All Chapters of 賞味期限切れの愛は、お断りいたします: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

いつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。「結婚するか?」 何かに突き動かされるように、私は頷いた。 これが恋の始まりなのだと思っていた。けれど、三年にも及ぶ彼との秘密の結婚生活で、私が正式な妻として認められることは決してなかった。 結婚記念日の当日――彼の忘れられない初恋の人が帰国したその日、彼は私を放っておき、彼女の歓迎会のためにバーへと向かった。私は一人、レストランの閉店まで待ち続け、土砂降りの雨の中を帰路についた。 急性胃腸炎で意識が遠のきかけた時すら、彼は彼女からのたった一本の電話で、苦しむ私をその場に置き去りにして去っていった。 彼女に私のことを尋ねられても、彼は素っ気なく答えた。「ただの秘書だよ」 あの日、私は法律事務所へ離婚相談の予約を入れた。部屋を綺麗に片付け、彼への感情もすっきりと整理して、彼の世界から永遠に姿を消した。 …… 「牧野(まきの)さん、こちらがご依頼の離婚協議書です」 法律事務所の応接室で、向かいに座る弁護士が書類を差し出してきた。 「ただし、この協議書は双方の署名があって初めて効力を持ちます。また、届出から正式な離婚成立までにはしばらくの期間を要します」 私は離婚協議書を握りしめ、静かに頷いた。 タクシーで勤め先の星創(せいそう)グループに戻った時には、すでに午後一時半を回っていた。 デスクに着いた途端、電話が鳴った。 「牧野さん、コーヒーを一杯」 聞き慣れているのに、どこか突き放したような冷たい声。私は一呼吸置いてから答えた。「かしこまりました、社長」 コーヒーを淹れ、書類を抱えて志村辰哉(しむら たつや)のオフィスに入った。 彼は俯いて手元の書類に目を通していた。午後の陽光が大きなガラス窓から差し込み、彼を柔らかく照らし出して、どこか穏やかな空気を纏わせている。 私が入っていくと、辰哉は顔を上げた。切れ長の美しい瞳に、私の姿が映り込む。 「樹美(きみ)、昼はどこへ行ってた?どうして昼食を持って来なかった?」 私は目を伏せ、彼の前にコーヒーを置いた。 「忘れ物があって、一度家に戻っておりました。ご連絡しそびれて申し訳ありません」 適当に言葉を濁し、極めて自然な動作
Read more

第2話

辰哉の甘く優しい声を聞きながら、私の胸には様々な感情が込み上げ、無意識のうちに手元の書類を強く握りしめた。 結婚して三年経っても、彼にとって私は相変わらず「ただの秘書」でしかなかったのだ。 …… 三年前のパーティーでのことだ。辰哉はひどく酔っ払っていた。私がやっとの思いで彼をホテルの部屋まで送り届けると、彼は有無を言わさず私をベッドに押し倒し、拒絶を許さないほどのキスを浴びせてきた。 抵抗しようとした瞬間、耳元で彼の低く掠れた声が聞こえた。「樹美……」 アルコールのせいか、それとも彼から発せられる熱のせいか、私は魔が差したように彼を押しのけることができなかった。 翌朝目を覚ました時、辰哉は何事もなかったかのように口止め料を振り込んでくるか、あるいは直接クビを言い渡してくるかのどちらかだろうと思っていた。ところが彼は、極めて冷静な声でこう切り出した。「身分証は持ってるか?」 私は戸惑いながら小さく頷いた。 すると彼は言った。「結婚するか?」 婚姻届の提出を終え、二人で役所から出てきた時も、私はまだ夢の中にいるような気分だった。 実のところ、私はずっと前から辰哉のことを知っていた。 大学時代、彼は二つ上の先輩であり、数えきれないほどの女子学生の憧れの的だった。 自分が平凡だと自覚していた私は、彼と関わることすら恐れ、ただ遠くから憧れの眼差しで見つめることしかできなかった。そんな私がした最も大胆な行動といえば、卒業後に彼の星創グループに履歴書を送り、秘書として採用されたことくらいだ。 私と結婚してくれるということは、彼も少しは私のことを想ってくれているのだと、そう信じていた。 たとえ彼が秘密の結婚を望み、当面は二人の関係を公表しないと言い出しても、私は一向に構わなかった。 結婚して一年以上が経った頃、私はようやく残酷な真実に気づいた。あの夜、辰哉が泥酔して私と激しい一夜を過ごしたのは、ただ彼の忘れられない初恋の人――弓月が、海外で新しい恋人の存在を発表したからに過ぎなかったのだと。 彼の心の中でずっと愛し続けているのは、弓月ただ一人だったのだ。 真実を知った時は胸が張り裂けそうだったけれど、諦めようとは思わなかった。だって、彼はすでに私と結婚しているのだから。 これからの人生は長い。私が懸
Read more

第3話

動画の主役は、まさに辰哉だった。 いつも氷のように冷たい彼の表情は、まるで春の陽射しに溶けたかのように柔らかく崩れ、目元には優しさが満ち溢れていた。彼は微笑みながらグラスを手に取り、目の前に座る艶やかな顔立ちの女性に向かって言った。「弓月、おかえり」 私の心は、その瞬間完全に冷え切った。 結局、彼が私をすっぽかし、一晩中心配させ、レストランで何時間も待ちぼうけを食わせた挙句、大雨に打たせた理由は――帰国したばかりの弓月の歓迎会のためだったのだ。 私は再び震える手で辰哉に電話をかけた。 今度は彼が電話に出た。 私は声を振り絞り、心の奥底にまだわずかな希望を抱きながら口を開いた。「今どこにいるの?レストランでずっと待ってたのに……外は雨が降っていて、傘もないの。迎えに来てくれない?」 電話越しに聞こえる背景音は、もう耳をつんざくような音楽ではなかった。おそらく静かな場所を探して電話に出てくれたのだろう。 彼は言った。「手が離せないんだ。急遽いくつかの取引先と会うことになって、まだ飲んでいる。自力でタクシーを拾って帰ってくれ」 私は沈んだ声で聞いた。「じゃあ、今夜は帰ってくるの?」 彼は少し沈黙した。「帰らない。早く休めよ」 私は「うん」とだけ言い、電話を切った。 三年間見続けてきた夢から、一気に目が覚めた。 私は大雨に打たれながら、魂が抜けたように家へ帰り、花とプレゼントをすべてゴミ箱に投げ捨てた。 ソファに座り込み、一晩中一睡もできないまま、沢哉のタイムラインの動画を何度も何度も繰り返し再生してしまった。 まるで自傷行為のように、自分が本当に一度も愛されていなかったという事実を、何度も何度も確認したのだ。 …… 翌朝になっても、私は無理やり気力を振り絞って出社した。会社に着くとすぐに、スーツをビシッと着こなし、かすかに笑みを浮かべて歩いてくる辰哉の姿が目に入った。彼はすれ違う社員一人一人に軽く頷いて挨拶をしている。 みんな驚いて、コソコソと囁き合っていた。 「わあ、今日の社長、なんだかすごく機嫌がいいね……」 「まさか私たちに笑いかけるなんて!いつもは血も涙もない氷みたいに冷たい人だと思ってたのに」 隣の同僚が私の肩をポンポンと叩き、小声で聞いた。「牧野さん、長
Read more

第4話

けれど、このネックレス――昨夜の動画で、弓月の首にも全く同じものがかかっていた。 辰哉は私の肩に手を添え、唇を寄せてきた。けれど私は、その唇が触れる寸前に顔を背けた。 「社長、まだ仕事がありますので、失礼します」 そう言って彼の手をすり抜け、ドアを押し開けて足早に社長室を後にした。 本当に愛する人が戻ってきたのだ。三年も彼女の場所を奪っていた私は、そろそろ身を引くべきだろう。 …… 唐突な着信音が、回想の糸をぷつりと切った。内線電話――辰哉からだった。 「牧野さん、お茶を用意して持ってきてくれ」 お茶を載せたトレーを手に社長室のドアを開けると、さっきまでデスクで仕事をしていたはずの辰哉はソファに移動していた。弓月が彼の肩にもたれかかり、親しげにスマホを覗き込んでいる。 彼の視線は弓月に注がれたまま離れない。その眼差しには、隠しきれない深い愛情が滲んでいた。 まるで絵に描いたような、お似合いのカップル。 そして私は、その美しい絵に紛れ込んだ無粋な異物だった。 私が入ってきたのを見て、弓月はすぐに身を起こした。にっこりと目を細めて言う。「ありがとう!あなたが辰哉さんの秘書さんなのね。彼のお世話、大変でしょ?」 すっかり女主人気取りの口ぶりだった。 辰哉に目を向けると、その顔に一瞬だけ気まずそうな色が過ぎったが、彼は弓月を窘めるようなことは何も言わなかった。 私はすべてを悟り、完璧な営業スマイルを貼りつけた。「私は社長の秘書ですから、当然の業務です。どうぞごゆっくり」 辰哉は目に見えてホッとした様子で、私の弁えた対応に満足したようだった。 辰哉は素っ気なく頷いた。「仕事に戻れ」 退社後、辰哉からメッセージが届いた。会社の近くのレストランで食事をしないか、という誘いだった。 私が店に着いた時には、彼はすでに席に着いていた。 「樹美、千葉家と志村家は昔からの家族ぐるみの付き合いでね。弓月は妹みたいなものなんだ。変に誤解しないでくれ」 私が席に着くなり、彼はそう切り出した。 その言い訳を重ねて取り繕う姿は、あまりに滑稽だった。私は内心の嘲笑を押し殺し、無表情を貫いた。「わかってる。説明しなくてもいいわ」 私はバッグからプレゼントの箱を取り出し、口元だけで微笑んだ。「こ
Read more

第5話

その夜は、ぐっすりと眠れた。 …… それからの半月間、会社での業務上のやり取りを除けば、私と辰哉はほとんど言葉を交わさなかった。 弓月は毎日昼になると彼を誘ってランチに出かけ、社内ではすっかり「社長夫人」として噂されていた。 辰哉は根も葉もない噂を嫌う人だ。以前、取引先の令嬢から熱烈なアプローチを受けた時も、すぐにきっぱりと否定していた。 なのに今回は、何も言わない。まるで暗黙のうちに認めているかのようだった。 私が三年かけても手に入れられなかった地位を、彼はあっさりと弓月に与えたのだ。 ある日、急性胃腸炎が突然ぶり返し、オフィスで冷や汗が止まらないほどの激痛に襲われた。 社長室に書類を届けた時、彼は私の異変に気づいた。「大丈夫か?病院まで送ろうか?」 けれど私が口を開きかけたその時、辰哉のスマホが鳴った。電話の主は弓月だった。「辰哉さん、具合が悪いの……そばにいてくれない?」 辰哉の顔色がさっと変わった。今すぐにでも飛び出していきそうな勢いだ。 戸口へ向かって数歩踏み出したところで、ようやく私がまだ部屋にいることを思い出したらしい。彼は足を止め、ためらいがちに振り返った。「樹美……悪いが、俺は行かないと。君は大丈夫か?運転手に病院まで送らせようか?」 瞳の奥に熱いものが込み上げ、視界が滲みそうになる。私はそれを必死で堪え、歯を食いしばって答えた。「大丈夫。行ってあげて」 私の返事を聞いた途端、辰哉の表情がふっと緩んだ。そして一瞬の迷いもなく、社長室を出ていった。 やはり彼は、いとも簡単に彼女を選んだのだ。 私は一人でタクシーを拾い、病院へ行き、診察を受け、点滴を打った。看護師が私の真っ青な顔を見て、心配そうに聞いてきた。「ご家族とか、旦那さんは来られないの?」 私は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。「もう離婚したので。誰も来ません」 辰哉が帰宅した時、私はすでに薬を飲んでベッドに横になっていた。彼は私の手の甲に残る点滴の針跡を見て、申し訳なさそうな顔をした。「すまなかった、樹美。どうしても外せない急用があって、病院に付き添えなかった。弓月が……」 私は首を横に振り、彼の言葉を遮った。「いいの。わかってるから」 どうせもうすぐ、私たちは他人同士になる。今さら波風を立
Read more

第6話

辰哉からだった。 私は手元のトロピカルジュースを一口飲んだ。「社長、私はもう退職しましたので。ご用があれば他の方へどうぞ」 彼の声には明らかな焦りが滲んでいた。「樹美、拗ねてるのか?あの離婚協議書って何のつもりだ?ちゃんと話し合えないか?」 私は軽く笑った。「私たちはもう離婚したの。あなた自身がサインしたじゃない。今さら話すことなんて何もないわ」 …… この数年間で、辰哉が樹美を伴わずに出張するのはこれが初めてのことだった。公私にわたる彼女の細やかな気配りがないと、どうにも落ち着かないのだ。 病院に付き添ってやれなかったことが、ここ数日ずっと心に引っかかっていた。だからこそ今回は彼女を家に残し、ゆっくり休ませることにしたのだ。 それなのに、なぜか今回の出張はずっと落ち着かない。 重要な会議の最中にもかかわらず、辰哉は初めて仕事中に上の空になった。 会議が終わると、彼は急遽予定を変更して運転手をデパートへ向かわせ、樹美への詫びの品を買い、さらに来月のオーロラツアーの航空券と、現地の最高級ホテルも手配した。 彼女への埋め合わせのつもりだった。 なぜだろう、出発前に樹美を抱きしめた時の、あの素直に身を預けてきた姿が、不意に脳裏をよぎったのだ。 辰哉の喉仏が微かに動いた。どこかそわそわして、無意識にネクタイを緩める。頭から追い出そうとすればするほど、心の奥ではますます彼女に会いたくなっていた。 傍にいた弓月が、不思議そうに声をかけた。「辰哉さん、どうしたの?」 辰哉はハッと我に返り、弓月の心配そうな視線を受けて首を振った。「いや、何でもない」 弓月をこの出張に連れてきたのは、実は想定外の出来事だった。 今回の取引先の中に千葉家と古くから付き合いのある相手がおり、弓月の父親である千葉宗一郎(ちば そういちろう)が、挨拶がてら彼女を同行させたのだ。 出張を終えて空港に着くと、弓月は彼の腕に絡みつき、甘えた声で言った。「辰哉さん、家まで送ってくれる?パパもあなたと一緒にご飯食べたいって言ってたの」 辰哉は少し躊躇した。 樹美のことが頭をよぎる。 もう夕食を作って、家で待っているだろうか。 けれど弓月の甘える姿を前にすると、どうしても断りの言葉が出てこなかった。 幼い頃か
Read more

第7話

結婚一周年の記念日。二人が食事を終えて通りかかったウェディングドレスの店で、樹美はショーウィンドウの華やかなドレスを見つめ、初めて羨ましそうな眼差しを向けていた。辰哉は彼女の傍を歩いていた。ショーウィンドウの光が斜めに樹美の顔を照らし出し、その瞬間、彼は思わず口を開いていた。「気に入ったか?結婚写真を撮りに行こう」樹美は少し驚いた様子だったが、口元が自然とほころんだ。撮影が終わると、樹美は一番気に入った一枚を選んで大きく引き伸ばし、リビングの壁に飾っていた。しかし今、その写真がなくなっている。辰哉は無意識に拳を握りしめ、足早に寝室へと向かった。いつもならスキンケア用品が並んでいるドレッサーの上も、今はすっかり空っぽになっていた。クローゼットの中にも、彼女の服は一着も残っていなかった。樹美が引っ越した?その考えが脳裏をよぎったが、すぐに自分で打ち消した。あり得ない。樹美が自分の出張中に、何の相談もなしに引っ越すわけがない。辰哉が再びリビングに戻ると、今度はテーブルの上に一通の封筒が置かれていることに気づいた。明らかに樹美が残したものだ。彼は急いでそれを開けた。そこには一行だけ書かれていた。【私が贈ったプレゼントを開けるのを忘れないでね】プレゼント?辰哉はこの間、レストランで樹美が自分に渡してきた小さな箱のことを思い出した。あの時、彼はそれを適当に鞄に突っ込んでいた。そう思い出し、彼はすぐにクローゼットの中を探し回り、例の鞄を見つけ出してプレゼントの箱を取り出した。箱を開けると、中には折り畳まれた書類が入っていた。彼の手は制御不能なほど微かに震え始めた。書類を開くと、最初のページに「離婚協議書」という大きな文字が印字されていた。居ても立っても居られず、辰哉はスマホを取り出して再び樹美に電話をかけたが、相変わらずつながらなかった。その時、彼のスマホに一通のメールが届いた。樹美の退職届だった。彼は信じられない思いで退職届と手にある離婚協議書を交互に見つめ、再び通話アプリから彼女に発信した。今度は電話がつながった。「樹美、この退職届はどういう意味だ?プレゼントって何なんだ?離婚協議書?俺と離婚するつもりか?」電話の向こうの樹美は極めて冷静だった。「社長、私はもう退職しま
Read more

第8話

「社長と千葉さん、いつ結婚するのかしら。本当にお似合いよね」 ――俺が……弓月と結婚する? ――会社中が俺と弓月は付き合っていると思い込んでいて、だから樹美は嫉妬したのか? そう考えると、辰哉はなぜか胸の奥が少し温かくなるのを感じた。 樹美と知り合ってからの五年間、彼女はいつも淡々としていて、何があっても感情を乱すことがないように見えた。 結婚してからの三年間も、二人の関係は丁寧だがどこか距離があり、樹美が他の女のことで嫉妬したり機嫌を損ねたりしたことは一度もなかった。 彼女は自分に無関心なのだと、ずっと思い込んでいた…… 辰哉はどうしても弁解したかった。しかしメッセージアプリはブロックされ、電話もつながらず、今どこにいるのかさえわからない。 彼はアシスタントの井上奏翔(いのうえ かなと)に電話をかけた。「樹美の最近の航空券とホテルの予約記録をすべて調べてくれ」 …… 南の島で太陽と自由を満喫して八日目。私は早起きして、ホテルが提供している乗馬体験に参加していた。 乗馬用のウェアに着替え、スタッフに手伝ってもらいながら、白馬に乗って馬場をのんびりと歩く。 喧騒の街、山積みの書類、冷酷な元上司兼元夫――そのすべてから離れて、ようやく肩の荷が下りた気がした。 ここでの穏やかな時間が、この五年間ですり減った心を少しずつ癒してくれている。 きっと辰哉はもう待ちきれずに弓月に告白して、二人は晴れて結ばれたことだろう。 それでいい。お互いの人生が本来あるべき形に戻るだけのことだ。 「樹美!」 馬上でぼんやりしていると、突然名前を呼ばれた。 顔を上げると、辰哉が馬を駆ってこちらへ向かってくるのが見えた。 彼は深水(ふかみ)市にいるはずなのに、どうしてこんな南の島まで追いかけてきたの? さっきまで穏やかだった心が急に乱れ、私はバランスを崩して馬から落ちそうになった。 付き添いのスタッフが慌てて手綱を引こうとした瞬間――私の身体は、見覚えのある腕の中に抱きとめられていた。 ほのかな松の香り。 辰哉だ。 私は慌てて身を起こし、彼を強く押しのけた。 「何しに来たの?」 辰哉は私の腕を掴んだまま離そうとしない。「樹美、嫉妬してるんだろう?説明させてくれ、俺と弓月は……」 私は
Read more

第9話

ついに堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。 「樹美……」辰哉は私がこれほど多くの不満を溜め込んでいたとは思わなかったのか、茫然として私を見つめた。「……誤解なんだ、そうじゃなくて……」 私は深く息を吸い込み、頬を伝う涙を乱暴に拭った。 「誤解でも事実でも、もうどうでもいい。志村さん、私たちはこれでおしまいよ」 そう言い残し、私は彼を振り払ってエレベーターに乗り込んだ。 まさか辰哉がこんな南の島まで追いかけてくるなんて。せっかくの気晴らし旅行も台無しだ。 その夜、辰哉はまた私の部屋のドアを叩きに来た。 私は開けるつもりはなかったが、彼は私が開けるまで叩き続けるつもりのようだ。 他の宿泊客の迷惑になると思い、私はドアチェーンをかけたままほんの少しだけドアを開けた。「志村さん、これ以上付き纏わないで」 辰哉は早口で捲し立てた。「樹美、弓月のネックレスは俺が贈ったんじゃない!キスマークは……信じないかもしれないけどアレルギーの湿疹なんだ!記念日は俺が悪かった、最近ずっと忙しくて、社内の噂も昨日帰ってきて初めて知ったんだ!出張に連れて行かなかったのは君が体調を崩していたからだし、弓月が来たのは千葉家が勝手に決めたことで、俺はただ人事にチケットの手配を頼まれただけだ!」 彼が一気に吐き出したものだから、私はしばらく呆然としてしまった。 私がすぐにドアを閉めないのを見て、彼はすかさず続けた。「以前は確かに彼女のことが好きだった。でもあの日記なんてとっくの昔の話だ。今は本当に何でもない。それに、三年前のあれは酔った勢いなんかじゃない。樹美、俺は君が好きなんだ」 私を……好き? 私は信じられない思いで顔を上げ、辰哉の真っ直ぐな視線とぶつかった。 …… 心臓がドクンと大きく跳ねた。 ダメ、あんな甘い言葉に惑わされちゃいけない。 私は目を閉じて心を落ち着かせ、やはり彼に一切の隙を与えなかった。 「志村さん、私たちはもう離婚したのよ」 しかし辰哉は笑った。「いいや。役所に届け出を済ませないと離婚は成立しない。期限が過ぎればあの協議書は無効になるぞ」 私は少し考えてから頷いた。「わかったわ。明日の便で帰るから、明後日の朝八時、役所の前で待ち合わせましょう」 そう言い捨てて
Read more

第10話

私は呆れて笑うしかなく、眉を上げた。「それで?何が言いたいの?」 彼の顔に一瞬、企みの色がよぎった。「一緒に家に戻って探してくれないか?見つかったら改めて手続きしよう」 まさかここで離婚の主導権を握られるとは。私は言葉を失った。 でも彼のこの様子を見ていると、怒るだけ無駄だ。私は諦めて小さく手を振った。「はいはい、わかったわよ」 辰哉は急いで車を降り、助手席のドアを開けた。「樹美、どうぞ」 彼がこんなに甲斐甲斐しくするなんて見たことがない。思わず笑いが込み上げてきた。 以前はあんなに取り付く島もなく冷たかったのに、いざご機嫌取りとなると手慣れたものだ。 私は車に乗り込み、冷たく言った。「もう小細工はしないでよ」 すぐに別荘に着いた。 私はあっさりリビングの引き出しから彼の書類を全部見つけ出し、怒りに任せてそれをローテーブルに叩きつけた。「これが見つからなかったって?」 彼はしれっとした顔で言った。「本当に忘れてたんだって」 私は深く息を吸い、頷いた。「結構よ。さあ、これで手続きできるわね」 すると辰哉は突然、手品のように花束を取り出した。「樹美、愛してる。君との結婚は妥協なんかじゃない。本気で君を妻にしたかったんだ。結婚したあの日から、離婚なんて一度も考えたことはない。もし公にしたいなら、今すぐにでも世界中に俺たちのことを発表する」 彼の低姿勢と必死の弁明に、心が揺らがなかったと言えば嘘になる。 でも……同じ轍は踏みたくない。 しばらく黙った後、私はやはり首を縦に振らなかった。「たとえ全部本当だとしても、私は離婚したいの」 その言葉を聞いて、花束を持った辰哉の手がゆっくりと下がった。彼は自嘲気味に笑った。「……わかった、樹美。それが君の望みなら、君が幸せならそれでいい」 辰哉が邪魔をしなくなったおかげで、私たちは無事に役所での届け出を済ませた。 「ありがとう」書類をバッグにしまいながら、私は顔を上げて辰哉に心から礼を言った。 彼の表情は寂しげで、目に一瞬戸惑いがよぎったが、すぐに決意の色に変わった。首を振って言う。「礼なんていらない。樹美、俺は諦めないよ。先は長いんだから」 私は曖昧に微笑み、タクシーを止めて乗り込んだ。「どうかしら
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status