All Chapters of 大晦日の集まりで、夫が隣の個室で愛人と婚約していた: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

姑がくれたルビーの腕輪がなくなっていた。家に泥棒が入ったのかと思い、私·二階堂雪乃(にかいどう ゆきの)は慌ててリビングの防犯カメラの記録を呼び出した。映像は、昨日の午後三時二十分で止まっていた。夫の清水直樹(しみず なおき)が金庫を開け、ルビーの腕輪を持ち出していた。出かける前、彼はちらりとスマホに目を落とした。画面に表示されていた登録名は、四文字だった。藤田杏奈(ふじた あんな)。私のジュエリー店のVIP顧客だ。でも、どうして夫が彼女の連絡先を持っているの?胸がざわつき、頭の中にいくつもの可能性が一気に押し寄せた。次の瞬間、夫が私の前まで来て、こう言い訳した。「母さんがこの前来たとき、そのルビーの腕輪を着けたくてさ。それで持っていったんだ」嘘だった。私は心の底から冷えきってしまい、店に残っていた杏奈の住所を調べると、上着をつかんで家を飛び出した。……杏奈は私と同じマンションに住んでいた。歩いて五分の距離だった。五分後、私は杏奈の部屋の前に立っていた。コンコン。「どちらさまですか?」ドアが開いた。「二階堂さん、どうしてここに?」杏奈は私を見るなり、いかにも意外そうな顔をした。その意外そうな表情の奥に、私は彼女の顔によぎった一瞬の後ろめたさも見逃さなかった。どうやら、私が誰なのか知っているらしい。知っていて、なお私の前に姿を見せるなんて?顔を出す度胸はあるくせに、後ろめたさは隠せないの?浅はかなのに、こういう駆け引きだけはしたがるタイプだ。私は口元だけわずかに持ち上げたが、目には少しも笑みがなかった。「先週、うちの店でルビーのアクセサリー一式をご注文くださいましたよね。デザインの確認で伺いました」杏奈は何も疑わず、私を中へ招き入れた。私はソファに腰を下ろした。けれど視線は、杏奈の手首にはめられたルビーの腕輪に向いていた。私がなくしたものと、まったく同じだった。私は水をひと口飲み、何食わぬ顔で尋ねた。「その腕輪、とても珍しい細工ですね。店を始めてから、ここまで精巧なものはめったに見たことがありません……ご主人からの贈り物ですか?」杏奈の顔色がさっと青ざめた。だがすぐに、何を思ったのか、彼女はわずかに顎を上げ、挑むような目を
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第2話

病室のベッドに横たわっていた私は、身体の痛みよりも、心のほうがずっと強い不安に満ちていた。だって、彼がどれほど子どもを欲しがっていたか知っていたから。私は怖くて、とても聞けなかった。こんな私を嫌になるんじゃないかって。でも、今なら分かる。あの人が、自分をないがしろにするはずなんてなかったのだ。私は深く息を吸い込み、胸の奥で燃え上がる怒りをどうにか押さえつけた。立ち上がって帰ろうとした、そのとき、杏奈が私を呼び止めた。「二階堂さん」私は目を上げた。彼女はもう、スマホを私の目の前に差し出していた。画面には、赤ちゃんの無事を願って用意された、お守り代わりの小さなペンダントが大きく映っていた。「見る目がありそうだから、ちょっと見てくれません?このペンダントの細工、どう思います?彼が……子どもが生まれたら、これをつけてあげるって」彼女はまだ膨らんでもいない下腹部をそっと撫で、顔いっぱいに幸せをにじませていた。私は一瞬、思考が止まった。妊娠しているの?それに、このお守り――見覚えがありすぎた。それは三年前、私が妊娠したばかりのころ、父がわざわざ神社に祈祷を頼み、お腹の子の無事を願って授けてくれたものだった。けれど結局、その子は生まれてくることができなかった。それからずっと、私はそれを大切にしまっていた。会えなかったあの子を思い出すたび、取り出して眺めていた。それがどうして――今では、あの人が新しい女の機嫌を取るための道具になっているの?「細工は一級品です。その方は……ずいぶん心を込めて選ばれたんですね」声は、ほとんど歯の間から絞り出すようにして出た。そのとき、杏奈のスマホが唐突に鳴り出した。彼女は画面をちらりと見た。そこにはこう表示されていた。「だーいすきな旦那さま」杏奈の顔にはたちまち甘い笑みが浮かび、足早に離れた場所へ行って電話に出た。二人が何を話していたのか、私には分からなかった。電話を切った杏奈は、目に見えて機嫌が悪くなっていた。デザイン見本に目を通そうともしない。私も空気を読んで、席を立って辞去した。外に出ると、私は顔に貼りつけていた最後の笑みをゆっくり消した。スマホを取り出し、父に電話をかけた。父は直樹の直属の上司であり
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第3話

「お義父さんのそばにいてあげなさい」家に戻ると、私はまっすぐ父の書斎へ向かった。父の声は重く、自分の不甲斐なさへの怒りと、娘を思う痛ましさが入り混じっていた。「だから前から言っただろう、あの男は信用ならないって。それなのにお前は馬鹿みたいに、わざわざあんな男のところへ嫁いでいった。見てみろ、あいつのやったことを!」私は唇を引き結んだまま、机の上の書類を手に取って開いた。百二十ページ。どのページにも、直樹の不倫の証拠が並んでいた。二〇二三年。私が流産し、子宮を摘出されたその最初の一か月。彼は出張を口実にして、杏奈と出会っていた。知り合ってからベッドに入るまで、たった二時間。私が産後の回復を終えるのすら待つ気はなかったのだ。二〇二四年。私は子どもを失ったことでうつ状態に陥った。病院で治療を受け、薬を大量に飲んでいた。その一方で、直樹は社員研修だと偽りながら、実際には杏奈を連れてあちこち旅行していた。二〇二五年。私はようやく抗うつ治療を乗り越えた。直樹は私に、無事を願うお守り代わりのネックレスを贈ってくれた。けれど今、目の前の伝票には、はっきりと「景品」の二文字が印字されていた。その「本当の代物」は、今この瞬間、杏奈の首にかかっている。胸の内に大きな穴があいたようで、そこを冷たい風がひゅうひゅうと吹き抜けていく。「お前があのとき流産した件、覚えているな?」父の声に、私は現実へ引き戻された。「な……何があったの?」嫌な予感が、胸の奥で膨らんだ。父は黙ったまま、小さな録音機をこちらへ押しやり、再生ボタンを押した。最初に流れたのは、へつらうような男の声だった。「清水社長、ほんとうに俺たちに……わざと二階堂さんに酒を飲ませろって?」三年前、直樹の会社の取引先の人間だった。続いて、直樹の声が響いた。「当然だ。あいつが子どもを産めば、あいつの父親は間違いなく全力で孫を育てる。そのときになって、二階堂家の事業に俺の取り分が残ると思うか?」全身の血が、一瞬で凍りついた気がした。まさか彼が……私の子どもを、仕組んで殺したの?録音はまだ続いていた。「清水社長、雪乃さんは流産しただけですよね。本当に……子宮摘出の同意書にサインするんですか?」直樹の返答
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第4話

偽善者。私は口元をかすかに歪めたが、目はまったく笑っていなかった。ずっと彼は、いい夫、いい婿を抜かりなく演じ続けてきた。口にする言葉も、見せる態度も、すべてが思いやりに満ちているように見えた。もし私がルビーの腕輪の紛失に気づかず、防犯カメラも確認していなかったら――たぶん私は一生、この仮面の下にどれほどの打算が隠されていたのか、知ることはなかった。午後六時、隣の部屋の面子がそろった。私はその隠し窓越しに、直樹へ視線を向けた。彼は見覚えのない濃いグレーのカシミヤセーターを着ていて、襟元を少し開け、気の抜けたように椅子の背にもたれていた。杏奈はその隣に座っていた。首元にはあの本物のネックレスがかかっていて、目が痛くなるほど嫌に揺れていた。姑もいた。彼女は杏奈の手を引いて、目を細めながらにこにこと笑っていた。「杏奈ちゃん、このネックレス、本当によく似合うわ。肌がいっそう白く見えるもの」杏奈はうつむき、はにかむように笑った。「おばさま、これ、直樹がくれたんです」「まだおばさまだなんて?」姑はたしなめるように彼女の手の甲を軽く叩いた。「もう呼び方を変えないとね」テーブルを囲んだ客たちがどっと笑い、誰かが囃し立てた。「ほら、呼んでみて!呼んでみて!」杏奈は顔を赤くして、横目で直樹を見た。彼は笑いながら彼女の手を握り返した。その眼差しはひどく優しくて、私はまるで別人を見ているような気持ちだった。三年前でさえ、彼が病室で跪いたあのときでさえ、あんな目はしていなかった。あのときの私は手術室から出たばかりで、麻酔もまだ完全には切れていなかった。彼は私の手を握り、額をその手の甲に押し当てて、肩を小刻みに震わせていた。私は、彼が泣いているのだと思っていた。でも、今なら分かる。あれは、安堵だったのかもしれない。「お義母さん」ついに杏奈が口を開いた。羽のように軽く、か細い声だった。姑は明るく返事をすると、自分の腕からダイアの腕輪を外し、そのまま杏奈の手首にはめた。「これはね、直樹のおばあさんから私に渡ったものなの」姑はそう言った。「これからは、あなたのものよ」部屋中が拍手と歓声に包まれた。私は暗がりに立ったまま、その腕輪を見つめた。去年の年越しにも、私はそ
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第5話

個室の空気が、一瞬で凍りついた。さっきまでの笑い声もざわめきも、まるで刃物で断ち切られたみたいに消え失せて、残ったのは気まずい沈黙だけだった。さっきまで得意げに笑っていた顔が、笑みを引っ込める暇もないまま、驚愕と狼狽と信じられないものを見るような表情に変わっていく。直樹の顔からは、さっと血の気が引いた。杏奈を抱いていた腕も、宙で固まったままだった。杏奈に至っては、本当に化け物でも見たかのような顔をしていた。「な……なんで、あなたがここに?あんたって、ジュエリー店の店長じゃなかったの?」「やめろ」直樹が杏奈の腕を引いた。杏奈は怯えた目で私を見た。そして何かに気づいたのか、反射的にまだ膨らんでもいない自分の下腹部を押さえた。「ゆ……雪ちゃん?」真っ先に我に返ったのは直樹だった。彼は杏奈から手を離し、私のほうへ来ようとした。顔には、泣き顔みたいにひきつった笑みを無理やり貼りつけている。「どうしてここに?お義父さんのところにいるんじゃ……」「父のところにいると思っていたから、安心してここで、あなたたち清水家の未来の『希望』を祝う宴まで開けたんでしょう?」私は静かに、その言葉を遮った。視線を、テーブルの上でぎらつくダイヤの指輪へ向ける。それから、杏奈の腕にはまった、本来なら私のものだったはずのルビーの腕輪へ。最後に、真っ青になった直樹の顔へ戻した。「直樹、たいした演技力ね。アカデミー賞でももらえるんじゃない?」「違う、雪ちゃん、話を聞いてくれ……」直樹は焦ったように私の手をつかもうとした。私は一歩引いて、その手をかわした。その男に触れられることすら嫌でたまらないという感情を、私は隠そうともしなかった。「何を説明するの?父の前では情の深い婿を演じながら、その一方でこの藤田さんといちゃついて、あげくあなたたち清水家の希望まで孕ませたこと?それとも、私の病室の前で、私たちの子どもを死なせたって悔やむふりをしながら、その裏では私の子宮を切り取る同意書にさっさと署名して、あなたとこの人の真実の愛のために場所を空けたこと?あるいは、二階堂家の金と人脈を使い倒しながら、父が全部あなたに渡したら、最後は私を蹴り捨てるつもりでいたこと?」私が言葉を重ねるたび、直樹の顔色はみるみる
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第6話

杏奈は私に追い詰められ、後ずさりを繰り返した。顔色をころころと変えながら、無意識に腹をかばうように手を当て、直樹を見る目には疑念と動揺が滲んでいた。周囲の親族たちも、ひそひそと囁き始めた。直樹へ向ける視線は、さっきまでとは打って変わって、複雑なものになっていた。ついに直樹も追い詰められた。彼は乱暴に私の腕をつかんだ。あまりに強い力で、痛みが走った。声にも険が混じっていた。「雪乃、もういい加減にしろ!話があるなら家に帰ってからにしろ!こんな場所で見苦しく騒ぐな!杏奈ちゃんは妊娠してるんだ、刺激は禁物なんだよ!」「家に帰ってから?」私は力いっぱいその手を振り払った。勢いのせいで呼吸まで少し荒くなる。「どの家のことを言ってるの?二階堂家の金で買ったくせに、今じゃこの女とあなたたちの息子に残すつもりでいる、あの家のこと?直樹、あなたが私の子どもを仕組んで殺して、私の子宮を切り取ったその瞬間から、私たちにもう家なんてなかったのよ!」「何をでたらめ言ってる!」直樹の目がさっと揺れ、あからさまにうろたえた。だがすぐに声を荒げ、私の言葉をかき消そうとした。「子どもを仕組んで殺しただと?あれは事故だ!子宮摘出だって医者がお前の命を救うためにやったことだろ!雪乃、お前が動揺してるのは分かるが、そんなふうに濡れ衣を着せるな!」「濡れ衣だって?」私はスマホを取り出し、父から送られてきた録音ファイルを開いた。音量を最大まで上げる。直樹と取引先の、あの冷えきった企みの会話が、静まり返った個室の中にはっきりと響き渡った。「……あいつが子どもを産めば、あいつの父親は間違いなく全力で孫を育てる。そのときになって、二階堂家の事業に俺の取り分が残ると思うか?」「……サインする」たった一分にも満たない二つの音声だった。けれどそれは、まるで二発の爆弾みたいに、部屋の中にいた全員の理性を吹き飛ばした。直樹は雷に打たれたみたいに、その場で固まった。顔に残っていた最後の血の気まで消え失せ、唇だけが震えている。それでも、一言も発することができなかった。直樹の父も母も、完全に呆然としていた。直樹の母などは足から力が抜け、そのまま椅子にへたり込んでしまった。杏奈はなおさらだった。目を見開き、信じら
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第7話

私は息を呑んだままの清水家の親族たちをぐるりと見回し、最後に、顔面蒼白になっている直樹の父と母へ視線を落とした。「今日は、皆さんに二つお伝えしに来ただけです。一つ目。私と直樹の離婚手続きは、すでに始まっています。弁護士のほうから連絡が行くわ、直樹。二階堂家のものは、一つ残らず私が取り戻します。あなたがこの数年、夫婦の共有財産を使って藤田さんに買い与えた不動産、車、宝飾品。それから、あなたの会社にある、本来なら二階堂家に属しているはずの持ち株や人脈も、全部」直樹の瞳が大きく揺れた。何か言い返そうとしたようだったが、私の冷えた視線に押し潰され、その言葉は喉の奥へ引っ込んだ。「二つ目は、もちろんこの藤田さんのお腹の子についてです」私はそこで一拍置き、杏奈と、彼女がかばうように押さえている腹部へ目を向けた。「直樹が婚姻中に不貞を働いたことは、もう動かしようのない事実です。この子は婚外子になります。もちろん、子どもに罪はありません。生まれてくる権利も、当然あります。ただ、その子が将来受け継げるものがあるとしたら、おそらく父親が二階堂家への債務を清算したあとに残るもの――つまり借金だけでしょうね。清水家が子孫繁栄だの、跡継ぎだのと夢を見ているのなら……」私はふっと笑った。けれどその笑みに、温度は欠片もなかった。「期待しすぎないほうがいいと思います。実の子にまで手をかけられる父親ですもの。その家運や血筋とやらも、呪われているのかもしれませんよ」「雪乃!うちの孫を呪う気か!」直樹の母は、尻尾を踏まれた猫のように勢いよく椅子から立ち上がり、甲高い声で叫んだ。「何様のつもりだい!二階堂家がいなくたって、うちの息子は――」「二階堂家がなくても、だって?」私は彼女の言葉を遮り、見下ろすように視線を向けた。「清水夫人。あなたが着ているその毛皮、去年、私が北欧から取り寄せてもらったものですよね?その腕のダイアの腕輪だって、もともとは亡くなった母が一番大事にしていたもの。あなたが気に入っていたから、私が差し上げたんです。息子の直樹は、去年の年末、借金取りに追い詰められて飛び降り寸前だった。それを片づけたのは誰でしたっけ?この私が、実家に頭を下げて工面した金ですよ。ここ数年、清水家の衣食住のうち、二階堂家の力を借り
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第8話

私はわざわざ直樹のことを聞いて回ったりはしなかった。ただ、三か月後のチャリティー晩餐会で、父と面識のある年配の男性が私のところへやって来た。二、三言あいさつを交わしたあと、なぜか話は直樹のことへ移った。彼は声をひそめて言った。「雪ちゃん、聞いた話だが……清水家の息子、どうもかなりまずいらしい。肝臓を悪くしたみたいでね、相当深刻だとか。今は城西の、あまり設備のよくない公立病院に入っているそうだ。入院の保証金すら工面できないらしい」彼は私の表情をうかがうように見ながら、探るような口ぶりで続けた。「なんだかんだ言っても……一度は夫婦だったんだし、君も……見舞いに行く気はないか?あるいは、少し手を貸してやるとか。最後の情けをかけたと思えば……」事情を知っている周囲の友人たちは、それを聞いて揃って賛同しかねる顔をした。何か言いたげだったが、結局は口をつぐんだままだった。私はグラスの中で静かに揺れる琥珀色の酒を見つめた。窓の外には、華やかな街の夜景が広がっていた。ネオンがきらめき、車の流れが途切れることなく続いている。私はうっすらと笑みを浮かべた。けれど、目はまったく笑っていなかった。「冗談がお上手ですね」私の声はどこまでも穏やかだった。「私とあの人の間は、三年前、あの病院の時点で本当は終わっているべきだったんです。あれから起きたことは全部、そこで清算されるはずだったものを、一つずつきちんと片づけていっただけ。今はもう帳尻も合っていますし、互いに借りも貸しもありません。あの人が生きようが死のうが、落ちぶれようが這い上がろうが、私にはもう何の関わりもありません」私はその場にいる人たちへ視線を巡らせ、悟られない程度の冷たさを声ににじませた。「お金のためなら、まだ生まれてもいない自分の子どもにまで手をかけられるような人ですから。そんな人が今さら病に苦しんでいるのだとしたら、それは天罰が下っているだけのことかもしれません。わざわざ私が出向くまでもありません」男はそれを聞いて気まずそうに笑い、それ以上は何も言わなかった。周囲の人たちも察したように、自然と別の話題へ移っていった。私はグラスを置いた。胸の内には、何の波も立たなかった。直樹の行き着く先など、ある程度は最初から予想していたし、もう
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第9話

文面は卑しく、責任転嫁ばかりで、悔悟の色は微塵もなかった。そこにあったのは、追い詰められた末の醜い命乞いだけだった。自分の手で仕組んで殺したあの子のことを、よくもまあ持ち出せたものだと思う。私は読み終えると、無表情のまま手紙を細かく引き裂き、そのままシュレッダーに放り込んだ。跡形もなく、粉々になった。杏奈の末路を知ったのは、街で買い物をしていたとき、たまたま耳にした噂からだった。精神的に不安定になり、子どもも助からなかったらしい。心も身体も深く傷ついたまま郷里へ戻ったものの、その後も精神状態はずっとよくなかったという。実家のある土地は考え方が古く、結婚前に妊娠したうえ、金持ちの男に捨てられたという話が広まってからは、あちこちで後ろ指をさされ、家族からも恥さらしのように扱われたそうだ。やがて彼女は、地元の気性の荒い男やもめに慌ただしく嫁いだ。暮らしは騒がしく荒れ果て、しょっちゅう痣だらけになっているとも聞いた。かつての愛らしさも華やかさも、もう跡形もなかった。まだ二十代だというのに、十歳は老けて見えるほどやつれていたらしい。安物の腕輪を指先でなぞりながら、ぼんやりしていることもあるという。あの短くて嘘だらけの贅沢な夢を懐かしんでいるのか。それとも、自分が踏み外した最初の一歩を悔やんでいるのか。清水家に至っては、もう完全に瓦解していた。直樹の父と母は小さな町でひっそり暮らしていて、たまに知り合いの話にのぼっても、二人とも髪がすっかり白くなり、来る日も来る日も無言で過ごしているとしか伝わってこなかった。あの家に、かつての賑わいも希望も、もう何ひとつ残っていないのだという。甘い汁を吸い、情勢が変われば容赦なく石を投げた親戚たちも、それぞれ自分の泥沼にはまり込んでいた。かつての強欲と恩知らずの報いを受け、二度と以前のように集まることもなくなったらしい。そんな話は、遠い片隅を漂う塵のようなものだった。たまに風に吹かれて私の耳に届いても、次の瞬間には今の生活の流れにさらわれ、何の跡も残さず消えていった。私は自分のすべてを、新しい人生へ注ぎ込んだ。ジュエリー店の商売は私の手でますます繁盛し、支店も二つ増えた。父も少しずつ、グループの中枢事業を私に任せるようになったが、私は一つ一つきちんと
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