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九十九回の裏切りのその後

九十九回の裏切りのその後

By:  珠々Completed
Language: Japanese
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私――日高瑠奈(ひだか るな)は、九十九回目の入籍直前になって、恋人の鳴海誠司(なるみ せいじ)にとうとう本音を突きつけられた。 「俺、まだ若いしさ。もう少し遊びたいんだよ。 顔も地味だしさ、正直あんまり色気もないだろ。愛人ならともかく、妻にするにはちょっとな」 さすがに見ていられなくなった友人が、口を挟んだ。 「瑠奈はお前とここまで一緒にやってきただろ。一番大事な時期まで全部お前に捧げてきたんだぞ。瑠奈の母親も体が悪くて、ずっとお前たちの結婚を楽しみにしてたんだぞ。約束しただろ」 誠司は秘書の本間真琴(ほんま まこと)の腰を抱いたまま、うんざりした顔をした。 「同じ料理でも十年も食ってたら、そりゃ飽きるだろ。 別に俺は引き止めてないだろ。嫌なら金だけ持って出ていけばいいんだよ」 胸の奥が、すっと冷めた。 私は涙を拭き、中絶の予約を入れると、そのまま家の決めた縁談を受け入れた。 結婚指輪を選びに行った先で、誠司と鉢合わせした。 結婚なんてしない主義だと言っていたその男は、愛人の前に跪いてプロポーズしていた。 「真琴がさ、どうしても結婚指輪ほしいってうるさくてさ。 まあ、形だけだよ。気にすんなって。明日こそお前と入籍してやるよ。今度は本当だって」 その軽い口ぶりを聞きながら、私は婚約者にもらった大粒のピンクダイヤを掲げて、ふっと笑った。 「三日後に結婚します。ぜひその愛人と一緒に、私の結婚式を見届けに来てください」

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Chapter 1

第1話

「池上先生、江川病院への異動……本当に決めたのか?」

斉藤勉(さいとう つとむ)院長は、池上由奈(いけがみ ゆな)の異動願を手にして目を丸くした。

由奈はわずかにまつげを震わせ、苦みを含んだ笑みを浮かべる。「はい、もう決めました」

その瞳に揺るがぬ決意を見て、勉は深いため息をつき、静かに署名した。

院長室を出て廊下を歩いたとき、由奈は白衣を着た長門歩実(ながと あゆみ)と、その隣にいる滝沢祐一(たきざわ ゆういち)、そして小さな男の子に出くわした。

一瞬、足が止まる。

まるで幸せな家族のような光景が、目に飛び込んできたのだ。

二人の間を歩く男の子が、左右の手をそれぞれ歩実と祐一にぎゅっと握られ、無邪気な笑顔を浮かべている。

由奈の胸に鋭い痛みが走った。

祐一が歩実と子どもに向ける柔らかな眼差し、穏やかで優しい仕草――それは、由奈が一度も与えられたことのないものだった。

彼は自分を憎んでいるのだと、由奈はよく知っている。

祐一の初恋の相手は歩実だった。だが、由奈が祐一の祖母・和恵(かずえ)と取引をして彼と結婚したとき、すでに二人は別れていた。とはいえ、その事実を知ったのは結婚後のことだった。

結局祐一にとって由奈は、隙を突き、卑怯な手で妻の座を奪った女でしかないのだ。

けれど――彼は知らない。

本当は、由奈の方が先に祐一と出会っていたのだ。だが彼は、その記憶をとっくに忘れていた。

結婚すれば思い出してくれる。冷え切った心も、寄り添えば少しずつ温まっていく。由奈はそう信じていた。

けれど、それは思い上がりにすぎなかった。

祐一は彼女を憎んでいる。愛してくれることなど、決してないのだ。

その証拠に、六年間の結婚生活のあいだ、彼は周囲に「独身だ」と言い続け、妻である由奈をまるで存在しない人間のように扱った。

「池上先生?」歩実が気づいて声をかける。

祐一は眉を寄せ、じっと由奈を見つめる。その視線には、まるで「余計なことを口にするな」と言いたげな緊張があった。

その距離感が、刹那に由奈の胸を締めつける。けれど彼女はすぐに表情を整え、頭を下げた。

「長門先生、滝沢社長、お疲れ様です」

祐一は最近、中央病院の出資者となり、病院経営に名を連ねている。もちろん、それは由奈のためではなく、歩実のためだった。

歩実が帰国してすぐ、祐一が彼女を中央病院に入れ、外科部長として推薦したのだ。院内では誰もが「歩実の後ろ盾が滝沢社長」と噂し、さらには二人が恋人関係だという話まで広がっていたが、祐一は何一つ否定しなかった。

歩実は祐一の腕を自然に取り、にこやかに言う。

「そんなにかしこまらなくていいのよ。私なんてまだ入ったばかりだし、これからいろいろ教えてもらわないと」

そのとき、男の子が祐一にしがみついた。「パパ、疲れた。抱っこして?」

由奈の顔色がさっと変わる。

――パパ?

歩実は慌ててしかめ顔をつくる。

「健斗、だめでしょ。そんな呼び方したら」そう言いながら祐一へ申し訳なさそうに視線を向けた。

「ごめんなさい、祐一。子どもがわかってなくて」

祐一はちらりと由奈を見たが、怒ることもなくただ穏やかに子どもを抱き上げた。

「いいんだ」

「僕、祐一パパが大好き!本当に僕のパパになってくれたらいいのに!」

健斗(けんと)は祐一の首に腕を回し、甘えるように声を弾ませた。

「もう、しょうがない子ね」歩実は苦笑しながら彼の頭を撫でた。

由奈は拳を固く握りしめる――こんなに優しい祐一を、彼女は見たことがない。

……もう諦めた。

どんなに頑張っても、冷たい心を温めることはできなかった。なら、終わりにするしかない。

重い気持ちを押し込み、由奈は三人を追い抜いてエレベーターに乗り込んだ。

……

異動の件は誰にも知らせていない、もちろん祐一にも。

知らせる必要がないと思ったし、彼が知りたがるはずもないのだから。

車を走らせ、由奈は滝沢家の本邸へ向かう。門前でチャイムを押すと、しばらくして使用人の森田(もりた)が出てきた。

「奥さま、お帰りなさいませ」

「おばあさまはいらっしゃる?」

「はい、中でお待ちです。どうぞ」

滝沢家の重鎮である和恵。祐一の祖父が亡くなって以来、家の一切を取り仕切ってきた女性だ。

彼女は南の町の商家の出で、若いころから手腕を発揮してきた。姑から疎まれても、表立って彼女を逆らう者はいなかった。

森田に案内され、由奈は静かな和室へ入る。そこでは和恵が座布団に正座し、数珠を手に念仏を唱えていた。

「奥さまがお見えです」

和恵はゆるやかに目を開き、横顔のまま「こちらへ」と告げる。

森田が下がると、由奈も正座して仏前に手を合わせた。

和恵は熱心な仏教徒で、よく寺に参拝し、香をあげていた。出かけると、戻るまでに半月ほどかかることもあった。

しばし沈黙が続いたのち、由奈は小さな声で切り出した。

「おばあさま……私、祐一さんと離婚したいと思っています」
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第1話
夜が更け、空が白みはじめるころまで、私――日高瑠奈(ひだか るな)は区役所で十二時間も待ち続けていた。けれど、彼氏の鳴海誠司(なるみ せいじ)はとうとう現れなかった。理由も告げずに婚姻届を出しに来なかったのは、これで九十九回目になる。私が結婚の話を持ち出すたび、彼はその場では了承する。けれど日取りが決まると、決まって何かしら理由をつけて土壇場で逃げ出すのだ。「で、今回はどんな急用だったの?」電話をかけると、出たのは彼の秘書・本間真琴(ほんま まこと)だった。「夜中じゅう付き合わされちゃってね。今、彼はシャワー浴びてるの」真琴の声には、肌を重ねたあとのけだるい余韻が、隠そうともせず滲んでいた。「排水口が詰まっちゃって、自分じゃどうにもできなくて。本当は業者呼ぼうと思ったんだけど、誠司さんが、一人暮らしの女の子の部屋に知らない人を入れるのは危ないって言ってくれて。あの仕事ばっかりの人が、会議まで抜けてわざわざ来てくれたの。家のことまでいろいろやってくれるし、悪いなって思って……そのまま泊まってもらって、お礼は体で返しちゃった」耳元で、さらさらと水の流れる音がした。その向こうで誠司が「誰?」と尋ねる声がする。真琴は答えない。衣擦れの気配がして――たぶん、キスでもしているのだろう。「またあの女よ。結婚しろって、ほんとしつこいの。私、愛人なんて嫌だから。あの女と籍入れるつもりなら、私ほんとに出ていくからね。後で後悔しても知らないよ」誠司は甘やかすように笑った。「拗ねるなよ。婚約者を区役所に置いてまで、お前に会いに来てるんだぞ。それに今日は俺たちの記念日だろ。これで気持ちはわかるはずだ。意地張るなって。この前、ピンクダイヤ欲しいって言ってただろ。あれ買ってやるよ。嫌な思いさせた分の埋め合わせだ」血の気が、すっと引いていくのがわかった。冷えた通りに立ち尽くしたまま、涙だけが静かに頬を伝っていく。いつか、私だって誠司にとって特別な存在だった。政略結婚を拒み、継承権まで手放し、家を追われた御曹司だった彼がゼロから這い上がったのは――ただ私に、きちんとした立場を与えるためだった。人の心は変わる。今の私たちは、たいていのものを手に入れた。それでも、あの頃の気持ちだけは、もうどこにも残っ
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第2話
深夜に家へ戻ると、誠司がいた。出かける前と同じスーツ姿のまま、シャツにも乱れはない。浮気をしてきた気配なんてどこにも見えなかった。首元には、朝、私が結んだままの淡いシルバーのネクタイ。――今日のために選んだ色だった。「帰ったのか?」彼は顔も上げないまま言った。「会社でトラブルがあってな。電話もしたんだけど出なかったし。入籍はまた今度でいいだろ。次に時間が取れたときで」たったそれだけで、何もなかったことにしようとする。誠司が都合の悪いとき、いつもこうやってやり過ごすのだ。「首にキスマーク、ついてるよ」私は静かに言った。「次に女のところ行くなら、ドライブレコーダーくらい切っておいて。私、忙しいの。あなたたちのこと、わざわざ見せられる趣味はないから」一瞬、空気が止まった気がした。誠司はしばらく黙ったまま、私を見ていた。けれど次の瞬間、ふっと気が抜けたように笑った。「気づいてたのか?」そこに後ろめたさは、まるで感じられなかった。彼はポケットからブレスレットを取り出すと、当然のように私の手首に通そうとした。「余計なこと考えさせたくなくてさ。帰る前に、ちゃんと整えてきたんだけど」「やっぱ無駄だったな。女が賢すぎるのも考えものだ。金がかかる」そのブレスレットは落ち着いた輝きのあるゴールドで、一目で質のいいものだとわかった。けれど似たようなアクセサリーなら、私のドレッサーにはもういくつも並んでいる。昔、誠司が何かやらかして私が口をきかなくなると、仲直りしたくて、眠る前の私の枕元に必ずブレスレットをひとつ置いていった。あの頃はまだ余裕がなくて、買えるのは安いメッキや偽物ばかりだった。それでも私は宝物みたいに大事にしていた。けれど余裕ができてからの誠司は、仕事のことばかりになって、私をなだめようとすることさえなくなった。そんな彼が珍しく贈り物を寄こしたのは、真琴とのことを私に知られて、全部マスコミにばらすと私が騒いだときだけだった。「おとなしくしてろ。来月には入籍する」私の顔色を見て、誠司はいつもの調子で言った。「お前と結婚するのは、ずっと俺の夢なんだ。それだけは変わらない。会社がまだ落ち着いてなくてさ。ちゃんとした式も挙げられないままじゃ悪いと思って、ここまで延ばしてき
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第3話
「前にも言っただろ。今は入籍するような時期じゃないんだよ。何度も結婚の話をされても、かえって話がこじれるだけだ。彼は私の目尻の涙を指で拭いながら、さっきより少しだけ声を落とした。「瑠奈、もう少し落ち着いて考えられないのか?会社のことで手いっぱいなんだ。余計なことで振り回されたくない。それってそんなにおかしいか?」空気がぴんと張り詰めた。胸の奥が、すっと冷えていくのが分かった。どうして誠司が、こんなふうに私を責められるのか分からなかった。全部失ったのは私のほうなのに。気がつけば彼は、自分のほうが迷惑をかけられているみたいな顔をして、もっともらしいことを並べて私を責めている。「結婚したくないなら――もういい」立っているのもやっとだった。誠司がほっとしたような顔をするのを見て、その瞬間、胸の奥がすっと冷えたて。「外でどれだけ女を作ろうと、もう好きにすればいい。その代わり、これから先、私が誰と結婚しようと、あなたが口を出す資格はないから」誠司は、とんでもない冗談でも聞いたみたいに笑った。唇の端をつり上げ、見下すように言う。「できるもんなら探してみろよ。別に止めない。本当に結婚するっていうなら、そのときはちゃんと式にも出てやるよ。祝儀だって包んでやる。俺と別れて、お前を本気で相手にする男がいるのか――見ものだな」彼はドアを乱暴に閉めて出ていった。車のエンジン音が遠ざかっていく振動で、テーブル脇のツーショット写真が倒れ、床に落ちた。広い家の中は、耳鳴りがするほど静まり返っていた。私はその場に立ち尽くしたまま、見慣れているはずの部屋をぼんやり見渡した。泣きたいのに、涙はもう出てこなかった。この家は、私と誠司が二人で設計したものだった。どこを見ても居心地がよくて、細かなところにまで、あの頃の思い出が残っている。あの頃の誠司は、あまり外に出たがらなかった。少しでも時間ができると、彼は家で私と一緒に過ごしてくれた。アイロンビーズを並べたり、花を育てたり。何でもない毎日なのに、好きな人がそばにいるだけで、不思議なくらい満たされていた。けれど、真琴が現れてからというもの、誠司は変わってしまった。若くて、きれいで、わがままで――人を惹きつけて離さない熱を持った女だった。長いこと冷め
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第4話
「若いのに愛人なんてやって、その子へのプレゼント代には私が稼いだお金だって入ってるのよ。返せなんて言わないだけありがたいと思えば?いいねを一つ押したくらいで、何が問題だっていうの?」「話をすり替えるな」言い返された誠司は顔を真っ赤にして声を荒らげた。「瑠奈、本気で俺に逆らうつもりか?そこまで言うなら、もう会社にも来なくていい。家に戻って専業主婦でもやっていればいい」真琴は私の顔を見ると怯える――それを理由に。彼は私の副社長としての役職を外し、私のオフィスを真琴の休憩室に変え、三か月追い続けてきた大型案件までそのまま彼女に引き継がせた。誠司のおかげで、私はすっかり社内の笑いものになった。どこへ行っても、陰で笑われた。「聞いた?瑠奈って、身の程もわきまえず玉の輿を狙ったくせに、結局結婚まで持ち込めずに捨てられたんだって」「前から気に入らなかったのよね。あの程度で社長を狙うなんて図々しい。よく今までそのままでいられたよね」「優しくてお金もあって年上だし、それに真琴さんは明るくて感じもいいし。やっぱりあの二人のほうがお似合いじゃない?」心はもう、とっくに擦り切れていた。それでも誠司が私を取締役会から外すまでは、彼に対して、まだほんのわずかな期待だけは残っていた。愛情はとうに消えていたけれど、それでも簡単に割り切れるほど冷たくもなれなかった。ここまで決定的に関係が壊れることはないと、どこかで思っていたのだ。今思えば、甘かったのは私のほうだった。誠司のような利己的な男が、情けをかけてくれるはずもない。徹底的に追い詰められなかっただけでも、まだましだったのだ。こんな屈辱を、黙って飲み込めるものか。私はそのまま退職届を提出した。会社のビルを出ると、雅也の秘書が外で私を待っていた。「瑠奈様、ご用意していたダイヤのリングが仕上がりました。サイズに問題がないか、雅也様からもぜひご本人でご試着いただきたいと伺っております」私は小さくうなずいた。店員に案内され、五カラットのピンクダイヤのリングを指にはめる。ずしりとした重みがあり、目を奪われるほど華やかだった。その瞬間、数年前の記憶がどうしてもよみがえってくる。誠司はよく私を連れてドレスを選びに行き、指輪を見て回りながら言っていた。「瑠
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第5話
私が口を開くより先に、真琴があからさまに顔をしかめた。「ねえ、自分がいくつだか分かってるの?もう三十も見えてるくせに、まだそんな派手な格好してピンクダイヤまで買うなんて。そんなのつけて歩いてたら、笑われるだけじゃない?」真琴は私の指先をじっと見つめたまま、悔しさを隠そうともしない。「誠司さん、私にピンクダイヤ買ってくれるって約束したよね?式の日取りも決まってるし、明日には入籍するのに、なんでまだ元カノにプレゼントなんてしてるの?」誠司は見るからに動揺していた。真琴をきつく睨みつけると、慌てたように言う。「瑠奈、違うんだ。指輪は真琴への埋め合わせってだけで、結婚のつもりなんてない。お前が嫌なら渡さない」私は口元にかすかな皮肉の笑みを浮かべた。あの頃は、私のほうからプロポーズした。二人のイニシャルを刻んだダイヤの指輪を差し出したとき――誠司はどうした?人前であからさまに顔を曇らせ、私が時間をかけて選んだその指輪をゴミ箱に放り込んだ。感情で縛るなとか、望んでもいないことを押しつけるなとか、好き勝手なことばかり言って私を責めた。それが今では、真琴に少し甘えられただけで、あんなに譲らなかったはずのことまで簡単に変えてしまう。「そうですよね、瑠奈さん。誠司さんの心の中には瑠奈さんしかいませんもの。結婚するのも瑠奈さんだけで、ほかの女なんてただの気晴らしですよね?」真琴の嫌味など聞き流し、私はそのまま背を向けて歩き出した。すると真琴が行く手を遮ろうとしてきたので、私はわざと大きく身を引いた。まだ指先ひとつ触れていないのに、真琴は突然悲鳴を上げ、そのまま階段を踏み外して転げ落ちた。「誠司さん……痛い……!」床にうずくまって泣きじゃくる真琴の白いワンピースが、みるみるうちに血に染まっていく。「どうして……私の子にこんなことするのよ……!」私はその場で立ち尽くしたが、誠司はそこでようやく我に返ったようだった。誠司は怒りに顔を歪めながらこちらへ歩み寄ってきて――次の瞬間、ためらいもなく私の頬を打った。「瑠奈、お前はどこまで性根が腐ってるんだ。真琴が身重だって分かってて突き飛ばすなんて!もし子どもに何かあったら、ただじゃ済まさないからな!」右の頬が焼けるように痛んだ。誠司が真琴を
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第6話
誠司は込み上げてくるものを抑えきれず、その場で血を吐いた。目の前の現実が、どうしても信じられなかった。瑠奈が――まさか、他の男と結婚するなんて。付き合って十年。その中でも、いちばん苦しくてつらかった頃のことを思い出す。高架下で夜を明かし、捨てられた野菜を拾い、わずかな契約を取るために胃を壊すまで酒を飲んだ。それでも瑠奈は、一度だって別れを口にしなかった。彼女はいつも、きらきらした目で誠司を見つめて言った。「どんなにつらくても、ずっとそばにいるから」先の見えない日々が、いくつも続いた。誠司ですら、もう無理かもしれないと思ったことが何度もあった。それでも踏ん張れたのは、瑠奈が隣にいてくれたからだ。あの頃の二人はまだ若く、互いしか見えていなかった。瑠奈を妻にすると口にしていたのは、誠司にとってそれほどまでに強い思いだった。けれど、時は流れた。事業が軌道に乗り、成功を手にしていくうちに、誠司はもう、あの未熟で無邪気だった少年ではいられなくなっていた。いつの間にか打算を覚え、愛する相手にさえ本音を隠すようになっていた。そのうえ、華やかな世界にも目を奪われるようになっていった。こんなに早く一人に縛られるのは惜しい――いつしか、そんなふうに思うようになっていた。瑠奈が何気なく結婚の話を持ち出すたび、誠司はわざと男友達とくだらない話をして、彼女に聞こえるようにした。「家庭なんて誰が欲しがるんだよ。俺はまだ遊び足りないんだ。瑠奈は悪くない。でも顔は普通だし、スタイルだってまあまあだろ。苦労を共にした女を捨てたら叩かれるのは分かってる。でもさ、あいつに触れても、もう何も感じないんだよ。刺激も何もない。このまま結婚したって、どうせ俺、あとで浮気すると思う」泥酔していたとはいえ、それは紛れもない本音だった。瑠奈は聡明で仕事もできる。誠司の右腕であり、心の支えでもあった。けれど伴侶として見ると、きちんとしすぎていて、どこか物足りなかった。毎日、現実的なことばかりを考えているように見えた。誠司自身、どうしてこんな気持ちになってしまったのか分からなかった。気づけば、会社に残って仕事をしているほうが、かつて帰る場所だと思っていた家へ戻るより気が楽になっていた。そんなときに現れたのが、真琴だっ
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第7話
そんなふうに、まだやり直せると思っていた誠司は、どうしようもない行き詰まりを感じていた。彼なりに歩み寄ろうとしたこともあった。けれど瑠奈はほとんど応じようとせず、どんなに機嫌を取っても、少しも心に届かなかった。結局どうにもならず、誠司はまた真琴とずるずる関係を続けてしまった。綱渡りをしているようなあの背徳感が、いつの間にか少しずつ彼の中に染み込んでいった。真琴の若く艶のある身体が好きだった。勝ち気で挑発的な表情も嫌いではなかった。中身は空っぽなのに、なぜか妙に誠司の好みに合っていた。瑠奈はまた泣くようになった。何かに気づいているのかもしれなかった。それでも問い詰めることはなく、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。真琴は鼻で笑った。「瑠奈さんさ……誠司さんがほんとに結婚してくれないんじゃないかって、怖いんじゃない?こういう女、私けっこう見てきたよ。男に寄りかかって生きてるだけのタイプ。お金も家も手に入らなかったら、すぐ別のところに寄っていくよ」どの言葉がきっかけだったのか――誠司が真琴に手を上げたのは、そのときが初めてだった。「瑠奈はそんな女じゃない」彼は言い切った。「たとえみんなが俺から離れても、あいつだけは絶対にいなくならない」もし変わらない想いなんてものがあるのだとしたら、それはきっと瑠奈のことなんだろうと、誠司は何度も思っていた。もう、あいつの望みどおりにしてやってもいいんじゃないか――そんな気にもなっていた。入籍するだけのことだ。それくらい、何が大したことなんだろう。けれど自由に慣れきった誠司は、どうしても一人に決めきれなかった。今でさえ瑠奈はあれこれ口を出してくる。本当に夫になったら、まるで監視でもされるような毎日になるんじゃないか――そう思うだけで、ぞっとした。それでも瑠奈が何年も自分だけを想ってきたことは、ちゃんと分かっていた。ここ最近は、真琴のことでもかなり傷ついているようだった。夜も眠れない日が続き、薬に頼るようにまでなっていた。そう思うと、誠司はまた少しだけ気が引けた。もう少し待ってくれ――そう伝えたこともあった。いっそ百回目の約束になったら、そのときこそ瑠奈と結婚してもいいのかもしれない、とさえ思っていた。けれど、そんな
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第8話
誠司は言葉を失った。その場に崩れ落ちるようにひざまずき、必死に頭を下げた。「お義父さん……本当に、俺が間違っていました。昔の俺は未熟で、瑠奈をひどく傷つけました。でも……今は本気で後悔しています。瑠奈さえ許してくれるなら、今すぐにでも入籍します。」「もう遅い!」瑠奈の父は机を強く叩いた。「瑠奈はもう数日前に、幼なじみと入籍した。お前たちに縁がなかった、それだけの話だ。今さら縋ったところでどうにもならん。もう手放せ。それぞれの人生を生きろ」誠司は目の前がぐらりと揺れた気がした。こらえていた涙が、止めどなくあふれ落ちる。失って初めて、その大切さに気づいた。誠司は、本当に瑠奈を愛していたのだ。けれど、もう彼女は、戻ってきてはくれない。かつての甘い記憶は、今では胸に突き刺さる棘に変わっていた。会いたい。ただ、どうしようもなく瑠奈に会いたかった。スープを作るとき、長い髪をひとつに束ねる仕草。ネクタイを選びながら、伏せたまつ毛が頬に影を落とす横顔。思い出すたび、胸が締めつけられる。誠司は床にひざまずいたまま、拳を握りしめた。いっそ死んで償えたらいいのにとさえ思った。あんなにもいい瑠奈を、どうして自分は、あんな形で手放してしまったのか。もしやり直せるなら――真琴がコーヒーをぶちまけてきたあの瞬間に、ためらわず突き放していたはずなのに。まだ、すべてが終わったわけじゃない。白川雅也――その名前を心の中で反芻した瞬間、奥歯がきしむほどの怒りが込み上げた。愛する女を奪われた恨みを、そう簡単に飲み込めるはずがない。たとえすべてを失うことになっても、あの男には必ず代償を払わせる。……結婚式まで、あと一日。雅也は息つく暇もないほど忙しく、式にまつわる準備をほとんど一人で引き受けていた。送迎用の車から引き菓子、招待状、披露宴の演出に至るまで、どこにも一切手を抜こうとしない。「式の予算は6億で考えてる。足りなければ、いくらでも積めばいい」雅也は式のプラン表を閉じると、指先で眼鏡の位置をわずかに直した。その声は、どこまでも穏やかだった。私は思わず言葉に詰まりながら、そこまでしなくてもいいんじゃないかと何とか説得しようとした。けれど雅也は、あっさりと話をまとめ
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第9話
「ほかには何もしてあげられないけど……これから先は、お金にも困らずに、好きなことをして、もう誰かのことでつらい思いをしなくていいのよ」私は口を開いた。けれど、言葉になる前に涙がこぼれた。私って、本当に親不孝な娘だ。こんなときまで、母はまだ私のこれからを心配してくれている。「うん……お母さん」私は小さくうなずいた。「うん。これからはちゃんと自分のこと、大事にするね」母は安心したようにうなずいた。「それでいいのよ」やわらかな陽射しが窓辺いっぱいに広がっていた。その穏やかな空気を――突然、病室のドアが乱暴に開け放たれた。「瑠奈……やっと会えた!俺が悪かった。頼む……俺たち、あれだけ一緒にいたじゃないか。もう一度やり直したい」……私はただ、呆然としていた。誠司がいったい何をしにここへ来たのか、まるで分からなかった。「もう別れてるでしょ。いつまでそんなこと言ってるの?いい加減にしてよ、みっともない」彼は私の袖をつかんだまま、息が乱れるほど泣いていた。「別れてない!俺は認めてない!お前は今でも俺の彼女だ!」思わず笑ってしまって、私はその手を振り払った。「別れるのに、なんであなたの許可がいるの?」誠司は泣いて喚いて、もう完全に取り乱していた。真琴の本性なんて、とっくに分かっていたと言う。それでも切らなかったのは、私が怒ったり焦ったりするところを見たかったからだとか。そうやって揺さぶれば、もっと自分に夢中になると思っていたらしい。やっぱり誠司は、どこかおかしくなっている。まともな人が言うことじゃない。「結婚しよう」誠司は、何か重大な決心でもしたように顔を上げた。まるで、大した価値もない気持ちを、特別なものみたいに差し出してくる。「真琴はもうクビにした。あいつの子どもも堕ろさせた。これでもう俺たちの間に邪魔するやつはいない。お前が望むなら、入籍でも式でも、何だってする!」私は何も言わず、ただ黙って彼を見返した。誠司は取り乱したまま、なおも必死に言い募った。「俺はもう変わった!前みたいなことは絶対にしない!瑠奈、信じてくれ。本当にお前が好きなんだ。お前がいなくなってから、俺……どうしていいか分からなくなった」私は静かに言った。「でも雅也
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第10話
「指輪だけではありません。高級マンションも別荘も、いくつか瑠奈名義で用意しています。結納金は4億。返還不要の贈与です。家族信託からは毎年1億の定額給付、それとは別に株式の配当や美術品の資産もあります。それでも、まだ足りませんか?」雅也が言葉を重ねるたびに、誠司の顔からみるみる血の気が引いていった。「お前……白川家の人間なのか」彼はうなずいた。「そうですよ。あなたの会社にとって最大の取引先――その白川家の人間です」誠司は、まるでこの世の終わりを見たみたいな顔になった。誰の目にもわかるほど落ち込んでいた。誠司だけじゃない。正直、私だって雅也の桁外れの財力には圧倒されていた。けれど、ふと気づく。――そういえば、雅也とはまだ婚前契約も交わしていない。ってことは、この資産の半分は私のものになるってことじゃない?そう思った途端、さっきまでのもやもやが一気に晴れた。「まだいたのか。さっさと失せろ」瑠奈の父がうんざりしたように吐き捨てる。「うちの娘の前に二度と顔を出すな」屈強なボディーガードたちに睨まれ、誠司はすっかり怯み、そのまましっぽを巻いて逃げていった。それでも帰り際、未練たっぷりの目で私を見ながら言った。「瑠奈、俺はずっと、お前が戻ってくるのを待ってる」気持ち悪くて、思わず吐きそうになった。その日のうちに病室は徹底的に消毒させ、誠司が触れたものも全部捨てさせた。……結婚式が終わって間もなく、誠司の会社にトラブルが起きた。原因は、誠司がどうしても真琴と手を切ろうとしたことだった。腹を立てた真琴は、誠司の税務問題を外部に暴露したうえ、帳簿の改ざんや不正経営の実態まで次々と明るみに出した。もっとも、それだけならまだ序の口だった。問題はそのあとだ。真琴は競合他社と接触し、機密資料を持ち出し、競合他社に安値で売り渡してしまったのだ。誠司は対応に追われて完全に手が回らなくなり、もう私に連絡してくる余裕すらなくなっていた。しかも、不運はそれだけでは終わらなかった。二人の関係は、真琴の恋人によってネットに晒された。そう。真琴にはもともと恋人がいたのだ。何を考えていたのかは分からない。ちゃんと付き合っている恋人がいながら、それでも誠司と関係を続けていたらしい。
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