LOGIN恋と裏切り、運命の再会を描くドラマチックロマンス。広告会社チーフの秋山真琴は巨大イベント成功の中心で走り続けるが、信頼していた仲間との関係に亀裂が入る。さらに誕生日の夜の“ある誤解”をきっかけに、特別な存在になりかけた後藤慎一とも距離が生まれてしまう。「逃げるなよ!」雪舞う夜に慎一が初めて見せた感情の真意とは。ブロックされた想いは消えたのか、それとも。真琴が扉を開くとき、物語が動き出す。
View More仕事帰りに立ち寄った、いつものスーパー。
閉店まであと一時間を切った総菜コーナーには、赤い値引きシールが並び始めていた。秋山真琴は、何の気なしに、ひじきの煮物のパックを手に取る。
貼られていたのは――「30円引き」。その瞬間だった。
商品棚の横、すり切れたステンレスの壁に映った自分の姿が、視界に入った。
くすんだ照明。
仕事帰りの地味な服装。 肩から提げたバッグの重み。――あ。
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
「すべてを投げ捨てて、逃げたい」
理由は分からない。
ただ、そう思った。ステンレスに映る自分の顔は、どこか擦り切れて見えた。
何度も磨かれて、角がなくなった金属みたいに。これが、今の私?
慌てて視線を逸らし、真琴はひじきのパックをカゴに入れた。
なぜか胸の奥が落ち着かず、他の商品を見る気になれない。レジを済ませ、外に出ると、夜風が頬を撫でた。
春先のはずなのに、少しだけ冷たい。親友の楓を助けるつもりだった。
それは、嘘じゃない。広告代理店で積み上げてきたキャリアを手放し、
診療報酬請求事務の資格を取り、 楓が立ち上げた外科病院を手伝った。「ありがとう、真琴がいてくれて本当に助かる」
そう言って笑う楓の顔を見るたび、
自分の選択は間違っていないと思っていた。――思おうとしていた。
病院を辞めると決めたとき、
真琴は楓に、こう伝えた。「実家に戻らなきゃいけなくなって」
「え……急だね」
「うん。ちょっと、いろいろあって」
本当の理由は言わなかった。
言えなかった。楓は一瞬だけ、何か言いたそうな顔をしたが、
すぐに微笑んで、「そっか」と頷いた。「今まで、本当にありがとう」
それだけだった。
あっさりしすぎていて、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。少し離れた街に引っ越し、就職活動は思った以上に難航した。
結局、資格があるからという理由で、別の病院に採用された。
生活のための就職。
そう割り切ったはずだった。毎日、同じ時間に出勤し、
書類を整理し、 数字をパソコンに打ち込む。退勤後は、スーパーで値引き品を買って帰る。
それだけの生活。
アパートの部屋に戻り、
買ってきたひじきの煮物を皿に移す。テレビをつけても、内容は頭に入らない。
缶ビールを開けて一口飲む。スマートフォンを手に取る。
通知は、何も来ていない。
誰かを待っているわけじゃない。
……はずなのに。画面を伏せた瞬間、
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。ふと、楓の顔が浮かぶ。
白衣を着て、忙しそうに歩く姿。 冬真と並んで立つ、あの自然な距離。幸せそうだ。
心から、そう思う。なのに。
冷蔵庫を開けたとき、
不意に、陽斗の声がよぎった。「仕事ばっかりだな、真琴」
すぐに首を振る。
今さら思い出す必要はない。私は、自分で選んだ。
一人で生きることを。仕事を軸に、自分の足で立つ人生を。
……本当に?
テーブルの上に置いたノートに、目が留まる。
引っ越しのとき、何となく持ってきただけの一冊。 中身は、まだ白紙のまま。真琴はペンを手に取ったが、
何も書けずに、また置いた。時計を見ると、日付が変わっていた。
カーテンの隙間から、街灯の光が滲む。
その光を見つめながら、真琴は思う。静かな幸福は、
選び取るものだと信じていた。でも。
この静けさは、本当に“幸福”なのだろうか。
答えは出ない。
ただ、胸の奥で、何かが小さく音を立てている気がした。
それが不安なのか、それとも、何かが始まる前触れなのか。
真琴には、まだ分からなかった。
秋山真琴は、自分の人生を「失敗した」と思ったことは一度もない。 少なくとも、これまでは。 仕事はある。 生活は安定している。 誰かに依存せず、自分の足で立っている。 それは、間違いなく自分で選んできた人生だった。 流されてきたわけでも、妥協したわけでもない。 自分の判断で、選び、掴み、手放してきた。 なのに―― 新しい街で迎える朝は、いつも少しだけ静かすぎた。 カーテンを開け、朝の光を部屋に入れる。 整えられたワンルーム。 余計なものは何もない。 この空間は、真琴が「一人で生きる」と決めた結果だ。 衝動で選んだわけではない。 経済的にも、現実的にも、無理のない選択だった。 それを後悔しているわけではない―― 少なくとも、そう思おうとしている。 ただ、満足かと聞かれたら、そうとも言い切れなかった。 ――私は、何を守ろうとしてきたんだろう。 誰かと深く関わらないこと。 期待しすぎないこと。 失う前に、距離を取ること。 それは賢い選択だったはずだ。 実際、真琴はこれまで大きな傷を負わずに生きてきた。 失恋に泣き崩れることも、誰かに縋ることもなかった。 でも同時に―― 心の底から喜ぶことも、 誰かに必要とされる実感も、 どこかで避けてきたのではないか。 踏み込めば、失うかもしれない。 期待すれば、裏切られるかもしれない。 そう思うたびに、一歩引く癖がついていた。「他に好きな子ができた」 その言葉で、陽斗との関係は、あっさり終わってしまった。 泣き叫ぶような別れではなかった。 責め合うことも、縋ることもなかった。 あまりにも静かで、あまりにも現実的な終わり方だった。 お互い、“結婚”という二文字を意識していると思っていた。 少なくとも、真琴はそう信じていた。 年齢も、関係性も、タイミングも、揃っていると。 けれど、それは真琴の独りよがりだったらしい。 陽斗は、真琴が変わっていくのを、ずっと隣で見ていた。 仕事に疲れ、笑わなくなり、 苛立ちを隠さなくなっていく姿を。 支えたいと思った。 寄り添おうともした。 でも、真琴は弱音を吐く代わりに、壁を作った。 「大丈夫」と言いながら、 本当は大丈夫ではないことを、誰よりも分かっていたのに。 陽斗にとって、 “一緒に未来を想像できなく
真琴が限界に近づいていることを、最初に感じ取ったのは陽斗だった。 些細な言葉に過敏に反応し、黙り込んだかと思えば、急に強い口調になる。 以前なら笑って流していたことにも、刺が立つ。「……最近、どうしたの?」 夕食のあと、沈黙に耐えきれなくなった陽斗が切り出した。 真琴は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らす。「別に。何でもない」 嘘だ、と自分でも分かる答えだった。 けれど、本当のことを言う勇気もなかった。「何でもないわけないでしょ。明らかに無理してる」 その言葉に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。「……私さ」 真琴は、そこで一度言葉を切った。 初めて、“誰かに本音を言おう”としている自分に気づく。「病院の仕事、ちょっと……後悔してる」 絞り出すような声だった。「向いてないとか、嫌いとかじゃないけど……。 毎日が、息苦しくて。 このままでいいのか、分かんなくなってきて……」 ようやく口にした本音。 それは弱音であり、助けを求める言葉だった。 だが――「……だから言ったじゃん」 陽斗の声が、思ったより低く、硬かった。「文句言うのは贅沢だって。自分で選んだんでしょ?」 その一言が、真琴の胸を深く刺した。「分かってるよ! 分かってるけど……感情は、そう簡単じゃないでしょ!」「じゃあどうすればいいの?」「そんなの、私だって分かんない!!」 言葉がぶつかり合い、空気が荒れる。「楓さんのためって言ってたのも、本当は違ったんじゃないの?」「なに、それ……」「逃げたかっただけじゃないの?」 その瞬間、真琴の中で何かが切れた。「ひどい……! 私がどんな思いで辞めたと思ってるの!?」「じゃあ、今の不満は誰のせい?」「……っ」 答えられなかった。 沈黙が、喧嘩を決定的なものにする。「今日は、もう話せない」 陽斗はそう言って席を立ち、部屋を出ていった。 翌日。 真琴は、目の奥が重いまま病院へ向かった。 いつも以上に周囲が気になり、集中できない。 そんな中、廊下で楓と鉢合わせた。 一瞬、逃げようとしたが間に合わなかった。「……真琴。最近、元気なさそうだけど、大丈夫?」 その声は、心配そのものだった。 なのに―― 真琴の口から出たのは、冷たい言葉だった。「……忙しいので」 楓の表情が、一瞬だけ固
ストレスを抱え始めた真琴は、目に見えて楓を避け始めた。 それは、自分でもはっきり分かるほど露骨な変化だった。 廊下の向こうに楓の姿が見えると、真琴は反射的に足を止め、踵を返して反対側へ歩いて行った。 偶然を装う余裕すらなく、ただ逃げる。 胸の奥が、きゅっと縮む。 楓の背中を見るたびに、申し訳なさと、向き合うのが怖い気持ちが同時に湧き上がった。「秋山さん、渡辺先生の資料を届けて……」 そんな声がかかっても、真琴はすぐに視線を逸らす。「ゴメン。私患者さんと約束があって…」 本当は、数分あれば終わる用事だと分かっている。 それでも、楓と顔を合わせる可能性を、無意識に避けていた。 断ることが増えるたびに、胸の奥がざらつく。 こんな自分でいいわけがない。 そう思えば思うほど、行動は逆を向いてしまう。 帰宅すると、真琴はどっと疲れを感じた。 誰に何をされたわけでもない。 けれど、心だけが擦り切れている。 一人の部屋。 灯りをつけた途端、静けさが重くのしかかる。(自分で後悔しないと宣言したのに……) その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 そう思えば思うほど、自分自身が一番後悔していると認めているようなものだった。 洗面所に立ち、真琴は鏡に映った自分の姿を見る。 そこにいるのは、疲れた表情の女。(私、全然輝いてない……) 広告代理店に居た頃は、パーティーやお披露目会などに出席することも多かった。 ドレスを着て、ちょっと豪華なアクセサリーをつけ、 ワイングラスを片手に、会社社長などを相手に雄弁を語っていた。 言葉で空気を操り、企画で人を動かし、 自分が世界の真ん中に立っているような感覚すらあった。 それに比べて、今は――。
真琴が、楓の病院――『 Maple Grove Surgical Hospital 』で働き始めて、三カ月が経った。 最初から、特別扱いはなかった。 楓ははっきりと、「他の人と同じように、面接をしてから採用するか決める」と言った。 その言葉に、真琴は少しだけ安心し、同時に身が引き締まる思いがした。 面接当日。 楓だけでなく、病院に勤める他の医師たち数名も同席していた。 専門用語が飛び交う空気の中、真琴は広告代理店で培った度胸と、必死に積み上げた知識で応じた。 医療事務技能審査試験で学んだ制度、患者対応の考え方。 質問に答えるたび、心臓の鼓動が高まったが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。 結果は、「知識は採用に値する」。 その一言で、真琴の中の迷いは、いったん消えた。 だが―― 長年勤めた広告代理店『 アークライト・コミュニケーションズ 』を退職すると伝えた途端、空気は一変した。 上司であり、チーフである三浦隼人は、机を叩く勢いで声を荒げた。「お前の考えは突飛すぎる!!」 真琴の性格を知り尽くしている三浦は、静かに、しかし強く言葉を重ねる。 「親友の、渡辺楓の病院を手伝いたい」と、熱心に訴える真琴に、「お前の才能は、病院勤務では生きない。広告の世界で発揮するべきだ!」 最後まで、三浦は反対していた。 感情論ではなく、真琴の力を本気で評価しているからこその言葉だと、分かっていた。 それでも―― 真琴は止まらなかった。「長い間、お世話になりました!!」 三浦が止めるのも聞かず、深く頭を下げると、真琴は会社を飛び出したのだった。 そして現在。 真琴は、毎日、同じような時間を過ごしていた。 先ほども、高齢者医療制度について、患者の家族に説明していた。 高齢の患者も少なくなく、こういった制度を使えば、医療費を抑えることができる。 相手の