夫の瀬川廉(せがわ れん)には重度の潔癖症がある。だから私・瀬川知音(せがわ ともね)とは家では別室で寝て、洗濯物も別々に洗うというルールを作った。私が触った食器すら、目の前でゴミ箱に捨て、バイ菌がついていると言って嫌がる。だが結婚記念日のこの日、彼の一点の曇りもないアウディの車内から、破れた黒のストッキングと、口紅の跡がついた吸い殻が出てきた。問い詰める私に、彼は袖口を整えながら淡々と答えた。目も合わせずに。「女性社員を送っただけだ。うっかり落としたんだろう」私は何も言わず、彼の会社でのライバル・神宮寺優也(じんぐうじ ゆうや)に電話をかけた。そこで初めて知った。彼が新しい女性アシスタント・小泉さくら(こいずみ さくら)を雇ったことを。電話の向こうで、優也は意味深に笑った。「奥さん、俺は何度も見てますよ。あなたの旦那さん、給湯室で女の子にケーキを食べさせて、手まで服の中に入れてましたからね。その子、子供まで妊娠して、今まさに正妻の座を奪うことを目論んでいるらしいですよ」電話を切り、私は結婚記念日のプレゼントをゴミ箱に捨てた。廉、私たちはもう終わりだ。……ゴミ箱の中のカフスボタンが、天井の照明を受けて鈍く光っていた。廉のために三ヶ月かけてやっと手に入れた限定品だった。今、それはリンゴの皮と使い捨てのティッシュの山に埋もれている。私はじっと見つめた。玄関の鍵が回る音がした。廉が帰ってきた。空気が一瞬で消毒液の匂いに変わった。鼻を突く刺激臭が、家に漂っていた柔らかなレモンの香りを覆い尽くす。私は立ち上がり、迎えに出た。いつもの習慣で手を伸ばし、脱いだスーツの上着を受け取ろうとする。指先が布地に触れた瞬間。廉が勢いよく後ろに飛び退いた。背中が玄関の棚にぶつかり、鈍い音を立てる。廉は私の手を凝視し、眉をきつく寄せ、口角を下げた。極度の嫌悪を示す表情だ。「手を洗え」声は冷たかった。私の手は宙に浮いたまま、指先がかすかに震えていた。空気中には消毒液以外に、薄くタバコの匂いと、安っぽい化粧品の甘ったるい香りが混じっていた。廉はタバコを吸わないし、甘ったるい匂いも大嫌いなはずだ。私は手を引っ込め、服の裾を強く握りしめた。「今日は結婚記念日よ」廉は私を見ず、ネクタイ
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