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第6話

Autor: 黒い土地
「……人工中絶手……」

医師の言葉は、途中で遮られた。

激しい破砕音が、医師の言葉を遮った。

初音が、薬の入った湯呑みを床に叩きつけたのだ。

飛び散った飛沫が蓮のスラックスの裾を黒く濡らす。その染みを見下ろす彼の表情は、苛立ちと失望で曇っていた。

「初音、正気か?」

蓮の声が低く沈む。それは上位者特有の、威圧を含んだ叱責だった。

「医師が病状を説明している最中に、何の癇癪だ。ここは病院だぞ。お前がわがままを通す場所じゃない」

「疲れたわ」

初音は手を引っ込め、掠れた声で言った。

「その人を出して。聞きたくないの」

医師は額の冷や汗を拭い、濡れてしまった検査表を拾い上げた。

「コ、ホン……葛城さん、患者様は情緒不安定でいらっしゃいます。確かに刺激は避けた方がよろしいかと。大量出血の兆候も見られませんので、まずは安静にして経過観察を……」

そう言い残すと、医師は逃げるように病室を出て行った。

救急処置室には、二人だけが残された。

医療機器が刻む単調な電子音だけが響く。それはまるで、この結婚生活の終わりを告げるカウントダウンのようだった。

蓮は初音の蒼白な横顔を見つめ、こみ上げる怒りを辛うじて押し殺した。

彼は歩み寄り、ポケットからハンカチを取り出して、点滴の逆流で汚れた彼女の手の甲を拭おうとした。だが、初音は身を翻してそれを避けた。

蓮の手が空中で止まる。彼は諦めたように溜息をついた。

「ねね」

彼は声のトーンを和らげ、いつもの温厚な表情を取り繕った。

「腹が立つのもわかる。さっき俺が琴音を先に助けたことを恨んでるんだろう。だが道理を考えてくれ。あの状況、琴音は車椅子生活で、自衛能力なんて皆無だ。俺が守らなければ、彼女は命を落としていたかもしれない」

初音は目を閉じたまま、睫毛を微かに震わせた。

黙り込む初音を見て、蓮は彼女が聞き入れたのだと解釈した。

「琴音は不憫な身の上だ。幼くして両親を亡くし、身体もあんな状態になってしまった。お前は仏門に帰依する家の嫁であり、この蓮の妻だ。普段から写経や念仏を嗜んでいるのだから、もっと寛容さを持つべきだ」

病院特有の消毒液の臭いが、蓮の身に纏う白檀の香りよりも鼻につく。

初音が入院していた三日間、蓮は「良き夫」という役を見事に演じきった。

彼は病室にわざわざ執務机を運び込ませ、そこで仕事をこなし、片時も彼女とお腹の子から離れずに守っているという体裁を整えた。

だが実際には、個室のドアは一時間おきに静かに開かれた。

「琴音が暗いと怖がるから、電球を見てくる」

「琴音の薬の時間だ。看護師の手際が悪いと心配だから、見てくるよ」

「琴音が悪夢を見たようだ……」

初音はベッドに横たわり、蓮が出入りするのを静かに見つめていた。

あの転倒は、琴音が以前から画策していたことだ。

だが初音にとっては、これ以上ない好機だった。

それが流産の原因――中絶手術を受けたことを覆い隠し、すべてを理にかなった「不慮の事故」へと変えてくれたのだから。

だが、蓮はそれを知らない。

「ねね、会社の方で案件が山積みでね」

蓮がドアを開けて戻ってきた。眉間には焦燥の色が滲み、その体からは隣の病室の百合の香りが漂っている。

「琴音の方には特別看護師を手配した。今日は退院だ。雲水軒を予約したから、何か美味いものでも食べて、厄落としといこう」

初音の視線は、彼の襟元に付着した一本の長い髪に注がれた。

「わかったわ」

……

雲水軒は帝都で最も名高い料亭であり、蓮が以前よく彼女を連れてきた場所でもあった。

「これらは全部、君の好物だろう」

蓮は慣れた口調で店員にメニューを渡した。

「ここの豆腐は絶品だ。油も塩も控えめで、体に一番いい」

料理はすぐに運ばれてきた。

味気なく、どこか苦渋さえ感じる「絶品」の豆腐。それはまるで、仏壇に供えられた御霊供膳のようだった。

初音は目の前に並ぶ料理を見つめ、口元に自嘲の笑みを浮かべた。

彼女は本来、辛いものがなければ食が進まない質だ。

彼に合わせるために、三年間も無理やり淡白な食事を続けてきただけだ。

そのせいで、彼はこれが初音の大好物だと信じ込んでいる。

「どうした、食べないのか?」

蓮は優雅な所作で青菜を摘み、彼女の器に入れた。

「まだ数日前のこと、構えなかったことを根に持っているのか?」

初音は一口分を箸で摘み、口に運んだ。

苦い。

その苦味は、心の底まで染み渡るようだった。

「蓮」

初音は箸を置き、消え入りそうな声で言った。

「この豆腐、琴音も好きなの?」

蓮の箸が止まる。彼は平然とした顔で答えた。

「彼女は体が弱いから、こういうさっぱりしたものしか口にできないんだ。どうしていつも琴音の話をする?さあ、食べなさい」

初音はそれ以上何も言わず、ただ機械的に椀の中の白米を一粒ずつ飲み込んだ。

食事が終わる頃には、日はすっかり落ちていた。

蓮はどこからかスカイランタンを取り出した。

「今夜は流星群だそうだ。見えなくても、灯りを飛ばすのも悪くないだろう」

蓮は初音の手を引き、テラスへと連れ出した。

凛冽な寒風が吹き荒れ、初音は厚手のカシミヤコートをきつく合わせる。

蓮は彼女の背後に立ち、両腕を彼女の腰に回すと、筆を持つ彼女の手に自分の手を重ねた。そしてスカイランタンにこう書き記した。

【妻と子が、いつまでも幸せでありますように】

書き終えると、蓮の大きな掌がコートの隙間から滑り込み、セーター越しに初音の下腹部に触れた。

初音の身体が強張り、無意識に身を捩る。

「動かないで」

蓮は頭を下げ、顎を彼女の肩の窪みに乗せた。温かい吐息が耳元にかかる。その口調は、未来への期待に満ちていた。

「今回は危なかったが、こいつが無事なら御仏のご加護だ。子供が生まれたら霊峰へお礼参りに行こう」

彼の手のひらは温かく、優しく下腹部を撫でている。

五ヶ月の身重なら、本来ならふっくらとしているはずだ。

だが今、そこは平坦だった。

少しでも心を配っていれば、掌の下が空っぽであることに気づくはずなのに。

だが、彼は気づかない。

彼は自分自身が作り上げた深情けな夫という幻想に浸り、中身を失った虚ろな揺り籠に向かって、未来の願いを捧げているのだ。

「蓮」

初音はゆっくりと夜空へ昇っていくスカイランタンを見上げた。揺らめきながら暗闇へと消えていく灯りを見つめ、唐突に問いかけた。

「結婚したのは、私のことが好きだったから?それとも、琴音の延命のため?」
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