LOGIN「ねね、ねね……」 耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。 蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。 彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。 大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。 つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。 初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。 この幸せは、永遠に続くのだ、と。 しかし、結婚記念日の夜。 あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。 転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。 【琴音】 それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。 「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。 降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、二人は、ただの他人に戻る……
View More別荘に戻った頃には、すでに深夜だった。屋敷の灯りは消え、暖炉の熾火だけが微かに揺らめいている。ローテーブルの中央に安置された骨壺は、炎の光を受けて妖しく、そして寒々しい輝きを放っていた。蓮は車椅子を押し、暖炉の前へと進み出る。懐から取り出したのは、黄ばんだ和紙の束。かつて琴音の平癒を祈り、霊峰にて自らに課した一千巻の写経だ。「嘘つきだ……全部、嘘っぱちだ……」蓮は譫言のように呟きながら、経文を一枚ずつ破り捨て、火鉢へとくべていく。炎が墨痕を舐め尽くし、それと共に彼の前半生という名の、あまりに滑稽な茶番劇をも吞み込んでいく。深情けだと思い込んでいたそれは、実は愛する者を突き刺す凶器であり、自らの血肉さえも殺める刃だったのだ。炎の照り返しが、老いさらばえた絶望的な表情を浮かび上がらせる。最後の一枚が灰になるのを見届け、蓮は骨壺を抱きかかえると、車椅子を操って外へと出た。今夜の帝都は、世界を埋め尽くさんばかりの大雪に見舞われている。彼は不自由な体を引きずり、あの箱を抱え、たった一人で霊峰へと向かった。彼がどうやってそこへ辿り着いたのか、知る者はいない。そこは八年前、彼が大雪の中、初音のために御守りを乞い求めた場所だった。蓮は車椅子から転げ落ち、骨壺を胸に抱きしめたまま、雪の中を少しずつ、少しずつ這い進んでいく。膝と肘から滲み出した鮮血が、純白の雪原に鮮烈で痛ましい紅の痕跡を描き出す。「……赤ちゃん。パパが、御仏の御許へ連れて行ってやるからな」「昔は、パパが間違っていた……今度は、命を懸けて償う。君と、ママに捧げるから……」寒さが体温を奪い、四肢の感覚が遠のいていく。蓮は冷たい石灯籠に背を預け、震える手でコートを広げると、骨壺を自らの心臓に押し当てるように抱き締めた。意識が遠のく中、彼の眼裏にあの冬の景色が蘇る。白いダウンコートを着た初音が、梅の木の下で手招きしている。「蓮、雪が降ってきたよ。帰ろう」「ああ……帰ろう……」蓮の口元に解脱のような笑みが浮かび、ゆっくりと瞼が閉じられた。降りしきる雪が、やがて彼の蜷局を巻いたような体を覆い尽くし、この世に生を受けることのなかった子供と共に、白亜の彫像へと変えていった。……翌朝、作務を行う僧侶が、石灯籠の下で凍死して
「いやだ……行くな……」蓮は喉を枯らさんばかりに絶叫し、体は激しい痙攣に襲われていた。初音はもう彼を見ようともせず、ただそのお守り袋を指差した。「これが、私があなたのために直す最後のものよ。中に入っているのは、以前のような沈香じゃない。路地裏で買ったただの白檀。あの高価な沈香はすべて、生まれてこられなかったあの子のために焼いてしまったわ」言い終えると、初音は踵を返してドアへと向かう。「ねね!」蓮は全身の力を振り絞り、喉の奥から悲鳴のような声を絞り出した。ドアが開く。そこには海人が立っていた。彼は初音に手を差し伸べ、温かな笑みを向ける。「話は済んだかい?行こう、飛行機に乗り遅れてしまう」「うん」初音はその手を海人の掌に重ね、二度と振り返ることはなかった。雪の中を遠ざかっていく二人の背中は、あまりにお似合いで、そしてあまりに眩しく、蓮の目に突き刺さった。蓮は閉ざされた扉を、食い入るように見つめ続けた。この瞬間、彼はようやく悟ったのだ。あの大雪の日、琴音の祈祷のために初音からの電話を切ったあの一秒――彼の「ねね」は、あの冬に完全に死んでしまったのだと。因果応報。まさにその通りだ。泣きたいのに、涙腺は痛みを感じるほど干上がっており、一滴の涙さえ流れてはこなかった。「賢治……」蓮は虚空に向かって呟いた。以前からドアの外に控えていた賢治が入ってくる。その眼縁は赤く染まっていた。「社長」「あ……あれを持ってきてくれ。骨壺を」賢治は一瞬身体を強張らせたが、特注の金庫から黒いベルベットに包まれたクリスタルの容器を取り出した。蓮は震える手で、それを枕元に置かせた。彼は顔を横に向け、冷たいその容器に頬を寄せる。「……ママは行ってしまったよ」蓮の指が、ガラスの表面を優しく撫でる。「大丈夫だ、パパがついているからな。俺たちはどこへも行かない。ここで待っていよう……あいつが遊び疲れたら、きっと帰ってくるから」窓の外では、帝都の雪が激しさを増していた。まるでこの世のすべての罪業と汚濁を、葬り去ろうとするかのように。……五年後、帝都。帝都公園の桜はまだ咲いていなかったが、帝都国立博物館の館内はどよめきに満ちていた。ここでは今、「歳月」と題された国際文化財修復特別展が開催されている
それから三ヶ月後。病院。蓮は長い夢を見ていた。夢の中は、雪が舞い散る梅園だった。分厚い白いダウンジャケットを着た初音が、彼の前を不格好に歩いている。雪の上に足跡を残しながら、彼女は振り返って笑った。「蓮、早く来て。先の梅が咲いてるよ」蓮は追いかけようとした。だが、足が鉛を流し込まれたように重く、どうしても一歩が踏み出せない。初音はどんどん遠ざかり、ついには真っ白な霧の中へと消えていく。「ねねッ!!」蓮は弾かれたように目を見開いた。視界に入ってきたのは、一面の白だった。天井も白、シーツも白、窓の外の世界も白い。帝都はまた、雪が降っていた。「社長、お目覚めですか?」ベッドの脇に控えていた賢治が、窪んだ目を向けた。その声には驚きと喜びが滲んでいる。蓮は口を開いたが、喉が張り付いたように渇いていた。反射的に起き上がろうとして、彼は戦慄した。脳がどれほど命令を下しても、腰から下の感覚が全くなかったのだ。「俺の足……」蓮の声が震えた。「賢治、俺の足はどうなった?」賢治は顔を背け、彼の目を見ようとしなかった。「社長……医師の話では、脊椎の粉砕骨折と神経断裂だと……命は取り留めましたが、これからは……車椅子での生活になると」蓮の脳裏に、ふと三年前の光景が蘇った。琴音のために、霊峰で苦行を重ねたあの日。自分はなんと敬虔で、なんと健脚だったことか。今、その報いが来たのだ。もう二度と叩頭することはできない。それどころか、立ち尽くして誰かを引き留める資格さえ、失ってしまった。……「葛城さん、面会の方です」介護士がドアを開けた。口調は丁寧だが、どこか余所余所しい。蓮の瞳の底に、一筋の希望の光が宿った。扉が開くと、冷たい風と共に、凛とした梅の香りが流れ込んできた。初音だった。キャメル色のカシミヤコートに身を包み、海人が数日前に贈ったばかりの赤いマフラーを巻いている。血色は良く、その瞳は澄み渡っていた。海人は部屋に入らず、気を利かせて外からドアを閉めた。「ねね……」蓮は必死に上体を起こそうとした。以前のように彼女の手を、せめてその服の裾だけでも掴みたかった。首に青筋が浮かび、顔が赤く充血する。だが、シーツの上に滑稽な皺を作る以外、彼には何もできなかった。「動
蓮はどこからそんな力が湧いてきたのか、激しく揺れる瓦礫の中で、梁と壁の間にできた死角へと身をねじ込んだ。鈍い衝撃音が、舞い上がる土煙の中で生々しく響く。初音は、鼻をつく血の匂いのする懐に抱き留められたと感じただけだった。巨大な梁が蓮の背中に直撃し、彼の身体を二つ折りにするように押し潰す。膝が地面に激突し、背骨が悲鳴を上げ、不吉な破砕音が響いた。それでも、彼の一対の腕だけは、死に物狂いで初音の身体を支えていた。駆けつけた海人と彼女のために、わずかばかりの生存空間をこじ開けるかのように。蓮の口と鼻から鮮血が噴き出し、初音の背後にある壁画をどす黒く染め上げる。余震はまだ続き、頭上から絶え間なく砕石が降り注いでいる。初音は海人の腕の中に守られ、かすり傷一つ負っていなかった。彼女はゆっくりと顔を上げ、焦点が定まらなくなりつつある蓮の瞳を見つめた。「ゴホッ……ゴホッ……」蓮は何かを言おうとしたが、口から溢れ出るのは血の混じった泡だけだった。激痛ですでに下半身の感覚はない。だが、初音が無事であることを見て取ると、その口元に泣き顔よりも無様な笑みを浮かべた。「ねね……無事で、よかった……」彼は震える手で、初音の顔についた煤を拭おうと懸命に腕を持ち上げた。だが、その手は半ばまで上がったところで力尽き、虚しく垂れ下がり、冷たい床石に触れることしかできなかった。「返した、ぞ……」蓮は初音の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥には、卑屈な懇願と、ようやく解き放たれるという快感が混じり合っていた。「俺の命で、償う……あの子のことも、この三年の借りも……全部、君に返した……これで……許して、くれるか?」彼は、これが終局だと思っていた。彼女は泣き崩れ、感動し、死に行く彼に「許す」と言い、彼への思慕を抱いて残りの人生を送るものだと、そう信じていた。しかし、初音はただ静かに彼を見下ろしていた。その瞳には憎しみもなく、愛もなく、深い悲しみさえも見当たらなかった。「葛城さん」初音が口を開く。その声は氷のように冷徹だった。「その梁は、あなたがご自身で支えようとしたもの。その血は、あなたがご自身で流そうとしたものです。かつての私が、あの苦しみを一人で飲み込み、あの土下座を選んだのと――同じことです」初音はポ