夜が更け、空が白みはじめるころまで、私――日高瑠奈(ひだか るな)は区役所で十二時間も待ち続けていた。けれど、彼氏の鳴海誠司(なるみ せいじ)はとうとう現れなかった。理由も告げずに婚姻届を出しに来なかったのは、これで九十九回目になる。私が結婚の話を持ち出すたび、彼はその場では了承する。けれど日取りが決まると、決まって何かしら理由をつけて土壇場で逃げ出すのだ。「で、今回はどんな急用だったの?」電話をかけると、出たのは彼の秘書・本間真琴(ほんま まこと)だった。「夜中じゅう付き合わされちゃってね。今、彼はシャワー浴びてるの」真琴の声には、肌を重ねたあとのけだるい余韻が、隠そうともせず滲んでいた。「排水口が詰まっちゃって、自分じゃどうにもできなくて。本当は業者呼ぼうと思ったんだけど、誠司さんが、一人暮らしの女の子の部屋に知らない人を入れるのは危ないって言ってくれて。あの仕事ばっかりの人が、会議まで抜けてわざわざ来てくれたの。家のことまでいろいろやってくれるし、悪いなって思って……そのまま泊まってもらって、お礼は体で返しちゃった」耳元で、さらさらと水の流れる音がした。その向こうで誠司が「誰?」と尋ねる声がする。真琴は答えない。衣擦れの気配がして――たぶん、キスでもしているのだろう。「またあの女よ。結婚しろって、ほんとしつこいの。私、愛人なんて嫌だから。あの女と籍入れるつもりなら、私ほんとに出ていくからね。後で後悔しても知らないよ」誠司は甘やかすように笑った。「拗ねるなよ。婚約者を区役所に置いてまで、お前に会いに来てるんだぞ。それに今日は俺たちの記念日だろ。これで気持ちはわかるはずだ。意地張るなって。この前、ピンクダイヤ欲しいって言ってただろ。あれ買ってやるよ。嫌な思いさせた分の埋め合わせだ」血の気が、すっと引いていくのがわかった。冷えた通りに立ち尽くしたまま、涙だけが静かに頬を伝っていく。いつか、私だって誠司にとって特別な存在だった。政略結婚を拒み、継承権まで手放し、家を追われた御曹司だった彼がゼロから這い上がったのは――ただ私に、きちんとした立場を与えるためだった。人の心は変わる。今の私たちは、たいていのものを手に入れた。それでも、あの頃の気持ちだけは、もうどこにも残っ
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