All Chapters of こぼれた想いは、もう戻らない: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

妊娠して六か月。夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。財布は空っぽ。行く当てもない。凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。「……お金、ないです」店員さんはすぐ言った。「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。「……これでも、いいですか」そう言いながら、コンビニのドアを押した瞬間、冷たい風が首元に入り込んだ。二、三歩進んだところで、背中に怒鳴り声が刺さる。「黒川澄子(くろかわ すみこ)!いい加減にしろ!」振り返ると、景一がこちらに駆けてきた。足元はスリッパのまま。靴も履かずに飛び出してきたらしい。「大人が何やってんだよ。家出ごっこか? 妊娠六か月だぞ。こんな時間に外で何かあったらどうする!」いつもの私なら言い返していた。通りすがりの人が振り向くくらい、派手にやり合って。でもその夜は、黙って聞いた。もう口を動かすのもしんどかった。散々怒鳴ったあと、こっちがあまりに静かなせいか、景一のほうが言葉を失ったみたいに息を吐く。「……ったく」腰に手が回って、ぐっと引き寄せられる。「外は冷える。帰るぞ」玄関を入った途端、暖かい空気が肌にまとわりついた。景一はしゃがんで、私の足にスリッパを履かせてくれた。「腹、減ってない?なんか作ろう」「……いらない」そう言うと、景一は眉間を寄せた。「夕飯、ほとんど食ってないだろ。お前が平気でも、腹の子は違う」返事を待たずにキッチンへ入っていった。しばらくしてテーブルに置かれたのは、見た目だけはやたら豪華な海鮮うどん。アワビ、ホタテ、エビなど具が山みたいに盛られて、湯気が上がっている。景一は、いわゆる生まれながらの御曹司で、台所に立つなんて今まであまりなかった人だ。それでも私が身ごもってからは、外のごはんを嫌がって、頑固に自分で三度の支度を抱え込む。ただ、味付
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第2話

冷たい風の中でダウンコートを掻き合わせ、待つことほぼ一時間。足先の感覚が薄れてきたころ、ようやく中から秘書の佐々木が走ってきた。「奥さま!すみません、社長は今会議に入ってまして……!」息を切らしながら頭を下げ、私を別棟のヴィラに案内した。どうやらここ数日、ここを臨時オフィスにしているらしい。景一は私を見るなり眉を寄せた。「遅い。書類ひとつでどんだけかかってんだ?その程度で、仕事したいとか言うなよ」「……入口で止められて、電話も……」言い切る前に、苛立った手振りで切られる。「言い訳はいい。お前さ、そんな調子で外で働きたいとか、よく言えるよな?書類ひとつ届けるのもできないで、他に何ができるんだよ」胸がちくっとした。仕事の話をすると、いつもこの空気になる。「俺はな、女に外で稼がせる必要なんてない。家で大人しくしてろ。ゆっくりしていればいい」私は息を飲み込んで、感情を抑えた。「書類、もう持ってきたので。帰るね」「待て」ほんの少しだけ、声が落ちる。「会議終わったら飯行く。中で待ってろ」私が返事をする前に、景一は人に囲まれて会議室へ戻っていった。佐々木に案内され、オフィスのドアを開ける。一瞬、空気が変わった。若くて綺麗な女の子がずらっと並んでいる。メイクも服も、隙がない。景一が女性秘書を採る条件は、はっきり二つあった。ひとつは、見た目がいいこと。もうひとつは、二十五歳以下であること。外では、彼女たちをまとめて「篠原の美女秘書軍団」なんて呼ぶ人もいる。その中を、妊娠で身体が重くなった私が歩く。視線がまとわりつくのが分かった。気にしないふりでソファに座ると、ひそひそ声が耳に入る。「……誰?」短いスカートの見知らぬ子が、露骨に私を見て、佐々木に甘えた声で聞いた。「佐々木さん、この人って……?」「社長の奥さま」その子の目が大きくなり、驚いて声のトーンが少し上がった。「え、奥さま?芸能人?帽子とマスクって、徹底してるね」「違う」佐々木が淡く返すと、その子は口を尖らせた。「へえ、一般人なのに隠すんだ……見られたくない理由でもあるの?」もう一人の子がそっと彼女の腕を引いたけど、彼女は気にしなかった。もう一度、私を上から下まで見
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第3話

秘書課は、水を打ったみたいに静まり返っていた。誰も顔を上げない。怒らせたら終わりそうな空気。彼の言葉に、胸をぐっとえぐられた。喉の奥がつんと痛んで、唾を飲み込むのもつらい。このままじゃ、息が詰まる。私はそっと、彼のスーツの裾をつまんだ。沈黙を壊すために、自分から言った。「……お腹、すいた」思ったより小さい声だった。景一は何も言わずにスマホを取り出した。ホテルに栄養食を、部屋へと短く指示を出した。料理はすぐに運ばれてきた。盛り付けは美しく、食材も高級で、味付けはあっさりヘルシー。彼の要望をすべて満たしている。けれど、彼は席につかない。「ゆっくり食べろ。俺はこのあと、チームと食事だ。下の庭で」彼が去った後、私はバルコニーへ出た。眼下に広がっていたのは、彼の言う「チームの食事」。長いビュッフェ台。その周りを、華やかなワンピースを着ている秘書たちが取り囲んでいる。笑顔を貼りつけて、距離が近い。景一は中央で、グラスを片手に余裕の笑みを浮かべる。もう片方の手は、隣の秘書の椅子の背もたれに自然に置かれている。女たちの中心に君臨するその姿は、まるで王様みたい。胸の奥が、ひくっと縮む。結婚したばかりの頃を思い出した。あの「美女秘書軍団」が嫌で、何度も彼と言い争った。距離が近すぎる、替えてほしいって言っていた。そのたび、彼は笑って話をはぐらかした。「会社の顔だぞ。そんなことで騒がないで」そう言って、私の頬を両手で優しく包み込み、この先の生涯、身も心も私一人だけだと誓ってくれた。確かに、この何年も彼には大きなスキャンダルはなかった。でも今、下の庭で。短いスカートの秘書が、葡萄を一粒つまみ、彼の唇の前に差し出す。景一は迷わず口を開けた。私の喉の奥が、まるであの葡萄でふさがれたみたいに詰まる。息が、できない。続けて、その秘書が立ち上がり、ブランコのほうへ向かう途中で――「きゃっ」足がふらついたみたいに声を上げて、そのまま、景一の膝の上に落ちた。景一の手が、流れで彼女の腰を支えた。笑いながら、景一がからかうように言う。「だからさ。普段からダイエットしすぎるなといっただろう?歩くのもふらふらになったんだよ?」軽い冗談。そう言いながら、彼は
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第4話

「私は生きてる人間なの。子どもを産む機械じゃない!」景一の顔が、完全に沈んだ。箸を強く置いた。「もうすぐ母親になるんだぞ。いつまでもそんなふうに、わがまま言って騒ぐなよ」景一は隣に座り、私の肩を掴んで無理やりそちらへ向けた。「いいから、もうやめろ。あと四か月だけ我慢しろ。生まれたら済むのだ。この子を産んだら、もう作らない」景一はもう一度茶碗を持ち、ご飯をひとさじすくって私の唇の前へ。彼の目が頑固で、じっと私を見つめている。私は逆らえず、口を開けた。味のしない料理を、機械みたいに飲み込む。景一は一口ずつ、ほとんど押しつけるように最後まで食べさせた。「……よし。えらい」彼は満足したように頭を撫でようとして、私は反射で避けた。景一の手が一瞬止まり、目がさらに暗くなる。ドアの外から、遠慮がちなノック。さっきの若い秘書が入ってきて、一皿の柿を差し出した。「奥さま、空輸で届いたばかりの柿です。甘くて食欲が出ますよ。よかったらどうぞ?」景一は立ち上がって皿を受け取る。「ごくろうさま」それから秘書を見て言った。「このあと取材がある。お前は残って、澄子の面倒を見てろ」秘書の笑顔が一瞬固まったが、逆らえず、口を尖らせて、しぶしぶ頷いた。「……はい、社長」景一は大股で部屋を出ていった。秘書は明らかに不機嫌で、部屋の中をうろうろする。時々ドアのほうを見て、心はすでにここにあらずという顔をしている。私は胸がむかむかした。この息の詰まる部屋で、二人きりなんて無理だ。「ここにいなくていいよ。仕事に戻ってください」私が言うと、秘書はすぐ首を振った。「だめです。社長に言われてますから。奥さまのそばを離れるなって。社長の言うとおりにしないと」胸の奥がむっと重くて、息が詰まりそうだった。二人きりで、この息苦しい部屋に閉じ込められてるくらいなら、外に出たほうがましだと思う。「じゃあ行く。取材、見に行こう」私が立つと、秘書の目がぱっと明るくなり、慌てて後ろについた。取材はホテルで一番大きい宴会場で行われていた。着いたとき、すでに記者がぎっしりで、カメラもマイクも壇上の景一に向いている。景一は落ち着いた顔で座り、質問に答えていた。余裕があって、話し方も上手い。会場から
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第5話

消毒液のつんとした匂いに、意識が引き戻された。ベッドの横に、景一がいた。いつもはきちんと整っているはずのスーツはしわだらけで、もう原型がない。ズボンには、乾いて黒ずんだ血の跡がべったり残っていた。片手は私の手をしっかり握り、もう片方は額を押さえている。目は閉じているのに、眉だけが強く寄っている。目の下には、濃いクマが沈んでいた。どうやら、一晩中、ここで付き添っていたらしい。私がわずかに身じろぎすると、彼ははっと目を覚めた。目が合った瞬間、彼は身を乗り出してくる。目には血が走っている。声は、ガラガラで、掠れていた。「……目覚めた?澄子。どこかつらいところはない?頭は?お腹は?」私は答えなかった。代わりに、重たい腕をゆっくり動かして、自分の腹に手を当てる。そこは……空っぽだ。「赤ちゃんは?」その一言で、彼の目が赤くなり、涙がたまっていく。視線を落とし、肩がかすかに震える。「だめだった。澄子、俺たちの子……助からなかった」彼は耐え難いほど苦しんでいて、まるで、大事に抱えてきたものを失ったみたいな顔だった。私は目を閉じる。熱いものが、まぶたの端からこぼれて、こめかみを伝っていく。彼が顔を上げ、そっと頬を寄せてきた。「どうして……ちゃんと気をつけてたのに。俺なりに……」彼は嗚咽をこらえながら言う。「……あの柿のせいかもしれない。健康にいいからって……俺が悪かった。柿が流産を引き起こす原因となるっていう噂、知らなかった。持ち込ませるべきじゃなかった」遅すぎる後悔が、耳にまとわりつく。こめかみがずきずきした。「……頭、痛い」私は遮り、小さく息を吐いて言った。「もう、いいから」その一言で、彼は口を閉じた。赤い目で途方に暮れたように、こちらを見た。しばらくして、ようやく気持ちを整えたらしい。自分なりに落ち着かせた声で、そっと言う。「澄子。そんなに自分を追い込まなくていい。俺たちはまだ若いし……子どもは、また――」「私、別につらくない」私は目を開けて、淡々と言った。彼は一瞬、言葉を失った。予想していなかった反応だったんだと思う。「大丈夫だよ。体が戻れば、また子供はできる。次は――」「もう、産まない」私は彼の目を見て、はっきり繰り返した。彼の口が
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第6話

私の実家は、静かな海辺の町にある。その話をすると、景一は迷わなかった。「いいよ。いま手元の業務が片づいたら、一緒に帰ろう。気晴らしにさ」「ううん、いい。ひとりで帰って、少しだけ落ち着きたい」言い切った瞬間、景一の顔が固まる。それから、そっと私の表情をうかがってきた。「……澄子。怒ってる?俺が、お前と……赤ちゃんを守れなかったって思ってる?」口元だけ、かすかに上げる。「別に。考えすぎないで」少し間を置いて、私は続けた。「それと……実家の近くで、家を買いたいの」「いいぞ!」まるで、何かを取り戻そうとするみたいに、即答だった。「俺が手配する。澄子がいいって思うところでいい」翌日には、もう話がまとまっていた。海沿いの高層マンションの広いワンフロア。窓から海が見える。鍵はそのまま私の手に渡され、名義は私ひとりだ。そのあと、海外の口座をいくつも経由した送金が、私の口座に振り込まれた。スマホの通知が鳴って、画面を見た瞬間、息が止まる。桁の多さに、目が止まった。景一は、掠れた声で説明した。笑っているのに、笑い方が痛々しい。「……本当は、子どものために用意してた金だった。教育費とか、養育費とか……もう、使う場がなくなったから。持ってて。好きに使っていい」そう言った彼は目尻に、涙の跡が一本、すっと残った。冷たい入金通知を見つめていると、急に私の目の奥が熱くなる。じりじり焼けるみたいに。やつれた景一の顔を見て、私は小さく言った。「景一……一回だけでいいから、私とキムチ鍋を食べに行ける?」店に入った瞬間、辛い香りと湯気が顔にまとわりついた。唐辛子の匂いが濃くて鼻の奥がつんとする。マスク越しに、店員に声をかける。「個室、空いてますか」忙しそうな店員は、顔も上げずに首を振った。「今日はもう全部埋まっちゃってて。席なら、ホールに二つだけ空いてます」景一が私の手を取って言った。「ホールでいいよ。大丈夫」私は思わず横目で見た。前は、外で食事なんてするとき、ホール席なんて絶対に選ばなかった。うるさい、落ち着かない、人目があるって、いつも嫌がって、必ず一番いい個室に通していたのに。でも、私は首を振る。「やっぱり個室がいい」手をそっと外す。「人が少ない
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第7話

煮すぎた具材が、ぐらぐら煮立つ真っ赤な油に沈んでいく。次の瞬間、もうどこにも見えなかった。「来週の木曜……うん、いいよ」鍋の中だけを見つめたまま、私は答える。自分の声が、自分のものじゃないみたいに軽かった。景一はぱっと顔を明るくして、にっと笑った。スマホを私の目の前へさらに突き出し、矢継ぎ早にたずねる。「このドレス、好き?いいよね?」画面いっぱいに広がるのは、ため息が出るほど豪奢なウェディングドレス。私は視線だけちらりと走らせ、気のないうなずきを返した。「うん、いいんじゃない」「じゃあ、すぐ急がせる」彼はスマホを引き戻し、指を忙しなく動かしながら手配のメッセージを打ち始める。「で、結婚式はどこがいい?バリ島?モルディブ?それとも、前に言ってたヨーロッパの古城?全部こっちで手配するよ」私は目を伏せ、口の中の野菜を強く噛み切った。しゃきっとした音だけが、やけに耳に残った。曖昧に、話題を避けるように言う。「まず、食べよ。そういうのは……あとでいい」高まっていた彼のテンションが、冷たい水をかけられたみたいに少ししぼむ。それでも彼はあきらめず、スマホをしまいながら勝手に未来図を描き続けた。「でも、海はいいよな。光とか砂とか……古城も候補に入れとこう。じっくり選べばいい。時期は春か秋が最高。暑くも寒くもないし、ドレス着ても楽だし……」楽しげに並べ立てる言葉はどれも丁寧で、細部まで気が回っている。なのに私の耳には、ひとつも入ってこなかった。食事を終えて会計を済ませると、愛想のいい店主が赤いペアのマグカップを手渡してきた。その二つを見た瞬間、脳裏に火花が散った。そうだ。忘れてた。大事なこと。「そういえばさ。前に会社行ったとき、片方のピアス落とした気がする。探しに行ってもいい?」景一は疑いもしない。私の腰に自然に腕を回し、当たり前みたいに外へ連れ出す。「もちろん。俺もちょうど資料取りに戻るところだし」夜の篠原グループ本社ビルは、相変わらず明るかった。上の階まで灯りが点々と続き、ここだけ時間が止まっていないみたい。私はまっすぐ彼のデスクへ向かい、わざとらしく身をかがめて引き出しを探るふりをした。「見つかった?」彼がファイルを手に近づいてくる。私は首を振る。
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第8話

佐々木秘書の顔に、大きな驚きが一瞬だけ走った。けれど、長年鍛えられた職業意識がすぐにそれを飲み込み、彼女は表情を整える。ためらいがちに小さくうなずいてから、控えめに口を開いた。「承知しました、奥さ――」そこで言葉が途切れる。いまの呼び方がもう相応しくないと気づいたのだろう。別の呼称を探すように唇が動いたが、結局何も出てこなかった。たぶん彼女は、私の名前すら知らない。景一はすぐ戻ってきた。指には雑に貼った絆創膏。血はまだ完全には拭き取れていない。「澄子、帰ろう」焦りが滲む声で、私の手を取ろうとする。「うん」短く答えて、私は手をポケットに入れた。家に着くと、彼は明日の出張の荷造りを始めた。私は浴室へ行ってシャワーを浴び、そのままベッドに入った。驚くほど深く、ぐっすり眠った。翌朝、景一はもう朝食を用意していて、コーヒーを淹れようとしていた。私は近づいて、そっと彼の手を押さえる。「コーヒーはやめて」バッグから、見た目は普通のミネラルウォーターと変わらない「記憶を消す水」を取り出して、彼に渡した。「これ飲んで。君のために買ってきたの」景一の目に、ぱっと感情が浮かぶ。彼は昔から、私が渡すものを拒まない。今回も同じで、中身を確認することもなかった。受け取るとすぐにキャップを開けて、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。最後の一滴まで。飲み終えて口元を拭き、私に笑いかける。「これ、何の水?味、ちょっと変わってるな」私は彼を見てさらりと笑った。「気に入ったなら、それでいい」玄関まで見送りに出る。景一はいつもの癖で、屈んでキスをしようとした。私は少しだけ顔をそらす。キスは頬に落ちた。彼は気にした様子もなく、スーツケースの取っ手を引いて、明るい声を作る。「澄子、行ってくる。帰ったら、ちゃんと埋め合わせするから」私は扉の内側に立ったまま、彼の目を見て言った。「景一……さよなら」景一が出ていった途端、私はすぐ動いた。家の中から、私の痕跡を消す。クローゼットの服、洗面台のスキンケア、読みかけの本、台所で私だけが使っていた茶碗と箸、マグカップなど、ひとつずつ箱に詰める。自分でも驚くほど丁寧で、床に落ちた髪の毛一本も見逃さなかった。荷物は全部、遠い海辺の小
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第9話

私は小さく首を振った。迷いはなかった。「いくら出されても、この子は売れません」景一の顔に、はっきりした寂しさがよぎった。彼は、なぜ自分がこれほどまでに執着しているのか戸惑うように、低い声でぽつりと呟いた。「すみません……さっき外のショーウィンドウで見えたとき、すごく見覚えがある気がして。胸が苦しくて……何か、とても大事なことを忘れてるみたいなんです」言葉を探すみたいに、少し間が空いた。「大事なものを、置き忘れてきた気がして。思い出せないのに、苦しくて」私は少しだけ息を止めた。妊娠する前、私は綺麗なラグドールを飼っていた。名前はココだ。妊娠が分かった途端、景一は「妊婦はペットに触れちゃだめだ」と言い出し、私が泣いて止めても聞かずに、目を盗んでココをどこかへやってしまった。そのあと私はあちこち当たって、ようやくココを探し出した。「ラグドールって、似てる子多いですし」私は顔をそらして、彼の迷った目を避けた。「ほかの猫も見てみたらどうですか」彼はほかの猫は見なかった。ただ力なく首を振って、帰る場所が分からない子どもみたいに、ゆっくり背を向けて歩いていった。翌日、店の前の街角でまた彼に会った。昨日会ったことなんて、きれいさっぱり忘れているようだ。眉を寄せてスマホの地図を見つめていて、私を見ると、助けを求めるみたいに声をかけてきた。「すみません。時ノカフェって、どっちですか」私は本当に親切な通りすがりみたいに教えた。「この先の交差点を左です。百メートルくらい行けば着きますよ」「ありがとうございます」礼だけ言って、彼は足早に行ってしまった。時ノカフェ。昔、私が何気なく「名前がいい」と言ったことのある店だ。コンビニの店員の言った通りだ。「記憶を消す水」を飲んだ人は、全部忘れる。また会っても、何ひとつ残らない。彼は本当に、完全に私を忘れていた。……よかった。それから、経済ニュースで彼の話を見た。彼が買収して改装したリゾートホテル美萩が盛大にオープンし、名前は「リゾートホテル唯」に変わったという。式典で記者が聞いていた。「篠原社長、この名前には、どんな意味がありますか?」彼は仕立てのいいスーツを着て、穏やかな笑顔をしている。けれど、目の奥だけが
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