All Chapters of 冷え切った残り火、孤独な罪: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

その名が耳に飛び込んだ瞬間、凛太の足は床に縫い付けられたようにピタリと止まった。頭の中が真っ白に染まり、あれほどやかましかった周囲の喧騒が一瞬にして消え去った。あとに残ったのは、鼓膜を劈くような酷い耳鳴りだけだった。先ほどの女の声が、耳の奥で執拗にリフレインする。反響を繰り返すその名は烙印となって、彼の心臓を無残に焼き焦がした。数秒のち、彼は激しく首を振った。「……あり得ない。あり得るはずがない!」もつれる足で無理やり振り返り、エレベーターの中にいる女を血走った目で睨みつけた。その声は、自分でも制御できないほど震えていた。「今……誰と言った?彼女の名前は?」突然の異常な剣幕に、その女はびっくりして言葉を失った。凛太が荒い息を吐きながらさらに問い詰めようとしたその瞬間、無情にもエレベーターの扉が彼の目の前で閉まり始めた。慌てて腕を伸ばし、扉を開けようとした彼の手はボタンを押す直前で、ピタリと止まった。宙に浮いた指先が微かに震えている。やがて彼は、真実を知ることに怯えるように、その手をさっと引っ込めた。凛太は魂が抜けたような足取りで人混みをすり抜け、深く項垂れたまま「聞き間違いだ、絶対に聞き間違いに決まっている」と、自分に言い聞かせるように幾度も呟き続けた。音葉の怪我はまだ治っていないのだ。医者が退院を許可するはずがない。それに秘書には彼女を病室へ連れ戻すよう命じてある。もし万が一の事態が起きれば、秘書から真っ先に報告があるはずだ。だいいち、彼女はどんな時でも絶対にスマホの電源を切らない女だ。それが、誰かが事故に巻き込まれたこの瞬間に限って、都合よく連絡が途絶えるなどあり得るはずがない。しばらくして、凛太の脳内に突然、一つ結論がひらめいた。音葉がスマホの電源を切った理由はただ一つ。彼女は怒っているのだ。先ほど屋上で、自分が無理やり土下座をさせたことに腹を立てているのだと。考えれば考えるほど、凛太は自分の推測が正しいと確信した。彼女はよく知っているのだ。俺が最も恐れているのが、彼女が再び目の前から姿を消すことだということを。彼女のスマホにGPSを仕込み、二時間おきに居場所を確認しなければ正気を保てないほど、俺がそれに怯えているということを。だから今回は、晴香に手出しするのではなく、あえて手口を変え
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第12話

パシッ――。スマートフォンが不意に手から滑り落ち、硬い床に叩きつけられて粉々に砕け散った。凛太の思考は、この瞬間完全に停止した。幼い頃から天才と持て囃されてきた彼でさえ、今、警察が口にした言葉の意味をどうしても理解できなかった。音葉が死んだとは、どういうことだ?彼女はついさっきまで生きていたじゃないか?ただ俺に腹を立てて拗ねているだけだろう?爆発事故が彼女と何の関係があるというんだ。凛太の全身が激しく粟立った。もう一度詳しく聞き直そうとスマートフォンを拾おうと身を屈めたが、膝からふっと力が抜け、そのまま崩れ落ちるように床に這いつくばった。砕けた破片の上に直接膝をついても、痛みなどまるで感じていないようだった。彼はただひたすらに、何も起きていないかのような異様なほどの平静さを装いながら、這いずるようにスマートフォンを手繰り寄せ、もう一度言えと画面に向かって命じた。だが、ひび割れたスマートフォンはとうに壊れた。何度問いかけても、響くのは己の声だけだった。問い続けるうちに彼の声は次第に正気を失い、破片を握りしめた掌からは鮮血が滲み出していた。それでも彼はまるで痛覚を失ったかのように、顔色一つ変えなかった。ただ、狂ったように早鐘を打つ心臓だけが、彼が全く平静ではないことを物語っていた。秘書がしゃがみ込み、彼を呼ぶ声で、ようやく呆然と顔を上げた。しばらく見つめて、先ほど秘書が何か言っていたことを思い出す。だが、何と言ったのかどうしても思い出せない。やがて凛太の口からこぼれた声はひどく乾ききって掠れていた。「お前、さっき……何と言った?誰が消えただと?」秘書もまた、電話越しの声を耳にしていた。問い詰められ、頭の中は恐怖で真っ白になり、背中にはべったりと嫌な汗が張り付いている。彼はただ音葉の言葉に従ってその場を離れただけだ。次に耳にした知らせが、まさか彼女の死だとは思いもしなかったのだ。秘書は、音葉に万が一のことがあれば自分の責任も免れないと直感し、あまりの恐ろしさに一言も発することができない。しかし凛太は狂乱したように彼の胸ぐらを掴み上げた。「言え!誰が消えたんだ!」血走った凛太の眼差しに射抜かれ、秘書は失禁しそうなほどの恐怖に震え、今にも泣き出しそうな声で絞り出した。「奥様です。奥様が……消え
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第13話

誰に問うているのか、自分でも分からなかった。ただ、その事実が脳裏をよぎった瞬間、胃の奥が激しく痙攣し、強烈な吐き気がこみ上げてきた。彼は弾かれたようにトイレへ駆け込み、激しく嘔吐した。胃液すら出なくなるまで吐き尽くし、ようやく狼狽した様子で上体を起こした。鏡に映る自分の顔は、見知らぬ他人のようでありながら、どこか見覚えがあった。六年前、音葉が忽然と姿を消したあの日の自分――いや、今の姿はそれ以上に凄惨だった。落ち窪んだ眼窩、充血した瞳、そして死相が浮き出たような土気色の顔。それはさながら、地獄の底から現れた悪鬼のようだった。見つめているうちに、彼は唐突に、狂ったように笑い出した。笑い声は止まらない激しい咳へと変わり、ついには鮮血を吐き散らした。彼女がスマホの電源を切っていたのは、俺の気を引くための駆け引きなどではなかったのだ。本当に、最悪の事態が起きていた。それなのに俺は、彼女がまた新しい悪ふざけをしているのだと、身勝手な悪意で邪推していた。もしもっと早く、彼女の異変に気づいていれば、こんなことにはならなかったのではないか?もし他の誰かに任せず、俺自身の手で彼女を病室へ連れ戻していれば、彼女は死なずに済んだのではないか?だが、この世に「もし」など存在しない。音葉は死んだ。あの爆発で、骨のひとかけらすら残さずに。凛太の心もまた、共に死んでしまったかのようだった。喉の奥に込み上げる濃い血の匂いを、彼は何度も何度も、無理やり呑み込んだ。どれほどの間、トイレの冷たい壁に背を預けていたのだろうか。外へ出た時、世界はすでに深い夜の闇に呑み込まれていた。両足の感覚はとうに失われ、彼はただ心臓が脈打つだけの、空っぽな「器」へと成り果てていた。焦点の合わない虚ろな目のまま、彼はタクシーを拾い、警察署へと向かった。車を降りた瞬間、膝が折れて地面に這いつくばりそうになったが、間一髪で運転手に支えられた。凛太は警察署の入り口に長いこと立ち尽くしたが、どうしても中へ足を踏み入れることができなかった。この一線を越えなければ、自分の世界の中だけでは、音葉は永遠に生き続けているのではないか。そう思わずにはいられなかったのだ。しかし、顔見知りの警察が彼に気づき、腕を引いて半ば強引に署内へと連れ込んだ。そして、その友人の口
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第14話

凛太は訝しげにそのUSBメモリを受け取ったが、友人の言葉の真意が理解できなかった。問い返そうとしたが、友人は他の署員に呼ばれて立ち去ってしまい、彼は釈然としないまま車に乗り込んだ。車に乗った途端、晴香から着信があった。疲労困憊のまま電話に出ると、耳元で晴香の甘ったるい声が響いた。「凛太、どこに行ってた?起きたらいないし、メッセージを送っても返事がないし……。私のこと、本当に面倒な足手まといだと思ってる?それとも、また音葉が私の悪口を吹き込んだの?私が昔……」「……いい加減にしろ」凛太は低い声で彼女の言葉を遮った。なぜだろうか。かつては耳に心地よかったはずのその声が、今の彼にはただひたすら甲高く、耳障りにしか感じられなかった。それに、気のせいだろうか。彼女の言葉の端々に、矛先を音葉に向けようとする魂胆が透けて見えた。だが、次の瞬間にはその考えを打ち消した。晴香は昔から純粋で、そんな計算高い真似をするような女ではない。それに彼女はまだ、音葉がこの世を去ったことを知らないのだ。ふと名前を出したのも、他意はないのだろう。電話の向こうが一瞬静まり返り、やがてか細い啜り泣きが聞こえてきた。「……わかったわ」彼女の泣き声を聞き、凛太の態度は少し和らいだ。「泣くな。明日、また顔を見に行くから」晴香の返事を待たずに、彼は電話を切った。家に戻ってもなお、凛太は魂が抜けたような、抜け殻の状態から抜け出せずにいた。家中の至る所に残る音葉の痕跡を目にするたび、胸の奥を掻きむしられるような、鋭い痛みがこみ上げてきた。この部屋の時間は、彼が音葉を無理やり璃風館へ追いやったあの日のまま、止まっていた。その瞬間、凛太は激しい悔恨に駆られ、思い切り自分の頬を平手打ちした。パァンと乾いた音が響き、口の中に血の味が広がる。もしあの時、怒りに任せて音葉を璃風館なんかに追いやらなければ、彼女と最後に顔を合わせる場所が、あんな冷たい病院になることもなかったのだ。たとえ彼女が晴香を傷つけたとしても、少しきつく叱れば済む話だったではないか。なぜ、あんな苛烈な罰を与えてしまったのか。頭から血を流し、病院へ運び込まれた音葉のあの痛ましい姿を、凛太は一生忘れることはないだろう。あの日、彼はまた彼女を失ってしまうのではないかと生きた心地がし
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第15話

昨夜、友人が一体何を突き止めてこのUSBメモリを託したのか、凛太には理解できなかった。何を言い淀んでいたのかも。だが、このUSBメモリの全容を見終えた今、すべてを完璧に理解した。友人が口ごもり、飲み込んだ言葉の続き――それは晴香のことだったのだ。あの意味深な視線も、USBメモリに収められたこの悍ましい真実を知っていたからに他ならない。晴香と出会ったその日から、彼は彼女の口から語られる「不幸な生い立ち」や「過酷な家庭環境」を信じ切っていた。だからこそ、彼はできる限り最良のものを彼女に与えてやろうと尽力した。水商売の借金を肩代わりして身請けし、教養を身につけさせるために習い事に通わせ、予期せぬ妊娠を告げられたときには、父親としての責任を全うする覚悟すら決めた。だが、思いもしなかった。彼の前で太陽のように眩しい笑顔を見せていた女の正体が、実はドブネズミのように卑劣で陰湿な化け物だったとは。凛太はこれまで幾度となく彼女に釘を刺してきた。「俺のそばに置く以上は分をわきまえろ。俺の生涯の妻は音葉だけだ」と。彼女は殊勝な態度で頷いていたというのに、裏では彼との親密な写真を送りつけ、音葉を執拗に挑発していた。音葉は嘘など吐いていなかった。何一つ、彼女の仕業ではなかった。あの酷い言葉も、彼女が口にしたものではなかった。あの日の花火も、晴香が故意に用意した粗悪品だった。彼女はそれをわざと倒し、気絶したふりをしたのだ。花火の配置すら緻密に計算されており、その狙いは最初から音葉ただ一人に向けられていた。それなのに、あの日の彼は晴香を外へ避難させることしか頭になく、あろうことか音葉を火の海に置き去りにした。彼女の目が負傷していることすら、この節穴の目は気づかなかった。傷ついた彼女を放置した結果、彼女は階段から転げ落ちてしまった。そればかりか、挙句の果てには「お前は変わってしまった」と彼女をなじった。変わったのは彼自身の方だ。彼が人を見る目を失い、彼女の真心を踏みにじった。直樹の件も、すべて晴香の自作自演だった。音葉が嫉妬に狂って彼女を他人のベッドへ送り込んだなどという話は、真っ赤な嘘だった。晴香の方から直樹に擦り寄り、自らその身を捧げた。そして事後、直樹と結託して音葉に罪をなすりつけた。晴香と直樹はとうの昔に裏で
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第16話

晴香が幼い頃から劣悪な環境で育ったと聞かされていたからこそ、凛太は彼女が表面上見せる「従順さ」と「善良さ」を疑いもしなかった。だが、彼女は最初から最後まで凛太を騙し続けていた。彼女の両親は、決して娘を見捨ててなどいなかった。それどころか身を粉にして働き、彼女を大都会へと送り出してくれた。しかし晴香は、両親が「金にならない」ことを心底疎み、彼らがこの世を去った時でさえ実家に顔を出さず、棺桶一つ買ってやることもなかった。彼女が璃風館に足を踏み入れ、あの水商売に就いたのも、生活に困窮したからではない。完全に彼女自身の意志だった。金のためなら、自ら泥沼に浸かることも厭わない――それが彼女の本性だった。名声と地位、ただそれだけを渇望し、執拗に音葉を挑発し、凛太に嘘を重ねてきた。哲也でさえ、凛太の子ではなかった。彼女は璃風館を辞める前からすでに別の男の子供を身籠っていた。だからこそ罠を仕掛け、酒で彼を酔い潰し、その子の「都合のいい父親」へと仕立て上げた。そうして子供を盾に、彼の庇護をまんまと手に入れた。それなのに、彼はどうだ?彼女の言葉をそっくりそのまま信じ込んだ。彼女を傍に置き、あろうことか何度か本気で情を移しそうになったことすらあった。晴香のために音葉を裏切り、その果てに手にしたのがこの結末だ。そればかりか、彼は衆人環視の中で音葉を土下座させ、母親の形見を壊した憎き女に向かって謝罪することまで強要した。今、凛太は痛感していた。この世で最も死に値するのは晴香だけではない、この俺自身だ。音葉は何度も必死に釈明していたではないか。なぜただの一度も信じてやらなかったのか。もし一度でも彼女の言葉に耳を傾けていれば、こんな結末にはならなかったはずだ。凛太は初めて思い知った。本当の絶望とは、涙が枯れ果ててもなお、胸の奥で鮮血が滴り続けるような痛みを指すのだと。彼はそのまま一晩中ソファに座り込み、頭の中はただ一つの思考だけで埋め尽くされていた。――晴香。あの女だけは、絶対に生かしておかない。夜が明ける頃、凛太はようやく浅い眠りに落ちたが、ほどなくしてスマートフォンの着信音に叩き起こされた。スピーカーからは、いつもと変わらぬ、晴香の可哀想ぶった媚びるような声が聞こえてきた。「凛太、私……見捨てられちゃったのか
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第17話

凛太が璃風館の入り口に到着した時、晴香はすでに先回りして待ち構えていた。彼が車から降りるのを見るやいなや、彼女は目を輝かせて駆け寄り、その腕にすがりついた。「凛太、来てくれたのね!」甘ったるい声を上げながらも、彼女の目は値踏みするように素早く周囲を窺った。かつての同僚たちが、驚愕と羨望の入り混じった目を向けているのを確認すると、彼女の口角はさらに吊り上がった。だが、凛太は表情一つ変えることなく、冷然と自分の腕を引き抜いた。「入れ」晴香の笑みが微かに引きつる。もう一度腕を伸ばそうとしたが、凛太はすでに足を踏み出していた。周囲からクスクスと嘲笑う声が聞こえ、晴香は忌々しげに彼らを睨みつけると、慌てて凛太の後を追った。「凛太、どうしたの?」しかし、凛太は一瞥もくれず、ただ黙々と歩き続けるだけだった。晴香は、今日の凛太がどこかおかしいと感じていた。今朝の電話から今の態度に至るまで、すべてが不可解な違和感に満ちている。何より異様だったのは、彼がかつてこの店の喧騒や不潔さを極度に嫌い、常にVIPルームしか利用しなかったにもかかわらず、今日は自ら大広間のフロア席に座ったことだ。晴香の胸の奥に、得体の知れない焦燥と嫌な予感が渦巻いた。だが、どれだけ頭を捻っても、自分が彼の機嫌を損ねるような真似をした覚えはなかった。やがて彼女の顔は険しく歪んだ。きっと、また音葉の仕業だわ。あの女がまた凛太にあることないことを吹き込んだから、私への当たりが冷たくなった。まだ、お灸が据え足りないようね。次こそは、地獄を見せてやる。そう自分を納得させると、晴香は再び背筋を伸ばし、凛太の隣に傲慢な態度で腰を下ろした。かつての同僚たちが通り過ぎざまに向ける羨望の眼差しを感じるたび、彼女の顎は勝ち誇ったように高く上がっていく。凛太の顔に見覚えのあるホステスが、すかさずすり寄り、必死に自分を売り込み始めた。晴香はそれを鼻で笑い、身の程知らずな女だと内心で嘲った。「凛太、この人、私がここで働いていた時の友達なの。あんなに必死に頑張ってるんだから、売り上げに協力して、お酒を二本くらい入れてあげてよ」「ああ、いいぞ」凛太は一秒の躊躇いもなく頷いた。晴香は至上の優越感に浸り、そのホステスに向ける眼差しには、隠しきれない傲慢な色が混
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第18話

晴香は、彼が関心を示さないのを見てそれ以上は無理強いせず、背を向けて再び喧騒の中へと戻っていった。凛太のきっちりと留められたシャツのボタンを見つめているうちに、ふと胸の奥に淫らな情動が湧き上がり、晴香は再び彼の隣に腰を下ろした。「凛太、私たち……帰りましょう」そう言いながら、彼女は指先で彼の喉仏をなぞるように円を描いた。凛太は俯き加減で彼女を見下ろしたが、その胸中には底知れぬ嫌悪感しか湧かなかった。かつてどうしてこんな女に騙され、あろうことか音葉を傷つけてしまったのか、今の彼には到底理解できなかった。目の前で繰り広げられる晴香の浅ましい振る舞いは、ただただ下劣で反吐が出るものにしか映らなかった。凛太は手を伸ばし、その落ち着きのない手を無造作に掴んで止めた。晴香は艶めかしい視線を送りながら、自らの唇を差し出す。しかし、凛太は顔を背けてそれをかわし、彼女の手を冷たく振り払った。振り払われた拍子に、晴香は危うく体勢を崩しかけた。酒が回ってきたせいか、彼女の胸の内にふつふつと怒りが込み上げてきた。この一晩中、凛太は彼女の接近を拒み続け、まるで汚い物でも扱うかのような態度で、彼女に何度も恥をかかせてきた。だが、これほどの大金を自分のために惜しみなく使ってくれたというのに、今さら何を気取っているというのか。晴香が下唇を噛み、今にも凛太を問い詰めようとしたその時、「なら行くか。会計だ」という彼の声が聞こえた。その一言で晴香の心は一瞬にして歓喜に包まれ、問い詰めようとしていた怒りなどどこかへ消え去った。彼女はいそいそと、凛太のすぐ後ろを追うように歩き出した。ところが、二、三歩も歩かないうちに、彼女は誰かに呼び止められた。「お客様、まだお支払いが済んでおりません」不意に行く手を阻まれた晴香は呆然としたが、すぐに眉を吊り上げた。「支払い?私が誰だか分かっている?瀬戸家の当主、凛太の女よ。そこを退きなさい!」しかし、目の前のバーテンダー二人は全く動じる様子もなく、職業的な笑みを浮かべたまま伝票を彼女に差し出した。「どなたのお連れ様であろうと、お会計はしていただきます。今夜のご利用額は合計で五千六十万円になります。どちらのカードでお支払いになりますか?」晴香は店員が手にしていた伝票をバンッと叩き落とした。「言葉が通
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第19話

ここの騒ぎはすでに一部の客の目を引いていたが、晴香が叫んだことで、さらに多くの野次馬が集まってきた。DJブースの音楽すらもボリュームが落とされたほどだ。しかし、晴香の叫び声が凛太の足を止めることはなく、彼女は瞬時にパニックに陥った。彼女はかつて璃風館で働いていたことがあり、無銭飲食の末路をよく知っていた。だが、これまでに彼女が目にしたのは、せいぜい数十万円程度の不渡りを出した連中の姿だ。彼らはまず袋叩きにされ、服を剥ぎ取られてダンスフロアの中央に放り出される。オーナーはまず彼らの家族に金を要求する。もし身寄りがなかったり、家族に払う能力がなければ、その者は獣の檻に放り込まれる。生きて出られれば運が良く、死ねばそれまでの運命だ。晴香は以前、生きたまま獣に噛み殺された人間を見たことがある。そのせいで丸一ヶ月間も悪夢にうなされ、食事すら喉を通らなかった。だが、彼女を身の毛もよだつ凄惨な光景ですら、たかだか数十万円を踏み倒した者の末路にすぎない。そして今の自分は、なんと五千六十万円ものツケを抱えているのだ。晴香は目を丸くして見開き、なぜ突然こんな状況に陥ったのか全く理解できなかった。しかし、数秒もしないうちに思い当たった。音葉の仕業に違いない。晴香の目に毒々しい光が宿り、力任せに黒服の手を振りほどくと、凛太の前に走り寄ってすがりつくように膝をついた。「凛太、音葉があなたに何か吹き込んだの?あんなの全部嘘よ!私にもどうしようもない事情があった。彼女の言うことを信じないで!ちゃんと説明するから、私……!」パァンッ。言い終わるより早く、重い平手打ちが晴香の頬に炸裂した。凛太が手を下したのだ。今日、彼女が初めて音葉の名前を口にしたその瞬間から、凛太はすでに怒りを抑えきれずにいた。彼の愛する音葉はこの世を去ったというのに、なおも彼女の名誉を汚そうとする者がいる。そんなやつ、万死に値する。「晴香、事ここに至ってまだ白を切るつもりか?音葉に近づくなと、俺はとっくに警告したはずだ。なぜそれを聞かなかった?今起きていることはすべてお前の自業自得だ。今後、お前の言葉など一文字たりとも信じない」言い捨てるなり、凛太は彼女の胸元を蹴り飛ばし、黒服たちに手を振って彼女を引きずり出すよう合図した。晴香は殴ら
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第20話

晴香の助けを求める声が唐突に途切れ、彼女は呆然と口を開いた。「何を言っているの?音葉が死んだ?」「死」という言葉が鋭利な刃となって凛太の心を深く抉り取った。彼の眼差しは一瞬にして氷のように冷酷なものへと変わった。「中村さん、この店では食い逃げに対する罰が随分と生ぬるいようだな。まだペラペラと喋る気力が残っているじゃないか」オーナーの中村は冷や汗を流しながら答えた。「いえいえ、これはまだほんの小手調べですよ。今すぐ『真打ち』をご用意いたします」そう言うと、彼はパンパンと手を叩いた。すると、巨大な狼を閉じ込めた檻が運び込まれてきた。地を這うような狼の唸り声を聞き、観衆は一気に沸き立った。晴香は檻の中の狼を死に物狂いで見つめ、顔面を蒼白にさせたまま一言も発することができなかった。逃げたかった。たとえステージから転げ落ちて半死半生になろうとも、あの狼と対峙することだけは避けたかった。だが、手足の腱を断たれた今の彼女にとって、わずかな身じろぎすら身体を無理やり引き裂かれるような激痛を伴う。彼女は体を丸め、発狂したように叫ぶことしかできなかった。「来ないで!来ないでよ……!」しかし、彼女の必死の抵抗に耳を貸す者など、この場には一人もいなかった。観衆はみな、血に飢えた獣のように、これから始まる凄惨なショーを求めている。そして、彼女は黒服たちに担ぎ上げられ、檻の方向へと運ばれていった。ガチャリと鍵を開ける音が晴香の耳元で響いた。それはまるで地獄からの最後通牒のようだった。錠が外されると、檻の中にいた狼がぎらぎらと緑色の目を光らせて彼女をねめつけ、その口からはどろりとした涎が床に滴り落ちた。晴香は恐怖のあまり頭が真っ白になり、狂乱して叫びながら、手足の激痛も忘れて強引に身をよじった。だが、わずか一歩這い出したところで無情に引き戻され、次の瞬間にはゴミでも捨てるかのように檻の中へと放り込まれた。床に叩きつけられた衝撃で目が眩み、晴香は痛みに呻き声を漏らした。だがその背後から、突如として荒々しい獣の鼻息が聞こえてきて、彼女は恐怖で呼吸すら止まりそうになった。振り向く勇気などなく、ただ地面に突っ伏したまま微動だにできなかった。次の瞬間、ガシャガシャと檻を踏み鳴らす音が耳に届いた。彼女が事態を呑み込むより早く
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