いつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。「結婚するか?」 何かに突き動かされるように、私は頷いた。 これが恋の始まりなのだと思っていた。けれど、三年にも及ぶ彼との秘密の結婚生活で、私が正式な妻として認められることは決してなかった。 結婚記念日の当日――彼の忘れられない初恋の人が帰国したその日、彼は私を放っておき、彼女の歓迎会のためにバーへと向かった。私は一人、レストランの閉店まで待ち続け、土砂降りの雨の中を帰路についた。 急性胃腸炎で意識が遠のきかけた時すら、彼は彼女からのたった一本の電話で、苦しむ私をその場に置き去りにして去っていった。 彼女に私のことを尋ねられても、彼は素っ気なく答えた。「ただの秘書だよ」 あの日、私は法律事務所へ離婚相談の予約を入れた。部屋を綺麗に片付け、彼への感情もすっきりと整理して、彼の世界から永遠に姿を消した。 …… 「牧野(まきの)さん、こちらがご依頼の離婚協議書です」 法律事務所の応接室で、向かいに座る弁護士が書類を差し出してきた。 「ただし、この協議書は双方の署名があって初めて効力を持ちます。また、届出から正式な離婚成立までにはしばらくの期間を要します」 私は離婚協議書を握りしめ、静かに頷いた。 タクシーで勤め先の星創(せいそう)グループに戻った時には、すでに午後一時半を回っていた。 デスクに着いた途端、電話が鳴った。 「牧野さん、コーヒーを一杯」 聞き慣れているのに、どこか突き放したような冷たい声。私は一呼吸置いてから答えた。「かしこまりました、社長」 コーヒーを淹れ、書類を抱えて志村辰哉(しむら たつや)のオフィスに入った。 彼は俯いて手元の書類に目を通していた。午後の陽光が大きなガラス窓から差し込み、彼を柔らかく照らし出して、どこか穏やかな空気を纏わせている。 私が入っていくと、辰哉は顔を上げた。切れ長の美しい瞳に、私の姿が映り込む。 「樹美(きみ)、昼はどこへ行ってた?どうして昼食を持って来なかった?」 私は目を伏せ、彼の前にコーヒーを置いた。 「忘れ物があって、一度家に戻っておりました。ご連絡しそびれて申し訳ありません」 適当に言葉を濁し、極めて自然な動作
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