LOGIN結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。 その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。 こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。 彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。 三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。 もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。 最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。 ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。 科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。 結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。
View More強く突き飛ばされた衝撃で、音葉の三年前からの古傷である手首からゴキッと鈍い音が鳴り響いた。彼女は顔をしかめ、誰が突き飛ばしたのかと振り返ろうとした――その瞬間、耳を刺すような鋭いガラスの破砕音が響き渡った。音葉は息を呑み、金縛りにあったかのようにゆっくりと首を巡らせた。「凛太……!」そこには、どす黒い血だまりの中に横たわる凛太の姿があった。止まらない腕の出血に加え、今は額からも鮮血が溢れ出し、彼の顔を赤く染めていく。不意に襲ったパニックで思考が白く染まりかけた時、背後から肩を優しく叩く手があった。「大丈夫だ。もう救急車は呼んだよ」振り返り、そこに桜井慎司(さくらい しんじ)の姿を認めた瞬間、音葉の心に一筋の安堵が広がった。だが、凛太の瞳は、慎司の存在を捉えた瞬間に不気味なほど冷たく、鋭い光を放った。「音葉……痛いよ……」彼は「その男は誰だ」とは聞かなかった。問いただせば、自分が最も恐れている答えが返ってくると分かっていたからだ。だから彼はただひたすらに痛みを訴え、あざとく涙をこぼしてみせた。思惑通り、音葉の視線は再び彼へと向けられた。凛太の胸の内に、「これならいける」という歪んだ確信がよぎる。彼はその僅かな同情心につけ込み、音葉の手を死に物狂いで握りしめ、得難い「哀れみ」を貪るように啜った。自分がこれほど卑劣な人間だったとは、凛太自身も初めて知った。瀕死を装ってでも、彼女の心を縛り付けようとするなんて。そして事実、彼はそうしていたのだ。「音葉、俺は……後悔してないよ。泣かないでくれ。ただ、一つだけ聞かせてほしい。もし俺がこのまま死んだら……来世でもまた俺の妻になってくれるか?」彼は無事な方の手を震わせながら持ち上げ、ひどく優しい手つきで音葉の涙を拭った。慎司はその言葉を聞き、瞳の奥を険しく濁らせた。しかし何も口にはせず、ただ静かに、揺るぎない眼差しで音葉を見つめ続けていた。音葉はしばらくの沈黙の後、何かを答えようと口を開きかけたが、けたたましい救急車のサイレンに掻き消された。彼女は言葉を飲み込み、立ち上がって凛太の手を離すと、救急隊員たちに彼を担架に乗せさせた。車内に運び込まれてもなお、凛太は縋るような熱い眼差しで音葉を見つめ続けていた。彼女からの「答え」を待ちわびた。しかし
音葉がその言葉を口にした瞬間、凛太の声はぴたりと止まった。彼女の前で惨めな顔など見せたくなかったが、どうしても口角を引き上げることができなかった。「音葉、どういう意味だ……自分の意思で去ったって?恐れることはない、今の瀬戸家にはお前を脅かせる者など一人もいないんだ、教えてくれ……」「凛太!目を覚ましなさい。言ったはずよ、私から進んで離れることを選んだのだと。その具体的な理由なんて、わざわざ私が口にしなくても、あなた自身が一番よく分かっているはずでしょう」凛太にはもちろん痛いほど分かっていた。晴香のこと、哲也のこと、そして何より彼自身の浅はかな過ちのせいだ。彼が晴香の悪意を野放しにし、彼女を傷つけるのを傍観していた。その身勝手さが、音葉の期待を幾度となく裏切り、絶望させてきたのだ。だが、今はもう自分の愚かさに気づいている。二度と同じ過ちは繰り返さないと誓える。しかし、音葉の眼差しは氷のように冷たく、凛太の心臓まで凍りつかせた。凛太の胸の奥に、突如として巨大なパニックが沸き起こった。大切な何かが指の隙間からこぼれ落ちていくようで、どれほど強く拳を握りしめても、もう二度と掴み取ることはできないのだと。焦りのあまり首まで赤く染め、どうしていいか分からず狼狽するその姿は、雨に濡れた子犬のように哀れだった。だが、ただ一人、音葉の心だけは微塵も揺らがなかった。彼女の手に触れようと手を伸ばしたが、自分の血に染まった掌を見てハッと引っ込めた。そして、数千万円は下らないオーダーメイドのスーツに何度も血を擦りつけ、綺麗に拭ってから、おそるおそる彼女の手を握りしめた。「音葉、いいんだ……理由なんてどうでもいい。お前が自分の意思で去ったとしても、俺は構わない。また二人でやり直せさえすれば、過去に何があったかなんて、俺はもう何一つ気にしないから……」「離して」音葉には到底理解できなかった。あの時の凛太は晴香を深く愛していたはずだ。哲也の未来を切り開くためなら、自分たちの間にできた子供さえ平気で犠牲にするほどに。だからこそ彼女は身を引き、潔く二人を添い遂げさせてやるつもりだったのだ。なのに、なぜ今になって凛太は死に物狂いで自分の愛を乞い、あまつさえ晴香を刑務所へ送り込んだりしたのか?しばし考えを巡らせた後、彼女の脳裏
しかし、音葉は彼を無情に突き飛ばした。「瀬戸社長、人違いではありませんか?お戯れはおやめください」凛太は目を真っ赤にして首を横に振った。「お前は俺の音葉だ。生きていてくれて本当によかった。この三年間、一体どこにいたんだ?」彼の声は涙に詰まり、語り尽くせぬほどの思いが溢れていた。「教えてくれ、あの爆発の時、また誰かに脅されていたのか?もう安心しろ、これからは誰もお前を傷つけられない。この帝都で、俺に逆らえる奴はもう誰もいないんだ」そう言いながら、凛太の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。有無を言わさず再び彼女を腕に抱き込もうとしたが、音葉はサッと立ち上がった。「瀬戸社長、契約のお話ではないのでしたら、これで失礼いたします。下で夫が待っておりますので」そう言い捨て、彼女は契約書を片付けて社長室を出ようとしたが、その腕をきつく掴まれた。「夫……?音葉、嘘だろ……?」凛太の絞り出すような声には、色濃い不信感が滲んでいた。「あの時の真相はもう知っているんだ。晴香は俺が刑務所にぶち込んだし、璃風館の連中も法で裁いた。もう恐れることはない。これからは誰も、俺たちの愛を邪魔できないんだ」優しく宥めるように語りかけるその言葉には、ひたすら縋るような哀願が込められていた。音葉は思わず失笑し、冷ややかな視線を彼に向けた。「じゃあ、あなた自身はどうなの?」前回ここを去った時、もう二度と戻らないつもりだった。だが、ある人物に出会い、彼女は悟った。傷つけられたのなら、相応の報いを受けさせなければならない。逃げているだけでは何も解決しないのだと。だからこそ、今回の帰国を拒まなかった。かつて刻まれたすべての傷を、彼からきっちりと取り立てるために。音葉のその一言に凛太は一瞬呆然としたが、次の瞬間、ためらうことなく振り返って引き出しを開けた。肉を裂く生々しい音とともに、鋭利な刃が彼の腕に深く突き立てられた。凛太の顔からは一瞬にして血の気が引き、唇は真っ白に染まった。額には脂汗が滲み、激痛に耐えるように奥歯を噛み締めた。しかし、彼は躊躇することなく、もう一度ナイフを突き立てた。腕からどくどくと鮮血が流れ出しているというのに、彼は口角を上げて笑った。「返してやるよ、音葉。お前が望むものなら何だってやる。たとえ、この命でも」
その言葉が出た瞬間、会議室は水を打ったように静まり返った。秘書も一瞬にして顔色を変え、自分が取り返しのつかない失言をしてしまったのだと悟った。だが、どの言葉がマズかったのかまでは分からず、会議室にいる他の役員たちも、凛太が彼女にどんな処分を下すのかと固唾を飲んで見守っていた。なにしろこの数年間、誰もがその「タブー」を了解としていたが、それが真実なのかどうかをわざわざ試そうとする命知らずは一人もいなかったのだから。それぞれが内心で様々な憶測を巡らせていると、ついに上座に座る人物が口を開いた。「分かった。先方には、明日は時間がない、明後日もないと伝えろ。会議はここまでだ」凛太の声はいつも通りで、皆が予想したようにその場で秘書を解雇することもなかった。期待していた「見せ物」が肩透かしに終わり、役員たちはひどく落胆した。やはりあの噂はデマだったのだと、誰もが興味を失った。この一件を境に、もはやその件を話題にしようとする者さえいなくなった。だが、彼らは気づいていなかった。その名が響いた瞬間、凛太のまつ毛が微かに震え、指先で弄んでいたペンの動きがピタリと止まったことを。そして、社長室に戻った彼が目を真っ赤に充血させていたことも、首から下げたペンダントヘッドの刻印が擦り切れるほど撫で回されていたことも、誰一人として知る由もなかった。また三年が過ぎた。この三年間、誰もがあの名前を口にすることを固く禁じてきた。凛太もまた、それに同調するように自らに嘘をつき続け、とうの昔にあの出来事を忘れ去ったかのように装ってきた。しかし、ひとたびその禁忌が破られるや否や、抑え込んできた思慕の念が堰を切ったように溢れ出し、胸の奥底へと流れ込んできた。その時になって初めて、彼は思い知ったのだ。この三年間、ただの一瞬たりとも忘れたことなどなかったのだと。同姓同名の人間でさえ、この三年間一度も現れることはなかった。それがよりによって、二人の結婚記念日の前日というタイミングで飛び出してきたのだ。凛太からすれば、相手の運が悪かったとしか言いようがない。名前も悪ければ、選んだタイミングも最悪だった。昼休みが明けると、彼は内線電話を取り上げ、秘書を呼び出した。「A国の浅見代表に伝えろ。提携は白紙だ。時間を守れないような人間は、瀬戸グルー
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