部長と久我先生が帰ったあと、広すぎる部屋に一人だけ残された。テーブルの上には、渡されたばかりの書類の束。そんなことより、別れ際、部長は言った。不倫はしない、と。それが正しいことくらい、頭ではわかっている。わざわざ自分から不利な立場に足を踏み入れる理由もない。それなのに、胸の奥に黒い澱のようなものが残っていた。「どうして、こんなに悲しいんだろう」誰もいない部屋で呟いて、そんな自分に嫌気が差す。断られたことが、思っていたより深く突き刺さっていた。昨夜は酒の力を借りていたとはいえ、心のどこかで一線を越えるつもりだった。長年秘めていた気持ちに、彼の優しさを重ねていたのかもしれない。でも、今の部長にとって、私はそういう対象ではないのだろう。考えてみれば、元夫からも求められた記憶はなかった。一年一緒に暮らして、肌が触れることすらなかった。妻としても、女としても、何かが足りないのかもしれない。「もうやめよう、こんなこと考えるの」これ以上考えても惨めになるだけだ。それより、これからどう切り抜けるかを考えなければ。ただ、一つだけわからないことが残っていた。どうして部長は、ここまで私のために動くのか。不倫はしないと言い切り、裁判で不利にはさせないと誓い、久我先生まで連れてきて、水面下ですでに動き始めている。昨日、自分にも利点があると言っていた。榊原の財産絡みの話なのだろうか。もし母の遺産を取り戻せたら、その一部を渡すことになるのか。そう考えれば、少しは筋が通る。そんなことを考えていたとき、インターホンが鳴った。久我先生の忘れ物だろうか。モニターに歩み寄り、映像を見て、血の気が引いた。見知らぬ、険しい表情の男。しかも一人ではない。背後に体格のいい男たちが何人も控えている。全員ダークスーツ。ホテルの従業員でないことはひと目でわかった。「……誰なの」父が私の居場所を嗅ぎつけたのか。震える手で扉を開けるべきか迷っていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小松部長」の文字。「はい……っ」
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