تسجيل الدخول夫の高橋岳(たかはし がく)は三年前、海で死んで、遺体さえも見つからなかった。 それから三年。生後ひと月の娘を抱え、途方に暮れる毎日。どんなに良い縁談が来ようと、全て断り続けた。 友人は皆、私に新しい人生を歩むよう勧めてくれた。でも私の心はすでに彼と共に深い海の底で息絶えていた。 このまま、色あせゆく記憶だけを抱えて、独りで老いていくのだろう。そう覚悟を決めていた。 その覚悟が揺らぐ日は、娘の三歳の誕生日に訪れた。 新装開店の水族館に連れて行った時のこと。巨大水槽の前に立つと、ダイバー服の男性がシロイルカを抱え、優雅に水中を舞っていた。 その背中や横顔が、懐かしい死んだ夫にあまりにも似ていた。 娘が小さな手を伸ばし、声を上げる。 「パパだ!」 男が振り向いた。私と目が合った――その瞬間、彼の目にかすかな動揺が走った。そしてさっと身を翻し、深みへ消えていった。 その夜、スマホをいじっていると、地元でも有名な資産家の令嬢が投稿した動画が目に入った。 祝賀会で笑う令嬢。その前にひざまずき、指輪を贈る男が映っている。 キャプションにはこうあった。 【三年前、海で私を救ってくれた恩人が、今日、私の運命の夫に。これからもよろしくね@takahashi】
عرض المزيد裁判は、最初から結果が見えていた形式的な宣告の場となった。DNA鑑定結果は決定的で、戸籍謄本も有効。高橋岳の重婚罪、遺棄罪は成立した。彼が恐れていた通り、有罪判決が下ったその瞬間、敬仁は動いた。前科者の婿など必要とせず、彼は岳の過去のビジネス上の汚点――あの「厄介事」の確たる証拠を、警察に渡した。二つの罪による併合刑。彼は長い刑期に直面することとなった。一方、中島葵は、家族と世論の二重の圧力に押し潰されるようにして流産。新聞に婚約破棄を公告し、「療養」のため海外へ去っていった。私が最後に岳を見たのは、判決言い渡しの法廷だった。手錠をかけられ、きちんと整えていた髪は乱れ、彼からは全ての光が失われていた。人混みの向こうから彼は私を見つめ、憎悪と絶望が入り混じった表情を浮かべていた。私はその視線を受け止めた。心には、一片の平穏以外、何もなかった。愛も、憎しみも、もうそこにはない。ただ、全てが終わった後の、虚ろで静かな安らぎだけ。離婚は成立した。彼が中島グループに在籍していた三年間の、法的な配偶者として、私は彼の得た財産の半分を分与された。それはとても大きな額だった。その一部で、私は花音と共にもっと広く明るい家に引っ越した。また別の一部で、以前より規模を大きくし、より確かな基盤を持ったデザイン事務所を再開した。桜は、私のパートナーとなってくれた。ある午後、新しく借りたオフィスに陽光が満ちていた。花音が床で静かに玩具の車を走らせている。桜がコーヒーを差し出しながら言った。「ニュース見た?中島敬仁、新しい執行役員を正式に任命したわよ。高橋岳って人物は、彼らの歴史から、きれいさっぱり消し去られたみたい」「そうね」私は一口含んで答えた。携帯が震えた。見知らぬ番号からのメッセージだ。おそらく彼が連行される前、最後の自由を使って送ってきたのだろう。【もしも…一年前に俺が戻っていたら…お前、許してくれたか?】私はその一文を一瞬見つめ、少し間を置いた。そして、何も返信せずにメッセージを削除し、番号をブロックした。人生に、「もしも」はない。一度沈んだ船は、永遠に海底に眠ればいい。私の心は、とっくにそこにはないのだから。
DNA鑑定結果が出た。当然の帰結だった。白紙に黒々と印字された報告書が、高橋辰雄が99.99%の確率で、我が娘・花音の生物学的父親であることを告げていた。彼こそが高橋岳であった。彼の最後の、わずかな体面も、これで木っ端微塵に打ち砕かれた。その夜、私の携帯が鳴った。非通知番号だった。取ると、彼の声だった。「詩織、話がしたい」声はかすれ、これまでの高圧的な影はどこにもなかった。「話すことなど、もう何も残っていないわ」「お前のマンションの下にいる。降りてこないなら、上がっていく」脅しだ。ここまで来て、まだ脅しを使う。私は降りた。花音を驚かせたくなかったから。彼は老いた街路樹の陰に立っていた。顔はこけ、見るからに疲弊しきっていた。高級仕立てのスーツはなく、どこにでもあるようなジャンパーを着ている。ほんの一瞬、昔の彼を思い出させるものがあった。その一瞬だけ、私の胸は再び締め付けられる痛みに襲われた。「記憶喪失は嘘だったのね?」私はずばりと核心を突いた。長い沈黙が流れた後、彼は苦い笑いを漏らした。「完全な嘘とは言えない。事故の後、確かに記憶を失った。病院で目覚めた時、最初に見たのが葵だった。彼女は俺に『あなたは高橋辰雄。私を救ったヒーローよ』と言った」「それで全てを信じた?何も疑わなかったの?何か大切なものを忘れているとは思わなかった?」私は、怒りを通り越して空しさを感じた。「疑いは、あった。頭の中に断片的なものが浮かぶんだ。女の泣き声、赤ん坊の笑い声…でも、全てが霞んでいて。葵は…俺に、あまりに良くしてくれた。彼女の家族は、俺がかつて想像すらしなかった全てを与えてくれた。簡単に、その現実を受け入れてしまった」「いつ思い出したの?」私の問い詰める声は、さらに鋭くなった。「……一年前だ。すべてを、一気に思い出した。お前の顔、花音の顔、俺たちの家も…」一年前。私の呼吸が止まった。彼は一年も前から、全てを知っていた。丸一年間、自分に妻と娘がいることを知りながら、沈黙を守り、他の女と結婚しようとしていた。「どうして、なの?」その言葉は、喉を切り裂かれるような痛みを伴って絞り出された。「あの手紙も、保険も…『厄介なこと』に巻き込まれて、私たちを守るためだって
世論の炎は収まる気配なく、中島家のいわゆるPR対策など、焼け石に水だった。彼らには、もう抑えようがない。案の定、三日後、葵のものより一見地味ながら、かえって重厚な威圧感を放つ黒い車が、我が家の前に停まった。車から降り立ったのは、スーツに身を包み、銀髪を厳格に整えた老人。中島グループの会長、中島葵の父――中島敬仁(なかじま けいじ)である。護衛はおらず、書類鞄を提げた秘書一人だけを連れていた。私たちは人気の少ない喫茶店で向かい合った。「浅野さん」彼は前置きなく、沈み込むような重い声で切り出した。穏やかだが、疑いの余地を許さない威厳が滲んでいる。「事態は把握した。無駄な駆け引きは省こう」一枚の書類が、テーブル越しに私の前に滑り込んだ。「これは海辺の別荘の権利書、そして六億円を元金とする、お嬢さんへの成長支援信託の契約書だ。条件は一つ。訴えを取り下げ、今後は二度と彼らの前に現れないこと」その口調は、交渉ではなく宣告だった。私は書類に目もくれなかった。「中島さん、三年前、私の夫はあの船と共に、遺体すら帰ってきませんでした。生後ひと月の娘を残してた。この三年間、私がどうやって過ごしてきたか、あなたに興味はないでしょう。その夫が今、あなたの娘のヒーローで、婚約者だ。私は金を受け取って、何事もなかったように去れと?」湯呑みを手に取る。温もりが冷えきった指先に、ゆっくりと染み渡っていく。「娘に『パパはどこ?』と聞かれたら、私はどう答えればいいですか?『ママが別荘と六億円で、パパを売ったんだよ』と?」敬仁の表情が、わずかに固まった。「浅野さん、人間は身の程を知るものだ。こちらの本気を出せば、あなたが良い目を見ることはない」「私に、もう失うものなど何もありません」声は一瞬震えたが、すぐに固く引き締まった。「私はどん底で、三年も生きてきた。その先に何があるか、よく分かっている。あなたのお金は要りません。私が求めるのは、高橋岳とあなたの娘による公の場での謝罪。そして、正式な裁判手続きを経た離婚です」私は席を立った。「高橋岳の重婚罪については、法律が相応の判決を下すでしょう」彼の顔色が土気色に変わった。金が全てを解決すると、本気で信じていたのだろう。彼には理解できない。私が失っ
「離婚を認めない?」彼の逆上した様子を見て、私はただ嗤わずにはいられなかった。「岳、何を根拠に、あなたがまだそんなことを言える資格があると思っているの?他の女を抱き、その女との子供を産もうとしている時、あなたは自分がまだ結婚していることなんて、一度でも考えたの?」私の言葉は、一振りまた一振りの刃となって彼を突き刺した。彼の顔色が、青ざめ、また紅潮する。葵が秘書に支えられながら、近づいてきた。彼女が私を見る目は、怨嗟に満ちていた。「あんた!私たちを徹底的に壊すまで気が済まないのね!?」「壊す?」私は冷たく笑った。「葵さん、最初に私の家庭を壊したのは、あなたの方でしょ?」「辰雄さんはあなたを愛してなんかいないよ。記憶喪失なの、何も覚えていないの。この三年間、彼のそばにいたのは私なんだから」彼女は喚き散らした。記憶喪失?その言葉に、私は一瞬たじろいだ。私は岳を見つめた。彼の表情から何かを読み取ろうとした。彼の目が泳ぎ、私の視線を避ける。なるほど。これが彼の言い訳か。記憶喪失で、すべての裏切りと傷つけを帳消しにしようというのか。なかなか都合のいい口実だ。「つまり」私は再び葵に向き直った。「彼が記憶を失ったからって、あなたはつけ込み、彼をあなたの物にした、と?」「私は……」葵は言葉に詰まった。「葵さん、彼の記憶喪失が本当かどうかなんて、どうでもいい。私が知っているのは、法律上、彼が私の夫だということだけ。そしてあなたは……」私は彼女を上から下まで一瞥した。「せいぜい、日の当たらない場所にいる愛人に過ぎない」「っ!」葵は全身を震わせ、手を挙げて私を殴ろうとした。その手首を、岳が掴んだ。「やめろ」彼の唸るような声は、苛立ちで満ちていた。彼は葵の手を振りほどくと、今度は私に向き直った。目は冷たい。「詩織、値段を言え。いくらなら、俺たちの前から消えてくれる?」彼の言葉は、氷水の桶を頭からかぶせられたように、私を芯まで凍りつかせた。彼の中で、私の三年間の待ち侘び、私たちの過去、花音の存在――それらすべてが、金で計れるものだったのだ。私の心は、完全に死んだ。「いいわ」私は彼を見つめて、ふっと笑った。「今、あなたが持っている全財産の