ログイン震災から四十八時間が経過していた。私は廃墟の下敷きとなり、すでに完全に息絶えていた。 三歳の息子、森永浩之(もりなが ひろゆき)は狭い隙間に閉じ込められ、私の傷口から滲み出る血を舐めることで、かろうじて命を繋いでいた。 トランシーバーから、夫である森永行人(もりなが ゆきと)の苛立ちに満ちた怒鳴り声が響いてくる。 「街中が震災救助に追われているっていうのに、よりによってこんな時に失踪か?非常時だって分かってるのか?」 パパの声を聞いた息子は、泣きじゃくる幼い声でトランシーバーに向かって叫んだ。 「パパ、ママね、寝ちゃったの。もうすぐおうちに連れてってくれるって言ってたよ。 ママの言うことを聞いて、イチゴジュース全部飲んだよ。でも、ママ、どうしてまだ寝てるの?」 通信の向こう側が、一瞬にして静まり返った。直後、行人が半狂乱になり、ショベルカーを速く動かせと怒鳴り散らす声が響き渡った。 救助を待つばかりの息子を見つめながら、私はほっとしたように微笑んだ。 行人、おめでとう。あなたを苛立たせてばかりいた妻は、ようやく望みどおり消えてあげられる。
もっと見る三年後。家の中の様子は、あの頃と何ひとつ変わっていない。行人は救助隊長の職を辞し、事務部門へ異動した。いまは毎日決まった時間に仕事へ行き、決まった時間に帰ってくる生活を送っている。煙草も酒も、彼はもう完全に断っていた。台所のカウンターには、何度も読み返されて古びたレシピ本が数冊置かれ、ページの端には点々と油の跡が残っている。彼は料理を覚えるようになった。味は決して上手いとは言えなかったが、浩之はいつも残さず、きれいに平らげてくれた。浩之は六歳になり、背もずいぶん伸びた。三歳までの記憶はすでにおぼろげで、ただ「ママは空の向こうにいて、一番光っているお星様になったんだ」ということだけを覚えている。今日は私の命日だ。行人は浩之の手を引き、墓地を訪れた。墓石は丁寧に磨き上げられている。スマホの画面を開くと、そこには二十七歳のままの私がいて、時が止まっている。石碑の前には、新鮮なイチゴと、パックのイチゴミルクが一列に並べられていた。行人は上着の内ポケットから新しい家族写真を取り出し、清潔な布でフォトフレームの縁の埃をそっと拭った。写真には、小さな制服を着て、彼の隣に立つ六歳の浩之が写っている。「知世、浩之くんが小学校に入ったよ。すごく聞き分けのいい子だ」彼はその場にしゃがみ込み、写真を墓石のちょうど中央に供えた。「俺も、いい子にしてる。もう、お前を怒らせたりしない」行人の声は、低く静かだった。浩之が小さな指で、スマホ画面を指差した。「パパ、ママが笑ってるよ」行人はスマホ画面に目を向け、切り取られた一瞬の中で微笑む私を見つめた。そして指を動かし、スクリーン越しに私の顔の輪郭をそっと辿った。「ああ、そうだな。俺の不器用さを笑ってるんだろう」彼はポケットから、修理されたあの古いトランシーバーを取り出した。外装には、いまもひび割れた跡が残っている。それを耳に当て、通話ボタンを押す。聞こえてくるのは、ザーッという砂嵐のようなノイズだけだった。それでも彼は長い間、じっと耳を澄ませ続けていた。まるでそれが単なる雑音ではなく、別の世界から届く吐息であるかのように。また一年、春が巡ってきた。家のベランダでは、いくつかの植木鉢から緑の芽が顔を出し、細かな白い花を咲かせている。行
火葬の日がやってきた。行人は、衣類を納めた段ボール箱を自らの手で開けた。中に入っていたのは、白いワンピースだった。ごくシンプルなデザインで、私の二十歳の誕生日に、彼が三ヶ月分の手当を貯めて買ってくれたものだ。当時の私は「センスが古い」などと文句を言ったけれど、それ以来、大切な日には決まって袖を通していた。行人はワンピースを取り出した。その動きは、シワひとつ生まれないよう、ひどくゆっくりで慎重だった。彼の手にはまだ包帯が巻かれており、滲み出した血が白い布地に小さな跡を残した。行人は俯き、不器用な指先でその汚れを拭おうとしたが、血はただ淡く滲み広がるばかりだった。やがて行人は諦め、私の着替えを始めた。私はその傍らで、黙って彼を見つめていた。廃墟の中でコンクリート板を素手で跳ね除けた男が、いまはたった一つの小さなボタンさえ、なかなか穴に通せない。指先は激しく震え、何度もやり直すうちに、行人の額には大粒の汗が浮かんでいた。ようやく、着替えが終わった。次に行人は私の化粧ポーチを開き、中からアイブロウと口紅を取り出した。どれも、もう長い間使われていなかったものだ。彼はアイブロウを手にしたまま、私の眉の上でしばらく迷い続け、なかなか描き出すことができない。「最後に見たのがずいぶん前だから、忘れちゃったな」低い声だった。私への言い訳のようでもあり、独り言のようでもあった。描き上げられた眉は、わずかに歪んでいた。それから彼は指の腹に口紅をなじませ、少しずつ、丁寧に私の唇へ色を乗せていく。すべてを終えると、彼は二歩後ろへ下がり、私を見つめた。「これで……もう、いなくなっちゃう人には見えないな」私は鏡の中の、どこか見慣れない自分を見つめた。そして、行人の瞳に浮かぶ赤く血走った筋をも。行人、あなたはそれで自分自身を騙しているの?それとも、私を?母に手を引かれ、浩之が入ってきた。その手には、大好きなイチゴミルクのパックがぎゅっと握られている。彼は私のそばへ歩み寄り、背伸びをして、一生懸命そのミルクを枕元に置いた。「ママ、これ、もう僕はいらないから、ママにあげるね」鼻声は重く、浩之は力いっぱい鼻をすすった。「だから、起きて。ねえ、起きてよ……」行人が唐突に背を向け
仮の遺体安置所には、さまざまな臭いが入り混じっていた。泥の湿った臭い、消毒液の刺激臭、そして拭い去ることのできない血の気配。夜が更け、隊員たちはすでに撤収していたが、行人だけがその場に残っていた。彼は帰ろうとせず、私の担架のすぐ横に寝床を敷く。浩之はその隣で、小さな体を丸めて眠っていた。行人は、まどろむことさえ恐れていた。私を覆う白布を、穴が開くほど見つめ続けている。目を閉じ、再び開けたとき――そこが空になっているのではないかと怯えているのだ。誰かが私を運び去り、人を灰へ変えてしまうあの炉の中へ放り込んでしまうのではないかと。深夜、ついに限界を迎え、行人のまぶたが閉じた。私はそっと彼のそばへ寄り添う。眠りの中で眉をひそめ、うなされるようにうわ言を漏らしている。私は静かに、彼の夢の中へ潜り込んだ。そこには、あの家があった。台所の窓から夕陽が差し込み、私はエプロンを締め、麺を茹でている。鍋の湯がぐつぐつと泡立っていた。背後から、急ぎ足の足音。逞しい腕が後ろから私を強く抱きしめ、熱を帯びた頬が首筋へ埋められる。「知世……ごめん」彼の声は鼻にかかり、体は小刻みに震えていた。「俺が悪かった。本当に、俺が間違ってたんだ。愛してる、知世。愛してるんだ」私は抱きしめられる温もりを感じながら、彼の体から漂う、かすかな煙草の匂いが混じった石鹸の香りを吸い込んだ。微笑みながら片手を空け、彼の手を軽く叩く。「麺が伸びちゃうわ。早く手を洗って。ご飯にしましょう」行人は、捨てられることを恐れる子供のように、さらに強く私を抱きしめた。骨も血も境界もなく、私の中へ溶け込んでしまいたいとでも言うような力だった。夢の中の私は、痛みを感じない。ただ、今日はずいぶん甘えん坊ね、とそう思うだけだった。「はいはい、分かったから。いい子にして」夢の温もりが現実味を帯びるほど、現実の冷たさは骨の髄まで突き刺さる。行人が、唐突に目を開けた。台所の柔らかな光も、料理の香りもない。あるのは冷たいコンクリートの床、鼻を刺す消毒液の匂い、腕の中で不安げに眠る息子。そして、傍らに横たわる、白布に覆われた私の遺体だけ。行人はゆっくりと起き上がった。その動作はどこか硬直している。手を伸ばし、もう
救助隊員たちが私の遺体を慎重に担架へと乗せ、静かに白布を掛けた。行人は、私の体がそこにあったことを示す人型の窪みに膝をついたまま、石像のように微動だにしない。「隊長、ここに……バッグが残っていました」若い隊員が、私の遺体の傍らの泥の中から、いつも使っていた帆布のバッグを掘り出した。行人は見覚えのあるそれをぎこちなく受け取ると、泥で噛み合わなくなったファスナーを無理やり引き開ける。中身が、一つずつ取り出されていった。浩之の着替えの上着、ポケットティッシュ、そして私のスマホ。画面は蜘蛛の巣のように割れ、本体も無残に歪んでいる。行人は袖口で画面の泥を拭い、電源ボタンを長押しした。反応はない。それでも彼は、何度も、何度も押し続ける。私は彼の前に漂い、その動作を執拗に繰り返す姿を見つめていた。もうやめて、行人。それは私と同じ。もう壊れてしまったのよ。そう思った瞬間、画面がふっと瞬き、かすかな光が灯った。彼は最後の藁にすがるように、ひび割れた画面をなぞり、メッセージ画面を開く。一番上に表示されたのは、メモ帳に残された下書きだった。日付は、地震発生から一時間後。【行人へ。プレハブ板が落ちてきた時、不思議とあなたのことは恨んでいなかった。ただ後悔してる。今日家を出る前、晴子さんからのあのメッセージのせいで、またあなたと喧嘩しちゃったこと。意地を張らなければ、もっと早く幼稚園に着いて、浩之くんを安全な場所に連れて行けたかもしれない。これからは浩之くんをしっかり育ててね。あの子がいじめられたりしないように。私、もう持ちそうにないわ……】スマホを握る行人の手が、制御できないほど激しく震え出した。知世が怒っていたのは、晴子のせい?メッセージだと?彼は猛然と立ち上がり、自分のスマホをひったくる。晴子とのトーク画面を開き、指を弾くようにして履歴を遡った。何もない。業務連絡以外には、取らなかった電話の履歴だけが残っている。「お前、俺のスマホをいじったな」行人は顔を上げなかったが、その声には確信が宿っていた。穴の縁に立っていた晴子の体が、ビクッと強張る。「行人、何を……?私、意味が分からないよ」行人はゆっくりと顔を上げた。血走った瞳が、蛇のように彼女を射抜く。