愛は灰にして、もはや温もらず のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 8

8 チャプター

第1話

炎がカーテンを飲み込んだとき、私・須藤瑠香(すどう るか)は寝室のドアを叩いていた。ドアノブは焼けつくように熱く、掌の皮膚がじゅっと焦げる音を立てる。私は痛みに構わず、大きく膨らんだお腹を必死で守った。煙がドアの隙間から流れ込み、肺が焼けるように痛む。廊下の向こうから、トイプードルの甲高い鳴き声と岩崎隼人(いわさき はやと)の優しい声が聞こえてきた。「大丈夫だよ、いい子だ。今すぐ外に出よう」私は体をドアに押しつけ、爪で隙間をえぐるように引っかきながら叫んだ。「隼人!開けて!ゴホッ……私と子どもがまだ中にいるの!火が来てるの!隼人!」足音がドアの前で止まり、一瞬、彼の良心が目覚めたかと思った。だが次に聞こえた声は、あまりにも冷静で、思わず震えが走った。「瑠香、芝居はやめろ。この程度の煙で大げさだな。杏子の犬は喘息持ちなんだ。煙は無理なんだよ。君は丈夫なんだから、煙を少し吸ったくらいじゃ死なないだろ」信じられなくて目を見開き、煙で涙が止まらない。「何を言ってるの?火事だよ!私、死んじゃうのよ!この子も死んじゃう!」隼人が、鼻で笑った。「子どもを利用して気を引こうなんて、卑怯な真似はやめろ!本当に子どものことを思うなら、大人しくして、杏子の邪魔をするな。犬の命も大事にできるようになってから、開けてやる」足音は迷いなく遠ざかっていった。振り返ることもなく。そのすぐ後、彼が林原杏子(はやしばら きょうこ)に向かって言う声が聞こえた。「早く、濡れたタオルで犬の鼻を覆ってやれ」私は力が抜け、その場に崩れ落ち、ドアを掻きむしった爪で血の跡を何本も残した。この瞬間、三年間愛した男の正体がはっきり見えた。彼にとって、私とお腹の子は、初恋相手の犬以下だ。火の回り方が異様に早い。空気に、鼻を刺すような臭いが混じっている。――テレビン油だ。隼人は画家だ。アトリエには大量のテレビン油が保管されている。火元は寝室のドアのすぐ外にあった。炎は、外から内へ向かって燃え広がっている。ドアの下から染み込んでくる油を見た瞬間、全身の血が凍りついた。これは事故じゃない。犬を救うために私を見捨てただけじゃなく、隼人は、最初から私を消すつもりだった。数日前、偶然目にした保険証書が脳
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第2話

激痛で意識が引き戻された。それは皮膚が痛む程度のものじゃない。全身の神経をずたずたに引き裂かれるような痛みだった。叫ぼうとして口を開いたが、喉から漏れたのは「ひゅう、ひゅう」と、壊れたふいごのような音だけだった。声帯がやられている。目を開けると、視界いっぱいに白い機械の数々。消毒液の匂いに、自分の焼け焦げた肉の臭いが混じり、吐き気がこみ上げた。「目が覚めたか」病室のベッド脇に、隼人が座っていた。手にはリンゴ、器用に皮を剥いている。きちんと仕立てたスーツに、乱れ一つない髪。ついさっき火事を生き延びた人間には、どう見ても思えなかった。私が目を覚ましても、痛いかどうかも聞かない。ナースコールを押すことすらしない。剥き終えたリンゴをそのまま自分の口に入れ、カリッと音を立てて噛んだ。「瑠香、ほんとに運がいいよな。全身の四割が火傷で、それでも生きてるんだから」彼の目にあったのは、安堵ではなかった。そこに浮かんでいたのは、ただ一つ――私が生き延びてしまったことへの、残念そうな色だけだった。私は彼を睨みつけ、指を差して詰問しようとした。だが、腕は包帯だらけで、どうしても手を上げられなかった。隼人はティッシュを取り出し、優雅に手を拭いた。「警察には、もう話をつけてある。君が勝手に高出力の電化製品を使って、配線が劣化してショートした。会社は今、上場前でね。悪い噂は困るんだ。だから、この責任は君が一人で背負ってくれ」私は目を見開いた。驚きで、目が飛び出るかと思った。話したい。警察に通報したい。火をつけたのは彼だ、ドアを閉めたのも彼だって。隼人は、私の考えを読んだかのように顔を近づけた。口元に、残酷な笑みを浮かべている。「通報する?訴える?瑠香、君は今、声が出ない。それに、精神科医の診断書もある。妊娠中のうつで、自傷傾向あり。今回の火事は自作自演だってね。警察が信じるのは、成功した経営者の俺か、それとも気が触れた女か。どっちだと思う?」怒りで体が震え、モニターが甲高い警告音を鳴らした。私は必死にお腹を指さし、口の形だけで問いかけた。「子どもは?」隼人の目が一瞬だけ揺れ、すぐに「哀れな患者を見る目」に変わった。「子ども?何の話だ?瑠香、一酸化
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第3話

隼人が再び現れたとき、手には手術の同意書があった。杏子の姿はなく、ひとりだけだった。彼はその同意書を、私の胸の上に放り投げた。「サインしろ」必死に眼球を動かし、書かれている文字を読み取る。皮膚移植提供同意書だった。移植を受ける者は杏子、提供部位は両太もも内側・全層皮膚、と記されていた。私は勢いよく顔を上げ、喉の奥から怒りに震えた声を漏らした。隼人はネクタイを整え、いかにも当然という口ぶりで言う。「杏子の腕が火傷している。あの手はピアノを弾く手なんだ。傷跡なんて、絶対に残してはいけない。医者も言ってた。君の太ももの皮膚が一番合うって。どうせ、これからスカートも履かないだろ。瑠香、人として感謝ってものを知るべきだ。あの火事は君が起こした。杏子を驚かせたんだ、これは君の借りだ」感謝?思わず、笑いそうになった。火の中に閉じ込められて、焼け死にかけた私が、今度は自分の皮膚を切り取って、あの愛人の蚊に刺された程度の火傷の埋め合わせをしろというのか。その理屈は、卑劣なんてレベルじゃない。もう狂ってる。私は唇をきつく噛みしめ、顔を横に背けた。――サインなんて、しない。協力しないとわかると、隼人の顔から一瞬で仮面が剥がれ落ちた。彼は焼けただれた私の顎を乱暴につかみ、無理やり彼の方を向かせる。指が私の傷口に食い込み、思わず痛みで全身が跳ね上がった。「瑠香、調子に乗るな。君の家なんて、貧乏でどうしようもない。今回の入院費、一日二十万円だ。全部俺が払ってる。この底なし沼を支える義理はない。皮膚を杏子にやるなら、その金は皮を売った代金ということにしてやる。取引だよ。公平だろ」三年間の夫婦の情なんて、彼にとっては取引でしかなかった。私は商品で、彼は肉屋。歪んだ彼の顔を見つめながら、胸に残っていた最後の愛情が、完全に消えた。私は血の混じった唾を、彼の顔に吐きかけた。隼人は一瞬きょとんとし、次の瞬間、激怒した。反対の手が私を打ち、耳鳴りが頭の中で響き続ける。「いいだろう。上等だ。せっかく優しく言ってやったのに」彼はスマホを取り出し、一本の動画を再生した。画面を、私の目の前に突きつける。薄暗い地下室。灯りは、くすんだ電球がひとつだけ。本来なら「存
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第4話

隼人は踵を返し、軽やかな足取りで去っていった。午後二時。数人の看護師が、乱暴に私をストレッチャーへ乗せた。付き添う家族もなく、術前の慰めもない。廊下はやけに長く、ストレッチャーの車輪が転がる音が、がらんとした空間に響く。その一音一音が、まるで私を死へ送り出す鐘のように聞こえた。杏子が鼻歌を歌いながら、私の横を歩いている。彼女は美しいワンピースに着替え、顔には丁寧にメイクが施されていた。「瑠香さん、皮膚の移植ありがとう。隼人が言ってたの。あなたの皮を使えば、私はずっと彼を支配できるんだって」彼女は楽しそうに笑い、肩を揺らす。「そうそう、言い忘れてた。麻酔、打たないんだって。隼人がね、皮膚の状態を保つには、そのまま切り取るのが一番いいって言ったの。どうせこんなに焼けてるんだし、今さら一本切り傷が増えたところで、同じでしょ?」天井の白熱灯を見つめながら、私の心はすっかり凍りついていた。麻酔なし?生きたまま、切り取る?……いい。隼人、杏子。これはあなたたちが自分で選んだ道だ。どうか、後悔しないで。ストレッチャーが手術室へと押し込まれる。背後で、重たい扉が勢いよく閉まった。私は目を閉じ、心の中で静かに数え始める。お父さん。お母さん。お兄ちゃん。――早く来て。そうじゃないと、私は本当に須藤家の恥さらしになってしまう。手術室の中は、冷蔵庫みたいに冷え切っていた。隼人が無影灯の下に立ち、手にはメスを持っている。……まさか、彼は自分でやるつもり?「杏子がね、俺が自分の手で切り取った皮じゃなきゃ、愛の証にならないって言うんだ」隼人は手袋をはめながら、まるで世間話でもするような軽い口調で説明した。隣のベッドには杏子が横になり、手鏡を持って、あちこち角度を変えながら自分の顔を見ている。「隼人、優しくしてね。皮、破らないで。一番きれいなところが欲しいの」隼人は甘やかすようにうなずいた。「大丈夫。アトリエで彫刻の練習、いっぱいしたから。手はブレないよ」隼人が、いよいよ手を動かそうとした、その瞬間――手術室の壁が、突然揺れた。ドン!まるで巨大なものがぶつかったかのような衝撃。隼人の手が跳ね、メスがずれ、私の脚には骨が見えるほどの深い傷
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第5話

手にチェーンソーを提げた男を見て、隼人は一瞬、どこから現れたのか分からない狂った工事現場の男かと思った。「このクソジジイ、何する気だ!俺は岩崎隼人だ!この病院の院長は俺の友達だぞ!警備員!警備員はどこ行った!」隼人は地面から這い上がると、手にしたメスを振り回し、必死に虚勢を張った。父の背後に立っていた若い男が動いた。――私の兄、須藤啓司(すどう けいじ)だ。金縁の眼鏡をかけ、きちんとした白衣に身を包み、いかにも知的で穏やかそうな風貌だ。ただし、手に持っているのは細長い骨すき包丁だった。無駄口は一切なく、手首をほんの一瞬ひねらせた。銀色の光が走った。「ああ――!!」隼人は悲鳴を上げ、右手を押さえて地面に膝をつく。人差し指の半分が宙を舞い、そのまま杏子の胸元に落ちた。指には、まだ指輪がはまっていた。それを見た瞬間、杏子の目が白く反転し、気を失いかけた。啓司は眼鏡を軽く押し上げ、淡々と言った。「うるさい。須藤家の仕事中だ。死体は黙っていろ」隼人は激痛にのたうち回り、血が床に飛び散る。「俺の手が!俺は画家なんだぞ!手を返せ!賠償しろ!」父は、その虫けらを一瞥もせず、チェーンソーを放り捨て、まっすぐ私の元へ来た。私の無惨な姿を見た瞬間、父の手が震えた。「瑠香……お父さん遅くなった」父はそっと、私の口に詰められていた布を外してくれた。母が後ろから歩み寄ってくる。手には、上品な化粧ケースがあった。泣いてはいない。ただ、その目は凍りつくほど冷たかった。母はケースから注射器を取り出し、迷いなく私の血管に刺す。「一番いい鎮痛剤よ。すぐ楽になるわ」声は優しいのに、底知れぬ殺気を孕んでいた。鎮痛剤はすぐに効き、私はようやく少し力を取り戻した。壁際で縮こまる杏子と、床で呻く隼人を見比べる。「お父さん……子ども……」かすれる声で、私はドアの外を指さした。啓司がうなずく。「大丈夫。もう確保してる。今は保育器に入って、専門スタッフがついてる。問題ない」その言葉を聞いた瞬間、胸を押さえていた重石が落ちた。――次の瞬間、憎しみが一気に燃え広がる。そこへようやく、警備員と院長がよろよろと駆け込んできた。「やめろ!何をしてるんだ!」隼人は救
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第6話

手術室は、もはや処刑場と化した。杏子の悲鳴は、豚を絞め殺す声よりも耳障りだった。母は手慣れていた。太い血管は正確に避け、痛みを強く感じる神経が集中している場所だけを狙って、刃を入れていく。切るたびに血は出るが、命に別状はない。「まだまだだね、この手つき」父が横でそう評しながら、足元にいた空気も読めず吠え続けるトイプードルを、ついでのように蹴り飛ばした。「躾もされていない奴には、それなりの末路がある」その光景を見て、隼人は全身がブルブルと震え、恐怖で動けなくなった。彼は怖くなったのだ。心底、怖かった。自分も杏子と同じ目に遭うのではないか。彼は必死に這い寄り、私の脚にすがろうとした。「瑠香!俺の妻だろ!頼む、俺が悪かった!全部、杏子のせいだ!あいつが俺を誘惑したんだ!火をつけろって言ったのも、あいつだ!犬を助けないなら自殺するって脅されて、仕方なかったんだ!まさか君が怪我するなんて思ってなかった!会社も全部やる!金も全部渡すから!」私は、泣きじゃくるその男を見下ろした。かつては傲慢で、誰よりも偉そうだった隼人。今は、地面に転がる犬と変わらない。吐き気がする。情けなくて、笑えてくる。六億の保険金欲しさに、人の悪意に加担し、火事を見過ごし、私を焼き殺そうとした。それだけじゃない。私に残っていたわずかな無傷の皮膚を剥ぎ取って、杏子というあざとい女の、どうでもいい怪我を治そうとまでした。もし私の両親と兄が、表でも裏でも顔がきく連中じゃなかったら。隼人は、こんなふうに地べたに這いつくばって命乞いしていただろうか。答えは、決まっている。絶対に、しない。世の中には、男のために人生を捧げた挙げ句、枕元の相手に裏切られ、命まで奪われる女が山ほどいる。そう思った瞬間、抑えきれない怒りが胸いっぱいに広がった。啓司が隼人の顔を踏みつけ、ぐりぐりと力を込める。「勝手に身内ヅラするな。誰がお前の妻だ」彼はしゃがみ込み、ノギスを取り出して隼人の身体を測り始めた。「瑠香、この男、鎖骨の形がいいな。削り出して、引き出しの取っ手にしたらどうだ?」隼人は白目をむき、股間をぐっしょり濡らした。隼人が責任を押しつけるのを聞いて、杏子ももう弱者のフリをやめた。
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第7話

隼人は、バケツ一杯の氷水をぶちまけられて目を覚ました。意識が戻った瞬間、自分が広大な地下空間にいることに気づく。周囲には冷凍庫がずらりと並び、空気にはホルマリンと死臭が混じっていた。そこは須藤家の地下にある、私設の遺体安置所だった。杏子は隣の解剖台に縛りつけられ、口にはあのトイプードルの首輪が無理やり押し込まれている。恐怖で完全に壊れてしまったのか、焦点の合わない目で、よだれを垂らしていた。私は車椅子に座り、手には湯気の立つ紅茶を持っている。父は巨大な火葬炉の予熱スイッチを調整していた。轟音とともに炉が稼働し、熱気が一気に押し寄せる。隼人は、怯え切った表情で炉の口を見つめた。「瑠香!正気か!こんなことしたら刑務所行きだぞ!」私はくすっと笑い、カップを置く。「隼人、ここは地下十階よ。電波もないし、監視カメラもない。あなたを灰にしても、誰もここに来たなんて気づかないわ。そうそう、言い忘れてた。あなたのアカウントで遺書、もう投稿しておいたから。罪悪感に耐えきれなくなって、杏子と心中したって内容よ。今頃ネットじゃ、最低男だって叩かれまくってるわ。誰も同情なんてしてくれない」隼人は完全に心が折れた。床に膝をつき、何度も頭を下げる。「瑠香……夫婦だった情だけでいい、助けてくれ!死にたくない!本当に死にたくないんだ!」私は合図を出し、ボディーガードに彼を炉の前まで引きずらせた。「ほら、嗅いでみなさい。この匂い、覚えがあるでしょ?昔、私を火事の中に閉じ込めたときも、こんなふうに暖かいって思った?」熱風にさらされ、隼人の眉毛が縮れ、悲鳴を上げた。「やだぁぁぁ!もう嫌だ!外に出してくれ!」私は手を振り、引き戻させた。「まだよ。死ぬには、まだ早い。ちゃんと生きて、味わってもらわないと」母が化粧ブラシを手に近づいてくる。杏子の前に立ち、その顔に淡々と手を加え始めた。「動かないで。まだムラがあるから。表情が硬すぎるわ。ちゃんと陰影つけないと」それは死人に施す納棺用の化粧だった。不自然なほど白い肌に、血のように赤い唇。杏子は鏡に映る自分を見つめ、喉を鳴らすように笑う。「きれい……すごくきれい……」完全に壊れていた。父は弾が一発だけ入った拳銃
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第8話

一年後。須藤家で、盛大な「葬儀」が行われた。参列者は私と私の家族だけ。遺体はなく、あるのは骨灰の入った小さな箱が二つ。それが隼人と杏子だった。あの夜のあと、二人は地下室で三日間、生き延びた。そして最後は炉に入れられた。隼人は炉の中で、「瑠香、ごめん……」と叫び続け、やがてその声も途切れた。杏子はずっと子守唄を歌っていた。笑いながら、灰になっていった。啓司は、その二つの骨灰を露骨に嫌悪の目で見下ろした。「不純物が多すぎる。汚いな」そう言うと、骨灰をそのまま排水口へ流し込む。レバーを押す。ごうっという音とともに、水に消えた。――塵は塵へ、土は土へ。屑は、下水の底へ。「こんな灰、畑に撒いたって作物が枯れるだけだ」父は手についた骨灰を払うと、私を振り返った。「気は晴れたか?足りなければ、やつらの先祖の墓でも掘り返すが」私は、言葉を覚え始めた子どもを腕に抱き、微笑んで首を横に振った。「もう、十分よ」こんな人たちのために、これ以上、時間を無駄にする価値はない。子どもはとても健康で、須藤悠人(すどう ゆうと)と名付けた。父親はいないけれど、この世界で一番彼を愛してくれる祖父母と叔父がいる。母は人体模型を使って、子どもに言葉を教えている。「これは頭の骨、これは胸の骨……」少し不気味な光景なのに、不思議と、とてもあたたかい。背中に残る傷痕は、今も消えていない。まるで勲章みたいに。それは常に私に教えてくれる。――もう二度と、簡単に人を信じるな、と。……家族以外は。数日前、若い実業家が私に言い寄ってきた。花を贈り、車を贈り、ダイヤの指輪まで用意した。昔の私なら、心が揺れたかもしれない。でも今は、ただ退屈なだけ。かつて私は、「愛」という言葉を信じて、隼人と一緒になった。家のことを切り盛りし、洗濯も料理も引き受け、彼に尽くして、子どもまで産んだ。それなのに最後は、愛人と金のために、彼自身の手で、私は殺されかけた。一生守るだの、離れないだの。あんな誓いは、女を縛りつけるための、都合のいい嘘でしかない。不確かな感情と、終わりのない打算に縛られて、誰かの付属品になるくらいなら。自分で力を握り、この世界を、自由に生きたほうがいい。
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