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冷え切った残り火、孤独な罪

冷え切った残り火、孤独な罪

By:  小豆Completed
Language: Japanese
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結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。 その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。 こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。 彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。 三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。 もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。 最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。 ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。 科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。 結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。

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Chapter 1

第1話

結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。

その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。

こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。

彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。

三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。

もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。

最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。

ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。

科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。

結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。

彼女は胸が張り裂けるような悲しみに沈み、目を覚ましても凛太と向き合う勇気が出ず、ただ瞼を閉じていた。

だが、彼が医師の友人と激しく言い争う声が聞こえ、慌てて止めに入ろうと布団を跳ね除けた瞬間、漏れ聞こえてきた言葉に全身の血が凍りついた。

「凛太、あの薬をこれ以上音葉に飲ませるのは、本当にまずい。次は流産だけじゃ済まないぞ。妊娠が難しくなるどころか、彼女の体そのものを壊してしまうことになるんだ」

凛太は壁に寄りかかり、紫煙をくゆらせながら軽くため息をついた。

「だが、晴香と哲也に約束したんだ。生涯、俺の子供は哲也ただ一人だと。これは俺が晴香に償うべきことなんだ」

友人は複雑な表情を浮かべた。

「凛太、音葉がいなくなったあの三年間、お前はまるで狂ったようだった。なのに彼女が戻ってきた今、身代わりの女とまだ縁を切っていないどころか、音葉に不妊を招く薬を盛るなんて……

あんな薄汚れた夜の女を、本気で愛しているわけじゃないだろ?」

凛太の瞳の奥が暗く沈んだ。「俺は音葉を愛している。だが、晴香のことも見捨てられないんだ。音葉は少し退屈だからな、たまには刺激も必要だ。金ならいくらでもある、囲っておけばいいだけの話だろう」

「じゃあ音葉はどうするんだ?もし知られたら、離婚されるに決まってる!」

離婚という言葉を聞き、凛太の顔色は一段と険しくなった。「彼女には絶対に気付かせない。俺から離れることなど、絶対に許さない」

友人はまだ説得を続けていたが、音葉の顔はすでに血の気を失い、真っ白になっていた。

望月晴香(もちづき はるか)。私の真似をして凛太に近づき、彼に忌み嫌われてこの街を追放されたあの女。

三年も前に、とっくに消えたはずじゃなかったの……?

それに、凛太は哲也のことを甥だって、そう言っていたじゃない。なぜ今、二人の子供だなんて言葉が出てくるのか。

音葉は震えを止められず、寄せられた眉の間には衝撃と絶望が深く刻まれていた。

つまり、彼は今までずっと私を騙していたのか?

音葉の手が無意識に自分のお腹に触れると、自嘲気味な笑いがこぼれ落ちる。

なら、私の子供はどうなるの?

裏返った自分の泣き声を耳にしながら、心の奥で残酷な答えが響いた。私の子供は、実の父親の手によって殺されたのだ、と。

我が子を亡くした喪失感は、毒のように全身へと回り、内側から彼女を容赦なく蝕んでいった。呼吸をすることさえままならないほどの絶望が、じわじわと彼女を追い詰めていく。

音葉はたまらず身を屈め、空えずきを繰り返した。溢れ出した大粒の涙は、次から次へと床に叩きつけられた。

胸をきつくかき抱いたが、身を裂かれるようなその激痛は、どうやっても止めることができなかった。

部屋の外にいた凛太が彼女の異変に気づき、慌ててドアを開けて彼女をきつく抱きしめた。

「大丈夫だ、音葉。子供ならまた作ればいい。そんなに自分を追い詰めないでくれ」

襟元に滴り落ちた涙の熱が、かえって彼女の胸を酷く抉り取った。音葉はこみ上げる嫌悪感を抑えきれず、その体を力いっぱい突き飛ばした。

「近寄らないで」彼女は吐き気を催した。

凛太は空を切った腕を見つめ、少し呆然とした。音葉はすでに目を閉じ、もう彼を見ようとはしなかった。

十年間愛し続けたこの顔が、今は恐ろしいほどに見知らぬものに感じられた。

彼はかつて、彼女が去ったことで鬱病になり、彼女が戻ってきたことで今度は分離不安症に陥った。

同じ空間にいても、これが夢ではないかと何度も彼女に確認しなければならないほど不安に苛まれていた。

再会した夜のことを、音葉は決して忘れない。凛太の物音に驚いて目を覚ました彼女の視界に飛び込んできたのは、血まみれの彼の姿だった。

彼女は恐怖で泣きじゃくったが、彼は彼女を強く抱きしめた。

「泣かないでくれ、音葉。これが夢じゃないかって怖かったんだ。これだけ傷をつけてもお前が消えなくて、本当に良かった……」

だが、これほどまでに命懸けで彼女を愛した男が、彼女以外の女にも愛情を注いでいた。

凛太がどうしても晴香を捨てられないというのなら、いっそ二人を添い遂げさせてやればいい。

その夜、凛太が不在の隙に、音葉はすぐさま弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼した。

続いて、別の番号に電話をかけた。

「聡子さん、凛太との離婚に応じるわ。お金はもういらない。ただ、一つだけお願いがある」

電話の向こうで、聡子は鼻で笑った。「金目当ての女が、まさか自分から金を捨てるなんてね。いいわ、何をしてほしいの?」

「私が去った後、凛太がまた死に物狂いで私を捜し回るのを防ぎたいなら、私の死を偽装する手助けをして。彼の未練を、根こそぎ断ち切るために」

聡子は数秒沈黙した。「いいでしょう。ただし、本当に消えることよ。もし気を引くための駆け引きなら、次は容赦しない」

駆け引きなどするつもりはない。今度こそ、彼女は本当に凛太を愛するのをやめようと決意していたのだ。
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松坂 美枝
松坂 美枝
調べが遅い御曹司シリーズ そこまでして取り戻した女を全く大事にしないならなんで手元に置いたんだ 後半クズ女にした執拗な報復に比べてクズ男は生温い気がする
2026-04-11 10:21:39
3
0
ノンスケ
ノンスケ
可哀想と言えば可哀想なんだけど、御曹司として生まれたからには背負うものも大きいし、母親のしたこともその世界では普通なんだろう。でもこの2人には代償が大きすぎたね。
2026-04-11 22:21:00
0
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第1話
結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。彼女は胸が張り裂けるような悲しみに沈み、目を覚ましても凛太と向き合う勇気が出ず、ただ瞼を閉じていた。だが、彼が医師の友人と激しく言い争う声が聞こえ、慌てて止めに入ろうと布団を跳ね除けた瞬間、漏れ聞こえてきた言葉に全身の血が凍りついた。「凛太、あの薬をこれ以上音葉に飲ませるのは、本当にまずい。次は流産だけじゃ済まないぞ。妊娠が難しくなるどころか、彼女の体そのものを壊してしまうことになるんだ」凛太は壁に寄りかかり、紫煙をくゆらせながら軽くため息をついた。「だが、晴香と哲也に約束したんだ。生涯、俺の子供は哲也ただ一人だと。これは俺が晴香に償うべきことなんだ」友人は複雑な表情を浮かべた。「凛太、音葉がいなくなったあの三年間、お前はまるで狂ったようだった。なのに彼女が戻ってきた今、身代わりの女とまだ縁を切っていないどころか、音葉に不妊を招く薬を盛るなんて……あんな薄汚れた夜の女を、
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第2話
音葉の気乗りしない様子に気づいたのか、ここ数日、凛太は仕事をすべて放り出し、彼女のそばに付きっきりだった。退院の日、彼は彼女が一番好きなレストランをわざわざ貸し切り、店内一面を豪奢なバラの花壁で飾り付けてくれた。ところが、レストランへ向かう道中、彼のスマートフォンが狂ったように鳴り出した。着信画面の相手を見た瞬間、凛太は急ブレーキを踏んで車を路肩に停めた。電話に出るなり、向こうから泣き叫ぶ声が聞こえてきた。「凛太、助けて!嘉村社長が酔っ払って私を無理やり連れて行こうと……あっ!」悲鳴とともに通話がぷっつりと切れると、凛太の顔はみるみるうちに焦燥に染まった。彼は迷うことなく手を伸ばして音葉のシートベルトを外し、彼女の側のドアを押し開けた。「音葉、急に仕事のトラブルが入った。悪いがここで降りてタクシーを拾い、レストランで待っていてくれ。片付いたらすぐに向かうから、いいな?」しかし、音葉は動かず、ただ黙って凛太の顔をじっと見つめた。だが、彼の瞳にはいぶかしげな色と、早く降りろと急かすような焦りしか浮かんでいなかった。胸の奥に苦い痛みが走り、彼女は静かに視線を外した。もはや、彼に期待することなど何一つ残っていなかった。「凛太、外は雨が降っているわ」彼女の声は、波一つ立たないほど、不気味なほど平坦だった。凛太はハッとしたように目を瞬かせ、一瞬だけバツの悪そうな顔をすると、慌てて自分のジャケットを脱いだ。「これを羽織っていけ。役員会に急かされてるんだ、いい子で待っててくれ」言い終えるなり、彼は彼女の頭を愛おしそうに撫で、そのまま半ば強引に彼女を車外へと突き出した。その乱暴な仕草と、耳に心地よい甘い言葉は、あまりにも残酷なコントラストを描いていた。音葉が体勢を立て直す間もなく、凛太は勢いよくアクセルを踏み込み、車を急発進させた。その反動で彼女が地面に倒れ込んだことなど、彼は微塵も気づいていなかった。その瞬間、音葉は額を地面に強く打ち付け、水たまりの泥水が容赦なく口の中に流れ込んできた。彼から渡されたジャケットはずぶ濡れになり、音葉の心もまた、氷のように冷え切ってしまった。彼女はしばらくしてようやく立ち上がったが、地面に落ちたジャケットを拾おうとはしなかった。泥にまみれたジャケットを見下ろす彼女の瞳は、今の
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第3話
音葉は不快そうに眉をひそめ、相手にしないつもりだったが、一歩踏み出したところで彼女に立ち塞がられた。「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますでしょうか? ご予約のない方はお通しできません」晴香の笑顔は受付嬢としてマニュアル通りだったが、音葉にはその奥でうごめく嫌がらせの意図と、醜い優越感がはっきりと見て取れた。音葉の顔からスッと温度が消える。「晴香。この会社の人間で、私が誰だか知らない者などいないはずよ。本気で私を止めるつもり?」晴香の笑みが、さらに深くなった。「ふん、社長夫人だからって何よ?結局、子供すら産ませてもらえないじゃない。三年間も時間があったのに役立たずで……あの薬のお味はどうだった?」――パァン!言葉が終わるが早いか、乾いた音がロビーに響いた。音葉の平手打ちが、晴香の頬を思い切り張り飛ばしていたのだ。「そんな汚い口で、よく受付なんて務まるわね」晴香は打たれた頬を押さえ、一瞬呆然とした後、ふっと嘲笑した。「図星を突かれて逆ギレってわけ?音葉、のし上がるのはお互い実力次第でしょ。今日は絶対に中には入れないから。警備員!」だが、警備員が駆け寄るよりも早く、エレベーターの扉が開いた。不機嫌そうな表情を浮かべた凛太が姿を現す。彼が近づいてくるより先に、彼の怒声が響き渡る。「晴香、社員マニュアルも読めないのか?誰を通して誰を止めるべきか、一番最初に書いてあるだろう。まともに働けないなら、今すぐ出て行け!」言い放つと、彼はひどく心配そうな顔で音葉へ視線を向けた。「音葉、怪我はないか?彼女に何かされなかったか?……外はまだ雨が降っているのに、どうしてそんな薄着で出てきたんだ。体調だってまだ万全じゃないだろうに」凛太は眉をひそめ、まるで音葉が自分自身の体を大切にしていないことを本気で案じているかのようだった。その光景を目の当たりにした晴香の瞳には、どす黒い嫉妬が渦巻いたが、彼女はそれを隠すようにうつむき、唇を噛み締めて沈黙を貫いた。音葉も何も言わず、ただ凛太の首筋に残る生々しい赤いキスマークをじっと見つめていた。長い沈黙の後、ふと堪えきれないように乾いた笑いを漏らしたが、その目尻はうっすらと赤く滲んでいた。――凛太……あなたのその「献身」、本当に胸を打つ。でも、今さら誰のためにそんな茶番を
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第4話
そう言いながら、凛太は手を伸ばして書類を受け取った。「欲しいものがあるなら、書斎にある俺の印鑑を勝手に押してくれて構わない。わざわざ俺のところへ来なくていい、お前が疲れるだけだからな」音葉は赤く腫れた目のまま、ひどく静かな声で口を開いた。「今回はそうはいかないわ。だってこれは、離婚……」言葉を言い終わるより早く、社長室のドアが押し開かれた。「社長、望月さんが準備を整えました。もう上へ上がられても大丈夫です」凛太は1ページ目に目を落とそうとしたが、秘書の言葉を聞くやいなや、中身をろくに確認することもなく最後のページまで一気にめくり、そのままサインをした。遮られた言葉は行き場を失った。音葉はもう一度口を挟むタイミングを見つけられず、いっそ伝えるのをやめた。――どうせ、彼も遅かれ早かれ知ることになるのだから。彼女はサインされた協議書を手元に引き寄せた。「用事があるんでしょう。私も帰るわ」だが、バッグを肩にかけた途端、凛太にぐいと腕を掴まれた。「まあ待て。ちょっとついて来い」音葉が状況を飲み込めないうちに、凛太は彼女をビルの屋上へと連れ出していた。「音葉、晴香は会社の古株の紹介で入ってきた人間でな。俺も無下には追い出せないんだ。頼むから怒らないでやってくれ。午後の件は本人も反省していて、お前への詫びの印に花火を用意したらしい。ずっと、花火大会を見たいと言っていただろう?」音葉はハッとした。凛太がそのことを覚えているとは、思いもしなかったのだ。それは交際して最初の年、大晦日の夜に彼女が口にした新年の願いだった。あれから、もう九年も経っている。一瞬だけ意識が遠のき、かつて熱烈な愛を向けてくれていた、若き日の凛太の姿が脳裏をよぎった。だが次の瞬間、晴香の声によって強引に現実に引き戻された。「社長、それでは点火いたしますね」凛太が頷くと同時に、彼は片手で音葉の肩をきつく抱き寄せ、もう一方の手でなんと小さなカップケーキを取り出した。それは安っぽくて小さなケーキだったが、彼女がずっと食べたいと願い続けていたものだ。幼い頃、母が生きている頃は、母が帰宅するたびに買ってきてくれた思い出の品。母が亡くなってからは一度も口にしておらず、もうどこにも売っていないはずだった。しかし今、彼はとっくに終売したはずの
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第5話
頬を掠める熱風が、刻一刻と強まっていく。音葉は視界を奪われながらも、炎がじりじりと迫ってくる気配を肌で感じていた。彼女は慌てて手を伸ばし、目の前にいる凛太を掴もうとした。「待って、凛太……私、目が見えないの……!」だが、必死に伸ばした手は、彼の服の裾をわずかに掠めただけだった。遠ざかっていく荒々しい足音は、彼女の心ごと容赦なく踏み砕いていくかのようだった。「待っていろ」というあの約束も、結局は触れれば消える、空虚な幻に過ぎなかった。凛太への期待など、とうの昔に死に絶えていたはずだった。それでも、終わりのない暗闇の中で「彼は本当に戻ってこないのだ」という事実を再び突きつけられた瞬間、やはり心臓を素手で握りつぶされるような激痛が全身を駆け巡った。音葉は首を振り、口元にひどく苦い笑みを浮かべた。そして、血の滲む両目の痛みに耐えながら、肘をついて必死に身を起こし、少しずつ前へと這い進んだ。だが、屋上の扉を抜けた直後、視界を失った彼女は階段を踏み外し、そのまま真っ逆さまに転げ落ちた。床に叩きつけられるよりも早く、音葉の意識は深い暗闇へと沈んでいった。次に目を覚ました時、彼女の両目は厚い包帯で覆われていた。絶え間なく襲い来る痛みに、思わず苦痛の呻き声が漏れた。手を上げて触れようとした瞬間、突然誰かにその手をきつく握りしめられた。「音葉、気がついたか?具合はどうだ?まだ痛むか?医者を呼ぼうか?」矢継ぎ早に浴びせられる心配そうな問いかけ。だが、音葉の心にはもはやさざ波一つ立たなかった。彼女は無理やりその手を引き抜くと、静かな声の中に、底知れぬ嫌悪を込めて言い放った。「……出て行って」凛太は一瞬呆然とし、やがて罪悪感に満ちた声を絞り出した。「音葉、俺がお前を助けなかったことを恨んでいるのか?説明させてくれ。あの時、晴香は恐怖で気を失ってしまったんだ。あそこに残せば命に関わるかもしれない。だから、急いで彼女を下に運んで、本当にすぐに戻ってきたんだ。でも、あのときにはお前が階段の下で倒れていて……。音葉、すまない……お前の目がこんなことになるなんて、俺は……」凛太は切々と訴え、その声は嗚咽に震えていた。だが、音葉は何の反応も示さなかった。彼が「すぐに戻ってきた」というのが真っ赤な嘘であることを、彼女は知っていたからだ。
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第6話
不意に戻ってきた凛太の姿に、音葉は慌てて通話を切った。「何でもない。もう縁を切った友人に、二度と会わないと伝えていただけよ」凛太は深く眉をひそめ、到底信じていない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。それからの三日間、彼は三年前の彼女がようやく戻ってきたばかりの頃のように、失うことを極度に恐れるかのように片時も音葉のそばを離れなかった。だが、音葉の態度は終始つれないままで、感情の起伏すら見せなかった。凛太はその態度に得体の知れない焦燥感を覚え、どうにか話し合う機会を作ろうとしていた矢先――あろうことか、音葉の退院の日に、彼が音信不通になった。音葉は何も聞かず、一人で退院手続きを済ませると、そのまま弁護士の元へ向かった。離婚協議書を弁護士に託し、受領の委任状を書き終えてから、ようやく荷物をまとめるために家へ戻った。実際のところ、まとめるような荷物などほとんどなく、ただ両親の遺品をいくつか持ち出すだけだった。だが、荷物を箱に収め終えたその時、寝室のドアが乱暴に押し開けられた。連絡が取れなかったはずの凛太が、顔を怒りに染め、有無を言わさず彼女の手首を掴み上げた。「音葉、どうしてこんな真似をしたんだ? 晴香が紹介で入社しただけだとも、あの日彼女を助けたのはただの気まぐれだったとも、何度も説明したはずだ!彼女は自分の過ちを悔やんで、悪夢にうなされて入院までしたんだぞ。それなのに、どうしてお前はまだ彼女を追い詰めようとするんだ!」音葉の手から、遺品の小箱がふいに床へ転げ落ちた。彼が一体何を言っているのか、まったく理解できなかった。「……何の話をしているの?」音葉の冷ややかな態度に凛太の怒りはさらに燃え上がり、分厚い写真の束を彼女の胸元へ力任せに叩きつけた。「とぼけるな!この前のことだけで、そんなちっぽけな嫉妬心のために、こんな下劣な手段まで使うのか?いったいお前はいつから、ここまで底なしの卑劣な人間になり下がったんだ!」音葉は茫然としながら散らばった写真を拾い上げ、一目見ただけで凛太の言葉の意味を悟った。彼が連絡を絶っていたのは、晴香が事件に巻き込まれたからだったのだ。彼女は、業界でも最も下劣で胸糞悪いと評判の嘉村直樹(かむら なおき)に連れ去られ、三日三晩弄ばれた上、体に「娼婦」の印章を捺さ
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第7話
凛太の放った言葉に、音葉は心臓を激しく打ち据えられたように震え、見開いた両目に驚愕と絶望を浮かべた。それは、彼女の幼い日々を黒く塗りつぶした、決して消えることのないトラウマだった。かつて占い師が吐いたその一言のせいで、両親の死後、彼女は親戚から見捨てられ、同級生からは石を投げられ、ある冷たい雨の夜、危うく命を落としかけた。もう耐えきれない、いっそ死んでしまおう――そう思い詰めていた彼女に、「人の運命は他人の言葉など関係ない」と教えてくれたのは、他ならぬ凛太だった。「両親はお前を特等席で見守るために天国へ行ったんだ」と優しく諭し、「俺の全人生をかけて、その呪いを解いてやる」と誓ってくれたのも彼だった。それなのに今、彼はその過去を最も鋭利な刃に変え、彼女の心臓を容赦なく抉りにきている。音葉の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。だが、その口元に浮かぶ笑みは、狂気を孕んだように次第に深まっていった。……どんなに深く愛し合っていても、時の試練には耐えられないということか。彼の瞳に映る自分は、もはや愛した女性などではない。女としての尊厳を無惨に踏みにじり、ようやく抜け出したはずの泥沼へと再び突き落として復讐を遂げるような、身の毛もよだつほど醜悪で卑劣な女――それが、今の彼が下した自分への評価なのだ。彼女はもはや、弁解する気力すら失っていた。ただ、決して屈しまいと細い首を真っ直ぐに伸ばし、凛太を冷たく見据えた。「凛太、やっていないことで謝るつもりは毛頭ないわ!彼女が死のうが生きようが、私には何の関係もない。……そして今日から、あなたも同じよ」言い捨てるなり、彼女は渾身の力でその手を振り払い、目尻の涙を乱暴に拭うと、顔を上げてドアノブに手をかける。だが、外へ踏み出そうとした瞬間、ドアは外側から冷酷に閉ざされた。その背後から、まるで悪魔のように、底冷えのする凛太の声が響いた。「音葉、どうしても謝らないというなら、俺の非情を恨まないでくれ。誰か!彼女を璃風館へ連れて行け!自分の非を認めて謝罪するまで、決して迎えには行くな!」音葉は足の裏が床に縫い付けられたように凍りつき、自分の耳を疑った。「……凛太、今、なんて言った?」「璃風館」――それは帝都で最も名を馳せる、巨大な歓楽街の闇。男たちにとっては至高の悦楽に浸れる楽
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第8話
「誰が私の物に触っていいと言ったの!」音葉は目を真っ赤に血走らせ、それを奪い返そうと手を伸ばしたが、晴香に身軽にかわされてしまった。「このネックレスのこと?一目見た時から綺麗だなって思ってた。凛太が、私が気に入ったんなら、慰謝料代わりにプレゼントするって言ってくれた」「あり得ない!」音葉は考える間もなく即座に否定した。凛太は彼女が両親の遺品をどれほど大切にしているかを知っているはずだ。いくら晴香の代わりに自分を罰しようとしたとしても、こんなことでふざけるはずがない。晴香はその反応にひどく満足したようで、勝ち誇ったように甲高い笑い声を上げた。「信じられないなら、直接凛太に聞いてみればいいじゃない。音葉、あなたは私には勝てない。大人しく自分から出ていくことね。そうじゃないと、私が次に何をするか、保証できないわ?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが押し開けられた。そこにいた晴香の姿を見た瞬間、凛太の瞳に一瞬の動揺が走ったが、すぐに氷のような冷徹さを取り戻し、低く言い放った。「出て行け」晴香は躊躇うことなく、音葉を挑発するように一瞥すると、身を翻して出て行った。だが、音葉には彼女を気にする余裕などなかった。ただ、焼け付くように乾いた声で凛太を問い詰めた。「凛太、どうして私のネックレスを彼女に渡した?それが亡き母の形見だって、あなたは知っていたはずよ!」激昂のあまり、満身創痍の体中に激痛が走り、座っていることすらままならない。しかし、凛太は悪びれる様子もなく笑みを浮かべ、彼女の耳元の髪を愛おしげに弄りながら、なだめるような口調で言った。「お前がどうしても謝りたくないって言うから、俺が代わりに彼女へ償いをしてやるしかなかったんだ。お前もこの数日で十分苦痛を味わっただろうし、今回の件はこれでおしまいにしよう。たかがネックレス一つだ。これから先、欲しいならいくらでも買ってやるから。な?」その声はどこまでも優しく、まるで心から彼女を案じているかのようだった。しかし、音葉はただ耐え難い吐き気だけを感じた。信じていた男に魂の拠り所を根こそぎ奪われ、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような、形容しがたい虚無感。……本当に、彼が自らの意思であれを手渡したのだ。この瞬間、彼女は骨の髄まで思い知った。かつての優し
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第9話
「音葉、晴香が飛び降りようとしているのに、まだそんな言葉で煽る気か!お前は、人の命を何だと思っているんだ!」音葉は振り返り、憎悪を煮えたぎらせた瞳で凛太を睨みつけた。「……離して!」その眼差しに、凛太はハッとし、一瞬、心臓が凍りついた。だが、すぐに晴香の泣き声が彼を現実に引き戻した。「凛太……あなたが、音葉を怒らせるなって言ったから、私、何もしていないのに……どうしてこんな酷いことされるの?私はただ、平穏に生きていたいだけなのに。ただ一言、謝ってほしかっただけなのに……。家柄が悪いからって、こんな目に遭わされて当然なの……?」晴香は言葉を詰まらせ、羞恥と悲憤に耐えかねたように、さらに一歩、屋上の縁へと身を乗り出した。凛太の脳裏にこの前の出来事が蘇り、一瞬だけ揺らいだ心は再び石のように冷たく硬く閉ざされた。今にも空へ落ちてしまいそうな晴香の姿に、彼は目を血走らせて叫んだ。「動くな!音葉に謝らせる。土下座でも何でもさせるから!だから早まるな、頼むから!」晴香はそこでようやく足を止め、今にも崩れそうな震える声で問うた。「……本当?」「本当だ!」一秒でも返答が遅れれば彼女が落ちてしまうと恐れ、凛太は間髪を容れずに答えた。そして彼の行動も早かった。容赦なく、音葉の膝裏を力任せに蹴り飛ばした。「――ッ!」ただでさえ治りきっていなかった膝を激しく地面に打ち付けられ、音葉はあまりの激痛に声も出せなかった。必死に立ち上がろうとしたが、凛太に力ずくで押さえつけられた。「音葉、謝れ」その一言に、彼女の心臓は大きく跳ねた。周囲を取り囲む野次馬たちの蔑みに満ちた視線が、無数の矢となって彼女のプライドを無慈悲に突き刺す。屈辱が瞬時に全身を駆け巡り、音葉は狂おしいほどの憎しみを瞳に宿して凛太を睨みつけた。「凛太、私はそんなこと言ってないし、やってない!一体、何度言えばわかる?私があなたの妻だということすら、とっくに忘れてしまったのね!」愛し合って十年の間、彼女がここまで理性を失い取り乱したことは一度もなかった。凛太は一瞬ハッとし、音葉を押さえつける手の力がわずかに緩んだ。だが次の瞬間、野次馬の中から悲鳴が上がった。晴香が片足をさらに外側へと踏み出したのだ。凛太はすぐさま我に返った。「音葉、これは人の命がかかっ
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第10話
爆発音は凄まじかったが、五キロ離れた病院は平穏そのものだった。ただ一人、低い声で晴香を宥めていた凛太だけが、ふと一瞬意識を遠のかせた。理由もなく、心臓を鷲掴みにされるような鋭い痛みが走った。急に動きを止めた凛太を見て、晴香が怪訝そうに口を開いた。「どうしたの、凛太?」だが凛太には、その声が届いていないようだった。その瞳は温度を失って急速に凍てつき、彼を中心にして、あたり一面がひりつくような、重苦しい静寂に支配されていく。晴香は心臓を跳ねさせた。何かボロを出したのかと焦り、慌てて泣き声を大きくした。三度目の呼びかけでようやく我に返った凛太は、痛ましそうに彼女を抱き寄せた。「……どうした?怖がらなくていい、俺がいる。もう誰もお前をいじめたりしない」彼がただ心ここにあらずだっただけだと気づき、晴香は安堵の息を吐いた。そして、いつものように甘えた。「急に黙るから……私を助けたこと、後悔してるのかと思った。私が足手まといになって、もう見捨てられるんじゃないかって……」彼女はそう言いながら、大粒の涙をこぼし、声を押し殺して泣きじゃくった。誰が見ても庇護欲をそそられる、いじらしい姿だった。しかし今回ばかりは、凛太の心はどこか上の空だった。それどころか、彼女の言葉が引き金となり、彼の意識は再び「あの一瞬」へと引き戻されてしまった。先ほど突然気が散ったのは、彼がふと六年前の結婚式を思い出したからだ。花嫁がすり替えられ、心から愛した人が忽然と姿を消した、あの絶望の日の記憶。最高に幸せな瞬間を迎えるはずが、ただの生ける屍のように成り果てたあの日を思い出すと、今でも胸のざわつきを抑えられなくなる。音葉が失踪していた三年間、あの日々は彼にとって毎晩のように繰り返される悪夢となっていた。だが、音葉が戻ってきてからはその傷も徐々に癒え、思い出すことすらなくなっていたはずだ。それなのに今日、夢を見たわけでもないのに、どういうわけかあの時の光景が唐突に脳裏へフラッシュバックした。しかも、あの胸が引き裂かれるような痛みは、つい今しがた起きたばかりのように生々しかった。無意識のうちに眉を深くひそめ、なぜ急にこんな感覚に襲われるのかといぶかしんでいると、ふいに腕の中の温もりが消えた。ハッとして我に返ると、晴香がベッドから降りようと
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