All Chapters of 私たちの愛は、とっくに幕を閉じていた: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

夫・須藤悠一(すとう ゆういち)の愛人・松岡佑子(まつおか ゆうこ)が妊娠したのを発覚した。彼の浮気を初めて知った時、私・黒崎静華(くろさき しずか)は狂ったように、家中のものを叩き壊して回った。しかし、今回の私はそうしなかった。家の骨董の花瓶が高価すぎる。それを壊す気にはなれなかった。家を出て、通りかかったケーキ屋で、悠一が佑子とベビー用品を買っている姿を偶然見かけることで、食欲など失せることもあった。ところが、今日のイチゴケーキは、やけに美味かった。寝る間際、大量に睡眠薬を飲みたくなる衝動が込み上げてきた。きっとまた、どうしようもなくなり、あのふたりを呪いながら、一番残酷な方法で自分を終わらせようとするのだと思っていた。そんな時、カウンセラーからメッセージが届いた。外に出て、できるだけ歩くように、と何度も念を押す内容だった。だから私は南の島へ飛んだ。陽の光を浴び、潮風に吹かれながら、まる二十七日間、あのふたりのことを忘れていた。悠一からの電話が鳴るまで。「離婚の話、どう考えた?戻ってきて離婚届を出そう。でもな、安心してくれ。これはあくまで仮の話だ。佑子が産んだら、すぐによりを戻す。お前が知っての通り、俺が愛してるのはいつだってお前だけだ」彼に言われて、そういえばそんな話もあったな、と思い出した。でも、今回はもう、疲れてしまった。彼らとこれ以上、関わりたくなかった。「佑子が、離婚してくれないなら、子供を堕ろすって言ってるんだ。あの子がどれだけ拗れるか、お前も知ってるだろ?俺にもどうしようも……」彼はまだ、どうでもいいことを言い続けている。潮風を受けながら、私はほとんど考える間もなく口を開いていた。「ねえ、いっそのこと、本当に終わりにしない?」電話の向こうの声が、私の「本当に終わり」という言葉で、ぷつりと途切れた。しばらくの間があって、聞き間違えたかのように、悠一が尋ねる。 「静華……今、なんて言った?……本当に終わりって、どういう意味だ?」私は拾った貝殻を指先で弄りながら言った。「難しい?悠一、つまりはね、あなたとよりを戻すことはないってこと」「なぜだ?」彼の声が、すぐに沈む。「また、俺のこと怒ってるんだろ?もう約束したじゃないか。佑子が産みさえすれば、
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第2話

三日後、約束どおり家に戻り、市役所へ向かおうとした。扉を開けると、めったに家に帰らない悠一が、なぜかリビングにいた。彼は私に気づいてすぐに立ち上がった。「どこに行ってたんだ?家政婦さんがチャイムを鳴らしても返事がないって……何かあったのかと思った」おそらく、二か月前に私が睡眠薬を大量に飲んでしまったことを思い出したのだろう。彼の声には、恐怖の色が滲んでいた。私は何も言わず、彼を避けるように書斎へ向かった。彼は後ろについてきて、少し嗄れた声で言った。「変わったな、この一か月、どこに行ってたんだ?どうして帰ってこなかった?俺が……どれだけ心配したか、分かってるのか?」「心配?」私は彼の伸ばした手を遮った。「悠一、私たちは、もう夫婦じゃないわ」悠一は一瞬、呆けた。「まだ怒っているのか?」私が微動だにせず、彼を気にしていない様子を見た。彼は突き刺されたように突然、感情を爆発させた。「佑子がどれだけ狂ってるか、お前だって分かってるだろ!俺だって仕方のないんだ!あの子を失うわけにはいかなかったんだ!一度でいいから、俺を理解してくれ!」私は思わず笑ってしまった。「仕方ない?」彼を見据え、嘲るように言った。「悠一、あなたが何度も彼女を庇うから、こうなったんじゃないの?!」佑子は、決して偶然現れた第三者などではない。彼女は悠一が起業した当初から対立していた松岡家の娘だった。五年前のことだ。悠一のドローンプロジェクトが軌道に乗り始めた途端、東都の松岡家から締め付けを受けた。松岡家の娘として、彼女は目的のためには手段を選ばぬ女だ。その後、激しい争いの中で、彼女は悠一の才能に惹かれた。特に、彼の負けず嫌いなところに夢中になった。彼を屈服させるために、彼女はあらゆる手を使った。挑発的な写真を送りつけ、人前でまとわりつき、果ては薬さえ使おうとした。当時の悠一は、彼女に追い詰められて、警察に通報したことさえあった。しかし、それがかえって彼女を更に狂わせたのだ。悠一のところで何度も壁にぶつかった末に、祐子は私に嫌がらせを始めた。私たちを離婚に追い込もうと、彼女はあちこちで噂を流し、私の仕事を奪い、脅迫状を送りつけてきた……悠一にことごとく相手にされず、彼女もようやく諦
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第3話

「お婆さんと私たちの祥子(しょうこ)がどうして死んだのか、忘れたの?それなのに、理解してくれなんて、よくも言えるわね!」祥子は、まだ生まれていない娘に私たちがつけた名前だ。私にはわからない。悠一はどうしてそこまで冷酷になれるのか。どうしてお婆さんを殺した女を愛したか。どうして彼女を妊娠させたのか。あの耐え難い光景を思い出し、悠一は顔色を青ざめた。彼が目を赤くして私を見た。唇が微かに震えている。「すまない……静華、俺……」爪が手のひらに食い込む。私は無意識に目を閉じた。「疲れたわ。行こうよ、市役所へ」窓口で離婚届受理証明書を受け取った時、私は一瞬ぼんやりとした。ふと、婚姻届を出した日のことを思い出していた。あの日の悠一は子供みたいに喜んで、婚姻届に何度も名前まで書き間違えていた。緊張しすぎだと言っていた。ほんの数年前のことなのに、遠い昔のようだ。気がつけば、私たちは市役所の前に立っていた。「静華、家まで送る」悠一が私の手を掴み、車に乗せた。車内はずっと無言だった。車が家の前に止まり、彼は後ろについて部屋まで上がってきた。鍵を回し、ドアを開けると、突然寝室から誰かが飛び出してきた。色っぽい服を着ている佑子が、まっすぐ悠一に飛びつく。「悠一くん、サプライズ!」悠一の顔色が一変し、彼女を突き飛ばした。「どうしてこんな格好を?!なぜここにいる!静華、パスワードは彼女に教えていないだ。なぜ彼女がここにいるのか、俺にもわからないんだ」彼は慌てて私に説明した。佑子は初めて私に気づき、その顔に皮肉な笑みが浮かんだ。「離婚したってのに、元夫の家までついてくるなんて?黒崎さん、あなた、相変わらずのクソ女ね」「佑子、もういい加減にしろ!ここはお前の来る場所じゃない、出て行け!」悠一が鋭く叱りつけると、佑子は呆気にとられた。「悠一くん、何て言った!?」私は二人を無視し、まっすぐ寝室へ向かった。ただ早く荷物をまとめて出て行きたかった。しかし寝室のドアを開けた瞬間、全身の血の気が引いた。佑子が連れてきたドーベルマンが、白い灰の中で転げ回っている。犬の口には、金属の名札をくわえている。それは祥子の遺骨だった!そしてお婆さんが生きていた頃に作ってくれた名札だ。「
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第4話

彼の背中を見つめながら、私は嘲るような笑みを浮かべた。そして一人で外科の診察室へ向かい、同意書にサインをし、洗浄、縫合の処置を受けた。針が皮膚を通り抜ける時間は苦しくて、長く感じられた。痛かった。まるで心臓を刃物でえぐられているかのようだった。最後に医師から狂犬病ワクチンを接種され、看護師に付き添われて病室へ向かった。だが病室に入った途端、激しいめまいに襲われ、目の前が真っ暗になった。夢の中には、佑子も、裏切りも、死もなかった。お婆さんと悠一が、かわいらしい小さな女の子の周りにいて、笑いかけている。「静華、早く来てごらん、祥子が笑いかけてるよ!」手を伸ばし、指が子どもの頬に触れようとした瞬間、夢は覚めた。耳元に、押し殺したような、胸が張り裂けんばかりの泣き声が聞こえた。必死に目を開けると、悠一がベッドのそばにいた。髪は乱れ、目は血走っている。「静華……気がついたんだな……」声はひどく枯れ果て、目は泳いでいて、まともに私と目を合わせようとしない。「何があったの?」手を動かし、体を起こそうとした。だが、怪我をした右手にまったく力が入らない。嫌な予感が背筋を伝って這い上ってくる。「私の手は……どうして動かないの?」私の声は震えた。悠一の嗚咽はとうとう抑えきれなくなった。彼はうつむき、額を私の手の甲に押し当て、肩を震わせた。「すまない、静華……すまない……全部俺のせいだ。俺がちゃんと守ってやれなかったから……」私は聞こえないふりをして、信じられない思いで左手を上げた。力を込めて右手を握り、叩き、血が出るほど爪を立ててみても、無駄だった。まったく感覚がない。「駄目になったの?」突然の知らせに息が詰まりそうだった。「教えて。私の手は、もう駄目になったの?」主治医が駆け込んできて、顔中に後悔の色を浮かべていた。「黒崎さん、申し訳ございません……これは当院の重大な過失です。接種された狂犬病ワクチンが、すり替えられていたことが判明しました。その結果、右腕の神経に回復不能な損傷が生じています。現在、全力を挙げて調査を進めております……」医師がその後何を言ったか、もう覚えていなかった。悠一は私を抱きしめ、「必ず最高の医者を探す」「必ず治してみせる」「静華
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第5話

【須藤悠一、男性、……男性不妊】悠一の視線は、その数行の文字に釘付けになった。目の前が真っ暗になり、立っていられないほどの衝撃だった。「そんな……はずが……?!」彼は考えたくなかった。もし佑子の腹の子が自分の子でないのなら、この数ヶ月の葛藤も妥協も、いったい何だったというのか。悠一はスマホを取り出し、私にメッセージを送った。【これは偽物だろ?嘘だって言ってくれ、静華……どこにいるんだ?】彼は切実に、私から否定の言葉が欲しかった。しかし、私の返信はただ一言だ。【本当のことよ】会社を立ち上げたばかりの、あの最も過酷な日々を、悠一はもう忘れている。当時、私たちはチームに少しでもマシな作業環境を整えようと、内装費を抑えるため、なんでも自分たちでやった。セメントを混ぜ、レンガを積み、壁にモルタルを塗る。二人で袖をまくり、埃舞う工事現場に朝から晩までいた。昼は改装工事、夜は私の絵の手伝いをして、副収入を得ていた。その頃の長期間にわたる仕事と、避けられない有害物質への接触で、悠一の身体はとっくに限界を超えていた。その後、結婚して三年経っても、私はなかなか妊娠の兆候がなかった。私も一時は、自分のせいだと思っていた。だから何度も病院で検査を受けたが、結果はすべて異常なし。その時、悠一の身体に問題があるのだと、私は確信した。その後の健康診断で、私の予感は裏付けられた。そして、ちょうど彼にそのことを伝えようと思っていた矢先に、佑子が現れた。続けて、お婆さんが突然この世を去った。次々と降りかかる不幸に、私は絶望した。これは運命のいたずらなのだと、悲しく思った。だから、祥子が思いがけず訪れてくれた時、私はようやく悠一との未来が明るくなり始めたのだと思った。まさか、それが新たな悪夢の始まりだったなんて思わなかった。現実に戻り、私は無駄な時間を過ごすのをやめた。集めた証拠のすべて――この二年間に佑子がしてきたあらゆる悪事、病院でワクチンをすり替えさせた防犯カメラの映像も含めて、会社のグループチャット、家族のグループ、そしてネット上に送信した。悠一が見れば、この半年間の自分の行動がどれほど愚かだったか、嫌というほど分かるだろう。それを済ませてから、私はSIMカードを抜いた。
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第6話

「違う……そんなの嘘よ!」自分の悪事がネットに拡散されたことを知った佑子は、まずスマホを叩きつけた。そして、悠一のもとへ駆け寄り、説明した。「ねえ、信じて……お願い、信じて!あれは全部合成のものよ、誰かが私をはめようとしてるんだわ!」 泣きじゃくりながら、形相の恐ろしい悠一にすがりつき、声が震えている。「お腹の子は、本当にあなたの子なの……」「まだ嘘をつくのか」悠一は佑子を突き飛ばし、カルテを目の前に叩きつけた。そして自嘲気味な声で言った。「俺には、そもそも子供を作る能力がないんだ。それでも、俺の子だと言うのか?」佑子が別の男と寝ている動画が、悠一の疑念を確信に変えた。かつて佑子が何度も子供を盾に離婚を迫ってきた時、まさか自分はそれを信じ込み、その度に静華を傷つけてしまったのだ。思うだけで、胸の内に激しい吐き気と後悔が込み上げる。「この子は、俺を繋ぎ止めるために、わざと仕組んだものなんだろう?」真っ青な佑子の顔を睨みつけ、一言一言を冷たく突きつける。佑子は瞳孔を見開き、唇をわななかせたが、何も言い返せない。「ち、違う……そんなはず……」完璧な計画だったはずだ。金で雇ったあの身代わりの男は、十分に金を渡して始末した。だが、まさかその男が、悠一と似ているその男が、雅人の患者だったとは思わなかった。積み重なる証拠を前に、佑子の顔色は真っ青になり、その目には憎悪が燃えている。「あのクソ女の仕業に決まってるわ!あの女があなたを奪い返そうとして、私をはめるためにあんな動画を合成したのじゃない?」歯を食いしばり、佑子は完全に取り乱していた。「あの時、直接毒を盛って殺したら良かった。手を潰しただけじゃ足りなかったのね」言葉が終わらないうちに、花瓶が彼女に激しく投げつけられた。咄嗟に腹をかばわなければ、お腹の子も無事では済まなかっただろう。「もういい!お前は静華を傷つけて、まだ足りないというのか!」目の前の悪魔を見つめながら、悠一の憎しみは骨の髄にまで達していた。今すぐにでも佑子を殺してしまいたい衝動に駆られる。「悠一くん、あなた……どうして私にこんなことが出来るの?!」佑子は信じられないという表情で彼を見つめる。「この子は本当にあなたの子よ、私も心からあな
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第7話

「まさか、お前と本気で結婚すると思ってた?」悠一は無造作に婚姻届を取り出す。そして、佑子が驚愕に見開いた目の前で、ためらうことなくそれを引き裂いた。紙吹雪が舞い散る中、彼の目には嘲笑が浮かんでいる。「婚姻届は、最初から提出してない。役所にはもう手を回してある。最初から最後まで、これはただの茶番だったんだよ。あの子のためじゃなければ、お前に触れることすら、吐き気がした」静華を完全に失ってから、悠一はようやく理解したのだ。彼が佑子に合わせて演じた茶番は、愛する人を失った空虚さを、埋めたかっただけなのだ。「あ、あなた……そんな……」佑子は全身を震わせ、声がうわずる。そして顔から血の気が引いた。「どうして私にこんなことするの?!」しかし彼女が悠一の答えを待つまでもなく、警察がすぐに彼女を連行した。悠一は答えなかった。答える必要もなかった。数人の警察が素早く前に進み、手際よく彼女をその場から連れ去った。廊下には、遠ざかっていく彼女の悲鳴だけが残された。しかし彼女がどんなに泣き叫んでも、待っているのは終わりのない獄中生活だけだ。それから半月後、私は海外で佑子に正式に実刑判決が下ったという知らせを受けた。私はお婆さんが残してくれた古いペンダントを握りしめ、目を閉じて、ようやく深く息を吐いた。お婆さん、見えた?あなたを傷つけた人が、ようやく罰を受けるんだよ。「この辺りで一番有名な神経科の医師を予約しておいたんです」雅人の声が隣から聞こえた。ホットココアが差し出された。「彼が君のカルテをじっくり見て、自信があると言っていました。右手も、もうすぐまた絵筆を持てるようになりますよ」我に返り、ホットココアを受け取った。一口含み、伝わるほのかな温かさを感じる。海外に出た後、雅人は行き先を尋ねなかった。ただ私を連れて、この海外の温暖な海辺の小さな町にやってきた。「ここは陽当たりが良くて、静かで、景色も美しいですね」彼の視線が突然、私の手首に留まり、ゆっくりと口を開いた。「休暇を過ごすにも……新たな人生に旅立つにも、ぴったりだと思います」手首には、まだ消えていない傷跡がいくつも残っている。愛する者も、我が子も次々と失い、あの暗い日々に、私は鬱に陥った。ナイフで手
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第8話

気晴らしのあと、雅人が付き添ってくれて予約していたクリニックへ向かった。医師は簡単な診察を終えると、レントゲン写真を指さし、確信した口調で言った。「この右手ですが、私が責任を持って、百パーセント治してみせます」胸のつかえがようやく下りた気がした。それからの日々、私は真剣に治療に取り組んだ。右手の神経はゆっくりと回復していった。そして一ヶ月後、ついに筆を持って花を描けるようになった。「お祝いしなくちゃね」雅人が私の回復を喜び、手品のようにチケットを二枚取り出した。「明日、美術館で新進気鋭の画家たちの展覧会があるんです。きっと興味を持っていただけると思って」私はチケットを受け取り、心が弾んだ。しかし翌日、展覧会場で、雅人と足を踏み入れてすぐに、見慣れた顔が目に入った。「静華、ずっと探していたんだ」悠一が近づいてきて、私の手をぐっと取った。そして、隣にいる雅人を敵意を込めて見やる。「小宮先生、妻の世話をしてくれてありがとうございました。今、俺が来たので、あなたはもう帰っていただいて結構です」雅人は眉をひそめ、微動だにしない。「僕の記憶が正しければ、悠一さんはもう静華さんとは何の関係もないはずですけどね」悠一の顔色が曇った。「俺たちの問題に、余計な口を出すな」私は黙ったまま、冷たい表情で、彼の手から自分の手を引き抜いた。それから雅人の方を向いて言った。「行きましょう。展覧会、もう始まっているはずですから」私は悠一を完全に無視した。彼の顔色が一瞬で青ざめた。「静華、お前が俺を憎んでいるのはわかっている……でも、チャンスをくれない?説明させてほしい」彼は追いかけてきた。「説明?いまさら何を説明するっていうの?」私は冷笑を漏らした。「裏切ったのは嘘だって説明するの?それとも、この間、私に与えた傷は全部嘘だって言うの?悠一、あなたのせいで、私のこの手がダメになった。そして、祥子も……死んだのよ」祥子のことを聞いて、悠一の顔からは瞬時にしての血の気が引き、透き通るほど青白くなった。「違う……俺は、わざと子供を殺そうとしたわけじゃない」彼の声は詰まり、目は血走っている。「あの日、俺は薬を盛られて、何が何だかわからなかったんだ……まさかお前に見られるなん
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第9話

あの日以降、悠一に一度も会っていない。彼はどうやら帰国し、酒に浸る日々を送っているらしかった。もう気にしてはいなかった。友人たちの支えもあって、私は少しずつ絵に打ち込んでいた。手首の怪我が治ってからは、ほとんどの時間をアトリエで過ごした。しばらく静かに模索する日々の中で、私の絵は少しずつ注目を集め始めた。個展を開く――かつては夢だと思っていたことが、今では手の届かないものではなくなっていた。再び悠一のことを耳にしたのは、佑子の件がきっかけだった。出産間近の佑子が激しい腹痛を訴え、刑務官に連れられて病院へ向かう途中、搬送車両から飛び降りて逃走したという。彼女は今なお、自分を刑務所送りにした私と悠一を恨み続けていた。私のもとには脅迫めいたメッセージも届いた。【黒崎静華、よくも私をここまで堕としてくれたな。絶対に許さない。あんたも須藤も、必ず地獄に叩き落としてやるわ】雅人をはじめとする友人たちは皆、緊張した面持ちで私に注意を促した。なるべく一人で出かけないよう、何度も何度も言われた。だが私は、なぜかひどく落ち着いていた。というのも、佑子からのメッセージを受ける少し前に、悠一から短い映像が送られてきていたからだ。その中で佑子はすでに制圧され、身動きが取れない状態になっていた。彼なら警察に引き渡すだろう――そう思っていた。しかし数日後、私のもとに届いたのは、彼の署名入りの株式譲渡契約書と、一通の遺書だった。短い手紙には、走り書きながらも重みがあった。【静華、ごめん。やっぱり最後まで一緒にいるって約束、守れそうにない。もう、祥子とお婆さんのところへ罪を償いに行くよ】後に知ったことだが、悠一は佑子と接触したその瞬間から、すでに道連れにする覚悟を決めていたらしい。次に二人の知らせを耳にしたときには、こんなニュースだった。悠一が自宅に火を放ち、彼女と共に果てたという。……あれから三年が経ち、私はようやく東都で自分の個展を開くことができた。去り際、私は一人でお婆さんの墓を訪れた。「お婆さん、久しぶり。祥子と、あの世でちゃんと過ごせている?」冷たい初雪が静かに舞い落ちる。まるでお婆さんが応えてくれているかのようだった。私はそっと微笑み、抱えていた白い菊をひと束、墓前に置いた
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