肘をつき、顔の前で指を組むと、「冬真がね、不動産会社の会長のご子息で、自分も不動産業を極めるって。不動産学の学位を持ってるらしくて、用地買収から建設、その後の経営方針なんかも考えてくれて……サポートするからやってみろって。」「それで決めたんだ……そう言うってことは、決めたんでしょ、楓?」楓は真琴の目を見つめ、「うん、やってみようと思うの」と頷いた。真琴は内心羨ましいと思ったが、親友の楓が幸せであるなら、羨ましさよりも、今は協力を申し出る時だと考え
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第3話

「ホントに猪突猛進型だね、真琴」苦笑いをしながら、陽斗は本屋の通路を歩く真琴の背中を見つめていた。目的地が決まったら一直線。迷いなく進み、途中で立ち止まることはほとんどない。その歩調に合わせるのは、もうすっかり陽斗の役目になっていた。四つ年下の陽斗は、いつも真琴のワガママに振り回されている。けれど、それを不満に思ったことは一度もなかった。むしろ、その強引さや思い切りの良さに、何度も背中を押されてきたのは自分のほうだと、陽斗はよく分かっている。(ちょっと年上の、あねさん女房ってやつもいいな……)ふと浮かんだ考えに、陽斗は小さく息を吐いた。真琴と並んで歩く時間は、いつの間にか日常になっていた。特別な約束を交わさなくても、互いの予定を自然と把握していて、困ったことがあれば一番に相談する。その距離感が、陽斗には心地よかった。同じように、真琴も感じていた。陽斗は、年下なのに妙に頼りがいがあって、余計なことを言わず、必要なときには必ず隣にいる。気づけば、未来の話をすることにも抵抗がなくなっていた。結婚を、どちらが言い出すのか……それくらい、二人の関係は親密だった。「ところで、何の本を探してるんだっけ?」陽斗が尋ねる。陽斗の方がずっと背が高い。資格コーナーに並ぶ棚の上段を見上げる役目は、いつの間にか彼に固定されていた。「高い位置を探すのは、陽斗の担当ね」そう言われて、陽斗は苦笑しながら棚に目を走らせていたが、その問いかけに、真琴は背を伸ばして答えた。「ハル。それを知らずに探してたの?」陽斗も苦笑して言う。「だって、まだ教えてくれてないよ」真琴は一瞬、しまったという顔をしたが、すぐにいたずらっぽく笑った。隠していたわけではない。ただ、言葉にする準備が、少しだけ足りなかった。「医療事務審査試験。メディカル クラークとか書いてないかな?」その言葉を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。軽い気持ちで決めたわけじゃない。楓の顔が浮かび、その病院の空気が、真琴の心を離れなかった。「医療事務審査……あぁ、これかな?」陽斗が棚の上段から、慣れた動作で一冊の本を取り出す。「どれどれ。医療事務審査とは……実務で必要とされる技能者の養成を図るため、診療報酬請求事務技能はもちろん、窓口業務等で求められる患者接遇の技能も試験科目に
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第4話

 仕事の合間を縫って、真琴は机に向かい続けた。 昼休みの短い時間、帰宅後の疲れ切った夜、眠気と戦いながらページをめくる日々。 それでも不思議と苦ではなかった。 目標がはっきりしていたからだ。 そして―― 医療事務技能審査試験、合格。 その知らせを聞いた楓は、電話口で一瞬言葉を失い、それから弾けるように驚いた声を上げた。 すぐに「お祝いしよう」と話がまとまり、久しぶりに皆で、いつものイタリアンレストランに集まることになった。 楓と冬真、真琴と陽斗。 見慣れた顔ぶれ。 それだけで、真琴の胸は高鳴った。 席に着くなり、真琴は周囲を見渡す。 この空気、この距離感。 ここに戻ってきた、という実感が湧き、思わず口元が緩んだ。「では、真琴さんの合格を祝って、乾杯!!」 冬真がワイングラスを高く掲げる。「真琴、おめでとう!!」「頑張ったね、真琴!」 口々に投げかけられる祝福の言葉。 その一つひとつが、胸の奥に温かく染み込んでいく。 真琴は得意満面だった。 努力が、こうして形になり、皆に認められる。 その事実が、何より嬉しかった。 乾杯を終え、グラスを置くと、ようやく皆が席に落ち着き、料理に手を伸ばし始める。「医療事務技能って、結局、何ができるの?」 陽斗が真琴に料理を取り分けながら聞いた。 世話焼きな仕草は、いつも通りだ。 真琴は皿を受け取りながら、少しだけ背筋を伸ばす。「メディカルクラークって、医療用語や書類作成とか、医師・看護師と患者との架け橋のような立場で話ができたりする、医療事務の資格だよ。診療報酬とか、医療保険制度や高齢者医療制度、介護保険制度なんかの知識を勉強したから、患者の相談に乗ることもできる資格なの」 覚えた知識を口にするたび、真琴は実感していた。 自分は、確かに一歩進んだのだと。「へえ。ってことは、楓さんの病院に勤めよう、なんて考えてるとか?」 陽斗が続けて聞く。 その瞬間、真琴は楓の顔を見た。 視線が合い、すぐに笑って言う。「バレたか!」 楓は、やはりという思いだった。 試験を受けると聞いた時から、心のどこかで覚悟していた。 だからこそ、嬉しさと同時に、別の感情も込み上げる。「私は構わないよ。真琴が一緒に居てくれたら頼もしいし。…でも、今の仕事はどうするの?」「辞めちゃう!!だっ
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第5話

 イタリアンレストランでの賑やかな夜が終わり、日常が戻ってきた途端、真琴の胸の奥に、わずかな重みが残り始めた。 朝の通勤電車。 窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、真琴は前夜の会話を思い返していた。(辞めちゃう!!って……私、即答しすぎたかな) あの場では、迷いなどなかった。 楓の力になりたい。その気持ちは、今もまったく揺らいでいない。 けれど、実際に「辞める」と決めた瞬間から、今の職場で過ごしてきた年月が、次々と頭に浮かんでくる。 慣れたデスク。 顔なじみの同僚。 文句を言いながらも続けてきた仕事。 それらを、手放す。(……まあ、考えすぎても仕方ないか) 真琴は、いつものように勢いで自分を納得させた。 迷いはあっても、立ち止まる性分ではない。 前を向いて進む。それが、自分らしさだと分かっている。 一方で―― 楓は、病院の執務室で、真琴の顔を思い浮かべていた。 合格の知らせを聞いたとき、心から嬉しかった。 真琴が一緒に働いてくれたら、どれほど心強いか。 それは本心だった。 だが同時に、院長としての理性が、静かに警鐘を鳴らしていた。(友だちだから、ではダメ) 病院は、遊びではない。 経営も、人材も、すべてが現実だ。 給与、役割、責任。 そこに「親しいから」という理由を持ち込むことの危うさを、楓は誰よりも理解していた。 デスクに置かれた書類に目を落としながら、楓は小さく息を吐く。(真琴……勢いで決めてないよね) 信じたい。 けれど、止めるべきなのか、支えるべきなのか。 その境界線が、まだ見えなかった。 その日の夜。 真琴と陽斗は、並んで夕食を取っていた。「ねえ、ハル」 箸を止めずに、真琴が言う。「なに?」「私さ……本当に辞めちゃっていいのかな?」 唐突な問いに、陽斗は一瞬だけ動きを止めた。 そして、真琴の顔を見る。 そこには、昨夜の強気な表情とは違う、ほんのわずかな不安が滲んでいた。「珍しいね。弱気じゃん」「弱気っていうか……現実?」 真琴は苦笑する。 資格を取った瞬間までは、未来が一直線に見えていた。 けれど、動き出そうとすると、足元の感触が変わる。「後悔しそう?」 陽斗の問いは、責めるでもなく、誘導するでもない。「……分かんない。でも、やらなかったら、もっと後悔する気
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第6話  後悔

 真琴が、楓の病院――『 Maple Grove Surgical Hospital 』で働き始めて、三カ月が経った。 最初から、特別扱いはなかった。 楓ははっきりと、「他の人と同じように、面接をしてから採用するか決める」と言った。 その言葉に、真琴は少しだけ安心し、同時に身が引き締まる思いがした。 面接当日。 楓だけでなく、病院に勤める他の医師たち数名も同席していた。 専門用語が飛び交う空気の中、真琴は広告代理店で培った度胸と、必死に積み上げた知識で応じた。 医療事務技能審査試験で学んだ制度、患者対応の考え方。 質問に答えるたび、心臓の鼓動が高まったが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。 結果は、「知識は採用に値する」。 その一言で、真琴の中の迷いは、いったん消えた。 だが―― 長年勤めた広告代理店『 アークライト・コミュニケーションズ 』を退職すると伝えた途端、空気は一変した。 上司であり、チーフである三浦隼人は、机を叩く勢いで声を荒げた。「お前の考えは突飛すぎる!!」 真琴の性格を知り尽くしている三浦は、静かに、しかし強く言葉を重ねる。 「親友の、渡辺楓の病院を手伝いたい」と、熱心に訴える真琴に、「お前の才能は、病院勤務では生きない。広告の世界で発揮するべきだ!」 最後まで、三浦は反対していた。 感情論ではなく、真琴の力を本気で評価しているからこその言葉だと、分かっていた。 それでも―― 真琴は止まらなかった。「長い間、お世話になりました!!」 三浦が止めるのも聞かず、深く頭を下げると、真琴は会社を飛び出したのだった。  そして現在。 真琴は、毎日、同じような時間を過ごしていた。 先ほども、高齢者医療制度について、患者の家族に説明していた。 高齢の患者も少なくなく、こういった制度を使えば、医療費を抑えることができる。 相手の
last updateLast Updated : 2026-01-08
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第7話

 ストレスを抱え始めた真琴は、目に見えて楓を避け始めた。 それは、自分でもはっきり分かるほど露骨な変化だった。 廊下の向こうに楓の姿が見えると、真琴は反射的に足を止め、踵を返して反対側へ歩いて行った。 偶然を装う余裕すらなく、ただ逃げる。 胸の奥が、きゅっと縮む。 楓の背中を見るたびに、申し訳なさと、向き合うのが怖い気持ちが同時に湧き上がった。「秋山さん、渡辺先生の資料を届けて……」 そんな声がかかっても、真琴はすぐに視線を逸らす。「ゴメン。私患者さんと約束があって…」 本当は、数分あれば終わる用事だと分かっている。 それでも、楓と顔を合わせる可能性を、無意識に避けていた。 断ることが増えるたびに、胸の奥がざらつく。 こんな自分でいいわけがない。 そう思えば思うほど、行動は逆を向いてしまう。  帰宅すると、真琴はどっと疲れを感じた。 誰に何をされたわけでもない。 けれど、心だけが擦り切れている。 一人の部屋。 灯りをつけた途端、静けさが重くのしかかる。(自分で後悔しないと宣言したのに……) その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 そう思えば思うほど、自分自身が一番後悔していると認めているようなものだった。 洗面所に立ち、真琴は鏡に映った自分の姿を見る。 そこにいるのは、疲れた表情の女。(私、全然輝いてない……) 広告代理店に居た頃は、パーティーやお披露目会などに出席することも多かった。 ドレスを着て、ちょっと豪華なアクセサリーをつけ、 ワイングラスを片手に、会社社長などを相手に雄弁を語っていた。 言葉で空気を操り、企画で人を動かし、 自分が世界の真ん中に立っているような感覚すらあった。 それに比べて、今は――。
last updateLast Updated : 2026-01-08
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第8話

 真琴が限界に近づいていることを、最初に感じ取ったのは陽斗だった。 些細な言葉に過敏に反応し、黙り込んだかと思えば、急に強い口調になる。 以前なら笑って流していたことにも、刺が立つ。「……最近、どうしたの?」 夕食のあと、沈黙に耐えきれなくなった陽斗が切り出した。 真琴は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らす。「別に。何でもない」 嘘だ、と自分でも分かる答えだった。 けれど、本当のことを言う勇気もなかった。「何でもないわけないでしょ。明らかに無理してる」 その言葉に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。「……私さ」 真琴は、そこで一度言葉を切った。 初めて、“誰かに本音を言おう”としている自分に気づく。「病院の仕事、ちょっと……後悔してる」 絞り出すような声だった。「向いてないとか、嫌いとかじゃないけど……。 毎日が、息苦しくて。 このままでいいのか、分かんなくなってきて……」 ようやく口にした本音。 それは弱音であり、助けを求める言葉だった。 だが――「……だから言ったじゃん」 陽斗の声が、思ったより低く、硬かった。「文句言うのは贅沢だって。自分で選んだんでしょ?」 その一言が、真琴の胸を深く刺した。「分かってるよ! 分かってるけど……感情は、そう簡単じゃないでしょ!」「じゃあどうすればいいの?」「そんなの、私だって分かんない!!」 言葉がぶつかり合い、空気が荒れる。「楓さんのためって言ってたのも、本当は違ったんじゃないの?」「なに、それ……」「逃げたかっただけじゃないの?」 その瞬間、真琴の中で何かが切れた。「ひどい……! 私がどんな思いで辞めたと思ってるの!?」「じゃあ、今の不満は誰のせい?」「……っ」 答えられなかった。 沈黙が、喧嘩を決定的なものにする。「今日は、もう話せない」 陽斗はそう言って席を立ち、部屋を出ていった。 翌日。 真琴は、目の奥が重いまま病院へ向かった。 いつも以上に周囲が気になり、集中できない。 そんな中、廊下で楓と鉢合わせた。 一瞬、逃げようとしたが間に合わなかった。「……真琴。最近、元気なさそうだけど、大丈夫?」 その声は、心配そのものだった。 なのに―― 真琴の口から出たのは、冷たい言葉だった。「……忙しいので」 楓の表情が、一瞬だけ固
last updateLast Updated : 2026-01-09
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第9話  一人で生きるという選択

秋山真琴は、自分の人生を「失敗した」と思ったことは一度もない。 少なくとも、これまでは。 仕事はある。 生活は安定している。 誰かに依存せず、自分の足で立っている。 それは、間違いなく自分で選んできた人生だった。 流されてきたわけでも、妥協したわけでもない。 自分の判断で、選び、掴み、手放してきた。 なのに―― 新しい街で迎える朝は、いつも少しだけ静かすぎた。 カーテンを開け、朝の光を部屋に入れる。 整えられたワンルーム。 余計なものは何もない。 この空間は、真琴が「一人で生きる」と決めた結果だ。 衝動で選んだわけではない。 経済的にも、現実的にも、無理のない選択だった。 それを後悔しているわけではない―― 少なくとも、そう思おうとしている。 ただ、満足かと聞かれたら、そうとも言い切れなかった。 ――私は、何を守ろうとしてきたんだろう。 誰かと深く関わらないこと。 期待しすぎないこと。 失う前に、距離を取ること。 それは賢い選択だったはずだ。 実際、真琴はこれまで大きな傷を負わずに生きてきた。 失恋に泣き崩れることも、誰かに縋ることもなかった。 でも同時に―― 心の底から喜ぶことも、 誰かに必要とされる実感も、 どこかで避けてきたのではないか。 踏み込めば、失うかもしれない。 期待すれば、裏切られるかもしれない。 そう思うたびに、一歩引く癖がついていた。「他に好きな子ができた」 その言葉で、陽斗との関係は、あっさり終わってしまった。 泣き叫ぶような別れではなかった。 責め合うことも、縋ることもなかった。 あまりにも静かで、あまりにも現実的な終わり方だった。 お互い、“結婚”という二文字を意識していると思っていた。 少なくとも、真琴はそう信じていた。 年齢も、関係性も、タイミングも、揃っていると。 けれど、それは真琴の独りよがりだったらしい。 陽斗は、真琴が変わっていくのを、ずっと隣で見ていた。 仕事に疲れ、笑わなくなり、 苛立ちを隠さなくなっていく姿を。 支えたいと思った。 寄り添おうともした。 でも、真琴は弱音を吐く代わりに、壁を作った。 「大丈夫」と言いながら、 本当は大丈夫ではないことを、誰よりも分かっていたのに。 陽斗にとって、 “一緒に未来を想像できなく
last updateLast Updated : 2026-01-09
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第10話

それは、懐かしい熱だった その男は、真琴の名前をフルネームで呼んだ。「……秋山真琴?」 声に振り向くと、少し驚いたような、でも楽しそうな顔があった。  スーツ姿。ネクタイは緩め、仕事帰りらしい。「あ……」 一拍遅れて、記憶が追いつく。「久しぶり。覚えてる? 大崎」 覚えている。  忘れるほど薄い関係ではなかった。「大崎、慎也……?」「懐かしいな、その呼び方!まだ覚えてくれてたんだ」 彼はそう言って、笑った。  あの頃と変わらない、軽くて人懐っこい笑顔。 場所は、駅近くの立ち飲みバーだった。  真琴は仕事帰り、なんとなく寄っただけだった。  誰かに会う予定など、なかった。「真琴、今は何してるの?」 呼び捨て。  それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。「医療事務。病院で働いてる」「へぇ。意外」 そう言われるのは慣れている。  広告代理店時代の真琴を知る人間は、だいたい同じ反応をする。「大崎は?」「俺? まだ広告。相変わらずだよ」 懐かしい単語だった。  締切、修羅場、深夜のコンビニ、朝焼け。「一杯、付き合わない?」 断る理由はなかった。  断る必要も、感じなかった。 グラスを合わせた瞬間、  真琴は、昔の自分に戻ったような錯覚を覚えた。 会話は軽く、テンポがいい。  仕事の愚痴、昔の同僚の噂、どうでもいい笑い話。「真琴さ、変わったよな」「そう?」「落ち着いた。でも……それ、好きだった?」 一瞬、答えに詰まる。 好きかどうか。  考えたことは、なかった。「悪くはないよ」「ふーん」 大崎はそれ以上、踏み込まなかった。  その距離感が、心地よかった。 楽しい。  ただ、それだけ。 帰り際、大崎が言った。「また飲もう。今度は、ちゃんと時間あるとき」 名刺代わりに、スマホを差し出される。  真琴は一瞬迷い、連絡先を交換した。 駅のホームで、電車を待ちながら、  胸の奥が、少しだけ熱を持っていることに気づく。 ――楽しい、だけじゃダメなんだっけ。 そんな疑問が浮かんだが、すぐに消えた。 翌日、真琴は所用で訪れていた楓と再会した。 病院のエントランス。  白衣姿の楓は、相変わらず忙しそうで、それでも凛としていた。「真琴」 名前を呼ばれて、足が止まる。「久しぶり。こ
last updateLast Updated : 2026-01-10
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