Semua Bab 死んだはずの夫が浮気した: Bab 1 - Bab 10

10 Bab

第1話

夫の高橋岳(たかはし がく)は三年前、海で死んで、遺体さえも見つからなかった。それから三年。生後ひと月の娘を抱え、途方に暮れる毎日。どんなに良い縁談が来ようと、全て断り続けた。友人は皆、私に新しい人生を歩むよう勧めてくれた。でも私の心はすでに彼と共に深い海の底で息絶えていた。このまま、色あせゆく記憶だけを抱えて、独りで老いていくのだろう。そう覚悟を決めていた。その覚悟が揺らぐ日は、娘の三歳の誕生日に訪れた。新装開店の水族館に連れて行った時のこと。巨大水槽の前に立つと、ダイバー服の男性がシロイルカを抱え、優雅に水中を舞っていた。その背中や横顔が、懐かしいあの人にあまりにも似ていた。娘が小さな手を伸ばし、声を上げる。「パパだ!」男が振り向いた。私と目が合った――その瞬間、彼の目にかすかな動揺が走った。そしてさっと身を翻し、深みへ消えていった。その夜、スマホをいじっていると、地元でも有名な資産家の令嬢が投稿した動画が目に入った。祝賀会で笑う令嬢。その前にひざまずき、指輪を贈る男が映っている。キャプションにはこうあった。【三年前、海で私を救ってくれた恩人が、今日、私の運命の夫に。これからもよろしくね@takahashi】スマホの画面の光が、私の顔を青白く照らし出していた。動画の中の彼は、片膝をつき、目の前の女性を見上げている。その笑顔は、溺愛と優しさに満ち、かつて私が一番よく知っていたものだ。今、彼はその笑顔を、この街最大の海運グループの令嬢、中島葵(なかじま あおい)に向けていた。背景には、友人たちの囃し立てや祝福の声が、無数の針のように耳を刺す。娘の花音(はなね)はとっくに眠りにつき、小さな頬には今日の興奮がまだほんのり残っていた。彼女は今日、あの男をはっきりと「パパ」と呼んだ。けれど、彼は、私たち親子を見た瞬間、逃げるように姿を消したのだった。震える指で、「takahashi」というアカウントをタップした。プロフィール画像は、シロイルカを抱き、水族館を背景にした彼の写真。投稿はなく、フォローは葵ひとり。馬鹿みたいね、私。三年前、救難隊は七日七夜で捜索を続けた。最後に見つかったのは、彼が乗っていたヨットの残骸だけ。生存確率はゼロだと告げられた。生後一ヶ月の花音を抱
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第2話

中島葵の誕生パーティー、兼ねての婚約披露宴は、中島グループ傘下のセブンスターホテルで行われた。街の名だたる名士が集う華やかな会場だった。招待状のない私は、中に入ることすらできなかった。ホテルの前で昼から夜まで立ち続けた。冷たい風がコートを貫き、手足はかじかんで感覚がなくなっていた。夜九時、パーティーも終盤を迎え、賓客たちが帰り始める頃になってようやく、雑踏の中に、あの忘れられない姿を見つけた。岳はオーダーメイドのスーツに身を包み、背筋をぴんと伸ばし、髪もきちんと整えられている。葵が彼の腕をしっかりと抱き、嬉しそうに笑っていた。彼らが賓客に挨拶を交わす様子は、上流階級特有の余裕と気品に満ちていた。これはもう、白いシャツを着て台所に立ち、私のために料理を作ってくれていた岳ではなかった。私の岳は、笑うと目尻に優しい皺が寄り、「詩織」と穏やかに呼んでくれた。今、葵が「辰雄さん」と呼ぶこの人は、別人だ。高橋辰雄(たかはし たつお)。名前さえ変えてしまった。警備員の隙を突いて、私は走り寄り、彼の腕を掴んだ。「岳」私の声は大きくはなかったが、喧噪の中に鋭く響いた。周囲の視線が一斉に私たちに注がれた。彼が振り向いた。私を見るその顔には微動だにせず、目は他人を見るように冷たかった。「人違いですか?」葵が嫌そうに眉をひそめ、ウェットティッシュで私が触れた彼の袖口を拭い始めた。「あなた何者?警備員!こっち来てよ!」私は彼をじっと見つめ、顔のわずかな変化を必死で探った。「私を見てよ、岳。本当に私のこと分からないの?詩織よ!私たちの家も、娘のことも、全部忘れたの!?」私はほとんど叫びながら、全身の力を込めて訴えた。彼の瞳が、ほんの一瞬、かすかに動いたように見えた。だが、それだけだった。彼はすぐに平静な表情に戻り、口元にはむしろ軽蔑の笑みさえ浮かべた。「詩織?知らないな……もし俺には娘がいるなら」彼は傍らの葵を見やり、声をわざと柔らかくした。「きっと葵との子どもだね」頭の中で、何かが砕ける音がした。警備員が駆け寄り、乱暴に私の腕を掴んで引き離そうとする。私は引きずられるように後ずさりしたが、視線だけは彼から離さなかった。葵が爪先立ちになって、彼の唇に誇らしげなキスをした。
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第3話

私は惨めな姿でホテル前の車道に放り出された。夜風が頬を通り過ぎる。ひやりとした感覚に手を当てて、自分が泣いていることに気づいた。そこへ、黒いベントレーがゆっくりと横づけした。窓が下り、中から葵の整ったが、どこか冷たい顔が見えた。彼女は上から見下ろすように私を見た。目に満ちていたのは、紛れもない軽蔑だった。「詩織さん、そうよね?」私は黙ったまま、ただ赤く腫れた目で彼女を睨みつけた。葵は鼻で笑うと、バッグから小切手を一枚取り出した。「あなたのこと調べたわ。ただの会社員で子連れ、生活もずいぶん苦しいんでしょ?一千万円。これを受け取って、もう二度と辰雄の前に現れないで」その口調は、まるで乞食に施しをするようだった。小切手の額面が、私の目に突き刺さった。彼らにとって、私の三年間の想いも、岳との日々も、一千万円にしか値しないのか。突然、笑いが込み上げてきた。そして、実際に声を上げて笑ってしまった。「葵さん、あなたの婚約者って、誰だと思う?」葵の表情が硬くなった。「意味わからないわ」「わからないわけないでしょ」ゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と車に近づいた。「高橋岳は私の夫。籍も入れて、式も挙げた。法律が認めた夫婦なの。あなたこそ、何者?」「このっ!」葵の顔が一気に紅潮した。「それと」私は彼女の腹部を指さした。「子供で縛れるとでも思ってるの?私が離婚しなければ、花音が彼のたった一人の嫡出子よ。あなたのお腹の子は、所詮は私生児。それだけのことでしょ?」バシッ!鋭い音と共に、掌が私の頬を殴りつけた。岳だった。いつの間にか車から降りて、私の前に立っていた。その目は、他人を見るように冷たかった。「謝れ」冷たい声が、ただ二文字を投げつけた。私は頬を押さえ、彼を見上げた。信じられなかった。岳が私を殴った。他の女のために。「聞こえないのか」彼の声に温度はない。「葵に、謝れ」その瞬間、私の胸の中で何かが崩れ落ちた。彼の目を見据え、冷たく言い返した。「もし私が謝らないなら?」彼は答えなかった。代わりに、スマホを取り出し、ワンタッチで電話をかけた。「伊藤先生。今すぐに処理してほしいことがある。私の婚約者が、詩織という女にストーカー被害と名誉毀損を受け
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第4話

結局、私は謝ることはなかった。警察署に連行された。葵が「彼女に押され、流産の危機に陥った」と主張したからだ。冷たい取り調べ室に入って、頭上で揺れる青白い蛍光灯の明かりをぼんやり見つめながら、この状況のすべてがドロドロ系ドラマのようだと感じていた。夫が、他の女のために、私を牢に入れようとしている。桜がすぐに駆けつけた。保釈手続きを済ませ、病院に連れて行ってくれた。診断は軽い脳震盪。桜は怒りで震えていた。「絶対に故意傷害罪で告訴しなきゃ!詩織、もうこれ以上、ただ耐えているだけじゃダメなのよ」病院の廊下の壁に背を預け、私は全身の力を抜いていた。「桜」声はかすれていた。「どうして、人の心がここまで変わってしまうのか、理解できない」昔の岳は、私が包丁で指を少し切っただけで、真夜中に大慌てで病院へ駆け込んだ。私は生理痛でうずくまっている時、不器用にホットココアを作ってくれたこともあった。命よりも私を大切にしていたあの岳と、今夜私に手を上げた男は、本当に同じ人間なのだろうか。桜は深く息をつき、そっと私を抱きしめた。「詩織、もう考えなくていいの。人は時に、本当の顔を見せないものよ。今しなくちゃいけないのは、あなたと花音ちゃんを守ること。それだけよ」翌日、私は裁判所からの召喚状を受け取った。岳――いや、今は辰雄と呼ぶべき男が、葵の名義で、私を名誉毀損及び傷害罪で正式に告訴したのだった。召喚状に記載された原告側代理人弁護士の名前を見て、私は凍りついた。伊藤博(いとう ひろ)。覚えていた。彼は岳の大学時代の親友で、私たちの結婚式では介添人も務めてくれた。岳が「亡くなった」後、何度も訪ねてきては私を慰めてくれた、あの博だ。今、彼は岳の手先となって、私を訴えようとしている。私は彼の番号に電話をかけた。呼び出し音が長く響き、ようやく通じた。受話器の向こうからは、博の疲れ切った、そしてよそよそしい声が聞こえた。「詩織さん?」「ええ、私です」できるだけ平静を装って答えた。「伊藤さん、なぜ彼の側に立つんですか?あなたは真相を全てご存じでしょうに」電話の向こうは重い沈黙に包まれた。しばらくして、博はようやく口を開いた。声には、取り繕いきれない困惑とためらいがにじんでいた。「詩織さん、
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第5話

家に着くと、花音はもう眠っていた。ベッドの脇に腰を下ろし、岳に生き写しの細い眉を見つめた。胸がきりきりと痛んだ。これで終わりにはできない。弱さの代償が捨てられることと傷つけられることだけなら、私はとがり、鋭くなっていくしかない。パソコンを開き、「高橋辰雄」と「中島グループ」に関わる情報をむさぼるように検索し始めた。彼は今、中島海運の執行役員で、葵の父親の右腕として働いている。三年前、海難事故で葵を「救助」した後、「高橋辰雄」として中島グループの一員になったらしい。わずか三年で、卓越した手腕を振るい、いくつもの競合会社を吸収合併させ、業界の頂点に立たせた。記事の中の彼は意気揚々とし、ビジネス界の新星として称えられていた。誰もが彼を商業の天才と讃えるが、その足元に私と娘の血と涙が敷き詰められていることなど、誰一人も知らない。私の岳は名門校を出て、優れた才能の持ち主だった。ただ、出世や名声に無頓着で、私との穏やかな生活だけを望んでいた。だから私たちは、小さなデザイン事務所を始めたんだ。彼に野心がなかったわけではない。ただ、その野心を、私とともに叶えたくなかっただけなのだろう。翌日、私は一人の弁護士に連絡した。桜がつないでくれた、離婚訴訟を専門とする業界きっての辣腕、佐藤(さとう)弁護士だ。私はすべてを包み隠さず話した。あの千万円の小切手のことも、岳に殴られた際の診断書のことも。佐藤先生は話を聞き終えると、静かに尋ねた。「詩織さん、あなたが求めている結果は何ですか?」私が求めているもの?「離婚することです。そして、彼の社会的地位と名誉を、完全に引きずり下ろすことです」彼女はうなずいた。少しも驚いていないようだった。「法律上、高橋さんの行為は重婚罪にあたる可能性があります。しかし、最大の問題は、『高橋辰雄』と『高橋岳』が同一人物であるという決定的な証拠が欠けている点です」「証拠はあります」私はカバンから一束の写真を取り出した。大学時代から結婚式までの、二人の写真だ。「これらは補助的な証拠にはなりますが、決定的とは言えません。戸籍やDNA鑑定のような、より強固な証拠が必要です」彼女は私を見つめ、言葉を続けた。「ただ、現在の法的状況は複雑です。彼は三年間行方不明であり、『死亡』扱い
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第6話

佐藤弁護士は説明を聞き終え、深い沈黙に沈んだ。「詩織さん、まずは冷静に。今、考えられる可能性は二つです。第一に、ご主人である高橋岳さんが本当に何らかのトラブルに巻き込まれ、海難事故を装って身を隠すとともに、あなたとお子さんに資金を残そうとした。しかし死にきれず、葵さんに救われ、その後何らかの理由でそのまま『高橋辰雄』として中島家に留まったというシナリオ」「第二は?」私は息を詰めて聞いた。「第二は、これが最初から最後まで、全て計算された騙しだった可能性です」彼女の声は冷静を極め、それがかえって残酷に響いた。「彼は以前から葵さんと関係を持ち、海難事故を共謀した。目的は、あなたという障害を取り除き、資産家の令嬢と正式に結ばれるため。この保険と手紙は、単に彼自身の後ろめたさを軽減するため、あるいはあなたの口を封じるための方便に過ぎないかもしれません」ハンドルを握る私の指の関節が白く浮かび上がった。私は第一の可能性を信じたかった。だが、頬に残る掌の痛み、あの冷徹な視線が第二の現実を、鈍く疼くほどに突きつけていた。「先生、真実がどちらであれ」私は揺れる心を押し鎮めて言った。「名誉毀損の裁判は、予定通り進めてください」「承知しました」裁判当日、私は黒のスーツに身を包み、きちんと化粧をした。傍に付き添ってくれた桜が、私の冷たい手を握りしめた。「詩織、大丈夫。私がついてる」私はこっくりと頷いた。法廷に入ると、原告席の辰雄がすぐに目に入った。相変わらずの高飛車な態度で、スーツに身を固め、表情は冷ややかだ。傍聴席最前列には、腹部がわずかに膨らんだ葵が座っている。彼女は私を見ると、口元に勝ち誇った笑みを浮かべ、挑発的な目線を投げてきた。「あなたなんかに勝てるわけない」とでも言わんばかりに。辰雄の視線は私の顔を一瞬掠めるだけで、何の感慨もなく逸らされた。代理人の博は、私と目が合うとすぐに俯き、まともに顔を上げようとしなかった。審理が始まった。葵側の弁護士が早口で論じ立て、私を「愛が憎しみに変わり、執拗にストーキングし中傷する狂女」と描き出す。「被告は、高橋辰雄氏と私の依頼人である中島葵さんが婚約間近であることを承知の上で、再三にわたり高橋氏に付きまとい、ホテル前では『不倫女』などと公然と罵倒し
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第7話

「離婚を認めない?」彼の逆上した様子を見て、私はただ嗤わずにはいられなかった。「岳、何を根拠に、あなたがまだそんなことを言える資格があると思っているの?他の女を抱き、その女との子供を産もうとしている時、あなたは自分がまだ結婚していることなんて、一度でも考えたの?」私の言葉は、一振りまた一振りの刃となって彼を突き刺した。彼の顔色が、青ざめ、また紅潮する。葵が秘書に支えられながら、近づいてきた。彼女が私を見る目は、怨嗟に満ちていた。「あんた!私たちを徹底的に壊すまで気が済まないのね!?」「壊す?」私は冷たく笑った。「葵さん、最初に私の家庭を壊したのは、あなたの方でしょ?」「辰雄さんはあなたを愛してなんかいないよ。記憶喪失なの、何も覚えていないの。この三年間、彼のそばにいたのは私なんだから」彼女は喚き散らした。記憶喪失?その言葉に、私は一瞬たじろいだ。私は岳を見つめた。彼の表情から何かを読み取ろうとした。彼の目が泳ぎ、私の視線を避ける。なるほど。これが彼の言い訳か。記憶喪失で、すべての裏切りと傷つけを帳消しにしようというのか。なかなか都合のいい口実だ。「つまり」私は再び葵に向き直った。「彼が記憶を失ったからって、あなたはつけ込み、彼をあなたの物にした、と?」「私は……」葵は言葉に詰まった。「葵さん、彼の記憶喪失が本当かどうかなんて、どうでもいい。私が知っているのは、法律上、彼が私の夫だということだけ。そしてあなたは……」私は彼女を上から下まで一瞥した。「せいぜい、日の当たらない場所にいる愛人に過ぎない」「っ!」葵は全身を震わせ、手を挙げて私を殴ろうとした。その手首を、岳が掴んだ。「やめろ」彼の唸るような声は、苛立ちで満ちていた。彼は葵の手を振りほどくと、今度は私に向き直った。目は冷たい。「詩織、値段を言え。いくらなら、俺たちの前から消えてくれる?」彼の言葉は、氷水の桶を頭からかぶせられたように、私を芯まで凍りつかせた。彼の中で、私の三年間の待ち侘び、私たちの過去、花音の存在――それらすべてが、金で計れるものだったのだ。私の心は、完全に死んだ。「いいわ」私は彼を見つめて、ふっと笑った。「今、あなたが持っている全財産の
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第8話

世論の炎は収まる気配なく、中島家のいわゆるPR対策など、焼け石に水だった。彼らには、もう抑えようがない。案の定、三日後、葵のものより一見地味ながら、かえって重厚な威圧感を放つ黒い車が、我が家の前に停まった。車から降り立ったのは、スーツに身を包み、銀髪を厳格に整えた老人。中島グループの会長、中島葵の父――中島敬仁(なかじま けいじ)である。護衛はおらず、書類鞄を提げた秘書一人だけを連れていた。私たちは人気の少ない喫茶店で向かい合った。「浅野さん」彼は前置きなく、沈み込むような重い声で切り出した。穏やかだが、疑いの余地を許さない威厳が滲んでいる。「事態は把握した。無駄な駆け引きは省こう」一枚の書類が、テーブル越しに私の前に滑り込んだ。「これは海辺の別荘の権利書、そして六億円を元金とする、お嬢さんへの成長支援信託の契約書だ。条件は一つ。訴えを取り下げ、今後は二度と彼らの前に現れないこと」その口調は、交渉ではなく宣告だった。私は書類に目もくれなかった。「中島さん、三年前、私の夫はあの船と共に、遺体すら帰ってきませんでした。生後ひと月の娘を残してた。この三年間、私がどうやって過ごしてきたか、あなたに興味はないでしょう。その夫が今、あなたの娘のヒーローで、婚約者だ。私は金を受け取って、何事もなかったように去れと?」湯呑みを手に取る。温もりが冷えきった指先に、ゆっくりと染み渡っていく。「娘に『パパはどこ?』と聞かれたら、私はどう答えればいいですか?『ママが別荘と六億円で、パパを売ったんだよ』と?」敬仁の表情が、わずかに固まった。「浅野さん、人間は身の程を知るものだ。こちらの本気を出せば、あなたが良い目を見ることはない」「私に、もう失うものなど何もありません」声は一瞬震えたが、すぐに固く引き締まった。「私はどん底で、三年も生きてきた。その先に何があるか、よく分かっている。あなたのお金は要りません。私が求めるのは、高橋岳とあなたの娘による公の場での謝罪。そして、正式な裁判手続きを経た離婚です」私は席を立った。「高橋岳の重婚罪については、法律が相応の判決を下すでしょう」彼の顔色が土気色に変わった。金が全てを解決すると、本気で信じていたのだろう。彼には理解できない。私が失っ
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第9話

DNA鑑定結果が出た。当然の帰結だった。白紙に黒々と印字された報告書が、高橋辰雄が99.99%の確率で、我が娘・花音の生物学的父親であることを告げていた。彼こそが高橋岳であった。彼の最後の、わずかな体面も、これで木っ端微塵に打ち砕かれた。その夜、私の携帯が鳴った。非通知番号だった。取ると、彼の声だった。「詩織、話がしたい」声はかすれ、これまでの高圧的な影はどこにもなかった。「話すことなど、もう何も残っていないわ」「お前のマンションの下にいる。降りてこないなら、上がっていく」脅しだ。ここまで来て、まだ脅しを使う。私は降りた。花音を驚かせたくなかったから。彼は老いた街路樹の陰に立っていた。顔はこけ、見るからに疲弊しきっていた。高級仕立てのスーツはなく、どこにでもあるようなジャンパーを着ている。ほんの一瞬、昔の彼を思い出させるものがあった。その一瞬だけ、私の胸は再び締め付けられる痛みに襲われた。「記憶喪失は嘘だったのね?」私はずばりと核心を突いた。長い沈黙が流れた後、彼は苦い笑いを漏らした。「完全な嘘とは言えない。事故の後、確かに記憶を失った。病院で目覚めた時、最初に見たのが葵だった。彼女は俺に『あなたは高橋辰雄。私を救ったヒーローよ』と言った」「それで全てを信じた?何も疑わなかったの?何か大切なものを忘れているとは思わなかった?」私は、怒りを通り越して空しさを感じた。「疑いは、あった。頭の中に断片的なものが浮かぶんだ。女の泣き声、赤ん坊の笑い声…でも、全てが霞んでいて。葵は…俺に、あまりに良くしてくれた。彼女の家族は、俺がかつて想像すらしなかった全てを与えてくれた。簡単に、その現実を受け入れてしまった」「いつ思い出したの?」私の問い詰める声は、さらに鋭くなった。「……一年前だ。すべてを、一気に思い出した。お前の顔、花音の顔、俺たちの家も…」一年前。私の呼吸が止まった。彼は一年も前から、全てを知っていた。丸一年間、自分に妻と娘がいることを知りながら、沈黙を守り、他の女と結婚しようとしていた。「どうして、なの?」その言葉は、喉を切り裂かれるような痛みを伴って絞り出された。「あの手紙も、保険も…『厄介なこと』に巻き込まれて、私たちを守るためだって
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第10話

裁判は、最初から結果が見えていた形式的な宣告の場となった。DNA鑑定結果は決定的で、戸籍謄本も有効。高橋岳の重婚罪、遺棄罪は成立した。彼が恐れていた通り、有罪判決が下ったその瞬間、敬仁は動いた。前科者の婿など必要とせず、彼は岳の過去のビジネス上の汚点――あの「厄介事」の確たる証拠を、警察に渡した。二つの罪による併合刑。彼は長い刑期に直面することとなった。一方、中島葵は、家族と世論の二重の圧力に押し潰されるようにして流産。新聞に婚約破棄を公告し、「療養」のため海外へ去っていった。私が最後に岳を見たのは、判決言い渡しの法廷だった。手錠をかけられ、きちんと整えていた髪は乱れ、彼からは全ての光が失われていた。人混みの向こうから彼は私を見つめ、憎悪と絶望が入り混じった表情を浮かべていた。私はその視線を受け止めた。心には、一片の平穏以外、何もなかった。愛も、憎しみも、もうそこにはない。ただ、全てが終わった後の、虚ろで静かな安らぎだけ。離婚は成立した。彼が中島グループに在籍していた三年間の、法的な配偶者として、私は彼の得た財産の半分を分与された。それはとても大きな額だった。その一部で、私は花音と共にもっと広く明るい家に引っ越した。また別の一部で、以前より規模を大きくし、より確かな基盤を持ったデザイン事務所を再開した。桜は、私のパートナーとなってくれた。ある午後、新しく借りたオフィスに陽光が満ちていた。花音が床で静かに玩具の車を走らせている。桜がコーヒーを差し出しながら言った。「ニュース見た?中島敬仁、新しい執行役員を正式に任命したわよ。高橋岳って人物は、彼らの歴史から、きれいさっぱり消し去られたみたい」「そうね」私は一口含んで答えた。携帯が震えた。見知らぬ番号からのメッセージだ。おそらく彼が連行される前、最後の自由を使って送ってきたのだろう。【もしも…一年前に俺が戻っていたら…お前、許してくれたか?】私はその一文を一瞬見つめ、少し間を置いた。そして、何も返信せずにメッセージを削除し、番号をブロックした。人生に、「もしも」はない。一度沈んだ船は、永遠に海底に眠ればいい。私の心は、とっくにそこにはないのだから。
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