Alle Kapitel von 瓦礫に沈んだ命: Kapitel 1 – Kapitel 10

10 Kapitel

第1話

震災から四十八時間が経過していた。私は廃墟の下敷きとなり、すでに完全に息絶えていた。三歳の息子、森永浩之(もりなが ひろゆき)は狭い隙間に閉じ込められ、私の傷口から滲み出る血を舐めることで、かろうじて命を繋いでいた。トランシーバーから、夫である森永行人(もりなが ゆきと)の苛立ちに満ちた怒鳴り声が響いてくる。「街中が震災救助に追われているっていうのに、よりによってこんな時に失踪か?非常時だって分かってるのか?」パパの声を聞いた息子は、泣きじゃくる幼い声でトランシーバーに向かって叫んだ。「パパ、ママね、寝ちゃったの。もうすぐおうちに連れてってくれるって言ってたよ。ママの言うことを聞いて、イチゴジュース全部飲んだよ。でも、ママ、どうしてまだ寝てるの?」通信の向こう側が、一瞬にして静まり返った。直後、行人が半狂乱になり、ショベルカーを速く動かせと怒鳴り散らす声が響き渡った。救助を待つばかりの息子を見つめながら、私はほっとしたように微笑んだ。行人、おめでとう。あなたを苛立たせてばかりいた妻は、ようやく望みどおり消えてあげられる。……ショベルカーの轟音が、徐々に近づいてくる。霊体となった私は宙に浮かび、自分の遺体を見下ろしていた。私の体は巨大なコンクリートパネルの下敷きとなり、上半身は無残に歪んでいる。ただ片方の手だけが、その下にある何かを守るような姿勢を保ったままだった。手の甲は鉄筋に切り裂かれ、血肉の判別もつかないほどに潰れている。それは、私が息子・浩之に残した最後の障壁だった。行人がよろめきながら廃墟へと駆け寄ってくる。「早くしろ!下に子供がいるんだ!」彼は絶叫した。その声は裏返り、悲痛さがにじみ出ていた。救助隊員が慎重に、あの狭い隙間から浩之を抱き上げる。浩之は全身が埃まみれで、小さな顔も泥だらけだったが、口の周りだけが刺すように赤く染まっていた。行人が飛び出し、浩之をひったくるように抱きかかえる。彼は浩之の体をあちこち手で触れて確かめ、四肢が無事であること、傷が擦り傷程度にすぎないことを確認した。強張っていた彼の肩が、ようやく緩む。だが次の瞬間、顔に浮かんでいた焦燥は、瞬時に激しい怒りへと変わった。「林知世(はやし ともよ)!お前、一体どこに行ったんだ!子供がこんなに
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第2話

医療テントの中は薄暗く、消毒液の匂いに土の生臭さが混じり合っていた。看護師が温かいタオルで浩之の顔を拭っている。その手つきは驚くほど優しい。だが、タオルが浩之の唇に触れた瞬間、彼女の手がぴたりと止まった。「先生!ちょっと来てください!」看護師の声に緊張が走る。「この子の口の周り、どうしてこんなに赤いんでしょう。内臓出血の可能性は?」私は浩之の傍らに浮かび、ひび割れた唇と、そこにこびりついた刺すような暗赤色を痛ましく見つめていた。行人は近くで自分の腕の擦り傷の処置を受けていたが、その声を聞くと眉をひそめ、こちらへ歩み寄ってきた。彼はウェットティッシュを一枚引き抜き、浩之の口元を乱雑に拭った。「おやつでも食べ散らかしたんだろう」低い声で、そう断じる。ティッシュが擦れるたび、乾いた血痕が浩之の埃まみれの頬に広がった。浩之は痛みに顔を歪めて身をよじり、小さな手で行人の手首を押し返しながら泣き叫ぶ。「拭かないで!これ、ママがくれたイチゴジュースなの!」悔しさに赤く染まった浩之の目尻を見て、私は思い出していた。激痛と息苦しさに耐えながら、無理に微笑み、彼にそう告げたあの瞬間を。「いい子ね。これはママが出した魔法のイチゴジュースよ。世界中で浩之だけが飲めるんだから」私の愛しい息子。彼は、本当にそれを信じてくれたのだ。行人の動きが一瞬止まる。だが次の瞬間、怒りの火はさらに激しく燃え上がった。「知世のやつ、子供をいくつだと思ってるんだ。いつまでこんなものを与えてるんだ?地震が起きても息子を助けに来やしない。無責任すぎるだろう」そのとき、行人のポケットのスマートフォンが突然震え出した。着信表示を一瞥すると、彼はテントの入口まで歩き、声をわずかに落として電話に出る。私は音もなく、その傍らへと漂った。受話口の向こうから、親密さを滲ませた女性の声が聞こえてくる。「行人、奥さんとはまだ連絡がつかないの?病院に聞いたんだけど、奥さん、出勤の報告もしてないみたいで」副隊長の松本晴子(まつもと はるこ)だった。「放っておけ」行人の声には、ひとかけらの温度もなかった。「死にやしないさ。どうせどこか安全な避難所にでも隠れて、怖くて出てこられないんだろう。医者のくせにな」私は思わず、自嘲の笑
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第3話

医療テントの中の空気は、いっそう重苦しく沈み込んでいた。浩之の顔は真っ赤に火照り、小さな体を丸めたまま、眠りの中でもきつく眉間にしわを寄せている。額に当てた濡れタオルはすでに三度も取り替えられていたが、高熱が引く気配は一向にない。私は焦燥に駆られながら彼の上に浮かび、幾度となくその額へ手を伸ばした。かつて数えきれないほど繰り返してきた夜と同じように。浩之は幼い頃から体が弱く、季節の変わり目になるたび決まって熱を出していた。意識が朦朧とする彼を前に、私は一晩中眠らず、ぬるま湯で何度もその体を拭いてやったものだ。熱が下がれば、彼の大好物であるカボチャシチューを作ってやる――それがいつもの約束だった。それなのに今は、苦しむ彼を、ひび割れた唇を、看護師が突き立てる冷たい注射針を、ただ見守ることしかできない。抱きしめてあげたい。冷えた私の手のひらをその額に当て、「ママはどこにも行ってないよ」と伝えてあげたい。けれど今の私は、触れることも、留まることも叶わない――ただ漂う空気の塊に過ぎなかった。行人は傍らで様子を見守っていたが、眉間の皺が解けることは一度もない。彼は浩之が抱え込んでいる、明らかに邪魔そうなリュックを取り上げようとした。少しでも楽に眠らせるためなのだろう。だが、リュックに手が触れた瞬間――浩之がカッと目を見開いた。残された力を振り絞り、リュックを胸元へ引き寄せる。「触っちゃダメ!」かすれた子供の声が、泣き声混じりに響いた。「これ、ママにあげるの!」行人の手が空中で止まる。「ママのために、ちゃんと取っておくんだもん!」浩之の目から大粒の涙が溢れ、リュックの帆布へと吸い込まれていく。「これ、パパがママにプレゼントしたやつでしょ……ママがこれを受け取ったら、もう喧嘩しないでしょ……?」宙に漂う私は、心臓など存在しないはずなのに、不意に激しく疼くような錯覚に襲われた。言葉にならない痛みが、一気に胸を満たす。私の愛しい息子。まだ三歳だというのに、彼は私たち夫婦の間に生じた巨大な亀裂を修復しようとするほど、敏感に空気を感じ取っていたのだ。途切れ途切れの言葉を聞いた瞬間、行人の顔色が目に見えて悪くなった。「何を馬鹿なことを……」低く唸るように言う。「知世のやつ、喧嘩のことまで
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第4話

私は呆然としていた。ネックレスが――私が捨てたはずのテディベアの体の中に?私が口にできなかった疑念と、彼が説明しそびれたサプライズ。私たちは、一度は捨てられ、そして私が密かに拾い戻したこのテディベアを挟んだまま、最後の仲直りの可能性を永遠に逃してしまったのだ。そして今、私たちは生者と死者に分かたれている。すべては、取り返しのつかない、悪い冗談のような悲劇へと変わってしまった。私はそのネックレスをじっと見つめた。それは、まだ私たちがまだ愛し合っていた頃、街を並んで歩き、ジュエリーショップの前を通るたびに、私がいつも足を止めて眺めていたものだった。私はプレートを指さし、行人にこう言ったのだ。「見て。この『知』っていう字、素敵じゃない?私は富や名声なんていらない。ただ、私たち家族が幸せに、満足を知って、楽しく暮らせればそれでいいの」幸せと、満足を知ること。それは私の人生に対する、そして私たちの家庭に対する、最もささやかで、けれど切実な願いだった。あのとき行人は、私の額にキスを落とし、こう言ってくれた。「ああ。絶対に幸せにして、満足できる人生にしてあげるよ」行人は、覚えていてくれたのだ。私の願いを、確かに心に留めてくれていたのだ。けれど彼は知らない。たった一枚の写真、たったひとつの誤解によって、「満足を知る幸せ」の象徴になるはずだったこの贈り物が、私たちの間に横たわる最も深い溝へと変わってしまったことを。そして私も知らなかった。これは安物のぬいぐるみなどではなく、かつてあれほど渇望していた「安心」そのものだったということを。行人はネックレスを強く握りしめ、指の腹で「知」の文字をなぞった。そして不意に、冷ややかな失笑を漏らす。「知世……それほど俺が憎いのか?」低く、独り言のようにつぶやく。「あんなに欲しがっていたくせに、これさえいらないほど俺を恨んでいるのか」宙に漂う私は、苦しげに震え、体を丸めた。違うのよ、行人。違うの。行人はネックレスを乱暴にポケットへ押し込むと、苛立たしげにスマートフォンを取り出した。ロックを解除し、叩きつけるような指先で文字を打ち込む。やがて、一行のメッセージが送信された。【知世、いい加減にしろ。怒っているのはわかるが、今はそんな
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第5話

行人の頭の中が、真っ白になった。彼は母を見つめ、わずかに唇を動かしたものの、声は出なかった。「早退……?病院は、あいつは出勤していないと言っていた。だから俺は、てっきり……」「てっきり何よ!」母の声が鋭く響き渡る。「あの子、言ってたわ。一昨日はあなたたちの結婚記念日だって!あなたが仕事で忙しいから、自分が浩之くんを迎えに行って、消防署までサプライズを届けに行くんだって!」行人の体が激しく強張った。その視線が、浩之の小さなリュックへと吸い寄せられる。私はそちらへ歩み寄り、リュックの中を覗き込んだ。行人が乱暴に引きずり出したテディベアのほかに、四角い深紺色のベルベットの箱が、隅にひっそりと転がっている。彼のために、何軒もの店を回って選んだ腕時計だった。母はベッドの縁にすがるように床へ崩れ落ち、両手で顔を覆いながら、押し殺した嗚咽を漏らした。「電話も繋がらない……家にも誰もいない……あなたと一緒にいるんだと思ってた……あの子はどこへ行ったの!私のともちゃんは、どこへ行っちゃったのよ!」行人は震える手でポケットからスマホを取り出した。指先を滑らせ、私とのトーク画面を開く。最新のやり取りは、地震の前夜で止まっていた。彼から送られてきた長文の非難――「冷酷だ」「家族への配慮がない」「俺のことを理解してくれない」……それに対する私の返信は、たった一言。【明日、ちゃんと話しましょう】明日――もう、明日など来ないのに。「あいつ、浩之くんを迎えに……」行人は喉を鳴らし、独り言のように呟いた。そして不意に顔を上げ、隣にいた救助隊員の腕を掴む。骨が砕けるのではないかと思うほどの力だった。「浩之くんは、どこで見つかったんだ!?」隊員はその剣幕に気圧され、慌てて答える。「よ、幼稚園の塀のそばです!塀が倒れて三角地帯のような隙間ができていて、あの子はその中にいました。発見時、そこにいたのはあの子一人だけでした」「一人だけ……」行人の顔から、みるみる血の気が引いていく。次の瞬間、彼は狂ったように周囲の人々を突き飛ばし、テントの外へ飛び出した。「戻るぞ!全員戻れ!さっきの掘削地点だ!あの三角地帯の下だ!下にはまだ、絶対に空間があるはずだ!」私は行人の後を追ってテントを出た。
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第6話

「隊長、大型重機が回ってきました!」副隊長の叫びが、死のような静寂を打ち破った。行人はゆっくりと顔を上げ、地鳴りのような音を響かせながら近づいてくるショベルカーを見つめた。やがて立ち上がると、ふらつく足取りのまま運転手へ向かって怒鳴りつける。「掘れ!ここを掘るんだ!」彼は、一度掘り起こされながら再び埋まってしまったあの穴を指差した。人力に代わり、巨大なアームが唸りを上げて動き出す。重いコンクリート板が次々と吊り上げられ、取り除かれていった。瓦礫が一つ退けられるたび、行人の体は限界まで強張っていく。掘削が進むにつれ、空気中の粉塵の匂いに、鉄錆のような生臭さが混じり始めた。行人の喉仏が激しく上下する。彼はショベルカーが完全に止まるのも待たず、二メートル以上ある穴の縁から直接飛び降りた。足元の土は柔らかく、砕石が混じっている。よろめきながらも、どうにか踏みとどまった。「隊長!」背後で上がる隊員たちの驚愕の声を意に介さず、行人はその場に両膝をついた。血の匂いを含んだ土へ十本の指を突き立て、狂ったように掻き出し始める。鋭い石の角が掌を切り裂いても構わなかった。剥がれかけた爪の間に泥が食い込んでも、何も感じていない。ただ――私がこの下にいる。その事実だけが、彼を突き動かしていた。霊体となった私は宙に浮かび、彼の狂気じみた姿を見つめていた。土が、少しずつ取り除かれていく。最初に姿を現したのは、刺すような「赤」だった。それは、ハイヒールのヒールだった。行人の動きが止まる。その靴は、行人が副隊長に昇進したとき、最初の月給をすべてはたいて私に買ってくれたものだ。高すぎると私は文句を言った。医者は走り回る仕事なのだから、こんな靴は不便だと。口ではそう言いながらも、私は靴箱の中でいちばんきれいな場所に、箱に入れて大切にしまっていた。結婚記念日か、彼がたまに休暇で帰ってくる日だけ、私はその靴を履いたのだ。行人の指が震えながら、さらに下へと進む。やがてふくらはぎが現れ、続いて、もはや元の色すら判別できないほど汚れたスカートの裾が姿を見せた。そして最後に現れたのは、無残に歪み、すでに人の形を留めていない亡骸だった。遺体となった私は地面に跪き、上半身を深く前へ倒していた。背骨はプレハ
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第7話

救助隊員たちが私の遺体を慎重に担架へと乗せ、静かに白布を掛けた。行人は、私の体がそこにあったことを示す人型の窪みに膝をついたまま、石像のように微動だにしない。「隊長、ここに……バッグが残っていました」若い隊員が、私の遺体の傍らの泥の中から、いつも使っていた帆布のバッグを掘り出した。行人は見覚えのあるそれをぎこちなく受け取ると、泥で噛み合わなくなったファスナーを無理やり引き開ける。中身が、一つずつ取り出されていった。浩之の着替えの上着、ポケットティッシュ、そして私のスマホ。画面は蜘蛛の巣のように割れ、本体も無残に歪んでいる。行人は袖口で画面の泥を拭い、電源ボタンを長押しした。反応はない。それでも彼は、何度も、何度も押し続ける。私は彼の前に漂い、その動作を執拗に繰り返す姿を見つめていた。もうやめて、行人。それは私と同じ。もう壊れてしまったのよ。そう思った瞬間、画面がふっと瞬き、かすかな光が灯った。彼は最後の藁にすがるように、ひび割れた画面をなぞり、メッセージ画面を開く。一番上に表示されたのは、メモ帳に残された下書きだった。日付は、地震発生から一時間後。【行人へ。プレハブ板が落ちてきた時、不思議とあなたのことは恨んでいなかった。ただ後悔してる。今日家を出る前、晴子さんからのあのメッセージのせいで、またあなたと喧嘩しちゃったこと。意地を張らなければ、もっと早く幼稚園に着いて、浩之くんを安全な場所に連れて行けたかもしれない。これからは浩之くんをしっかり育ててね。あの子がいじめられたりしないように。私、もう持ちそうにないわ……】スマホを握る行人の手が、制御できないほど激しく震え出した。知世が怒っていたのは、晴子のせい?メッセージだと?彼は猛然と立ち上がり、自分のスマホをひったくる。晴子とのトーク画面を開き、指を弾くようにして履歴を遡った。何もない。業務連絡以外には、取らなかった電話の履歴だけが残っている。「お前、俺のスマホをいじったな」行人は顔を上げなかったが、その声には確信が宿っていた。穴の縁に立っていた晴子の体が、ビクッと強張る。「行人、何を……?私、意味が分からないよ」行人はゆっくりと顔を上げた。血走った瞳が、蛇のように彼女を射抜く。
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第8話

仮の遺体安置所には、さまざまな臭いが入り混じっていた。泥の湿った臭い、消毒液の刺激臭、そして拭い去ることのできない血の気配。夜が更け、隊員たちはすでに撤収していたが、行人だけがその場に残っていた。彼は帰ろうとせず、私の担架のすぐ横に寝床を敷く。浩之はその隣で、小さな体を丸めて眠っていた。行人は、まどろむことさえ恐れていた。私を覆う白布を、穴が開くほど見つめ続けている。目を閉じ、再び開けたとき――そこが空になっているのではないかと怯えているのだ。誰かが私を運び去り、人を灰へ変えてしまうあの炉の中へ放り込んでしまうのではないかと。深夜、ついに限界を迎え、行人のまぶたが閉じた。私はそっと彼のそばへ寄り添う。眠りの中で眉をひそめ、うなされるようにうわ言を漏らしている。私は静かに、彼の夢の中へ潜り込んだ。そこには、あの家があった。台所の窓から夕陽が差し込み、私はエプロンを締め、麺を茹でている。鍋の湯がぐつぐつと泡立っていた。背後から、急ぎ足の足音。逞しい腕が後ろから私を強く抱きしめ、熱を帯びた頬が首筋へ埋められる。「知世……ごめん」彼の声は鼻にかかり、体は小刻みに震えていた。「俺が悪かった。本当に、俺が間違ってたんだ。愛してる、知世。愛してるんだ」私は抱きしめられる温もりを感じながら、彼の体から漂う、かすかな煙草の匂いが混じった石鹸の香りを吸い込んだ。微笑みながら片手を空け、彼の手を軽く叩く。「麺が伸びちゃうわ。早く手を洗って。ご飯にしましょう」行人は、捨てられることを恐れる子供のように、さらに強く私を抱きしめた。骨も血も境界もなく、私の中へ溶け込んでしまいたいとでも言うような力だった。夢の中の私は、痛みを感じない。ただ、今日はずいぶん甘えん坊ね、とそう思うだけだった。「はいはい、分かったから。いい子にして」夢の温もりが現実味を帯びるほど、現実の冷たさは骨の髄まで突き刺さる。行人が、唐突に目を開けた。台所の柔らかな光も、料理の香りもない。あるのは冷たいコンクリートの床、鼻を刺す消毒液の匂い、腕の中で不安げに眠る息子。そして、傍らに横たわる、白布に覆われた私の遺体だけ。行人はゆっくりと起き上がった。その動作はどこか硬直している。手を伸ばし、もう
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第9話

火葬の日がやってきた。行人は、衣類を納めた段ボール箱を自らの手で開けた。中に入っていたのは、白いワンピースだった。ごくシンプルなデザインで、私の二十歳の誕生日に、彼が三ヶ月分の手当を貯めて買ってくれたものだ。当時の私は「センスが古い」などと文句を言ったけれど、それ以来、大切な日には決まって袖を通していた。行人はワンピースを取り出した。その動きは、シワひとつ生まれないよう、ひどくゆっくりで慎重だった。彼の手にはまだ包帯が巻かれており、滲み出した血が白い布地に小さな跡を残した。行人は俯き、不器用な指先でその汚れを拭おうとしたが、血はただ淡く滲み広がるばかりだった。やがて行人は諦め、私の着替えを始めた。私はその傍らで、黙って彼を見つめていた。廃墟の中でコンクリート板を素手で跳ね除けた男が、いまはたった一つの小さなボタンさえ、なかなか穴に通せない。指先は激しく震え、何度もやり直すうちに、行人の額には大粒の汗が浮かんでいた。ようやく、着替えが終わった。次に行人は私の化粧ポーチを開き、中からアイブロウと口紅を取り出した。どれも、もう長い間使われていなかったものだ。彼はアイブロウを手にしたまま、私の眉の上でしばらく迷い続け、なかなか描き出すことができない。「最後に見たのがずいぶん前だから、忘れちゃったな」低い声だった。私への言い訳のようでもあり、独り言のようでもあった。描き上げられた眉は、わずかに歪んでいた。それから彼は指の腹に口紅をなじませ、少しずつ、丁寧に私の唇へ色を乗せていく。すべてを終えると、彼は二歩後ろへ下がり、私を見つめた。「これで……もう、いなくなっちゃう人には見えないな」私は鏡の中の、どこか見慣れない自分を見つめた。そして、行人の瞳に浮かぶ赤く血走った筋をも。行人、あなたはそれで自分自身を騙しているの?それとも、私を?母に手を引かれ、浩之が入ってきた。その手には、大好きなイチゴミルクのパックがぎゅっと握られている。彼は私のそばへ歩み寄り、背伸びをして、一生懸命そのミルクを枕元に置いた。「ママ、これ、もう僕はいらないから、ママにあげるね」鼻声は重く、浩之は力いっぱい鼻をすすった。「だから、起きて。ねえ、起きてよ……」行人が唐突に背を向け
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第10話

三年後。家の中の様子は、あの頃と何ひとつ変わっていない。行人は救助隊長の職を辞し、事務部門へ異動した。いまは毎日決まった時間に仕事へ行き、決まった時間に帰ってくる生活を送っている。煙草も酒も、彼はもう完全に断っていた。台所のカウンターには、何度も読み返されて古びたレシピ本が数冊置かれ、ページの端には点々と油の跡が残っている。彼は料理を覚えるようになった。味は決して上手いとは言えなかったが、浩之はいつも残さず、きれいに平らげてくれた。浩之は六歳になり、背もずいぶん伸びた。三歳までの記憶はすでにおぼろげで、ただ「ママは空の向こうにいて、一番光っているお星様になったんだ」ということだけを覚えている。今日は私の命日だ。行人は浩之の手を引き、墓地を訪れた。墓石は丁寧に磨き上げられている。スマホの画面を開くと、そこには二十七歳のままの私がいて、時が止まっている。石碑の前には、新鮮なイチゴと、パックのイチゴミルクが一列に並べられていた。行人は上着の内ポケットから新しい家族写真を取り出し、清潔な布でフォトフレームの縁の埃をそっと拭った。写真には、小さな制服を着て、彼の隣に立つ六歳の浩之が写っている。「知世、浩之くんが小学校に入ったよ。すごく聞き分けのいい子だ」彼はその場にしゃがみ込み、写真を墓石のちょうど中央に供えた。「俺も、いい子にしてる。もう、お前を怒らせたりしない」行人の声は、低く静かだった。浩之が小さな指で、スマホ画面を指差した。「パパ、ママが笑ってるよ」行人はスマホ画面に目を向け、切り取られた一瞬の中で微笑む私を見つめた。そして指を動かし、スクリーン越しに私の顔の輪郭をそっと辿った。「ああ、そうだな。俺の不器用さを笑ってるんだろう」彼はポケットから、修理されたあの古いトランシーバーを取り出した。外装には、いまもひび割れた跡が残っている。それを耳に当て、通話ボタンを押す。聞こえてくるのは、ザーッという砂嵐のようなノイズだけだった。それでも彼は長い間、じっと耳を澄ませ続けていた。まるでそれが単なる雑音ではなく、別の世界から届く吐息であるかのように。また一年、春が巡ってきた。家のベランダでは、いくつかの植木鉢から緑の芽が顔を出し、細かな白い花を咲かせている。行
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