LOGIN私――日高瑠奈(ひだか るな)は、九十九回目の入籍直前になって、恋人の鳴海誠司(なるみ せいじ)にとうとう本音を突きつけられた。 「俺、まだ若いしさ。もう少し遊びたいんだよ。 顔も地味だしさ、正直あんまり色気もないだろ。愛人ならともかく、妻にするにはちょっとな」 さすがに見ていられなくなった友人が、口を挟んだ。 「瑠奈はお前とここまで一緒にやってきただろ。一番大事な時期まで全部お前に捧げてきたんだぞ。瑠奈の母親も体が悪くて、ずっとお前たちの結婚を楽しみにしてたんだぞ。約束しただろ」 誠司は秘書の本間真琴(ほんま まこと)の腰を抱いたまま、うんざりした顔をした。 「同じ料理でも十年も食ってたら、そりゃ飽きるだろ。 別に俺は引き止めてないだろ。嫌なら金だけ持って出ていけばいいんだよ」 胸の奥が、すっと冷めた。 私は涙を拭き、中絶の予約を入れると、そのまま家の決めた縁談を受け入れた。 結婚指輪を選びに行った先で、誠司と鉢合わせした。 結婚なんてしない主義だと言っていたその男は、愛人の前に跪いてプロポーズしていた。 「真琴がさ、どうしても結婚指輪ほしいってうるさくてさ。 まあ、形だけだよ。気にすんなって。明日こそお前と入籍してやるよ。今度は本当だって」 その軽い口ぶりを聞きながら、私は婚約者にもらった大粒のピンクダイヤを掲げて、ふっと笑った。 「三日後に結婚します。ぜひその愛人と一緒に、私の結婚式を見届けに来てください」
View More「指輪だけではありません。高級マンションも別荘も、いくつか瑠奈名義で用意しています。結納金は4億。返還不要の贈与です。家族信託からは毎年1億の定額給付、それとは別に株式の配当や美術品の資産もあります。それでも、まだ足りませんか?」雅也が言葉を重ねるたびに、誠司の顔からみるみる血の気が引いていった。「お前……白川家の人間なのか」彼はうなずいた。「そうですよ。あなたの会社にとって最大の取引先――その白川家の人間です」誠司は、まるでこの世の終わりを見たみたいな顔になった。誰の目にもわかるほど落ち込んでいた。誠司だけじゃない。正直、私だって雅也の桁外れの財力には圧倒されていた。けれど、ふと気づく。――そういえば、雅也とはまだ婚前契約も交わしていない。ってことは、この資産の半分は私のものになるってことじゃない?そう思った途端、さっきまでのもやもやが一気に晴れた。「まだいたのか。さっさと失せろ」瑠奈の父がうんざりしたように吐き捨てる。「うちの娘の前に二度と顔を出すな」屈強なボディーガードたちに睨まれ、誠司はすっかり怯み、そのまましっぽを巻いて逃げていった。それでも帰り際、未練たっぷりの目で私を見ながら言った。「瑠奈、俺はずっと、お前が戻ってくるのを待ってる」気持ち悪くて、思わず吐きそうになった。その日のうちに病室は徹底的に消毒させ、誠司が触れたものも全部捨てさせた。……結婚式が終わって間もなく、誠司の会社にトラブルが起きた。原因は、誠司がどうしても真琴と手を切ろうとしたことだった。腹を立てた真琴は、誠司の税務問題を外部に暴露したうえ、帳簿の改ざんや不正経営の実態まで次々と明るみに出した。もっとも、それだけならまだ序の口だった。問題はそのあとだ。真琴は競合他社と接触し、機密資料を持ち出し、競合他社に安値で売り渡してしまったのだ。誠司は対応に追われて完全に手が回らなくなり、もう私に連絡してくる余裕すらなくなっていた。しかも、不運はそれだけでは終わらなかった。二人の関係は、真琴の恋人によってネットに晒された。そう。真琴にはもともと恋人がいたのだ。何を考えていたのかは分からない。ちゃんと付き合っている恋人がいながら、それでも誠司と関係を続けていたらしい。
「ほかには何もしてあげられないけど……これから先は、お金にも困らずに、好きなことをして、もう誰かのことでつらい思いをしなくていいのよ」私は口を開いた。けれど、言葉になる前に涙がこぼれた。私って、本当に親不孝な娘だ。こんなときまで、母はまだ私のこれからを心配してくれている。「うん……お母さん」私は小さくうなずいた。「うん。これからはちゃんと自分のこと、大事にするね」母は安心したようにうなずいた。「それでいいのよ」やわらかな陽射しが窓辺いっぱいに広がっていた。その穏やかな空気を――突然、病室のドアが乱暴に開け放たれた。「瑠奈……やっと会えた!俺が悪かった。頼む……俺たち、あれだけ一緒にいたじゃないか。もう一度やり直したい」……私はただ、呆然としていた。誠司がいったい何をしにここへ来たのか、まるで分からなかった。「もう別れてるでしょ。いつまでそんなこと言ってるの?いい加減にしてよ、みっともない」彼は私の袖をつかんだまま、息が乱れるほど泣いていた。「別れてない!俺は認めてない!お前は今でも俺の彼女だ!」思わず笑ってしまって、私はその手を振り払った。「別れるのに、なんであなたの許可がいるの?」誠司は泣いて喚いて、もう完全に取り乱していた。真琴の本性なんて、とっくに分かっていたと言う。それでも切らなかったのは、私が怒ったり焦ったりするところを見たかったからだとか。そうやって揺さぶれば、もっと自分に夢中になると思っていたらしい。やっぱり誠司は、どこかおかしくなっている。まともな人が言うことじゃない。「結婚しよう」誠司は、何か重大な決心でもしたように顔を上げた。まるで、大した価値もない気持ちを、特別なものみたいに差し出してくる。「真琴はもうクビにした。あいつの子どもも堕ろさせた。これでもう俺たちの間に邪魔するやつはいない。お前が望むなら、入籍でも式でも、何だってする!」私は何も言わず、ただ黙って彼を見返した。誠司は取り乱したまま、なおも必死に言い募った。「俺はもう変わった!前みたいなことは絶対にしない!瑠奈、信じてくれ。本当にお前が好きなんだ。お前がいなくなってから、俺……どうしていいか分からなくなった」私は静かに言った。「でも雅也
誠司は言葉を失った。その場に崩れ落ちるようにひざまずき、必死に頭を下げた。「お義父さん……本当に、俺が間違っていました。昔の俺は未熟で、瑠奈をひどく傷つけました。でも……今は本気で後悔しています。瑠奈さえ許してくれるなら、今すぐにでも入籍します。」「もう遅い!」瑠奈の父は机を強く叩いた。「瑠奈はもう数日前に、幼なじみと入籍した。お前たちに縁がなかった、それだけの話だ。今さら縋ったところでどうにもならん。もう手放せ。それぞれの人生を生きろ」誠司は目の前がぐらりと揺れた気がした。こらえていた涙が、止めどなくあふれ落ちる。失って初めて、その大切さに気づいた。誠司は、本当に瑠奈を愛していたのだ。けれど、もう彼女は、戻ってきてはくれない。かつての甘い記憶は、今では胸に突き刺さる棘に変わっていた。会いたい。ただ、どうしようもなく瑠奈に会いたかった。スープを作るとき、長い髪をひとつに束ねる仕草。ネクタイを選びながら、伏せたまつ毛が頬に影を落とす横顔。思い出すたび、胸が締めつけられる。誠司は床にひざまずいたまま、拳を握りしめた。いっそ死んで償えたらいいのにとさえ思った。あんなにもいい瑠奈を、どうして自分は、あんな形で手放してしまったのか。もしやり直せるなら――真琴がコーヒーをぶちまけてきたあの瞬間に、ためらわず突き放していたはずなのに。まだ、すべてが終わったわけじゃない。白川雅也――その名前を心の中で反芻した瞬間、奥歯がきしむほどの怒りが込み上げた。愛する女を奪われた恨みを、そう簡単に飲み込めるはずがない。たとえすべてを失うことになっても、あの男には必ず代償を払わせる。……結婚式まで、あと一日。雅也は息つく暇もないほど忙しく、式にまつわる準備をほとんど一人で引き受けていた。送迎用の車から引き菓子、招待状、披露宴の演出に至るまで、どこにも一切手を抜こうとしない。「式の予算は6億で考えてる。足りなければ、いくらでも積めばいい」雅也は式のプラン表を閉じると、指先で眼鏡の位置をわずかに直した。その声は、どこまでも穏やかだった。私は思わず言葉に詰まりながら、そこまでしなくてもいいんじゃないかと何とか説得しようとした。けれど雅也は、あっさりと話をまとめ
そんなふうに、まだやり直せると思っていた誠司は、どうしようもない行き詰まりを感じていた。彼なりに歩み寄ろうとしたこともあった。けれど瑠奈はほとんど応じようとせず、どんなに機嫌を取っても、少しも心に届かなかった。結局どうにもならず、誠司はまた真琴とずるずる関係を続けてしまった。綱渡りをしているようなあの背徳感が、いつの間にか少しずつ彼の中に染み込んでいった。真琴の若く艶のある身体が好きだった。勝ち気で挑発的な表情も嫌いではなかった。中身は空っぽなのに、なぜか妙に誠司の好みに合っていた。瑠奈はまた泣くようになった。何かに気づいているのかもしれなかった。それでも問い詰めることはなく、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。真琴は鼻で笑った。「瑠奈さんさ……誠司さんがほんとに結婚してくれないんじゃないかって、怖いんじゃない?こういう女、私けっこう見てきたよ。男に寄りかかって生きてるだけのタイプ。お金も家も手に入らなかったら、すぐ別のところに寄っていくよ」どの言葉がきっかけだったのか――誠司が真琴に手を上げたのは、そのときが初めてだった。「瑠奈はそんな女じゃない」彼は言い切った。「たとえみんなが俺から離れても、あいつだけは絶対にいなくならない」もし変わらない想いなんてものがあるのだとしたら、それはきっと瑠奈のことなんだろうと、誠司は何度も思っていた。もう、あいつの望みどおりにしてやってもいいんじゃないか――そんな気にもなっていた。入籍するだけのことだ。それくらい、何が大したことなんだろう。けれど自由に慣れきった誠司は、どうしても一人に決めきれなかった。今でさえ瑠奈はあれこれ口を出してくる。本当に夫になったら、まるで監視でもされるような毎日になるんじゃないか――そう思うだけで、ぞっとした。それでも瑠奈が何年も自分だけを想ってきたことは、ちゃんと分かっていた。ここ最近は、真琴のことでもかなり傷ついているようだった。夜も眠れない日が続き、薬に頼るようにまでなっていた。そう思うと、誠司はまた少しだけ気が引けた。もう少し待ってくれ――そう伝えたこともあった。いっそ百回目の約束になったら、そのときこそ瑠奈と結婚してもいいのかもしれない、とさえ思っていた。けれど、そんな