私のすべてを捧げた恋は、ゴミだった のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

売れない画家の彼氏・高橋大輝(たかはし だいき)を支えた7年間、カップラーメンばかりの毎日だった。その彼が、ついに個展を開くことになった。オープニングセレモニーが始まり、スポットライトが中央に飾られた一枚の絵を照らした。それは、まるで生きているかのような女性を描いた油絵で、『白蓮の乙女』と名付けられていた。しかし、絵に描かれていた女性は、私じゃなかった。大輝は興奮した様子で、メディアに向かってこう紹介していた。「この女性こそが、俺のミューズ。俺のインスピレーションは、すべて彼女から生まれるんです!」私が駆け寄って問いただすと、大輝はうんざりした顔で私を隅に追いやった。「君に何が分かる?アートには新鮮さが必要なんだよ。君と一緒じゃ、生活感のある絵しか描けない!この絵一枚だけで、6000万円の値がついたんだ。もう、貧乏な暮らしをしなくてもすむんだよ」大輝は私を見ながら言った。「君には二つの選択肢がある。裕福な芸術家の夫人になって、俺のミューズに目をつぶるか。それとも、あのアパートに帰ってカップラーメンをすすり続けるかだ」7年間、愛し続けた男の顔を見ていると、腹が煮えくり返るような怒りが湧いてきた。「大輝。あなたの提案はどっちもゴミみたいね。悪いけど、私はゴミ箱の中から自分の未来を探すつもりはないわ。大輝、7年だよ」私の声は震えていて、まともに言葉にならなかった。「7年間よ!あなたがスランプに陥った時、私がバイトを掛け持ちして一番高い画材を買ってあげたんじゃない!あなたが高熱で倒れた時も、私が病院まで背負っていって、3日間ろくに寝ないで看病した。この7年間、私が食べたカップラーメンは、あなたが使ったキャンバスより多いのよ。なのに今、私に消えろって言うわけ?」大輝は高そうなスーツの襟元を整えながら、私に冷たい視線を向けた。「奈津美(なつみ)、そんなに興奮するなよ。せっかくの化粧が台無しだ。君の言うことはもっともだ。君には感謝してるよ。だからこそ、こうして選択肢をあげているんだろう?」例の陣内菖蒲(じんない あやめ)という女……絵の中の女神は、少し離れた場所で優雅にシャンパンを手にしていた。まるで、この場の主役みたいに、皆からの祝福を受けている。時折、こちらに視線を向けては、勝ち誇ったよう
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第2話

「謝れって?大輝、頭おかしいんじゃない?謝るべきなのは、そっちでしょ」私は大輝を睨みつけた。頬の痛みなんて、胸の痛みに比べたらどうってことなかった。「自分は悪くないって?」大輝は言葉を失った。そして、私がどれだけ話の通じない女か、そこにいる全員に聞かせるみたいに声を張り上げた。「展示会に乗り込んできて大騒ぎして、みんなの前で俺のミューズを侮辱して、個展を台無しにしかけた。それでもまだ自分が悪くないって言うのか?」菖蒲は大輝の腕の中でそっとすすり泣き、肩を震わせている。「大輝、もういいの。藤堂さんを責めないであげて。彼女、もしかしたら、ただ現実を受け入れられないだけなのかも……だって、あなたたちは、長い間一緒にいたんだもの」その言葉は、一見私をかばっているようだった。でも、その一語一語が大輝に思い知らせている。私がどれだけ面倒で、世間知らずで、足手まといな存在であるかを。菖蒲に言わせれば、私はまるで、芸術家である大輝のキャリアの汚点みたいなものだ。「黙れ!」私は菖蒲に向かって叫んだ。大輝の顔から、完全に表情が消えた。「奈津美、最後にもう一度言う。謝れ」私は大輝を見た。彼の腕の中でか弱そうにしている女も見た。周りでおもしろそうにこっちを見ている人たちの視線も感じた。すると、喉の奥から鉄の味がせり上がってきた。「わかった。謝るわ」菖蒲は私を見上げた。その瞳の奥には、かすかな得意の色が浮かんでいる。私は息を深く吸い込んで、菖蒲の前に歩み寄り、素早く手を振り上げた。バチンッ。その平手打ちは、さっき菖蒲が私にしたものより、ずっと鋭く、重い音がした。展示ホール全体が、しんと静まり返った。そこにいた誰もが、ぽかんとしていた。菖蒲は頬を押さえ、呆然と私を見つめている。最初に我に返ったのは、大輝だった。彼は私を突き飛ばした。私はよろめいて後ろの展示台にぶつかり、肘に激痛が走った。「気でも狂ったのか!」大輝は目を真っ赤にして、怒鳴った。「大輝、狂ってるのはあなたの方でしょ」展示台を支えにして、なんとか立ち上がる。肘の痛みなんて、胸の痛みの百分の一にも満たなかった。「さっき、私にどっちを選ぶのかって聞いたよね?今、選んであげる。私が選ぶのは、自分の安アパートに帰って、カップラーメンを食べ
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第3話

大輝に手首を掴まれて、きしむように痛かった。「大輝、放して!これは私が描いたものよ、私のものなの!」「君のものだと?」大輝は鼻で笑うと、私の手を振り払った。「君が住んでる場所も俺のものだ。ここにある何が君のものだっていうんだ?」大輝は床に散らばった惨状を指さした。「こんなガラクタ、とっくの昔に捨ててやりたかったんだ。奈津美、君も、君の持ち物も、貧乏くさくて安っぽいんだよ。そんな君と芸術を語れると思うか?」「貧乏?」私は大輝が着ているオーダーメイドのスーツと、腕にはめられた高級腕時計を見て、ばかばかしくなった。「いったい誰が、私が食費を切り詰めて買ってやったシャツを着て、コンクールに行ったっていうの?誰が、私が街中を探し回ってやっと見つけた安物のキャンバスを使って、出世作を描いたの?大輝、忘れたの?あなたの成功は、私の貧しさとみじめな努力のうえに成り立っているのよ!」「もういい!」大輝は痛いところを突かれて、逆上した。「昔のことを言っても意味がない!もういい加減、これから先のことを考えろ!」大輝はポケットからカードを取り出すと、私の足元に投げ捨てた。「この中に200万円入っている。これを持って、さっさと俺の前から消えろ。二度と俺にまとわりつくな」200万円。7年という歳月が、たったの200万円。ずいぶん気前がいいことだ。床に落ちたキャッシュカードと、大輝の冷酷な顔を交互に見て、私の心はズタズタに引き裂かれるようだった。菖蒲が近づいてきて、カードを拾うと私の手に押しつけた。彼女の長くて鋭い爪が手の甲をひっかき、赤い筋を残す。「藤堂さん、受け取ったらどうです?200万円あれば、当分カップラーメンには困らないでしょう」菖蒲は私の耳元に顔を寄せた。「知ってます?大輝が最初にプレゼントしてくれたのは、カルティエの『ミューズ』。3600万円もしたのですよ。『君の首筋は世界一の絶景だから、安物で汚すわけにはいかない』って言ってくれました。それにひきかえ、あなたは……」菖蒲は私を上から下まで見下して言った。「あなたには、こういうのがお似合いってことですよ」私は菖蒲を突き飛ばすと、手の中のカードを大輝の顔に叩きつけた。「あなたのお金なんて、一円だっていらない!大輝、覚えてなさ
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第4話

地下室の湿気は、まるで無数の冷たい蛇のようだ。足首から骨の隙間まで、じわじわと這い上がってくる。私はカビ臭い布団に縮こまっていた。この狭い空間で唯一の熱源は、スマホの画面から漏れるかすかな光だけ。ネット上のコメントが、お祭り騒ぎの波みたいに押し寄せてきて、私を完全に飲み込んでしまった。みんな私を「地雷女」だの、「金の亡者」って呼んだ。誰かが今の住所を特定してネットに晒し、「芸術を邪魔する罪人」を懲らしめに来ると息巻いてる。震える手で、大輝と昔一緒に撮った写真を見返した。でも、彼のSNSアカウントからは、私に関する投稿がすべて消されていた。代わりにあったのは、大輝が菖蒲のために描いた『白蓮の乙女』の絵だった。添えられていた言葉は、【ついに運命の人に出会えた】というもの。なるほどね。7年間大輝と一緒にカップラーメンをすすった私は、彼の運命の人じゃなかったんだ。ただ、急いで消し去りたい汚点だったんだ。突然、胃がキリキリと痛み出した。酸っぱい胃液を吐き出すと、喉が焼けるように痛かった。鏡に映った自分の顔は、目の周りがくぼんで、顔色も悪かった。まるで、知らない人みたいだった。でも、悔しい。このまま終わらせるなんて、絶対に嫌だ。私はスマホを取り出して、ある番号を探して電話をかけた。「もしもし、栗原さん?藤堂です。大輝を訴えたいんです」「訴えるって?藤堂さん、ちょっと落ち着いてください」電話の向こうの弁護士の栗原光希(くりはら みつき)は、大学の先輩だ。そして、私が頼れる唯一の人だった。「何で訴えますか?男女のもつれなんて、法律は介入してくれないんですよ」「男女のもつれじゃありません。この7年間、大輝のために尽くしてきたこと、全部記録があります。私の給料の振込記録、彼のために画材を買ったレシート、私が代わりに払ったクレジットカードの請求書まで……これって、共有財産にはならないんですか?大輝は今や売れっ子になって、絵が一枚すごい高値で売れるんです。財産分与を求めるのって、そんなに無茶な話じゃないですよね?」光希は、少し黙り込んだ。「藤堂さん、それは難しいです。あなたたちは結婚してないから、法律上はただの同棲関係なんです。あなたのこれまでの援助は、相手への一方的なプレゼントだって判断されやすいです。そ
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第5話

無視したかったけど、何度も何度も執拗に着信音が鳴り響く。なぜだか、私は吸い寄せられるようにその電話に出た。「もしもし、藤堂さんでしょうか?」電話の向こうから、穏やかな男性の声がした。「初めまして。瑞徳グループ法務部の石川竜之介(いしかわ りゅうのすけ)と申します」瑞徳グループ?あの『白蓮の乙女』を6000万円で買い取った会社だ。私の心臓が、どくんと大きく跳ねた。「私に、何かご用でしょうか?」「藤堂さん。実は、うちの会長が高橋さんの絵画を購入した後、その創作背景について少し調査をいたしました。その結果、この絵画には、もしかしたら……著作権に関する問題があるかもしれないと判明しました」著作権の問題?私は呆然とした。「どういう意味か、分かりません」「調査によりますと、高橋さんはこの絵を描く際に、『田中翠(たなか みどり)』というペンネームの個人イラストレーターの作品を、かなり参考にされているようです。構図や光と影の表現、細かい筆遣いに至るまで、非常によく似ているのです。そして、こちらの調査では、この田中翠というイラストレーターは、藤堂さん、あなたご自身であると。ですが、あなたは高橋さんに、ご自身の作品を商業目的で利用することを許可していませんよね」竜之介の声は穏やかで聞き取りやすかったけど、その言葉は爆弾のように、私の頭の中で炸裂した。「田中翠」という名前。大学時代に、こっそりネットでイラストを描いていた時のペンネームだ。趣味で描いていただけだから、大輝にだって教えていなかった。だって、大輝はいつも私の絵を「技術はあるけど、魂がない」って、馬鹿にしていたから。大輝があんなにくだらないと見下していた私の絵が、まさか彼がのし上がるための踏み台にされていたなんて、思いもしなかった。それなのに、大輝は最初から最後まで、私に一言も話してくれなかった。「藤堂さん、聞いていますか?」竜之介の声で、私は衝撃から我に返った。「は……はい、聞いてます」「うちの会長は、あなたの才能を高く評価しております。会長は、高橋さんの『二次創作』よりも、あなたのオリジナル作品の方が、ずっと価値があると考えております。そこで、あなたと提携の話をさせていただきたいのです。こちらが費用を負担します
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第6話

大輝は、思わず奈津美に頼ろうとした。どんなトラブルを起こしても、いつも真っ先に駆けつけて、全てを解決してくれた女のことを。大輝はスマホを取り出し、記憶に焼き付いている番号に電話をかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」その冷たいアナウンスは、まるで頭から冷水を浴びせられたかのような衝撃だった。解約されてる?あいつ、電話番号まで変えちまったのか?これまで感じたことのない恐怖が、一瞬にして大輝の心を支配した。そこで初めて、大輝は悟った。奈津美が、自分の世界から本当に、跡形もなく消えてしまったのだと。大輝はパーティーを飛び出し、菖蒲を連れて狂ったように車を走らせた。そして、あのアトリエへと戻った。大輝はイーゼルに置かれた『白蓮の乙女』の下絵を、食い入るように見つめた。隣では菖蒲が慌てて化粧を直しながら、ぶつぶつと文句を言っている。「ねぇ大輝、早く瑞徳グループの会長に電話しなさいよ。この絵はあなたが描いたんでしょ?藤堂さんみたいな田舎者に、著作権なんて分かるわけないじゃない?」「黙れ!」大輝は、突然怒鳴りつけた。彼は絵筆を握り、キャンバスに線を引こうとした。奈津美がいなくても平気だということを、証明したかった。しかし、手は震え、頭の中は真っ白になってしまった。そして大輝は恐ろしい事実に気づく。奈津美と離れてから、自分は基本的な色の使い方さえ、分からなくなっていたのだ。大輝はもう一つの部屋に駆け込み、忘れかけていた隅の方を、夢中で探し回った。しかし、奈津美の痕跡はすべて、自分の手で消してしまった後だった。タンスや棚をひっくり返し、ようやく古びた段ボール箱の中から、奈津美が置いていった分厚いスケッチブックを数冊見つけ出した。最初の一冊を開いた途端、大輝の顔から血の気が引いていった。そこに走り書きされた線は、まさに『白蓮の乙女』の原案そのものだった。自分が「神業だ」と自負していた光と影の表現も、とっくに奈津美のスケッチの片隅に描かれていた。大輝は今まで、自分こそが天才で、奈津美はただの凡人だと思い込んでいた。でも本当は、自分自身を騙して、都合よく忘れていただけなのだ。『白蓮の乙女』が偽物に過ぎないということを。今、ようやく大輝は悟った。自分は芸術家などではない。
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第7話

個展の準備をする3ヶ月間、私は竜之介が用意してくれた療養施設で過ごした。そこは静かで、世間から隔絶された場所だった。もう大輝に見つかる心配もないし、世間の心ない噂に悩まされることもなかった。専門的な治療のおかげで、心は少しずつ回復していった。普通にご飯も食べられるようになったし、夜も眠れるようになった。悪夢はまだ見るけれど、以前ほど頻繁ではなくなった。竜之介は週に一度、最新の画材を手に、私に会いに来てくれた。竜之介は私を急かすことなく、ただ静かにそばにいてくれた。天気の話や、彼が飼っている「カプすけ」という猫の話を聞かせてくれた。「どうしてカプすけって言うの?」私は竜之介に尋ねた。「拾ったとき、お腹を空かせてゴミ箱にあったカップ麺の容器を舐めてたんだ」竜之介は笑った。「俺に似て、食いしん坊なんだよ」その言葉で、大輝と一緒にカップラーメンを食べて過ごした日々を思い出した。胸の奥が、今でもちくちくと痛んだ。「過去は、心にあいた穴のようなものなんだ」竜之介は優しい眼差しで私を見つめた。「焦って埋めようとしたり、ないふりをしたりしなくていい。ただ、その穴を認めて、うまく避けて通ればいいんだよ。いつか、自分がすごく遠くまで来たってことに気づくはずだよ。そのときには、心にあいた穴なんて、振り返った時には遠くに小さく見える点みたいになってるから」竜之介に励まされて、私は再び絵筆を手に取った。最初のうちは、何も描けなかった。筆を持つと、決まって大輝の冷たい顔と、菖蒲の勝ち誇った笑みが頭に浮かんできた。手が震えて、まっすぐな線を引くことさえできなかった。いらだって、画用紙をくしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。竜之介は何も言わずにそれを拾い上げると、しわを伸ばし、新しい筆を私に差し出してくれた。「描けないなら、無理することはないよ」竜之介は言った。「君が描きたいものを、描けばいい」描きたいもの?私は窓の外に目を向けた。窓の外では、一本の枯れ木が風に揺れていた。私は、その木を描いた。最も荒々しい線と、最も暗い色を使って。描き終えたとたん、涙が溢れ出した。この療養施設に来てから、私が初めて声を上げて泣いた瞬間だった。それから、私は夢中で絵を描き始めた。枯れた花、割れた鏡、
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第8話

個展の初日、私はあの白いワンピースを着て、スポットライトの下に立っていた。会場は、大勢の人で埋め尽くされていた。メディア関係者もいれば、評論家もいる。そして、ただの野次馬もいた。人ごみの中に、見慣れた姿を見つけた。大輝だった。彼は痩せて、やつれていた。無精ひげを生やし、目の下は窪んでいた。かつての自信に満ち溢れた面影は、どこにもなかった。大輝は隅っこに立って、遠くから私を見ていた。その目は、何か言いたそうだった。大輝の隣に、菖蒲はいなかった。竜之介から聞いた話だと、盗作騒動の後、菖蒲はすぐに大輝と縁を切り、お腹の子も諦めて、さっさと別の金持ちに乗り換えたらしい。大輝は周りの人たちがみんな離れていって、悪い噂ばかりが広まっていた。大輝の絵は、もう二束三文の価値もなかった。彼は天国から、地獄の底へ突き落とされたんだ。1億8000万円の借金が、大輝をさらに深く、冷たい沼の底へと引きずり込んでいた。私の個展は、大成功だった。苦しみや葛藤に満ちた私の作品は、予想外のことにも多くの人の共感を呼んだ。みんな、私の絵の中に、自分の姿を見たと言ってくれた。絶望の中でも、諦めようとしない自分の姿を。個展の最後に、竜之介がステージに上がった。竜之介はみんなの前で発表した。瑞徳グループが若手アーティストを支援する基金を設立し、私がその首席顧問に就任する、と。才能がありながらも、世に出る機会のない若いアーティストを助けるための基金だ。会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。ステージから見える、若くて熱意のある顔ぶれを見ていると、まるで昔の自分を見ているようだった。私の目頭は、熱くなった。私はやっと、なりたかった自分になれたんだ。誰かのおまけじゃない。誰かの引き立て役でもない。私は、私。個展が終わって、私は楽屋でメイクを落としていた。そこへ、大輝が入ってきた。「奈津美」大輝は私の名前を呼んだ。声はひどくしゃがれていた。私は振り返らず、ファンデーションを落とし続けた。「少し、話せないか?」「私たち、今更話すことなんてある?」私の声は、何の感情もこもっていなかった。「すまなかった」大輝は私の前に来て立ち止まった。あんなに大きかった体が、今はなんだかとても小さく見
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第9話

「奈津美、俺にこんな仕打ちをしないでくれ」大輝は顔を上げた。その目は充血していた。「君のために、俺はあんなに尽くしたのに……君を叩くコメントは全部消したし、昔のこともちゃんと説明させたじゃないか……」「あなたのその行動は、私のためにやったことなの?それとも、自分の罪悪感を軽くしたかっただけ?」私は大輝の言葉を遮り、核心を突いた。「大輝、あなたは私を愛してるんじゃないの。ただ、自分の都合のいいように私を利用して、罪悪感なく自分の欲望を満たせる……そんな自分自身を愛しているだけ。昔は、文句も言わずに尽くしてくれる都合のいい女が必要だった。だから、私はあなたと一緒にカップラーメンをすする役だったのよ。その次は、自分を着飾るためのミューズが必要になった。それで、陣内さんがあなたの『女神』になったわけ。そして今、あなたは何もかも失って、どん底から引き上げてくれる救世主が欲しくなった。だからまた、私のことを思い出した」私が言葉を重ねるたびに、大輝の顔は血の気を失っていった。「あなたは、永遠に満たされることのないブラックホールなのよ。「私を愛してるんじゃない。あなたはただ、1億8000万円っていう泥沼にはまって、また私が必要になっただけ」私の言葉は鋭いナイフのように、大輝の偽りの仮面を切り裂き、その奥にある醜い本性をむき出しにした。大輝は床にへたり込み、一言も返せなかった。「大輝」私はドアの前まで歩いて、足を止めた。「知ってる?あなたと陣内さんが脚光を浴びていたあの時、私は暗い地下室で、死のうとしてたのよ。あの瞬間に、あなたへの愛情は全部消えた」振り返ると、魂が抜けたような大輝の姿があった。「もう行って。二度と私の前に現れないで」ドアを閉め、大輝の苦しみも絶望も、すべてをシャットアウトした。ドアの向こうから、大輝の押し殺したような、胸が張り裂けそうな泣き声が漏れてきた。ドアに背をもたれたまま、とうとう涙がこぼれ落ちた。この涙は大輝のためじゃない。私自身のための涙だ。ばかげた恋だった。さようなら。外では、竜之介が待っていてくれた。竜之介は何も聞かず、自分のジャケットを脱ぐと、そっと私の肩にかけてくれた。「行こうか」と竜之介が言った。「いい場所に連れて行ってあげる」竜之介が
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第10話

その後の大輝は、アートの世界から完全に姿を消した。噂によると、大輝は会社を売り払ったみたい。瑞徳グループへの違約金を払ったら、ほとんど何も残らなかったらしい。大輝は酒に溺れ、来る日も来る日も、あの小さな屋根裏部屋に閉じこもっていた。そして、かつて捨てた私のものを、すべて買い戻したそうだ。大輝は何度も何度も私の肖像画を描いた。でも、できあがるのはいつも、涙を流す私の顔ばかりだった。大輝は、おかしくなってしまった。大輝の話は、業界の笑いものになった。ただのゴシップのネタ。場末のカウンセリングクリニックで大輝を見かけた人がいる。スケッチブックを山ほど抱えて、ぶつぶつと独り言を言っていたそうだ。「奈津美は戻ってくる……俺の奈津美は、誰よりも優しいから……必ず、戻ってきてくれるはずなんだ……」でも、私が戻ることは、もう二度となかった。私は、竜之介と一緒になった。竜之介はヒーローなんかじゃない。ただ、不器用に朝ごはんを作ってくれたり、私が絵を描いていると静かにホットミルクを差し出してくれたりする、ごく普通の男。私たちの結婚式は、小さな教会で挙げた。マスコミも、有名人もいない。本当に親しい友人だけを招いた式だった。私は自分でデザインしたウェディングドレスを着た。竜之介は私を見て、その瞳を星のように輝かせていた。結婚後、私たちは静かな海辺の小さな町に住むことにした。私は小さなアトリエを開いて、子供たちに絵を教えている。竜之介は瑞徳グループを辞めて、こぢんまりとした弁護士事務所を開いた。一年後、私は女の子を産んだ。その子は私とそっくりの目をしていて、笑うと竜之介と同じように、浅いえくぼができた。私はよく娘を連れて、海辺に絵を描きに行った。娘の絵、竜之介の絵、海の絵、空の絵。私の絵には、もう苦しみや葛藤はない。そこにあるのは、太陽の光と愛だけだった。ある年、私のアトリエに招かれざる客がやってきた。大輝だった。大輝はすっかり老け込んでいた。髪は白くなり、目は濁り、体からはひどい酒の匂いがした。大輝はアトリエの入り口に立って、私と竜之介を見ていた。庭で蝶々を追いかけている娘のことも。私たち家族三人は、とても楽しそうに笑っていた。その光景は、きっと大輝の胸に突き刺さったのだろう
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