LOGIN売れない画家の彼氏・高橋大輝(たかはし だいき)を支えた7年間、カップラーメンばかりの毎日だった。その彼が、ついに個展を開くことになった。 オープニングセレモニーで、スポットライトが会場のど真ん中にある作品を照らし出した。 それは、まるで生きているかのような女性を描いた油絵で、『白蓮の乙女』と名付けられていた。 しかし、絵に描かれていた女性は、私じゃなかった。 大輝は興奮した様子でマスコミに語った。「この女性こそが俺のミューズで、インスピレーションの唯一の源泉なんです!」 私が駆け寄って問い詰めると、大輝は迷惑そうに私を隅っこに引っ張っていった。 「君に何が分かる?アートには新鮮さが必要なんだ!君と一緒じゃ、生活感のある絵しか描けないだろ! この絵一枚で6000万円の値がついたんだ。これで、もう貧乏暮らしから抜け出せる」 大輝は私を見て言った。「君には二つ道がある。芸術家のセレブな夫人になって、俺のミューズに目をつぶる。それか、あのボロアパートに帰って、カップラーメンをすする毎日に逆戻りするかだ」 7年も愛した男を見つめていると、心の底から怒りがこみ上げてきた。 「大輝、あなたの選択肢はどっちもゴミね。私は、ゴミ箱の中から自分の未来を拾う趣味はないの」
View Moreその後の大輝は、アートの世界から完全に姿を消した。噂によると、大輝は会社を売り払ったみたい。瑞徳グループへの違約金を払ったら、ほとんど何も残らなかったらしい。大輝は酒に溺れ、来る日も来る日も、あの小さな屋根裏部屋に閉じこもっていた。そして、かつて捨てた私のものを、すべて買い戻したそうだ。大輝は何度も何度も私の肖像画を描いた。でも、できあがるのはいつも、涙を流す私の顔ばかりだった。大輝は、おかしくなってしまった。大輝の話は、業界の笑いものになった。ただのゴシップのネタ。場末のカウンセリングクリニックで大輝を見かけた人がいる。スケッチブックを山ほど抱えて、ぶつぶつと独り言を言っていたそうだ。「奈津美は戻ってくる……俺の奈津美は、誰よりも優しいから……必ず、戻ってきてくれるはずなんだ……」でも、私が戻ることは、もう二度となかった。私は、竜之介と一緒になった。竜之介はヒーローなんかじゃない。ただ、不器用に朝ごはんを作ってくれたり、私が絵を描いていると静かにホットミルクを差し出してくれたりする、ごく普通の男。私たちの結婚式は、小さな教会で挙げた。マスコミも、有名人もいない。本当に親しい友人だけを招いた式だった。私は自分でデザインしたウェディングドレスを着た。竜之介は私を見て、その瞳を星のように輝かせていた。結婚後、私たちは静かな海辺の小さな町に住むことにした。私は小さなアトリエを開いて、子供たちに絵を教えている。竜之介は瑞徳グループを辞めて、こぢんまりとした弁護士事務所を開いた。一年後、私は女の子を産んだ。その子は私とそっくりの目をしていて、笑うと竜之介と同じように、浅いえくぼができた。私はよく娘を連れて、海辺に絵を描きに行った。娘の絵、竜之介の絵、海の絵、空の絵。私の絵には、もう苦しみや葛藤はない。そこにあるのは、太陽の光と愛だけだった。ある年、私のアトリエに招かれざる客がやってきた。大輝だった。大輝はすっかり老け込んでいた。髪は白くなり、目は濁り、体からはひどい酒の匂いがした。大輝はアトリエの入り口に立って、私と竜之介を見ていた。庭で蝶々を追いかけている娘のことも。私たち家族三人は、とても楽しそうに笑っていた。その光景は、きっと大輝の胸に突き刺さったのだろう
「奈津美、俺にこんな仕打ちをしないでくれ」大輝は顔を上げた。その目は充血していた。「君のために、俺はあんなに尽くしたのに……君を叩くコメントは全部消したし、昔のこともちゃんと説明させたじゃないか……」「あなたのその行動は、私のためにやったことなの?それとも、自分の罪悪感を軽くしたかっただけ?」私は大輝の言葉を遮り、核心を突いた。「大輝、あなたは私を愛してるんじゃないの。ただ、自分の都合のいいように私を利用して、罪悪感なく自分の欲望を満たせる……そんな自分自身を愛しているだけ。昔は、文句も言わずに尽くしてくれる都合のいい女が必要だった。だから、私はあなたと一緒にカップラーメンをすする役だったのよ。その次は、自分を着飾るためのミューズが必要になった。それで、陣内さんがあなたの『女神』になったわけ。そして今、あなたは何もかも失って、どん底から引き上げてくれる救世主が欲しくなった。だからまた、私のことを思い出した」私が言葉を重ねるたびに、大輝の顔は血の気を失っていった。「あなたは、永遠に満たされることのないブラックホールなのよ。「私を愛してるんじゃない。あなたはただ、1億8000万円っていう泥沼にはまって、また私が必要になっただけ」私の言葉は鋭いナイフのように、大輝の偽りの仮面を切り裂き、その奥にある醜い本性をむき出しにした。大輝は床にへたり込み、一言も返せなかった。「大輝」私はドアの前まで歩いて、足を止めた。「知ってる?あなたと陣内さんが脚光を浴びていたあの時、私は暗い地下室で、死のうとしてたのよ。あの瞬間に、あなたへの愛情は全部消えた」振り返ると、魂が抜けたような大輝の姿があった。「もう行って。二度と私の前に現れないで」ドアを閉め、大輝の苦しみも絶望も、すべてをシャットアウトした。ドアの向こうから、大輝の押し殺したような、胸が張り裂けそうな泣き声が漏れてきた。ドアに背をもたれたまま、とうとう涙がこぼれ落ちた。この涙は大輝のためじゃない。私自身のための涙だ。ばかげた恋だった。さようなら。外では、竜之介が待っていてくれた。竜之介は何も聞かず、自分のジャケットを脱ぐと、そっと私の肩にかけてくれた。「行こうか」と竜之介が言った。「いい場所に連れて行ってあげる」竜之介が
個展の初日、私はあの白いワンピースを着て、スポットライトの下に立っていた。会場は、大勢の人で埋め尽くされていた。メディア関係者もいれば、評論家もいる。そして、ただの野次馬もいた。人ごみの中に、見慣れた姿を見つけた。大輝だった。彼は痩せて、やつれていた。無精ひげを生やし、目の下は窪んでいた。かつての自信に満ち溢れた面影は、どこにもなかった。大輝は隅っこに立って、遠くから私を見ていた。その目は、何か言いたそうだった。大輝の隣に、菖蒲はいなかった。竜之介から聞いた話だと、盗作騒動の後、菖蒲はすぐに大輝と縁を切り、お腹の子も諦めて、さっさと別の金持ちに乗り換えたらしい。大輝は周りの人たちがみんな離れていって、悪い噂ばかりが広まっていた。大輝の絵は、もう二束三文の価値もなかった。彼は天国から、地獄の底へ突き落とされたんだ。1億8000万円の借金が、大輝をさらに深く、冷たい沼の底へと引きずり込んでいた。私の個展は、大成功だった。苦しみや葛藤に満ちた私の作品は、予想外のことにも多くの人の共感を呼んだ。みんな、私の絵の中に、自分の姿を見たと言ってくれた。絶望の中でも、諦めようとしない自分の姿を。個展の最後に、竜之介がステージに上がった。竜之介はみんなの前で発表した。瑞徳グループが若手アーティストを支援する基金を設立し、私がその首席顧問に就任する、と。才能がありながらも、世に出る機会のない若いアーティストを助けるための基金だ。会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。ステージから見える、若くて熱意のある顔ぶれを見ていると、まるで昔の自分を見ているようだった。私の目頭は、熱くなった。私はやっと、なりたかった自分になれたんだ。誰かのおまけじゃない。誰かの引き立て役でもない。私は、私。個展が終わって、私は楽屋でメイクを落としていた。そこへ、大輝が入ってきた。「奈津美」大輝は私の名前を呼んだ。声はひどくしゃがれていた。私は振り返らず、ファンデーションを落とし続けた。「少し、話せないか?」「私たち、今更話すことなんてある?」私の声は、何の感情もこもっていなかった。「すまなかった」大輝は私の前に来て立ち止まった。あんなに大きかった体が、今はなんだかとても小さく見
個展の準備をする3ヶ月間、私は竜之介が用意してくれた療養施設で過ごした。そこは静かで、世間から隔絶された場所だった。もう大輝に見つかる心配もないし、世間の心ない噂に悩まされることもなかった。専門的な治療のおかげで、心は少しずつ回復していった。普通にご飯も食べられるようになったし、夜も眠れるようになった。悪夢はまだ見るけれど、以前ほど頻繁ではなくなった。竜之介は週に一度、最新の画材を手に、私に会いに来てくれた。竜之介は私を急かすことなく、ただ静かにそばにいてくれた。天気の話や、彼が飼っている「カプすけ」という猫の話を聞かせてくれた。「どうしてカプすけって言うの?」私は竜之介に尋ねた。「拾ったとき、お腹を空かせてゴミ箱にあったカップ麺の容器を舐めてたんだ」竜之介は笑った。「俺に似て、食いしん坊なんだよ」その言葉で、大輝と一緒にカップラーメンを食べて過ごした日々を思い出した。胸の奥が、今でもちくちくと痛んだ。「過去は、心にあいた穴のようなものなんだ」竜之介は優しい眼差しで私を見つめた。「焦って埋めようとしたり、ないふりをしたりしなくていい。ただ、その穴を認めて、うまく避けて通ればいいんだよ。いつか、自分がすごく遠くまで来たってことに気づくはずだよ。そのときには、心にあいた穴なんて、振り返った時には遠くに小さく見える点みたいになってるから」竜之介に励まされて、私は再び絵筆を手に取った。最初のうちは、何も描けなかった。筆を持つと、決まって大輝の冷たい顔と、菖蒲の勝ち誇った笑みが頭に浮かんできた。手が震えて、まっすぐな線を引くことさえできなかった。いらだって、画用紙をくしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。竜之介は何も言わずにそれを拾い上げると、しわを伸ばし、新しい筆を私に差し出してくれた。「描けないなら、無理することはないよ」竜之介は言った。「君が描きたいものを、描けばいい」描きたいもの?私は窓の外に目を向けた。窓の外では、一本の枯れ木が風に揺れていた。私は、その木を描いた。最も荒々しい線と、最も暗い色を使って。描き終えたとたん、涙が溢れ出した。この療養施設に来てから、私が初めて声を上げて泣いた瞬間だった。それから、私は夢中で絵を描き始めた。枯れた花、割れた鏡、