All Chapters of 彼の助けなど、私には必要ない: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

谷口翔(たにぐち しょう)にプロポーズされた日、私たちは自分たちがとある運命に翻弄される物語の中にいると知った。彼はこの物語の主人公。つまりは、ヒロインを救うために存在するのだ。そして私はといえば、名前すら与えられていない、ただの脇役にすぎなかった。だが、翔は目を真っ赤にしながら、私の手を引いて役所へと向かう。勢いのまま婚姻届を出すと、周りのことなど一切気にせず、私との盛大な結婚式まで挙げた。彼は私を強く抱きしめてこう言った。「日和(ひより)。運命なんてくそ食らえだ。俺が信じてるのは、お前を愛してるってことだけだから」私たちは、誰もが羨む仲の良い夫婦だった。こうして二人で幸せに暮らし、静かに老いていくものだと信じていた。しかし、結婚して3年目のことだった。この物語のヒロインが酒に酔ったまま逆走し、狂ったようにバイクを飛ばして、まっすぐ私に突っ込んできたのだった。反射的にハンドルを切った私は、ガードレールに激突した。体は血だらけで、運の悪いことに、ガラスの破片が心臓に突き刺さっていた。鼓動のたびに命を削る激痛が走る。助手席に座っていた翔は、呆然としていたものの無傷だった。翔はなんとか車の中から這いずり出し、倒れ込んでいる相手を見た。その瞬間、彼の顔が真っ青になる。「莉奈!」その名前を聞いた瞬間、私は自分の体から血の気が引いていくのが分かった。宮本莉奈(みやもと りな)。それがこの物語のヒロインの名前だったから。翔が口にしたその名前を聞いた私は、ハンドルに突っ伏したまま体が固まった。凍てつく血が血管の中を巡り、血の混じった呼吸が喉から漏れる。変形した車体の中で押しつぶされ、身動き一つとれない。なんとか抜け出そうとしても、ほんの少し動くだけで、裂けるような痛みが全身を襲う。視界の隅では、翔が地面に屈みながら、震える手で莉奈に怪我がないかどうかを確認していた。そんな彼の、涙ながらに叫ぶ声が響く。「莉奈、死ぬな!なあ、頼むから冗談だって言ってくれよ……目を開けて。俺だよ、翔だ。絶対に助けてやるからな。お願いだから返事をしてくれ……」私は血と涙で視界がぼやけ、前が見えなくなった。だが、どんな体の痛みよりも、翔が莉奈の名前を呼んだあの瞬間が、一番辛かった。喉に溜まった血が溢れ出
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第2話

「俺と結婚してくれないか?」そう言ってくれたのに、翔は私を置きざりにして、何の迷いもなく物語のヒロインである莉奈のもとへ行ってしまった。私たちがどれだけ固い意思を持ったとしても、翔は莉奈のために生きるように設定されているということなのだろうか。ならば私は一体何なのだ?これまでの二人の愛も、温かな記憶も、すべて嘘だというのか?目尻を温かい涙が伝い、胸が引き裂かれるように痛む。耐えきれなくなった私は、ゆっくりと瞼を閉じた。気がついた時には、病院の処置台の上だった。目に刺さるような蛍光灯の光、そして失血で意識は朦朧としている。目を覚ました私に気づいた一人の医師が、大声をあげた。「患者さんが目を覚ました!早く谷口先生を呼んできて!心臓の動脈のすぐ近くにガラス片が刺さっていて、とても危険な状態なんだ。谷口先生なら助けられるはずだから!」翔の名を聞いて力なく目を開けると、偶然にも私が運び込まれたのは彼が務める病院だった。翔は心臓内科でいちばん腕のいい医師だった。私の胸には、砕けたガラスの破片がひとつ、心臓のすぐそばに突き刺さり、鼓動に合わせてかすかに揺れていた。わずかな振動ですら、私の命を奪うのには十分だった。先ほど慌てて翔を呼びに行った看護師が、間もなくして青い顔で戻ってきた。「谷口先生は外科の棟で執刀中なので、こちらへは来られないと……だから、先生……先生にやってもらうようにとおっしゃっていました。それに、今日の当直医の先生方も全員、谷口先生の指示でカンファレンス中で……麻酔科医も見つかりませんでした」看護師の言葉に、処置室にいた新米の医師は絶句し、視線を私の胸へと向ける。新米医師は躊躇いながら看護師に聞いた。「患者さんが誰なのか言わなかったのか?それに、こっちは緊急を要すると……」「伝えましたが、谷口先生は、『命の重さは平等だ。どんな状況であれ手術を中断させることはできない』と」翔は全ての医師を集め、莉奈のために最高の治療体制を整えたのだった。麻酔科医も専門医も不在のなか、救急の処置しか経験のない新米医師に私の心臓の手術をさせるというのか?しかし、時間は待ってはくれない。一秒、また一秒と私の意識は朦朧としていく。私と翔がどれほど深く愛し合っていたかは、誰もが知っていた。だか
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第3話

意識が戻ったとき、私はもう病室にいた。意識がはっきりしてくると、足にはめられたギプスに気づく。どうやら、脛の骨を骨折していたらしい。医師から、きちんとリハビリをしないと後遺症が残るかもしれないと言われた。ダンスを教える私とって、足に後遺症が残ることは、死刑宣告と同じだった。もう二度と、スポットライトを浴びるステージに立つことはできない。夢を叶えることもできなくなった。胸部も念入りに包帯で巻かれていて、ベッドの上で呼吸するだけでもかなり苦しい。そっと手を持ち上げると、自分でも気づかない間に、拳を強く握りしめていたらしい。そのせいで指先が強張っていて、指を開くのもやっとだった。開いた手の中には、小さな布切れが握られていた。ずっと握りしめていたせいで、ぐしゃぐしゃになっている。昨日の出来事は全て夢だったのだと思いたかったが、その布切れを見た瞬間、全てが現実だと思い知らされた。私は呆然とそれを見つめた。すると、病室の外から誰かが言い争う声が聞こえてきた。声のする方を見ると、白衣を着た翔が廊下にいた。表情を曇らせた彼が、莉奈の家族に冷たく詰め寄っている。「昨日は莉奈の誕生日だったかもしれませんが、彼女のお母さんの命日でもあったんですよ?なのに、彼女をあんなに刺激して……どうして、飲酒してるのに、運転させたんですか?もし俺があの場に居合わせなかったら、莉奈はもう死んでいたかもしれないんですよ!莉奈の性格は俺が一番理解しています。彼女は無茶をするような人間ではありません」私は病室のベッドに横たわり、外の騒ぎに耳を澄ませた。その言葉の端々から、莉奈に対する心配と庇う気持ちが痛いほど伝わってきた。事故が起きてから今まで、翔の中に私のことを気にする余裕など少しもなかったのだろう。点滴を取り替えるために病室に入ってきた看護師が、じっと外を見つめていた私に気づいた。看護師が尋ねる。「谷口先生をお呼びしましょうか?」私は視線を戻すと、力なく笑って静かに首を振った。「いいえ、結構です。翔は今、忙しいようですから」看護師は点滴の落ちを確認しながら、頷いた。ゆっくりと点滴が体に入ってきて、手の甲から冷たい刺激を感じる。一瞬、視界がぼやけた。廊下が静かになった頃、疲れ果てていた私は目を閉じ
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第4話

二人が出会うと、まるで待ってましたと言わんばかりに、物語は勝手に綴られ始めた。目の前の光景は、脇役でしかない私に、物語の作者が冷ややかにこう言っているようだった。「立場をわきまえろ」と。車椅子に座る私の瞳には、もう何の感情も残っていなく、ただ虚無感と痛みだけだった。莉子を見つめならが、翔が苦笑交じりに言う。「いい子だから先に戻ってろ。数日したら会いに行くからさ。今はいうことを聞いてくれ、な?妻に知られたら面倒なことになる」私は卑屈な傍観者のように暗がりに潜み、二人の幸福を眺めていた。あの事故で、なんで莉奈は死ななかったのだろう、そんな最低なことさえ考えてしまった。その時、振り返った翔が私に気づき、動きを止めた。私たちの視線がぶつかると、翔の顔色が一瞬で青ざめる。もう私の心は死んだから、何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに……すべてを受け入れろ、と。けれど、翔の瞳を見た瞬間、堪えきれずに涙があふれ出した。ほとんど反射みたいに、私はその場から逃げ出したくなった。しかし、車椅子のせいで思うように動けない。何もできずに、ただ狼狽える姿を晒してしまったことが、どうしようもなく屈辱だった。私の涙に気づき慌てた翔が、急足で駆け寄ってくる。「日和。その足はどうしたんだ?」私の目の前に立つ彼は、一つの傷でも見逃すまいと、私の身体中をくまなく見た。最後に心臓付近の傷を見つけると、震えた声を漏らした。「どうしてこんなひどい怪我を……」聞かれなかったら、どれほど良かっただろうか。そう問いかけられた途端、私の心には抑えていた不満と怒りがこみ上げてきた。顔を上げ、痛ましげな翔の目を見てはっきりと言った。「あの事故で怪我をしたのは宮本さんだけじゃなかったんだよ。でも、あなたが彼女のために私を見捨てた時、その後の結果くらい予想できたんじゃない?」私の言葉を聞いた瞬間、翔の顔からはさっと血の気が失われていく。翔の頭の中で、曖昧だった記憶が、一瞬にして鮮明に蘇ってきた。あの時、翔の頭の中は莉奈のことでいっぱいだった。莉奈だけは無事であるように、とそれしか考えられなかったのだ。私の方がよっぽどひどい怪我をしていたことなど、すっかり忘れて。もし私が咄嗟にハンドルを切って、ガードレールに突っ
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第5話

事故が起きたその瞬間、翔は迷わず莉奈の名前を呼んでいた。病室の外の廊下での会話からしても、翔は莉奈のすべてを知っているようだった。車の窓越しに見た、翔が莉奈の目の前で泣き崩れるあの光景が、今でも悪夢となって私を苦しめている。痛み止めをいくつも飲まなければ、少しの間すら眠ることができない。私は翔の目をじっと見つめていた。まるで死刑宣告を待つ罪人のように、ただ胸に突き立てられる最後の一太刀が振り下ろされるのを待つだけだった。私が死ぬも生きるも、すべては彼の口から出る言葉次第。しかし、翔は顔を背けた。私と目を合わさず、ただ溢れ出る涙を拭い続けている。私は何も言わず、彼の言葉を待った。どれくらい時間が経っただろうか。もう二度と翔が口を開かないのではないかと思った頃、彼はようやく震える声で言った。「去年の話だ。お前がダンスの研修に行っていた夜、当直明けの俺は、怪我をしていた莉奈に会った。その時、俺は彼女を助けた」かすかに震えている翔の一言一句が、私の心臓に深く刺さる。苦しくてたまらない。しかし、もうすでにどん底まで突き落とされていたことで、不思議と諦めもついていた。彼らの物語は、私が知らない間に綴られていて、二人はすでに結ばれていたのだった。邪魔することも、離すこともでいないぐらいに。しかも私を欺いていたのが、まさか一番近くにいた翔だったなんて。あの事故がなければ、今も私だけが幸せな夢の中で生きていたのだろう。笑いたかったが、顔の筋肉を動かそうとするたびに、喉が引き裂かれるように痛んだ。脳裏には、翔が私を強く抱きしめる姿が浮かぶ。「どんなことがあろうと、俺が愛してるのはお前だけだ」私は彼の顔を見た。背筋が凍るような気分だった。嘘だった。何もかもが嘘だった。私は体を丸め、心臓の痛みに耐える。最後に喉から溢れたのは、極限まで苦しく、絶望に満ちた嗚咽だけだった。狼狽え、大きく見開かれた翔の瞳には、恥辱、困惑、そして恐怖が広がっていた。私の異変に気づいた翔が、涙を溜めた目で私を抱き起こそうとする。「日和、俺が悪かった。隠すつもりなんて……そんな顔をしないでよ。お願い、もうどうしたらいいのか分からないんだ」私は耐えられなくなり、全力で彼を突き飛ばした。「どっか行って!
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第6話

「離婚ってそんな簡単に決められるものじゃないだろ!」しかし、私は感情のない瞳で横たわったまま、何も答えなかった。冷気が足から伝わり、骨まで染みるような痛みを感じる。私の反応が無いのを見て、翔の目には焦りが浮かんでいた。「彼女とはもう終わった。完全に縁を切ったんだ。な?だからいいだろ?」そう言って翔は携帯を取り出すと、私の目の前で莉奈の連絡先を削除した。アルバムも開き、二人で撮った写真も一枚ずつ消していく。一枚消すごとに指先には躊躇いが現れ、その目には名残惜しさも揺れていた。それでも最後には、全て削除した。莉奈は目を潤ませ、翔の腕を掴んでは信じられないといった様子で叫ぶ。「この女のために、私たちの思い出を全部消すつもりなの?」翔の指先が止まった。翔は莉奈を直視できないようで、苦痛の表情を浮かべている。「莉奈、悪く思わないでくれ。欲を出した俺が悪いんだ。全部俺のせい……」すると、目を真っ赤に充血させた莉奈が、小馬鹿にしたように笑い、震える手で翔を突き飛ばした。「私がいらなくなったんでしょ?」翔は動きを止め、茫然と彼女の方を向いた。翔が口を開くより早く、莉奈は彼の手を振り払うと、路肩に停めていたバイクに向かって走り出した。最後に一度だけ翔を振り返り、声を震わせる。「あの日、私を助けてくれたのに……今は、あなたが私を捨てるんだね?分かった、もう死んでやる。あなたに救われたこの命なんか、もういらない!」バイクのエンジンが唸りを上げる。莉奈は全開でアクセルを回し、ヘルメットも投げ捨てて、狂ったように走り出そうとした。翔の顔から完全に血の気が引いた。やっと事態を理解したのか、莉奈に駆け寄って彼女の腰にすがりつく。「やめろ!死ぬなんて馬鹿なことを言うな!」「あなたが私を捨てたんでしょ?だったら、生きてたってしょうがないじゃん!」私は力を振り絞って身を起こし、何とか車椅子に座りなおした。翔は結局残らずに、莉奈のバイクの後ろに乗って泣きながら去っていった。翔は莉奈にとっての、唯一の救いだから。私は車椅子を操作してエレベーターに乗り込むと、冷めた気持ちで、一度も振り返ることなくその場を離れた。帰宅するとすぐに、家事代行サービスに連絡を入れる。足の怪我でもうダンス講師は務まら
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第7話

私はその指輪を自分の結婚指輪の隣に置いた。そして、一度も振り返ることなく家を出た。翔、もうあなたなんかいらない。そして、もう二度とあなたを愛することなんてないから。飛行機を降りて空港を出ると、迎えに来てくれていた民宿のオーナーをすぐに見つけることができた。日焼けした顔に、キラキラ輝く瞳が光っている。車椅子で移動する私を見て、彼は小走りで近寄ってくると荷物を持ってくれた。「お客様、お待ちしておりました。ご要望通り、1階の庭付きの部屋をご用意してますからね!さあ、車に乗ってください」冬の太陽は、暖かくて心地よい。北部の厳しさとは違って、この南の都市には着いた瞬間から心を奪われた。もう冷えで足が痛むこともないのだと思い、思わず感嘆の吐息が漏れる。オーナーは目を細めて寛ぐ私を見て、何とも言えない誇らしげな笑みを浮かべた。「雲嶺市は気候が良くて食べ物も美味しいから、足が治ったらあちこち見て回ってみてくださいね」私も頷いて笑った。「ええ、そのつもりです」一方、莉奈をなだめて家に戻った翔は、テーブルの上の離婚届を見て顔を青ざめさせていた。私の携帯の着信音が何度も鳴り響いたが、私は気にせず拒否し続ける。表示されている「翔」という文字を冷ややかな目で見つめると、私は迷わず着信拒否設定にした。連絡がつかなくなった上に、家はきれいに片付いていて私の痕跡は何一つ残っていない。翔はやっと私が本気だと悟ったはずだ。あっという間に2週間が過ぎた。その間、翔は思い当たる全ての人だけではとどまらず、警察にも相談していたらしい。そんな翔は仕事にも行かず、ただ放心状態で闇雲に探し回っていた。しかし、もうすでに電話番号を変えていた私は、翔の様子なんて知る由もなかった。私は庭を散歩したり、民宿のボランティアの人に車椅子を押してもらって、海に行ったりして毎日を過ごしていた。穏やかな日々の暮らしのおかげか、足の痛みもだいぶ和らいだ。だが、とうとう私の居場所は翔に知られてしまった。私が民宿のドアが開けると、そこには翔がいた。顔は血の気がなく、無精ひげが生え、目の下には深いクマが刻まれている。それなのに、彼は相変わらず立ち姿は凛々しい。翔は私を見て急に目を潤ませた。「日和……」彼はすっかり痩せてしまい
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第8話

「昔、あなたは私を永遠に愛してくれるって言ったよね?でも、あなたは宮本さんに心を奪われて、自分自身でも抑えられないほど彼女を愛してしまったでしょ?翔。私たちの関係を先に終わらせ、裏切ったのはあなたの方なんだよ」翔があの事故で莉奈を選び、なんの迷いもなく私を現場に見捨てたことで、私は一生消えない障害を負った。舞台に立つ夢も断たれた。足のこと、私が味わった痛み……それを翔が、「過去のことだ」なんて軽々しく流していいものではない。しかも、元凶である本人が言うなんて。他人事のように眺めていた人間も、過ぎたことだと言う。だが、被害者の私が納得していないのだ。あの絶望感と、死に直面した時の孤独感。私は一生、許すことなんてできないと思う。私の目にある冷ややかな感情を察して、翔の感情が崩れた。彼は地面にしゃがみこみ、押し殺した声で泣きじゃくった。「ごめん、日和。ごめん……すべて俺の責任だよな。わざとじゃないんだよ。まさか、あの事故でお前の足が動かなくなるなんて、思ってもみなかった……わざとじゃないんだ……」私は深く息を吸い込み、胸の中で渦巻く激痛を抑えつける。喉の奥が焼けるように熱い。「翔、私の足の怪我は不運な事故じゃないの。私の足がこうなったのは、あなたが宮本さんを贔屓して、私のことを忘れて、全く気にもかけてくれなかったからだよね?!もしあの時、宮本さんを連れて行く前に、私の助けを求める声を聞いて手を貸してくれていたら、こうはならなかったはずなんだから」翔は大きく目を見開き、苦渋の思いに顔を歪める。私は、泣いている彼を無視し、部屋に戻ると用意していた新しい離婚届を突きつけた。「署名して」翔が必死に首を振る。私が差し出す書類に、手を触れることさえ恐れている様子だ。私を見上げて、すがるように何度も繰り返す。「どうして?どうして、こんな残酷な仕打ちができるんだよ?」しかし、翔の言葉を遮り、私は冷たく言い放った。「自分を半殺しにした相手が、後になって許してくれなんて言ってきた時、あなたは簡単に許してあげることができる?翔、あなたならきっと許さない。……もちろん、私だってそうだよ。あなたが口にする『愛』だの『誠実』だの……そんな言葉を聞くたびに、この何年も私がしてきたこと全部が、
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第9話

莉奈の姿が見えなくなるまで、私はその背中を見つめていた。この結婚生活、本気で愛していたのは私だけだったようだ。でも結局は、すべてを賭けた、ただの無謀な賭けでしかなかったのだ。それも残念なことに、私の賭けは惨敗に終わってしまった。自分のしたことだ。誰のせいでもない。……3日間姿を見せなかった翔だったが、また民宿の庭に現れた。翔はようやく理解したのだ。自分たち二人の間には、もう二度と埋めることのできない深い溝があるのだと。だから、翔は離婚届への署名を理由に、私をカフェに呼び出した。店に行くと、そこには彼と莉奈が待っていた。気まずそうな顔をしていた莉奈だったが、私と目が合うと、すぐに窓の外へ視線を逸らした。翔は私が眉をひそめたのを見て、慌てて私の前にくると、声を低くして言った。「日和。莉奈が話したいことがあるんだって」私の冷ややかな視線と嫌悪感を悟り、彼は急いで言い訳をする。「い、いや、俺が連れてきたんだ。実は、俺のことが心配だったらしく、莉奈のやつ勝手についてきちゃって、それで……お前が莉奈のことをよく思ってないのは分かってる。でも、頼むよ。怒らないでやってくれ」私は鼻で笑い、翔の手を振り払った。莉奈の目から怒りが滲み出たが、翔がいる手前、どうにか感情を抑え込んだようだ。冷ややかな声で莉奈が言った。「私と翔さんの間に、あなたが思ってるような後ろめたい事は何もない。私たちはただの兄弟みたいな関係なの」私は驚いて莉奈を見た。物語の中のヒロインの莉奈が、誰かに頭を下げたことなんてあったかしら?高飛車な彼女は、人の顔色なんて気にしたことが無かったはずなのに。すると、安堵のため息をついた翔が、おずおずと私の指先に触れた。その冷たい肌に触れられた瞬間、私は静電気に打たれたような衝撃を感じ、とっさに彼を突き飛ばした。翔は目を潤ませ、動転した様子で弁解する。「日和、莉奈もああ言ってただろ?なのに、まだ俺のことを許してくれないのか?」私は彼を見つめ、せせら笑った。「翔。あなたがこの女にとってどういう存在なのか、私以上にあなた自身が一番よく分かってるんじゃないの?だから、あんな軽く二言三言言っただけで、あなたへの想いをきっぱり断ち切れるなんて、本気で思ってるの?それとも、
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第10話

最後の一画を描き終えた時、一粒の涙が落ち、翔の名前を滲ませる。翔は離婚届を私に差し出した。「すまなかった」私はそれを受け取ると、振り返ることもせずその場を後にした。背後から莉奈を優しくなだめる声が聞こえてくる。しかし、今の私は心の大きな石が無くなったかのように、体は驚くほど軽く、足取りも自然と弾んだ。その晩、翔は私の宿泊する民宿の入り口に、長い間座り込んでいた。人のいいボランティアスタッフは耐えかねたのだろう。私に聞いてきた。「日和さん。あの人、中に入れて雨宿りさせてあげませんか?」雲嶺市では滅多に雨など降らない。今日は私がここへ来てから初めての雨だった。私は首を横に振った。「その必要はありません」翔は宿の前で一晩中待ち続けた。辺りは暗くなり、そして白々と明けていく。私は部屋にこもり、一晩中ただ座っていた。彼がよろめきながら去っていくまで。三度だ。翔は迷うことなく、私を三度捨てた。交通事故の現場。処置台の上。そして、彼がドライブレコーダーの映像を消した時。その時を以て、私たちは完全に終わりを迎えたのだ。……翔と離婚した後、私は雲嶺市で新しい生活を始めた。翔と莉奈のことは、自ら知ろうとしない限り、私の元へは届かない。人と人との縁というのは、風が吹けば消えてしまうほど儚いこともある。半年後、携帯で偶然、翔と莉奈のニュースを見た。【#富豪の令嬢と有名医師、深夜の暴走で崖から転落し、生死不明】手が震え、心臓がどきりと跳ねるのを感じた。詳細を読んで初めて、二人が山道をツーリングしている際に、ガードレールを突き破ったことを知る。二人とも重傷だったが、幸い命に別条はないとのことだった。ニュースが流れた頃には、翔と莉奈は集中治療室を出て、一般病棟に移っていた。深夜、翔から電話がかかってきた。電話をとっても、彼は黙ったまま何も言わない。私はため息をついた。「翔。用がないんだったら切るから」私の声を聞くや否や、電話の向こうの翔は嗚咽をもらした。その苦しく絶望的な泣き声は、かつて瀕死の私があげた声によく似ていた。私は電話を切らず、静かに翔の泣き声を聞いていた。しばらくして泣き止んだ彼が、掠れた声で言う。「お前に謝りたかった。すべては俺のせ
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