LOGINいつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。 「結婚するか?」 何かに突き動かされるように、私は頷いた。 これが恋の始まりなのだと思っていた。けれど、三年にも及ぶ彼との秘密の結婚生活で、私が正式な妻として認められることは決してなかった。 結婚記念日の当日――彼の忘れられない初恋の人が帰国したその日、彼は私を放っておき、彼女の歓迎会のためにバーへと向かった。私は一人、レストランの閉店まで待ち続け、土砂降りの雨の中を帰路についた。 急性胃腸炎で意識が遠のきかけた時すら、彼は彼女からのたった一本の電話で、苦しむ私をその場に置き去りにして去っていった。 彼女に私のことを尋ねられても、彼は素っ気なく答えた。 「ただの秘書だよ」 あの日、私は法律事務所へ離婚相談の予約を入れた。部屋を綺麗に片付け、彼への感情もすっきりと整理して、彼の世界から永遠に姿を消した。
View More私は呆れて笑うしかなく、眉を上げた。「それで?何が言いたいの?」 彼の顔に一瞬、企みの色がよぎった。「一緒に家に戻って探してくれないか?見つかったら改めて手続きしよう」 まさかここで離婚の主導権を握られるとは。私は言葉を失った。 でも彼のこの様子を見ていると、怒るだけ無駄だ。私は諦めて小さく手を振った。「はいはい、わかったわよ」 辰哉は急いで車を降り、助手席のドアを開けた。「樹美、どうぞ」 彼がこんなに甲斐甲斐しくするなんて見たことがない。思わず笑いが込み上げてきた。 以前はあんなに取り付く島もなく冷たかったのに、いざご機嫌取りとなると手慣れたものだ。 私は車に乗り込み、冷たく言った。「もう小細工はしないでよ」 すぐに別荘に着いた。 私はあっさりリビングの引き出しから彼の書類を全部見つけ出し、怒りに任せてそれをローテーブルに叩きつけた。「これが見つからなかったって?」 彼はしれっとした顔で言った。「本当に忘れてたんだって」 私は深く息を吸い、頷いた。「結構よ。さあ、これで手続きできるわね」 すると辰哉は突然、手品のように花束を取り出した。「樹美、愛してる。君との結婚は妥協なんかじゃない。本気で君を妻にしたかったんだ。結婚したあの日から、離婚なんて一度も考えたことはない。もし公にしたいなら、今すぐにでも世界中に俺たちのことを発表する」 彼の低姿勢と必死の弁明に、心が揺らがなかったと言えば嘘になる。 でも……同じ轍は踏みたくない。 しばらく黙った後、私はやはり首を縦に振らなかった。「たとえ全部本当だとしても、私は離婚したいの」 その言葉を聞いて、花束を持った辰哉の手がゆっくりと下がった。彼は自嘲気味に笑った。「……わかった、樹美。それが君の望みなら、君が幸せならそれでいい」 辰哉が邪魔をしなくなったおかげで、私たちは無事に役所での届け出を済ませた。 「ありがとう」書類をバッグにしまいながら、私は顔を上げて辰哉に心から礼を言った。 彼の表情は寂しげで、目に一瞬戸惑いがよぎったが、すぐに決意の色に変わった。首を振って言う。「礼なんていらない。樹美、俺は諦めないよ。先は長いんだから」 私は曖昧に微笑み、タクシーを止めて乗り込んだ。「どうかしら
ついに堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。 「樹美……」辰哉は私がこれほど多くの不満を溜め込んでいたとは思わなかったのか、茫然として私を見つめた。「……誤解なんだ、そうじゃなくて……」 私は深く息を吸い込み、頬を伝う涙を乱暴に拭った。 「誤解でも事実でも、もうどうでもいい。志村さん、私たちはこれでおしまいよ」 そう言い残し、私は彼を振り払ってエレベーターに乗り込んだ。 まさか辰哉がこんな南の島まで追いかけてくるなんて。せっかくの気晴らし旅行も台無しだ。 その夜、辰哉はまた私の部屋のドアを叩きに来た。 私は開けるつもりはなかったが、彼は私が開けるまで叩き続けるつもりのようだ。 他の宿泊客の迷惑になると思い、私はドアチェーンをかけたままほんの少しだけドアを開けた。「志村さん、これ以上付き纏わないで」 辰哉は早口で捲し立てた。「樹美、弓月のネックレスは俺が贈ったんじゃない!キスマークは……信じないかもしれないけどアレルギーの湿疹なんだ!記念日は俺が悪かった、最近ずっと忙しくて、社内の噂も昨日帰ってきて初めて知ったんだ!出張に連れて行かなかったのは君が体調を崩していたからだし、弓月が来たのは千葉家が勝手に決めたことで、俺はただ人事にチケットの手配を頼まれただけだ!」 彼が一気に吐き出したものだから、私はしばらく呆然としてしまった。 私がすぐにドアを閉めないのを見て、彼はすかさず続けた。「以前は確かに彼女のことが好きだった。でもあの日記なんてとっくの昔の話だ。今は本当に何でもない。それに、三年前のあれは酔った勢いなんかじゃない。樹美、俺は君が好きなんだ」 私を……好き? 私は信じられない思いで顔を上げ、辰哉の真っ直ぐな視線とぶつかった。 …… 心臓がドクンと大きく跳ねた。 ダメ、あんな甘い言葉に惑わされちゃいけない。 私は目を閉じて心を落ち着かせ、やはり彼に一切の隙を与えなかった。 「志村さん、私たちはもう離婚したのよ」 しかし辰哉は笑った。「いいや。役所に届け出を済ませないと離婚は成立しない。期限が過ぎればあの協議書は無効になるぞ」 私は少し考えてから頷いた。「わかったわ。明日の便で帰るから、明後日の朝八時、役所の前で待ち合わせましょう」 そう言い捨てて
「社長と千葉さん、いつ結婚するのかしら。本当にお似合いよね」 ――俺が……弓月と結婚する? ――会社中が俺と弓月は付き合っていると思い込んでいて、だから樹美は嫉妬したのか? そう考えると、辰哉はなぜか胸の奥が少し温かくなるのを感じた。 樹美と知り合ってからの五年間、彼女はいつも淡々としていて、何があっても感情を乱すことがないように見えた。 結婚してからの三年間も、二人の関係は丁寧だがどこか距離があり、樹美が他の女のことで嫉妬したり機嫌を損ねたりしたことは一度もなかった。 彼女は自分に無関心なのだと、ずっと思い込んでいた…… 辰哉はどうしても弁解したかった。しかしメッセージアプリはブロックされ、電話もつながらず、今どこにいるのかさえわからない。 彼はアシスタントの井上奏翔(いのうえ かなと)に電話をかけた。「樹美の最近の航空券とホテルの予約記録をすべて調べてくれ」 …… 南の島で太陽と自由を満喫して八日目。私は早起きして、ホテルが提供している乗馬体験に参加していた。 乗馬用のウェアに着替え、スタッフに手伝ってもらいながら、白馬に乗って馬場をのんびりと歩く。 喧騒の街、山積みの書類、冷酷な元上司兼元夫――そのすべてから離れて、ようやく肩の荷が下りた気がした。 ここでの穏やかな時間が、この五年間ですり減った心を少しずつ癒してくれている。 きっと辰哉はもう待ちきれずに弓月に告白して、二人は晴れて結ばれたことだろう。 それでいい。お互いの人生が本来あるべき形に戻るだけのことだ。 「樹美!」 馬上でぼんやりしていると、突然名前を呼ばれた。 顔を上げると、辰哉が馬を駆ってこちらへ向かってくるのが見えた。 彼は深水(ふかみ)市にいるはずなのに、どうしてこんな南の島まで追いかけてきたの? さっきまで穏やかだった心が急に乱れ、私はバランスを崩して馬から落ちそうになった。 付き添いのスタッフが慌てて手綱を引こうとした瞬間――私の身体は、見覚えのある腕の中に抱きとめられていた。 ほのかな松の香り。 辰哉だ。 私は慌てて身を起こし、彼を強く押しのけた。 「何しに来たの?」 辰哉は私の腕を掴んだまま離そうとしない。「樹美、嫉妬してるんだろう?説明させてくれ、俺と弓月は……」 私は
結婚一周年の記念日。二人が食事を終えて通りかかったウェディングドレスの店で、樹美はショーウィンドウの華やかなドレスを見つめ、初めて羨ましそうな眼差しを向けていた。辰哉は彼女の傍を歩いていた。ショーウィンドウの光が斜めに樹美の顔を照らし出し、その瞬間、彼は思わず口を開いていた。「気に入ったか?結婚写真を撮りに行こう」樹美は少し驚いた様子だったが、口元が自然とほころんだ。撮影が終わると、樹美は一番気に入った一枚を選んで大きく引き伸ばし、リビングの壁に飾っていた。しかし今、その写真がなくなっている。辰哉は無意識に拳を握りしめ、足早に寝室へと向かった。いつもならスキンケア用品が並んでいるドレッサーの上も、今はすっかり空っぽになっていた。クローゼットの中にも、彼女の服は一着も残っていなかった。樹美が引っ越した?その考えが脳裏をよぎったが、すぐに自分で打ち消した。あり得ない。樹美が自分の出張中に、何の相談もなしに引っ越すわけがない。辰哉が再びリビングに戻ると、今度はテーブルの上に一通の封筒が置かれていることに気づいた。明らかに樹美が残したものだ。彼は急いでそれを開けた。そこには一行だけ書かれていた。【私が贈ったプレゼントを開けるのを忘れないでね】プレゼント?辰哉はこの間、レストランで樹美が自分に渡してきた小さな箱のことを思い出した。あの時、彼はそれを適当に鞄に突っ込んでいた。そう思い出し、彼はすぐにクローゼットの中を探し回り、例の鞄を見つけ出してプレゼントの箱を取り出した。箱を開けると、中には折り畳まれた書類が入っていた。彼の手は制御不能なほど微かに震え始めた。書類を開くと、最初のページに「離婚協議書」という大きな文字が印字されていた。居ても立っても居られず、辰哉はスマホを取り出して再び樹美に電話をかけたが、相変わらずつながらなかった。その時、彼のスマホに一通のメールが届いた。樹美の退職届だった。彼は信じられない思いで退職届と手にある離婚協議書を交互に見つめ、再び通話アプリから彼女に発信した。今度は電話がつながった。「樹美、この退職届はどういう意味だ?プレゼントって何なんだ?離婚協議書?俺と離婚するつもりか?」電話の向こうの樹美は極めて冷静だった。「社長、私はもう退職しま