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こぼれた想いは、もう戻らない

こぼれた想いは、もう戻らない

By:  アオギリKumpleto
Language: Japanese
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妊娠して六か月。 夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。 財布は空っぽ。行く当てもない。 凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。 おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。 「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」 あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。 「……お金、ないです」 店員さんはすぐ言った。 「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」 気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。 「……これでも、いいですか」

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Kabanata 1

第1話

妊娠して六か月。

夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。

財布は空っぽ。行く当てもない。

凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。

おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。

「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」

あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。

「……お金、ないです」

店員さんはすぐ言った。

「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」

気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。

「……これでも、いいですか」

そう言いながら、コンビニのドアを押した瞬間、冷たい風が首元に入り込んだ。

二、三歩進んだところで、背中に怒鳴り声が刺さる。

「黒川澄子(くろかわ すみこ)!いい加減にしろ!」

振り返ると、景一がこちらに駆けてきた。

足元はスリッパのまま。靴も履かずに飛び出してきたらしい。

「大人が何やってんだよ。家出ごっこか?

妊娠六か月だぞ。こんな時間に外で何かあったらどうする!」

いつもの私なら言い返していた。

通りすがりの人が振り向くくらい、派手にやり合って。

でもその夜は、黙って聞いた。

もう口を動かすのもしんどかった。

散々怒鳴ったあと、こっちがあまりに静かなせいか、景一のほうが言葉を失ったみたいに息を吐く。

「……ったく」

腰に手が回って、ぐっと引き寄せられる。

「外は冷える。帰るぞ」

玄関を入った途端、暖かい空気が肌にまとわりついた。

景一はしゃがんで、私の足にスリッパを履かせてくれた。

「腹、減ってない?なんか作ろう」

「……いらない」

そう言うと、景一は眉間を寄せた。

「夕飯、ほとんど食ってないだろ。お前が平気でも、腹の子は違う」

返事を待たずにキッチンへ入っていった。

しばらくしてテーブルに置かれたのは、見た目だけはやたら豪華な海鮮うどん。

アワビ、ホタテ、エビなど具が山みたいに盛られて、湯気が上がっている。

景一は、いわゆる生まれながらの御曹司で、台所に立つなんて今まであまりなかった人だ。

それでも私が身ごもってからは、外のごはんを嫌がって、頑固に自分で三度の支度を抱え込む。

ただ、味付けがどうにも淡い。

塩気が足りず、素材の匂いがそのまま出る。

辛いものが好きなのに、その好みを彼にはなかなか伝わらない。

「……どう?おいしいか?」

向かいで、景一が私の顔色をうかがっている。

私は箸を取り、うどんを少し口に運んだ。

「……うん。おいしい……と思うよ」

一口で分かった。

魚介の下ごしらえが不十分で、生臭さが、薄いスープに残っている。胃がひゅっと縮む。

それでも顔には出さず、ゆっくり、ゆっくり飲み込んだ。

そのとき、景一のスマホが鋭く鳴った。

通話を切ると、上着とキーを掴んだ。

「急用だ。お前は家にいろ。もう出ないでくれ」

――パァン!

ドアが乱暴に閉まる音。

部屋の空気が一気に冷えた気がした。

私は箸を置き、半分以上残ったうどんを見つめた。

こらえていたものが、喉元まで一気にこみ上げた。

トイレに駆け込んで、吐いた。

落ち着いたあと、冷たい壁に背中をつけると、涙が勝手に出た。

こんな、味のしない生活。気持ち悪くなるだけの毎日。もう無理。

私はスマホを取り出し、迷わず注文した。

激辛の油そばと、旨辛手羽先を山盛り。辛さは一番上。

届いた料理を、私は夢中で食べた。

舌が痛いほど辛いのに、胸の奥がすっとほどける。

景一と暮らし始めてから、いちばんちゃんと美味しいと思えたごはんだった。

食べ終えると、広いベッドにひとり潜り込む。

その夜は、何も考えずに眠れた。

景一は帰ってこなかった。

メッセージも、一本もなかった。

翌朝、ようやく電話が来た。

声はいつも通り、命令みたいに硬い。

「書斎に大事な書類置いてきた。今すぐ持って来い。リゾートホテル美萩」

理由は聞かなかった。

書類を見つけて、タクシーで向かった。

でもホテルの入口で警備員に止められた。

「申し訳ありません。こちらは会員制でして、ご招待か確認が取れないとお通しできません」

そこで仕方なく景一に電話をかけたが、何度かけても繋がらない。
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第1話
妊娠して六か月。夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。財布は空っぽ。行く当てもない。凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。「……お金、ないです」店員さんはすぐ言った。「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。「……これでも、いいですか」そう言いながら、コンビニのドアを押した瞬間、冷たい風が首元に入り込んだ。二、三歩進んだところで、背中に怒鳴り声が刺さる。「黒川澄子(くろかわ すみこ)!いい加減にしろ!」振り返ると、景一がこちらに駆けてきた。足元はスリッパのまま。靴も履かずに飛び出してきたらしい。「大人が何やってんだよ。家出ごっこか? 妊娠六か月だぞ。こんな時間に外で何かあったらどうする!」いつもの私なら言い返していた。通りすがりの人が振り向くくらい、派手にやり合って。でもその夜は、黙って聞いた。もう口を動かすのもしんどかった。散々怒鳴ったあと、こっちがあまりに静かなせいか、景一のほうが言葉を失ったみたいに息を吐く。「……ったく」腰に手が回って、ぐっと引き寄せられる。「外は冷える。帰るぞ」玄関を入った途端、暖かい空気が肌にまとわりついた。景一はしゃがんで、私の足にスリッパを履かせてくれた。「腹、減ってない?なんか作ろう」「……いらない」そう言うと、景一は眉間を寄せた。「夕飯、ほとんど食ってないだろ。お前が平気でも、腹の子は違う」返事を待たずにキッチンへ入っていった。しばらくしてテーブルに置かれたのは、見た目だけはやたら豪華な海鮮うどん。アワビ、ホタテ、エビなど具が山みたいに盛られて、湯気が上がっている。景一は、いわゆる生まれながらの御曹司で、台所に立つなんて今まであまりなかった人だ。それでも私が身ごもってからは、外のごはんを嫌がって、頑固に自分で三度の支度を抱え込む。ただ、味付
Magbasa pa
第2話
冷たい風の中でダウンコートを掻き合わせ、待つことほぼ一時間。足先の感覚が薄れてきたころ、ようやく中から秘書の佐々木が走ってきた。「奥さま!すみません、社長は今会議に入ってまして……!」息を切らしながら頭を下げ、私を別棟のヴィラに案内した。どうやらここ数日、ここを臨時オフィスにしているらしい。景一は私を見るなり眉を寄せた。「遅い。書類ひとつでどんだけかかってんだ?その程度で、仕事したいとか言うなよ」「……入口で止められて、電話も……」言い切る前に、苛立った手振りで切られる。「言い訳はいい。お前さ、そんな調子で外で働きたいとか、よく言えるよな?書類ひとつ届けるのもできないで、他に何ができるんだよ」胸がちくっとした。仕事の話をすると、いつもこの空気になる。「俺はな、女に外で稼がせる必要なんてない。家で大人しくしてろ。ゆっくりしていればいい」私は息を飲み込んで、感情を抑えた。「書類、もう持ってきたので。帰るね」「待て」ほんの少しだけ、声が落ちる。「会議終わったら飯行く。中で待ってろ」私が返事をする前に、景一は人に囲まれて会議室へ戻っていった。佐々木に案内され、オフィスのドアを開ける。一瞬、空気が変わった。若くて綺麗な女の子がずらっと並んでいる。メイクも服も、隙がない。景一が女性秘書を採る条件は、はっきり二つあった。ひとつは、見た目がいいこと。もうひとつは、二十五歳以下であること。外では、彼女たちをまとめて「篠原の美女秘書軍団」なんて呼ぶ人もいる。その中を、妊娠で身体が重くなった私が歩く。視線がまとわりつくのが分かった。気にしないふりでソファに座ると、ひそひそ声が耳に入る。「……誰?」短いスカートの見知らぬ子が、露骨に私を見て、佐々木に甘えた声で聞いた。「佐々木さん、この人って……?」「社長の奥さま」その子の目が大きくなり、驚いて声のトーンが少し上がった。「え、奥さま?芸能人?帽子とマスクって、徹底してるね」「違う」佐々木が淡く返すと、その子は口を尖らせた。「へえ、一般人なのに隠すんだ……見られたくない理由でもあるの?」もう一人の子がそっと彼女の腕を引いたけど、彼女は気にしなかった。もう一度、私を上から下まで見
Magbasa pa
第3話
秘書課は、水を打ったみたいに静まり返っていた。誰も顔を上げない。怒らせたら終わりそうな空気。彼の言葉に、胸をぐっとえぐられた。喉の奥がつんと痛んで、唾を飲み込むのもつらい。このままじゃ、息が詰まる。私はそっと、彼のスーツの裾をつまんだ。沈黙を壊すために、自分から言った。「……お腹、すいた」思ったより小さい声だった。景一は何も言わずにスマホを取り出した。ホテルに栄養食を、部屋へと短く指示を出した。料理はすぐに運ばれてきた。盛り付けは美しく、食材も高級で、味付けはあっさりヘルシー。彼の要望をすべて満たしている。けれど、彼は席につかない。「ゆっくり食べろ。俺はこのあと、チームと食事だ。下の庭で」彼が去った後、私はバルコニーへ出た。眼下に広がっていたのは、彼の言う「チームの食事」。長いビュッフェ台。その周りを、華やかなワンピースを着ている秘書たちが取り囲んでいる。笑顔を貼りつけて、距離が近い。景一は中央で、グラスを片手に余裕の笑みを浮かべる。もう片方の手は、隣の秘書の椅子の背もたれに自然に置かれている。女たちの中心に君臨するその姿は、まるで王様みたい。胸の奥が、ひくっと縮む。結婚したばかりの頃を思い出した。あの「美女秘書軍団」が嫌で、何度も彼と言い争った。距離が近すぎる、替えてほしいって言っていた。そのたび、彼は笑って話をはぐらかした。「会社の顔だぞ。そんなことで騒がないで」そう言って、私の頬を両手で優しく包み込み、この先の生涯、身も心も私一人だけだと誓ってくれた。確かに、この何年も彼には大きなスキャンダルはなかった。でも今、下の庭で。短いスカートの秘書が、葡萄を一粒つまみ、彼の唇の前に差し出す。景一は迷わず口を開けた。私の喉の奥が、まるであの葡萄でふさがれたみたいに詰まる。息が、できない。続けて、その秘書が立ち上がり、ブランコのほうへ向かう途中で――「きゃっ」足がふらついたみたいに声を上げて、そのまま、景一の膝の上に落ちた。景一の手が、流れで彼女の腰を支えた。笑いながら、景一がからかうように言う。「だからさ。普段からダイエットしすぎるなといっただろう?歩くのもふらふらになったんだよ?」軽い冗談。そう言いながら、彼は
Magbasa pa
第4話
「私は生きてる人間なの。子どもを産む機械じゃない!」景一の顔が、完全に沈んだ。箸を強く置いた。「もうすぐ母親になるんだぞ。いつまでもそんなふうに、わがまま言って騒ぐなよ」景一は隣に座り、私の肩を掴んで無理やりそちらへ向けた。「いいから、もうやめろ。あと四か月だけ我慢しろ。生まれたら済むのだ。この子を産んだら、もう作らない」景一はもう一度茶碗を持ち、ご飯をひとさじすくって私の唇の前へ。彼の目が頑固で、じっと私を見つめている。私は逆らえず、口を開けた。味のしない料理を、機械みたいに飲み込む。景一は一口ずつ、ほとんど押しつけるように最後まで食べさせた。「……よし。えらい」彼は満足したように頭を撫でようとして、私は反射で避けた。景一の手が一瞬止まり、目がさらに暗くなる。ドアの外から、遠慮がちなノック。さっきの若い秘書が入ってきて、一皿の柿を差し出した。「奥さま、空輸で届いたばかりの柿です。甘くて食欲が出ますよ。よかったらどうぞ?」景一は立ち上がって皿を受け取る。「ごくろうさま」それから秘書を見て言った。「このあと取材がある。お前は残って、澄子の面倒を見てろ」秘書の笑顔が一瞬固まったが、逆らえず、口を尖らせて、しぶしぶ頷いた。「……はい、社長」景一は大股で部屋を出ていった。秘書は明らかに不機嫌で、部屋の中をうろうろする。時々ドアのほうを見て、心はすでにここにあらずという顔をしている。私は胸がむかむかした。この息の詰まる部屋で、二人きりなんて無理だ。「ここにいなくていいよ。仕事に戻ってください」私が言うと、秘書はすぐ首を振った。「だめです。社長に言われてますから。奥さまのそばを離れるなって。社長の言うとおりにしないと」胸の奥がむっと重くて、息が詰まりそうだった。二人きりで、この息苦しい部屋に閉じ込められてるくらいなら、外に出たほうがましだと思う。「じゃあ行く。取材、見に行こう」私が立つと、秘書の目がぱっと明るくなり、慌てて後ろについた。取材はホテルで一番大きい宴会場で行われていた。着いたとき、すでに記者がぎっしりで、カメラもマイクも壇上の景一に向いている。景一は落ち着いた顔で座り、質問に答えていた。余裕があって、話し方も上手い。会場から
Magbasa pa
第5話
消毒液のつんとした匂いに、意識が引き戻された。ベッドの横に、景一がいた。いつもはきちんと整っているはずのスーツはしわだらけで、もう原型がない。ズボンには、乾いて黒ずんだ血の跡がべったり残っていた。片手は私の手をしっかり握り、もう片方は額を押さえている。目は閉じているのに、眉だけが強く寄っている。目の下には、濃いクマが沈んでいた。どうやら、一晩中、ここで付き添っていたらしい。私がわずかに身じろぎすると、彼ははっと目を覚めた。目が合った瞬間、彼は身を乗り出してくる。目には血が走っている。声は、ガラガラで、掠れていた。「……目覚めた?澄子。どこかつらいところはない?頭は?お腹は?」私は答えなかった。代わりに、重たい腕をゆっくり動かして、自分の腹に手を当てる。そこは……空っぽだ。「赤ちゃんは?」その一言で、彼の目が赤くなり、涙がたまっていく。視線を落とし、肩がかすかに震える。「だめだった。澄子、俺たちの子……助からなかった」彼は耐え難いほど苦しんでいて、まるで、大事に抱えてきたものを失ったみたいな顔だった。私は目を閉じる。熱いものが、まぶたの端からこぼれて、こめかみを伝っていく。彼が顔を上げ、そっと頬を寄せてきた。「どうして……ちゃんと気をつけてたのに。俺なりに……」彼は嗚咽をこらえながら言う。「……あの柿のせいかもしれない。健康にいいからって……俺が悪かった。柿が流産を引き起こす原因となるっていう噂、知らなかった。持ち込ませるべきじゃなかった」遅すぎる後悔が、耳にまとわりつく。こめかみがずきずきした。「……頭、痛い」私は遮り、小さく息を吐いて言った。「もう、いいから」その一言で、彼は口を閉じた。赤い目で途方に暮れたように、こちらを見た。しばらくして、ようやく気持ちを整えたらしい。自分なりに落ち着かせた声で、そっと言う。「澄子。そんなに自分を追い込まなくていい。俺たちはまだ若いし……子どもは、また――」「私、別につらくない」私は目を開けて、淡々と言った。彼は一瞬、言葉を失った。予想していなかった反応だったんだと思う。「大丈夫だよ。体が戻れば、また子供はできる。次は――」「もう、産まない」私は彼の目を見て、はっきり繰り返した。彼の口が
Magbasa pa
第6話
私の実家は、静かな海辺の町にある。その話をすると、景一は迷わなかった。「いいよ。いま手元の業務が片づいたら、一緒に帰ろう。気晴らしにさ」「ううん、いい。ひとりで帰って、少しだけ落ち着きたい」言い切った瞬間、景一の顔が固まる。それから、そっと私の表情をうかがってきた。「……澄子。怒ってる?俺が、お前と……赤ちゃんを守れなかったって思ってる?」口元だけ、かすかに上げる。「別に。考えすぎないで」少し間を置いて、私は続けた。「それと……実家の近くで、家を買いたいの」「いいぞ!」まるで、何かを取り戻そうとするみたいに、即答だった。「俺が手配する。澄子がいいって思うところでいい」翌日には、もう話がまとまっていた。海沿いの高層マンションの広いワンフロア。窓から海が見える。鍵はそのまま私の手に渡され、名義は私ひとりだ。そのあと、海外の口座をいくつも経由した送金が、私の口座に振り込まれた。スマホの通知が鳴って、画面を見た瞬間、息が止まる。桁の多さに、目が止まった。景一は、掠れた声で説明した。笑っているのに、笑い方が痛々しい。「……本当は、子どものために用意してた金だった。教育費とか、養育費とか……もう、使う場がなくなったから。持ってて。好きに使っていい」そう言った彼は目尻に、涙の跡が一本、すっと残った。冷たい入金通知を見つめていると、急に私の目の奥が熱くなる。じりじり焼けるみたいに。やつれた景一の顔を見て、私は小さく言った。「景一……一回だけでいいから、私とキムチ鍋を食べに行ける?」店に入った瞬間、辛い香りと湯気が顔にまとわりついた。唐辛子の匂いが濃くて鼻の奥がつんとする。マスク越しに、店員に声をかける。「個室、空いてますか」忙しそうな店員は、顔も上げずに首を振った。「今日はもう全部埋まっちゃってて。席なら、ホールに二つだけ空いてます」景一が私の手を取って言った。「ホールでいいよ。大丈夫」私は思わず横目で見た。前は、外で食事なんてするとき、ホール席なんて絶対に選ばなかった。うるさい、落ち着かない、人目があるって、いつも嫌がって、必ず一番いい個室に通していたのに。でも、私は首を振る。「やっぱり個室がいい」手をそっと外す。「人が少ない
Magbasa pa
第7話
煮すぎた具材が、ぐらぐら煮立つ真っ赤な油に沈んでいく。次の瞬間、もうどこにも見えなかった。「来週の木曜……うん、いいよ」鍋の中だけを見つめたまま、私は答える。自分の声が、自分のものじゃないみたいに軽かった。景一はぱっと顔を明るくして、にっと笑った。スマホを私の目の前へさらに突き出し、矢継ぎ早にたずねる。「このドレス、好き?いいよね?」画面いっぱいに広がるのは、ため息が出るほど豪奢なウェディングドレス。私は視線だけちらりと走らせ、気のないうなずきを返した。「うん、いいんじゃない」「じゃあ、すぐ急がせる」彼はスマホを引き戻し、指を忙しなく動かしながら手配のメッセージを打ち始める。「で、結婚式はどこがいい?バリ島?モルディブ?それとも、前に言ってたヨーロッパの古城?全部こっちで手配するよ」私は目を伏せ、口の中の野菜を強く噛み切った。しゃきっとした音だけが、やけに耳に残った。曖昧に、話題を避けるように言う。「まず、食べよ。そういうのは……あとでいい」高まっていた彼のテンションが、冷たい水をかけられたみたいに少ししぼむ。それでも彼はあきらめず、スマホをしまいながら勝手に未来図を描き続けた。「でも、海はいいよな。光とか砂とか……古城も候補に入れとこう。じっくり選べばいい。時期は春か秋が最高。暑くも寒くもないし、ドレス着ても楽だし……」楽しげに並べ立てる言葉はどれも丁寧で、細部まで気が回っている。なのに私の耳には、ひとつも入ってこなかった。食事を終えて会計を済ませると、愛想のいい店主が赤いペアのマグカップを手渡してきた。その二つを見た瞬間、脳裏に火花が散った。そうだ。忘れてた。大事なこと。「そういえばさ。前に会社行ったとき、片方のピアス落とした気がする。探しに行ってもいい?」景一は疑いもしない。私の腰に自然に腕を回し、当たり前みたいに外へ連れ出す。「もちろん。俺もちょうど資料取りに戻るところだし」夜の篠原グループ本社ビルは、相変わらず明るかった。上の階まで灯りが点々と続き、ここだけ時間が止まっていないみたい。私はまっすぐ彼のデスクへ向かい、わざとらしく身をかがめて引き出しを探るふりをした。「見つかった?」彼がファイルを手に近づいてくる。私は首を振る。
Magbasa pa
第8話
佐々木秘書の顔に、大きな驚きが一瞬だけ走った。けれど、長年鍛えられた職業意識がすぐにそれを飲み込み、彼女は表情を整える。ためらいがちに小さくうなずいてから、控えめに口を開いた。「承知しました、奥さ――」そこで言葉が途切れる。いまの呼び方がもう相応しくないと気づいたのだろう。別の呼称を探すように唇が動いたが、結局何も出てこなかった。たぶん彼女は、私の名前すら知らない。景一はすぐ戻ってきた。指には雑に貼った絆創膏。血はまだ完全には拭き取れていない。「澄子、帰ろう」焦りが滲む声で、私の手を取ろうとする。「うん」短く答えて、私は手をポケットに入れた。家に着くと、彼は明日の出張の荷造りを始めた。私は浴室へ行ってシャワーを浴び、そのままベッドに入った。驚くほど深く、ぐっすり眠った。翌朝、景一はもう朝食を用意していて、コーヒーを淹れようとしていた。私は近づいて、そっと彼の手を押さえる。「コーヒーはやめて」バッグから、見た目は普通のミネラルウォーターと変わらない「記憶を消す水」を取り出して、彼に渡した。「これ飲んで。君のために買ってきたの」景一の目に、ぱっと感情が浮かぶ。彼は昔から、私が渡すものを拒まない。今回も同じで、中身を確認することもなかった。受け取るとすぐにキャップを開けて、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。最後の一滴まで。飲み終えて口元を拭き、私に笑いかける。「これ、何の水?味、ちょっと変わってるな」私は彼を見てさらりと笑った。「気に入ったなら、それでいい」玄関まで見送りに出る。景一はいつもの癖で、屈んでキスをしようとした。私は少しだけ顔をそらす。キスは頬に落ちた。彼は気にした様子もなく、スーツケースの取っ手を引いて、明るい声を作る。「澄子、行ってくる。帰ったら、ちゃんと埋め合わせするから」私は扉の内側に立ったまま、彼の目を見て言った。「景一……さよなら」景一が出ていった途端、私はすぐ動いた。家の中から、私の痕跡を消す。クローゼットの服、洗面台のスキンケア、読みかけの本、台所で私だけが使っていた茶碗と箸、マグカップなど、ひとつずつ箱に詰める。自分でも驚くほど丁寧で、床に落ちた髪の毛一本も見逃さなかった。荷物は全部、遠い海辺の小
Magbasa pa
第9話
私は小さく首を振った。迷いはなかった。「いくら出されても、この子は売れません」景一の顔に、はっきりした寂しさがよぎった。彼は、なぜ自分がこれほどまでに執着しているのか戸惑うように、低い声でぽつりと呟いた。「すみません……さっき外のショーウィンドウで見えたとき、すごく見覚えがある気がして。胸が苦しくて……何か、とても大事なことを忘れてるみたいなんです」言葉を探すみたいに、少し間が空いた。「大事なものを、置き忘れてきた気がして。思い出せないのに、苦しくて」私は少しだけ息を止めた。妊娠する前、私は綺麗なラグドールを飼っていた。名前はココだ。妊娠が分かった途端、景一は「妊婦はペットに触れちゃだめだ」と言い出し、私が泣いて止めても聞かずに、目を盗んでココをどこかへやってしまった。そのあと私はあちこち当たって、ようやくココを探し出した。「ラグドールって、似てる子多いですし」私は顔をそらして、彼の迷った目を避けた。「ほかの猫も見てみたらどうですか」彼はほかの猫は見なかった。ただ力なく首を振って、帰る場所が分からない子どもみたいに、ゆっくり背を向けて歩いていった。翌日、店の前の街角でまた彼に会った。昨日会ったことなんて、きれいさっぱり忘れているようだ。眉を寄せてスマホの地図を見つめていて、私を見ると、助けを求めるみたいに声をかけてきた。「すみません。時ノカフェって、どっちですか」私は本当に親切な通りすがりみたいに教えた。「この先の交差点を左です。百メートルくらい行けば着きますよ」「ありがとうございます」礼だけ言って、彼は足早に行ってしまった。時ノカフェ。昔、私が何気なく「名前がいい」と言ったことのある店だ。コンビニの店員の言った通りだ。「記憶を消す水」を飲んだ人は、全部忘れる。また会っても、何ひとつ残らない。彼は本当に、完全に私を忘れていた。……よかった。それから、経済ニュースで彼の話を見た。彼が買収して改装したリゾートホテル美萩が盛大にオープンし、名前は「リゾートホテル唯」に変わったという。式典で記者が聞いていた。「篠原社長、この名前には、どんな意味がありますか?」彼は仕立てのいいスーツを着て、穏やかな笑顔をしている。けれど、目の奥だけが
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