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雪と共に消えた

雪と共に消えた

Par:  黒い土地Complété
Langue: Japanese
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「ねね、ねね……」 耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。 蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。 彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。 大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。 つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。 初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。 この幸せは、永遠に続くのだ、と。 しかし、結婚記念日の夜。 あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。 転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。 【琴音】 それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。 「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。 降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、二人は、ただの他人に戻る……

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Chapitre 1

第1話

「ねね、ねね……」

耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。

蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。

彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。

大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。

つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。

初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。

この幸せは、永遠に続くのだ、と。

しかし、結婚記念日の夜。

あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。

転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。

「琴音」

それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。

「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。

降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、彼女と彼は、ただの他人に戻る……

……

「琴音……」

雪見初音(ゆきみ はつね)はその名を乾いた声で呟いた。

葛城蓮(かつらぎ れん)は彼女を「ねね」と呼ぶ。情欲に溺れ、彼女の耳たぶを甘噛みする時も「ねね」と。

そして、仏壇の前の座布団に深く跪き、懺悔するようにその名を唱えていた。

「……ねね」

彼女はずっと、それが自分のことだと思っていた。初音の「ねね」だと。

だが違った。それは、白川琴音(しらかわ ことね)の「ねね」だったのだ。

初音はリビングの掃き出し窓の前に歩み寄った。眼下には帝都の煌びやかな夜景が広がっているが、冷え切ったこの別荘の中までその光は届かない。

彼女は携帯電話を取り出し、ある番号をダイヤルした。

「加藤先生、私です」初音の声は恐ろしいほど冷静だった。「中絶の手術を予約したいのですが」

携帯の向こうで、相手が三秒ほど絶句した。

「……冗談でしょう?葛城さんがどれほどこの子を待ち望んでいたか、今五ヶ月で下ろすなんて、母体にも……」

「もう、いらないんです」

初音は平坦な口調で医師の言葉を遮った。

「それと、医療廃棄物はすべて先生の手で処分してください。DNAサンプルは一切残さないで。費用は現金で三倍払います」

電話を切ると、初音はウォークインクローゼットへと向かった。

目立たない段ボール箱を見繕い、この三年間、蓮から贈られたプレゼントをすべて無造作に放り込む。

最後に、彼女は書斎の机に向かい、十分ほどで離婚届を書き上げた。

すべてを終えた時、壁の掛け時計が午前零時を指した。

結婚記念日が、終わった。

蓮は、まだ帰ってこない。

初音は連絡先のトップに固定されている【蓮】の文字を見つめた。親指が空中で長く迷っていたが、やがて画面をタップした。

プー、プー、プー……

一度目、出ない。

二度目、出ない。

……

十三回目にして、ようやく通話が繋がった。

だが、電話に出たのは蓮ではなかった。

「奥様?」

携帯から聞こえてきたのは、蓮の秘書である鈴木賢治(すずき けんじ)の声だ。

背後からは雑多な話し声と、微かに響く寺の鐘の音が混じって聞こえる。

「蓮は?」初音は短く尋ねた。

「あ、あの……社長……社長は今、本堂でご祈祷中でして!どうしても席を外せないんですよ」

賢治の口調には、隠しきれない焦りが混じっていた。

「奥様もご存じでしょう、今日は大安吉日ですから。社長は奥様とお子様のために、ご祈願を……」

賢治が電話を切ろうとしたその瞬間、操作を誤ってスピーカーモードになったらしい。

軽薄な男の声が響いた。蓮の友人の高村宏臣(たかむら ひろたか)だ。

「いやあ、さすが蓮だよな。あの手腕には恐れ入る。あのバカ女も『愚か者に福あり』ってやつか?三年間もただの『器』にされてるのに、帝都中の笑い者になってるとも知らず、蓮に愛されてると思ってるんだからな」

「しっ、声がでかいぞ」誰かが声を潜めて笑う。「しかしマジな話、琴音が本当に目覚めたら、初音の腹の中のガキはどうすんだ?」

「どうするも何も、あの女はただの生贄だろ?蓮が大先生に占わせたんだよ。初音と琴音の魂の波長がピタリと合うってな。初音という器を通せば、神仏から賜った生命力を琴音に絶えず流し込めるらしい。本命が目覚めたなら、中継ぎの器なんざ用済みさ」

「くくっ、蓮も琴音を目覚めさせるために必死だな。すべての祈願とエネルギーを一旦初音に集めてから、それを転送するなんて……まったく、エグい手使いやがる」

初音は携帯電話を握りしめた。指の関節が白く浮き上がり、全身の血液が逆流して頭に上るような感覚に襲われる。

そうか。彼が女色を断ち、私にだけ異常なほど執着して求めてきたのは、私の身体にある生命力を、あの琴音という女へ送るためだったのか。

「貸せ」

電話の向こうから、聞き慣れた涼やかな男の声がした。

瞬時に雑音が消える。

蓮が携帯電話を手に取ったのだ。

「ねね?」

彼の声は変わらず優しく、綻び一つない。「ごめん、お勤めの最中で着信に気づかなかった。まだ起きてたのか?いい子だからもう寝なさい。夜更かしは体に障るよ」

以前なら、この温かく甘い囁きを聞くだけで、初音の心は溶けていただろう。

だが今は、胃の底から吐き気が込み上げてくるだけだ。

「蓮」初音は努めて平静を装った。「どこにいるの?」

「霊峰だよ。君のために祈祷してる。こっちは雪がひどいんだ。明日帰る時に、君の好きな精進料理を買っていくからね」

「そう……」初音は窓の外で同じように降り始めた雪を見つめた。「蓮、私……」

「ゴホッ……ゴホッ……」

極めて微弱な咳き込む音が、唐突に携帯の向こうから漏れ聞こえた。

女の声だ。

蓮の常日頃の沈着冷静さが、その一声で音を立てて崩れ去った。

携帯電話が激しく揺れる音が、初音の耳に生々しく響く。

「琴音!?医者だ!早く病院に連絡しろ!目が覚めたぞ!!

ねね、急用ができた、切るぞ!」

プツッ――ツーツー……

初音はゆっくりと携帯を下ろし、再び窓の外へと視線を向けた。

帝都にも、雪が降り始めていた。

舞い散る雪片が、夜空を蹂躙するように荒れ狂っている。

三年前の冬を思い出す。蓮は今日のような大雪の中、一歩進んでは額を地面に打ち付け、血まみれになりながら祈り続けていた。安産祈願のお守りを一つ手に入れるために。

当時の彼女は涙を流して感動し、この男の深い愛情に一生をかけて報おうと誓ったのだ。

今思えば、なんと滑稽な話だろう。

彼が額を擦り付けて祈っていた内容は、恐らくこうだ。

御仏よ、願わくはこの女の寿命と運勢を代償に、我が愛しき琴音を、一日も早く目覚めさせたまえ。

初音は視線を落とし、掌で優しく隆起した腹部を撫でた。

胎児が母親の感情を察知したのか、ぽこりと小さく蹴った。

「赤ちゃん、ママを恨まないでね……

あなたが彼に望まれた生贄だと言うのなら、私たち一緒に……この悪縁を断ち切りましょう」

彼女は署名捺印済みの離婚届を手に取り、引きちぎられた数珠の下に置いた。

大雪が舞うこの結婚記念日に、蓮は最愛の人を取り戻した。

そして初音は、自らの愛情を葬り去った。
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松坂 美枝
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2026-02-21 10:47:39
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「ねね、ねね……」耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。この幸せは、永遠に続くのだ、と。しかし、結婚記念日の夜。あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。「琴音」それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、彼女と彼は、ただの他人に戻る…………「琴音……」雪見初音(ゆきみ はつね)はその名を乾いた声で呟いた。葛城蓮(かつらぎ れん)は彼女を「ねね」と呼ぶ。情欲に溺れ、彼女の耳たぶを甘噛みする時も「ねね」と。そして、仏壇の前の座布団に深く跪き、懺悔するようにその名を唱えていた。「……ねね」彼女はずっと、それが自分のことだと思っていた。初音の「ねね」だと。だが違った。それは、白川琴音(しらかわ ことね)の「ねね」だったのだ。初音はリビングの掃き出し窓の前に歩み寄った。眼下には帝都の煌びやかな夜景が広がっているが、冷え切ったこの別荘の中までその光は届かない。彼女は携帯電話を取り出し、ある番号をダイヤルした。「加藤先生、私です」初音の声は恐ろしいほど冷静だった。「中絶の手術を予約したいのですが」携帯の向こうで、相手が三秒ほど絶句した。「……冗談でしょう?葛城さんがどれほどこの子を待ち望んでいたか、今五ヶ月で下ろすなんて、母体にも……」「もう、いらないんです」初音は平坦な口調で医師の言葉を遮った。「それと、医療廃棄物はすべて先生の手で処分してください。DNAサンプルは一切残さないで。費用は現金で三倍払います」電話を切ると、初音はウォークイン
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第10話
かつて交わしたあの合意書。蓮は面倒くさがって、安易にも「全権委任」の項目にサインしてしまった。加えて、初音はこの業界でも指折りの精鋭弁護士団を雇っていたため、その手続きは誰にも気づかれることなく、水面下で粛々と進められたのだ。法的な意味において、二人はもはや赤の他人だった。初音は携帯の電源を切り、鞄を手に階下へ降りた。リビングでは、蓮が姿見の前で袖口を整えているところだった。今回、彼はいつもの地味な和装ではなく、琴音が一番好む純白のスーツに身を包んでいた。だからこそ、この大雪の日だというのに、蓮の姿はまるで嫁を迎えに行く花婿のように見えた。「出かけるの?」階段の降り口で足を止め、初音は静かに声をかけた。蓮は鏡越しに彼女を一瞥する。「ああ。重要なビジネスパーティーがあってな、正装しなきゃならん。君は家にいろ。外は寒いからな」「蓮」初音は階段の最後の一段を降り、彼から三メートルほど離れた場所に立った。「五分だけ、時間をくれない?子供のことなんだけど」蓮は腕時計に目を落とし、眉間を深く寄せた。「今は本当に急いでるんだ。一刻を争う事態なんだよ。子供の話は帰ってから聞く。欲しいものがあるなら何でも買ってやるから、な、いい子にしててくれ」初音の瞳の奥にあった光が、音もなく消え失せた。「もう、いいわ」「ん?」蓮はすでにドアノブに手をかけていたが、生返事で応じた。「何がだ?」「行ってらっしゃい、って言ったの」初音は彼の背中を見つめ、口元に極めて薄い笑みを浮かべた。「ああ、そうか。物分かりが良くて助かる」蓮は安堵の息を吐き、重厚な扉を開け放った。途端に吹き込む風雪が、入念にセットした彼の髪を乱す。だが、別の女のもとへ馳せ参じようとする彼の熱情までは、冷ますことができないようだ。重たい扉が、目の前で鈍い音を立てて閉ざされた。初音はその場に立ち尽くし、遠ざかっていくエンジンの轟音を聞いていた。彼女はきびすを返し、リビングのローテーブルへと歩み寄ると、離婚届のコピーをその中央に恭しく置いた。置き手紙も、恨み言も、悲痛な絶縁状もない。初音は書斎に入り、長年愛用してきた道具箱を一つ持ち上げた。それ以外、彼女は何一つ持ち出さなかった。蓮から贈られた宝石も、ブランドバッグも、
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