「ねね、ねね……」耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。この幸せは、永遠に続くのだ、と。しかし、結婚記念日の夜。あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。「琴音」それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、彼女と彼は、ただの他人に戻る…………「琴音……」雪見初音(ゆきみ はつね)はその名を乾いた声で呟いた。葛城蓮(かつらぎ れん)は彼女を「ねね」と呼ぶ。情欲に溺れ、彼女の耳たぶを甘噛みする時も「ねね」と。そして、仏壇の前の座布団に深く跪き、懺悔するようにその名を唱えていた。「……ねね」彼女はずっと、それが自分のことだと思っていた。初音の「ねね」だと。だが違った。それは、白川琴音(しらかわ ことね)の「ねね」だったのだ。初音はリビングの掃き出し窓の前に歩み寄った。眼下には帝都の煌びやかな夜景が広がっているが、冷え切ったこの別荘の中までその光は届かない。彼女は携帯電話を取り出し、ある番号をダイヤルした。「加藤先生、私です」初音の声は恐ろしいほど冷静だった。「中絶の手術を予約したいのですが」携帯の向こうで、相手が三秒ほど絶句した。「……冗談でしょう?葛城さんがどれほどこの子を待ち望んでいたか、今五ヶ月で下ろすなんて、母体にも……」「もう、いらないんです」初音は平坦な口調で医師の言葉を遮った。「それと、医療廃棄物はすべて先生の手で処分してください。DNAサンプルは一切残さないで。費用は現金で三倍払います」電話を切ると、初音はウォークイン
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