All Chapters of 視界に入らないで、外で詫びなさい: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

私が植物状態になって、今日で百日が経った。私のそばで、探るような女性の声が聞こえた。「青斗、本当に決めたの?美希(みき)さんの物……全部処分しちゃうの?」この声は、横山菫(よこやま すみれ)だ。岩崎青斗(いわさき あおと)の初恋の人で、昔は私の友達でもあった。暗闇の中、青斗の落ち着いた声が聞こえてきた。「ああ」菫の声は、ためらうようだった。「それ、少し早すぎない?」「美希はもう目を覚まさない」青斗の声は、とても冷たかった。「あんな物を取っておいても、邪魔になるだけだ」「でも……」「でもじゃない」青斗は菫の言葉を遮った。「菫、お前に説得されに来たんじゃない。来週、オークションに付き合ってくれ。美希の宝石やバッグを全部処分する」「え?」菫の声が裏返った。「青斗、本気で言ってるの!あれは全部、美希さんが一番大切にしてた物だよ!」「本人がもうダメになるんだ。好きも何もないだろ?」菫が息を呑む音が聞こえた。青斗は椅子を引いて座ると、すらりとした指でベッドサイドのテーブルを軽く叩いた。この人を、私は12年も愛し続けてきた。昔は、あんなに甘い言葉を囁いてくれたのに。それなのに今、青斗は自分の手で、私のいた証をすべて消し去ろうとしている。「パパ」舌足らずな幼い声が、病室の静寂を破った。私たちの娘、岩崎朋花(いわさき ともか)だった。今年で4歳になる朋花は、私の母に手を引かれ、私のベッドのシーツをぎゅっと握っていた。「ママ、ずっと寝てるね。朋花はママに会いたいよ」母が、かすれた声で言った。「美希、お母さんよ。朋花を連れてきたからね」青斗が立ち上がった。彼が朋花に話しかける声が聞こえた。「いい子だ、朋花。ママは疲れているだけなんだ。ゆっくり休ませてあげよう」娘を前にした青斗の声は、ようやく少しだけ温かさを取り戻していた。「うそつき」朋花の幼い声は、泣き出しそうだった。「パパはうそつき。昨日の夜、お部屋に隠れて泣いてたもん」長い沈黙が流れた。やがて青斗が口を開いたけれど、その声はこわばっていて、どこかバツが悪そうだった。「朋花の見間違いだよ」「ちがうもん!」朋花は言い張った。「ママの名前、呼んでたもん。それに……『辛い』って言ってた」それ
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第2話

その日の午後、病室に思いがけない人が訪れた。安西裕也(あんざい ゆうや)だった。青斗の幼馴染で、私たちの共通の友人でもある。きっと海外から帰ってきたばかりなのだろう。その声は長旅の疲れをにじませていた。「青斗は?」と、裕也は看護師に尋ねた。「岩崎さんは、今日来ていません」「どこへ行ったんですか?」「横山さんとパーティーに出席する、と聞いています」「美希……」裕也は小声でつぶやいた。「どうしてこんなことになっちまったんだ?あの野郎、まさか本当に……」裕也の言葉は、ドアが開く音にかき消された。青斗が帰ってきた。彼からは、菫の香りがした。「何しに戻ってきた?」青斗の声は、とても冷たかった。「お前がいつまで狂った真似を続けるのか、見届けに来たんだよ!」裕也はカッと頭に血がのぼった。「青斗、自分が今何をしているか分かっているのか!美希の物を勝手に売り払って……それに菫を家に住まわせるなんて。周りからどう思われているか、分かっているのか?」「好きに言わせておけばいい」青斗の口調は、まったく気にしていないようだった。「お前は気にしなくても、美希のご両親や朋花ちゃんはどうなんだ?彼らのことを考えたことはあるのか?」「ちゃんと考えている」「考えてるだと、ふざけるな!」裕也は怒鳴った。「美希が誰のせいでここに寝ていると思ってるんだ?お前を空港に迎えに行かなければ、事故に遭うこともなかったんだぞ!お前は臆病者だ!現実と向き合うのが怖くて、こんなやり方で逃げているだけじゃないか!」「逃げてはいない」青斗の声は静かなままだった。「俺はやるべきことをしているだけだ」「やるべきこと?それは、美希のことをきれいさっぱり忘れて、初恋の人と一緒になることか?」「そうだ」そうだったんだ。私は、青斗を迎えに行く途中で事故に遭ったんだ。誰もその話をしなかったから、私自身も忘れてしまっていた。それを今、裕也が蒸し返したせいで、血塗られた記憶が生々しくよみがえってきた。あの日は青斗の誕生日だった。私は仕事をキャンセルして、カフスボタンをデザインした。そして出張先の青斗のもとへ飛んでいって、驚かせようと思っていたんだ。でも、サプライズは悲劇に変わってしまった。「青斗、お前には本当に人の心がな
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第3話

オークションは予定通り行われた。青斗は誰にも隠すことなく、町のメディア関係者を全員招待した。その日、両親は来なかった。きっと、私を見るのが辛かったんだろう。遥も来なかった。多分、青斗が来るなと言ったのだろう。ただ一人、朋花だけが来てくれた。家政婦に連れられて来て、私のベッドの傍に座り、絵本を手に取って一語一句、読み聞かせてくれた。読んでくれたのは、『人魚姫』だった。「人魚姫は王子様のために、自分の300年の寿命と引き換えに、人間の足を手に入れたの。一歩あるくたびにね、足がね、すっごくチクチクして痛いの。でも、王子様は最後に隣の国の王女様と結婚しちゃったんだ。人魚姫は、王子様を傷つけてしっぽを取り戻さなかったの。だからね、朝になったら、泡になって消えちゃったの」朋花は本を閉じ、大きな目を困惑させながら顔を上げた。「ママ、どうして人魚姫は、王子様を助けたのが自分だって言わなかったの?すごく馬鹿だよ」本当にね。馬鹿みたい、まるで私のことだ。「朋花」青斗の声が突然、ドアの方で聞こえた。「パパ」朋花は彼のもとに駆け寄った。青斗はかがんで朋花を抱き上げた。でも、その視線は私に向けられていた。「お前の物は、全部売れた」青斗は私に、まるで他人事のようにそう言った。「合計で19億4000万円になった。弁護士に頼んで、お前の名前ですべて寄付させたよ」私の心は、ずしりと重くなった。私たちの幸せな思い出が詰まった品々は、こうして、いとも簡単に青斗に売り払われてしまった。「美希」青斗の声には何の感情もこもっていなかった。「明日、菫が正式に寝室に移る。朋花も、これからは菫が面倒を見ることになる。俺たちは、新しい生活を始めるべきなんだ」そう言うと、青斗は朋花を抱いたまま、くるりと背を向けて出て行った。胸が締め付けられて息ができなかった。青斗がしたことのすべてを、絶対に後悔させてやる。そして私は、ありったけの力を振り絞った。ビー、ビー、ビー。モニターからけたたましい警告音が鳴り響いた。たくさんの人がなだれ込んでくるのを感じた。ざわざわとした声が耳元で聞こえる。「患者さんに反応が!」「心拍数が上がっています!」「急いで!除細動器の準備を!」混乱の中、今までに聞い
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第4話

青斗は離婚協議書を受け取ろうとせず、ただ顔を上げて私を見た。「美希、これ以外なら、お前が欲しいものは何でもやる」「これだけでいい」私の態度は揺るがなかった。青斗は目を閉じ、再び開けた時、その瞳からは光が消えていた。「わかった」彼はペンを取り、離婚協議書に、自分の名前をサインした。【岩崎青斗】青斗は去っていった。私が手渡した離婚協議書と、私の12年間の青春を一緒に持って。青斗は振り返らなかった。母が何か言おうとしたけど、父の視線で止められた。二人は部屋を出ていき、私と朋花だけの時間を作ってくれた。「ママ」朋花の小さな手が私の病院着を掴んだ。その瞳には、どうしようもない不安が浮かんでいた。「パパのこと、もういらないの?」私は朋花の頭を撫でて、そっと囁いた。「朋花、パパが私たちを捨てたのよ」「ちがう!」朋花は泣きそうになりながら叫んだ。「パパは私たちを捨ててなんかない!パパは言ってた。自分は眠り姫を起こすための、悪い魔法使いなんだって。悪い魔法使いは役目を終えたから、お城を出て行かなきゃいけないんだって。お姫様が目を覚ましたら、もう自分のことはいらなくなるんだって」私の心は、また鋭い痛みに襲われた。青斗。あなたって本当に、最低な人。娘を騙すための作り話まで、こんなに残酷だなんて。リハビリは、想像していたよりもずっと辛かった。筋肉は衰え、関節はこわばっていた。腕を曲げるのも、脚を上げるのも、まるで拷問のようだった。汗で髪がびしょ濡れになって、顔に張り付く。それが痒くて、気持ち悪かった。私は歯を食いしばり、声を漏らさなかった。リハビリの担当医も、見るに見かねたようだった。「今日はこの辺にしたほうがいいのでは……」「いえ、大丈夫です」私は鏡に映る、青白くて痩せこけた自分を見つめた。「続けてください」倒れるわけにはいかない。朋花が待っている。母親として、もう一度朋花の前にちゃんと立ってあげないと。青斗が姿を見せることは、もうなかった。まるで、私の世界から完全に消えてしまったようだった。ただ、毎朝、病室のドアの前に保温ポットが置かれていた。中には私の大好きな、うどんが入っていた。味付けも、温度もちょうど良かった。
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第5話

青斗はひどく痩せていて、目の下には濃いクマがくっきりと浮かんでいた。私に気づくと、青斗は手にしていたタバコを消し、足早にこちらへ向かってきた。私は無意識に一歩、後ずさった。その瞬間、青斗の足はぴたりと、その場に縫い付けられたように止まった。数歩の距離を置いて、青斗は私を見つめていた。その瞳には、私には読み取れない感情が渦巻いていた。「美希」その声は、ひどくかすれていた。「お前を……お前と朋花を迎えに来たんだ」「その必要はないわ」私は淡々と言った。「青斗。私たち、もう何の関係もないのよ」青斗の顔が、さっと青ざめた。「美希、そんなこと言わないでくれ」その声は、まるで懇願するようだった。「俺たち……少なくとも、朋花の親であることには変わりないだろ」「だから、何?」私は青斗を見つめ返した。「親権は私にある。あなたは毎月、養育費を支払う。そう約束したでしょ」「そういう意味じゃない!」青斗は少し焦ったように言った。「俺は、ただ……」「ママ!」私の両親の車から朋花が降りてきて、私の胸に飛び込んできた。青斗の言葉は、そこで途切れた。私と朋花が固く抱き合っているのを見て、青斗の瞳から、光が少しずつ消えていった。「パパ」朋花は彼に気づいて、小さな声でそう呼んだ。青斗は、泣き出しそうな顔で無理に笑ってみせた。「朋花、いい子だ」青斗はしゃがみこんで、朋花の頭を撫でようとした。でも、伸ばしかけた手は途中で引っ込められた。「パパは……見送りに来ただけだから」「パパは、一緒におうちに帰らないの?」朋花は顔を上げて尋ねた。「パパは……」青斗は口を開いたけれど、何も言葉が出てこなかった。私は朋花の手を引いた。「朋花、もう行こう」私は青斗の方をもう一度見ることもなく、背を向けて歩き出した。車に乗り、バックミラーに目をやる。青斗はまだ、さっきの場所に立ち尽くしていた。私たちの車が、通りの角を曲がって見えなくなるまで。私は新しい生活を始めて、ギャラリーで働くことにした。毎朝、朋花を学校へ送ってから仕事に向かう。仕事が終わると、朋花を迎えに行って、ご飯を作って、寝る前には本を読んであげる。平凡だけど、とても満たされた日々だった。まるで、青斗という人のことなん
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第6話

うん、って頷こうとした、その時だった。青斗が、私の視界に飛び込んできた。彼は、そう遠くない隅の席に、たった一人で座っていた。青斗の目の前のテーブルには、私とまったく同じステーキが置いてあった。でも、もうすっかり冷めている。いつからあそこに座っていたんだろう。ただ、じっと私を見つめていた。その瞳には、果てしない絶望と苦しみが浮かんでいた。青斗の目元が赤くなっているのが見えた。彼はグラスを掲げ、遠くから私に合図を送った。そして、一気に飲み干した。その仕草は、まるで祝福のようでもあり、別れの挨拶のようでもあった。私の胸が、ずきりと痛んだ。「ごめんなさい」私は湊にそう言った。そして、周りのみんなが呆然と見つめる中、私は立ち上がって、青斗のところへ歩いて行った。湊はその場に固まっていた。期待に満ちていた顔は、信じられないという表情に変わっていた。私は振り返らなかった。まっすぐに青斗の前に立った。「ここで何してるの?」私は聞いた。「俺は……」青斗は口を開き、喉を動かした。「今夜、お前がここにいるって聞いたんだ」「だから?笑いに来たの?」「違う」青斗は首を振り、かすれた声で言った。「ただ……会いたかっただけだ。俺がいないところで、お前が元気にやってるか、見たかったんだ」「これで分かった?」私は冷たく言い放った。「見ての通り、元気にしてるわ」「そうだな」青斗は力なく笑った。「そこの男は俺より、いい男だ。お前の愛し方を、俺よりずっと分かってる」「じゃあ、祝福しに来てくれたの?」青斗は長いこと黙っていた。もう何も話さないんじゃないかと思った、その時だった。「美希」青斗は顔を上げ、真っ赤な目で私を見た。「祝福なんて、できるわけない。お前が、他の誰かのものになるなんて、見てられない。嫉妬で、狂いそうなんだ。一分一秒、胸が焼かれるような思いなんだ」私の心は、激しく揺さぶられた。「だから何?」私は心を鬼にして言った。「自業自得でしょ」「ああ」青斗は頷いた。反論はしない。「自業自得だ。俺がこの手でお前を突き放したんだ。今さら、戻ってきてくれなんて言える資格はない」青斗は立ち上がると、ポケットから小さなビロードの箱を取り出して、私に差し出した。
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第7話

青斗は懐からスマホを取り出して、私に渡した。「これは、俺が菫に芝居を頼んだ時の録音だ。それと、こっそり撮っておいたお前の心拍数の記録。俺の言葉を聞くたびに、お前の心拍は揺れ動いていたんだ。俺は遺言状まで、用意していた。もし……もしあのオークションが終わっても、お前が目を覚まさなかったら……俺の財産は、全部お前と朋花の名義になるようにしてあった。そして、俺も後を追うつもりだった」私は呆然としていた。スマホから、菫の声が聞こえてきた。「青斗、本気でこんなことをするつもり?危険すぎるわ」「これしか方法がないんだ」青斗の声だった。疲れているのに、すごく、はっきりしていた。「美希さんはあなたのことをあんなに愛しているのに。もし真相を知ったら、あなたのこと、死ぬほど恨むわよ」「一生このまま眠っているくらいなら、一生俺を恨んでくれた方がいい」録音はまだ続いていた。でも、私はもう聞いていられなかった。朋花の言っていたことは、全部本当だったんだ。いばら。悪い魔法使い。青斗はおとぎ話に出てくる、眠り姫を助ける王子じゃなかった。彼は、一番つらい方法で眠り姫にトゲを刺して、目を覚まさせる魔法使いになることを選んだんだ。眠り姫が、このまま眠り続けてはいけないことを、知っていたから。「どうして、もっと早く教えてくれなかったの?」私は泣きながら青斗に聞いた。「言ったところで、信じたか?」青斗は自嘲気味に笑った。「あの状況じゃ、どんな説明も言い訳にしか聞こえなかっただろう。俺は間違ったことをした。だから罰を受けるべきなんだ。美希、お前を苦しめたこと。それが、俺の人生で一番の間違いだった。許してくれなんて、言える資格はない。ただ、頼むから……」青斗は言葉を止め、声がひどく詰まっていた。「俺を忘れないでくれ。俺がお前を愛していたことを、忘れないでくれ」私はもう抑えきれなくなって、つま先立ちになり、青斗の唇にキスをした。その唇は、雨の苦い味がした。青斗は一瞬こわばったけど、すぐに私を強く抱きしめて、堰を切ったように、熱のこもったキスを返してきた。この数ヶ月の、恋しさも、苦しみも、後悔も、全部注ぎ込んでいるようだった。お互いを骨の髄まで溶け込ませようとしているみたいだった
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第8話

「これ……習ったの?」私は少し驚いた。「お前が意識不明の間に、リハビリの先生から教わったんだ」青斗は顔も上げず、くぐもった声で言った。「目を覚ましたら、きっと辛いだろうと思って。俺も……何かお前のためにできることをしたかった」私の目頭が、じんと熱くなった。この人って。いつもこうなんだ。一番不器用なやり方で、一番深い愛情を隠そうとする。翌朝、私は台所から聞こえる食器のぶつかる音で目を覚ました。寝室を出ると、エプロンをつけた青斗がキッチンで慌ただしく動き回っているのが見えた。彼は目玉焼きを作っていたけど、火加減を間違えたみたい。せっかくの目玉焼きが真っ黒焦げになっていた。青斗は悔しそうに眉をひそめて、それをゴミ箱に捨ててから、もう一度やり直そうとした。その姿には、仕事では冷徹で知られる彼の面影は、どこにもなかった。私はドアの枠に寄りかかって、静かに青斗の姿を見ていた。まるで、私たちもごく普通の夫婦みたいだった。たいしたことのない痴話喧嘩をして、そして仲直りの朝を迎えた、みたいな。「ママ?」朋花が目をこすりながら部屋から出てきて、キッチンにいる青斗を見ると、きょとんとした顔になった。青斗も声に気づいて振り向いた。その体は少しこわばっていた。「朋花、おはよう」青斗は引きつった笑みを浮かべた。朋花の視線が、私と青斗の間をいったりきたりする。そして、青斗の前に駆け寄ると、小さな顔を上げて、とても真剣な口調で尋ねた。「パパ、悪い魔法使いは、もうどこにも行かないの?」青斗はしゃがみこんで、娘をぎゅっと抱きしめた。彼の目元が、また赤くなった。「もう行かないよ」青斗は朋花の額にキスをすると、声を詰まらせた。「悪い魔法使いは、もうどこにも行かない。お城に残って、一生お姫様と女王様を守るんだ」美味しいとは言えないけど、とても温かい朝食を食べたあと。私はギャラリーへ行く準備をするため、部屋に戻って着替えた。クローゼットを開けると、隅っこに無造作に押し込んでいたファイルが目に入った。中には、例の離婚協議書が入っていた。私はそれを取り出した。ちょうど部屋に入ってきた青斗は、私の手にあるものを見て、さっと顔を青ざめさせた。「美希、俺は……」「青斗」
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第9話

青斗はぱっと目を開けて、信じられないという顔で私を見つめた。それから、彼は狂ったみたいに私を抱きしめた。骨が痛くなるくらいに。「ありがとう」青斗は私の首筋に顔をうずめた。「美希、ありがとう」私はスマホを取り出して、湊にラインを送った。【湊、ごめんなさい。そして、ありがとう。あなたにふさわしい、本当のお姫様が見つかることを祈っているよ】すぐに返信がきた。【あの人は君のことを、本当に愛してるんだね。美希、幸せになって】私は微笑んで、トーク画面を削除した。人生には、ただ通り過ぎていくだけの出会いもある。その人は、自分が本当に望んでいるものが何なのかを、教えてくれるために現れるのかもしれない。私は朋花を連れてギャラリーへ向かった。青斗が車で、私たちを入り口まで送ってくれた。彼は車から降りずに、ただ窓を開けただけだった。「夜、迎えに来るよ」「うん」私はうなずいた。青斗は私を見て、何か言いたそうにしていた。でも結局、一言だけ付け加えた。「無理するなよ」朋花を抱いてギャラリーに入ると、同僚たちの視線がどこかおかしいことに気づいた。「美希さん、さっき入り口にいた方って……」「夫よ」私は淡々と答えた。午後になって、ギャラリーの中がにわかに騒がしくなった。顔を上げると、青斗が入ってくるところだった。仕立てのいいスーツに着替えて、髪もきちんとセットしてあった。その手にはありきたりなバラの花束はなかった。代わりに、一枚の額縁を抱えていた。青斗はまっすぐ私のところへやって来て、みんなが見つめる中、その額縁を私に差し出した。「お前に」私は視線を落とした。額縁の中身は、世界的に有名な絵画なんかじゃなかった。それは、一枚のデッサンだった。そこには、イーゼルの前に座って、輝くような笑顔を浮かべる一人の少女が描かれていた。少女の髪の先には太陽の光が降り注いで、輪郭が金色に輝いていた。18歳の頃の、私だった。それは、私が初めてアトリエで青斗に会った時、彼がこっそり描いてくれた私の姿だった。この絵は、ずっと探していたけど、もうとっくに無くしてしまったと思っていた。「青斗……」「ずっと、大切に持っていたんだ」青斗は言った。「美希、18歳のあの日、俺は
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