All Chapters of お騒がせ令嬢に転生した俺は、冷血宰相に求婚される ――心は男のままなのに、この人と恋に落ちてしまった: Chapter 21 - Chapter 30

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第20話 あなたとならどこまでも行けると思ってしまったから

 裁判の翌朝。  俺は、だんだんと理解していた。  ――自分が「ただの令嬢」ではなくなってしまったことを。  俺は、王都庁舎へ向かう支度をしていた。  本来なら、馬車を出すところだ。  侯爵家の娘が歩いて街に出るなんて、普通なら止められる。  けれど。 「……今日は、歩いて行こう」  そう言ったのは、ユリウスだった。  俺は、思わず瞬きをした。 「歩いて……?」 「ああ」  彼は、いつものように淡々と続ける。 「君の名は、もう街に出ている。  なら……君自身の目で、この街がどうなっているのかを見ておいた方がいい」  一瞬、胸の奥が、ひくりと鳴った。  怖くないと言えば、嘘になる。  でも。  俺は、小さく頷いた。 「私も……見たい。  自分が、何をしたのか」  ユリウスは、それ以上何も言わなかった。  ただ、わずかに目を細めた。  それで十分だった。  こうして俺は、馬車を断り、ユリウスと並んで、屋敷の門をくぐった。  そして――門を出た瞬間だった。  ――見られている。  通りを歩く人々の視線が、ちらり、ちらりとこちらに向く。 「……あの人じゃない?」 「昨日の裁判の……」 「グラーフェン家の令嬢だろ?」  ひそひそとした声が、風に乗って耳に届く。  悪意ではない。  でも、好意とも言い切れない。  俺は、無意識に背筋を伸ばしていた。 (こんな変化が) (もう、俺だけの話じゃないんだ……)  昨日まで、俺はただの令嬢だった。  多少の噂はあっても、それ以上でも以下でもない存在。  でも今は違う。  名前が、意味を持ってしまった。  リーゼロッテ・フォン・グラーフェン。  告発し、証言し、裁判を動かした女。  良くも、悪くも。 「……怖いか?」  隣を歩くユリウスが、低く問いかけてきた。  俺は少しだけ考えてから、首を振る。 「怖い、というより……変な感じ」 「変?」 「昨日までは必死すぎて、何も考えられなかったから。  今になって……実感する」  ユリウスは、ほんのわずかに視線を細めた。 「……自分が、どこに立ってしまったのか、か」 「……うん」  王都中央広場に差しかかると、人の流れがさらに増えていた。  掲示板の前に、人だかりができている。 「ほら
last updateLast Updated : 2026-04-27
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第21話 私怨の墓前で、あなたの傷を知る

 絡める寸前で止まった指先が、わずかに震えた。 「……だが、今の俺は、その決め事を破って、君に踏み込みたいと思っている」  空気が、張りつめる。  それでも、最後の一線は越えない。  その代わり、指先だけが、静かに触れ続けている。 「……だから」  低く、静かに。 「そんな言葉は、覚悟ができてから言え。  そうでないと……俺は、本当に止まれなくなる」  その言葉が、胸の奥をじわりと痺れさせた。  何もなかった顔を装いながら、息だけを整える。  そして俺たちは、何事もなかったかのように歩き出した。 ***  しばらく歩いたあと、ユリウスが言った。 「……寄りたい場所がある」  王都から少し離れた、小さな墓地だった。  観光客も、祈りを捧げる人影もない、静かな場所。 「……ここに、誰が?」  ユリウスは答えなかった。  ただ、一つの墓石の前に立つ。  刻まれている名を見て、息が止まった。  ――エレオノーラ・フォン・アイゼン。  俺は、墓石の前に並んで立った。  言葉を探したが、何も浮かばない。  ただユリウスと同じように、静かに墓を見つめることしかできなかった。  風が、墓石の表面をなぞる音だけが響く。 「……彼女は、持参金で買われた」  ユリウスが、ぽつりと続ける。  視線は、墓石から動かない。 「甘い言葉に騙され、搾取され……最後には、窓から飛び降りた。  最期の日記に、『君だけだと言われたのに』とだけ残されていた」  沈黙が落ちる。  重く、長い沈黙だった。  俺は、ゆっくりと息を吐いた。 「……だから、私怨って言ったんだ」  ユリウスは、わずかに目を細める。 「……そうだ」  短い肯定。 「俺は、相手の男を追い詰めた。  爵位を奪い、財を削り、社会から消した」  そこで、ユリウスの指が墓石の縁に触れた。 「……だが、それで終わりではなかった」  声が、ほんのわずかに低くなる。 「名前を変え、土地を変え、  あの男は……また、同じことを繰り返していた」  拳が、わずかに強く握られていた。 「そして……別の女が、壊れた」  言葉が、そこで止まる。  それだけで、十分だった。  ――救えなかったのだ。  断罪しても、何も終わらなかった。 「……俺は理解した」  ユ
last updateLast Updated : 2026-04-28
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第22話 あなたが死ぬかもしれないと思った瞬間

 墓地を出た瞬間、ユリウスの歩調が、ほんのわずかに乱れた。 「……静かですね」  私がそう言うと、ユリウスは頷いた。 「この時間帯は、人の流れが変わる」  歩調は一定。  でも。  どこか、注意が外ではなく「背後」に向いている。  私は気づかないふりをして、あえて聞いた。 「……誰か、います?」  ほんの一瞬だけ、ユリウスの足が止まった。  それは、ほとんど誤差みたいな動きだったけれど、確かに止まった。 「……どうして、そう思った?」 「なんとなく」  嘘だった。  本当は、空気が変わったから。  ユリウスは、少しだけ考えるように沈黙してから言った。 「……今は、まだだ」  否定でも肯定でもない言い方。  その曖昧さが、妙に現実的で、胸の奥がひやりと冷えた。 (……そんな世界か)  それでも。  隣を歩くユリウスの横顔は、少しも揺れていなかった。  まるで最初から、この道を歩く覚悟を決めている人のように。  王城の外門を抜けても、ユリウスの歩調は変わらなかった。  背後を気にしていることも、周囲に神経を張り詰めていることも、もう隠そうともしていない。 (……やっぱり、危ないんだ) (それでも、この人は)  ふと、胸の奥が静かに熱くなった。  理由は、分かっているのに。  認めるのが、少しだけ怖い。 (……やっぱ、好きだ) (気持ちを、止められない)  思った瞬間、身体の方が先に動いていた。  そっと、彼の腕に触れる。  ユリウスの歩みが、わずかに止まった。  驚いたようにこちらを見た、その一瞬だけの隙。  私は逃げるように視線を逸らしたまま、静かに腕を絡める。  言葉は、何も言わない。  ただ、夜の中で。  夜風が、二人の間を静かに抜けた。  その時、背後の路地で、小さく石が転がる音がした。  思わず肩が跳ねる。  次の瞬間、ユリウスの手が、絡めていた腕に添えられた。  強く、けれど乱暴ではない力で、彼の方へ引き寄せられる。  近い。  外套の匂いと、低い体温と、張り詰めた気配が一度に押し寄せてきて、息が詰まった。 「ちょ……」 「動かないで」  低い声だった。  けれど、私に触れる手だけは、ひどく優しかった。 「大丈夫だ。君だけは、必ず守る」  その言葉が自分に
last updateLast Updated : 2026-04-30
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第23話 一人で抱え込むのは、やめてください

 宰相邸は、いつもよりも明らかに空気が重かった。  門の前に立つ衛兵の数が、普段の倍近い。  敷地のあちこちに、緊張が張りついている。  案内されるまま、執務室の前へ。  扉の前で、ほんの一瞬、足が止まった。  怖い。  中に入って、もし。  もし、取り返しのつかないことが起きていたら。  それでも、ノックをする手は止まらなかった。 「……失礼します」  少し間を置いて、返事があった。 「入れ」  低く、聞き慣れた声。  扉を開けた瞬間、最初に目に入ったのは、机の上に無造作に置かれた外套だった。  布地が、深く裂けている。  視線が、自然とその裂け目に吸い寄せられる。  縁に、うっすらと濃い色が残っていた。  ――血。  息が止まった。 「……ユリウス」  ようやく、それだけが口から出た。  椅子に腰掛けたユリウスは、こちらを見上げていた。  顔色は、普段とほとんど変わらない。  それが、かえって異様だった。 「……来たのか」  声は静かだったが、どこか少しだけ掠れている。 「……何が、あったんですか」  問いは、思ったよりも低く出た。  ユリウスは、ほんの一瞬だけ視線を逸らしたあと、淡々と答えた。 「帰路で、何者かに襲われた」 「……どこを」  間髪入れずに聞いていた。  ユリウスは、わずかに沈黙してから言う。 「……肩を、掠っただけだ」  掠っただけ。  机の上の外套を見れば、それが「掠っただけ」では済まなかったことくらい分かる。 「……それで済んだのは、偶然だ」  ぽつりと落ちた、その一言。  それが、すべてだった。  ――運が悪ければ、死んでいた。  その事実が、ようやく、胸の奥に届いた。  足の力が、抜けそうになる。 「……」  何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。  ただ、胸の奥が、ひどく痛い。  ユリウスは、そんな俺を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。 「……心配させるつもりはなかった」  その言葉が、ひどく胸に刺さった。 (……一人で、抱え込むつもりだったんだ) (何も言わずに) (俺には、知らせないまま)  胸の奥で、何かが、静かに音を立てて崩れた。 「……どうして」  気づけば、声が出ていた。  自分でも驚くほど、低くて、硬い声だ
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第24話 あなたを選べる日まで

 その瞬間、部屋の空気が、確かに変わった。  ユリウスは、しばらく何も言わなかった。  ただ、俺を見ている。  まるで、何かを決めかねているような目で。  そして、ようやく、ぽつりと。 「……分かった」  短い一言。  それだけだったのに、  胸の奥が、じんわりと温かくなった。 「……顔色が悪い」  彼の声は、低く、静かだった。  俺は無理に笑おうとして、失敗した。 「大丈夫です。ただ……少し、疲れただけで」  ユリウスはゆっくりと近づいてきた。  視線が、自然と上から落ちてくる。  その距離が、妙に近い。 「……俺を、心配してくれたんだな」  その言葉に、心臓が跳ねた。 「……当たり前じゃないですか」  声が、自分でもわかるほど震えている。  ユリウスは、わずかに目を細めた。 「恋愛は……しないと、言っていたはずだ」  一瞬、息が止まる。  俺は視線を落とし、膝の上で指を絡めた。 「……ごめんなさい」  沈黙が落ちる。  暖炉の火が、長い影を揺らしていた。  逃げ道は、もうない。 「……実は」  声が、ぽつりと零れた。 「前世の記憶があるんです」  ユリウスは、わずかに瞬きをした。  その表情に、はっきりとした戸惑いが浮かぶ。 「……どういう意味だ」  低い声が、静かに落ちた。 「向こうでは、男でした。  ただの市民で……働いて、働き続けて……気づいたときには、死んでいました」  喉が、ひどく乾く。 「死んで……気づいたら、この体でした。  女の体で、生まれ変わっていた。  毒を飲んだ彼女の代わりに、目を覚ました」  言葉を、ゆっくり選ぶ。 「最初は……受け入れられなかった。  でも、生きるしかなくて……。  この人生を、女として生きてきました」  指先が、かすかに震える。 「でも……心のどこかに、前の自分が、まだ残っているんです。  男だった頃の感覚が、消えなくて」  息を吸う。 「だから、あなたに触れられると、嬉しいのに……  同時に、怖くなる」  ユリウスの瞳が、わずかに揺れた。 「女として愛されることが、怖い。  でも……それでも、あなたを好きな自分が、いて」  ようやく、顔を上げる。 「……だから、逃げていました。  恋愛をしない、と言ったのは
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第25話 そして誰も、悪人にはならない――ただ一人の不幸を除いて

 証言をしたために、行方不明になった令嬢がいる。  それを知った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。  ヴァルデン伯爵夫人の私室は、昼でも薄暗かった。  重いカーテンが光を遮り、甘い香の残る空気が、妙に落ち着かない。 「また来てくださったのね、リーゼロッテ嬢」  夫人はソファに腰を下ろしたまま、紅茶を勧めてくる。  いつもの優雅な仕草。  けれど、その視線は、前よりも少しだけ鋭い。 「今日は……社交の話ではありません」  俺がそう言うと、夫人はカップを置いた。 「でしょうね」  微笑みは崩さないまま、続きを促す沈黙。 「……裁判で証言してくれた令嬢たちのことです」 「……ええ」  答えは短い。 「……一人だけ、連絡が取れない令嬢がいます」  俺がそう言った瞬間、  ヴァルデン伯爵夫人の指先が、ほんのわずかに止まった。 「……誰かしら」 「エルミーネ嬢です」  名前を告げたとき、  ヴァルデン伯爵夫人は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。  それは、答えだった。 「……やはり」  ひどく静かな声だったのが、逆に怖い。 「……どういう意味ですか」  夫人はしばらく黙っていたが、やがて視線を窓の外に向けたまま言った。 「……あの子は、教会に預けられました」 「預けられて……?」 「保護という名目で」  嫌な予感が、確信に変わる。 「その後、縁組が決まりましたわ」 「……縁組?」 「東方辺境伯領の、三男と」 「……三男?」  思わず、声が低くなる。  夫人は、淡々と続けた。 「素行が悪く、賭博癖や暴力癖があり、過去に婚約破棄が二度。  それでも、家柄だけは立派ですから」  吐き気がした。 「……本人は?」  問いに、夫人はほんの一瞬だけ、視線を伏せた。 「……泣いて、拒みましたわ」  胸の奥が、ひどく冷たくなる。 「ですが、教会はこう言ったそうです。  神の導きです。  あなたにとって、最も相応しい道ですと」  俺は、しばらく言葉が出なかった。  ようやく、かすれた声で呟く。 「……教会に、そんな権限があるなんて」  夫人は、ゆっくりとこちらを見る。 「名目上は、ありません」 「名目上は?」 「ですが現実には、身寄りのない娘を保護し、縁を結ぶことは、美徳とされていますわ」  
last updateLast Updated : 2026-05-03
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第26話 同じ場所を見ていると思っていた

「教会のことは、もちろんわかっている。  ……君の気持ちも、理解できる」  その声は、感情を削ぎ落とした宰相の声だった。 「だが……今、動くべき案件ではない」  俺は、わずかに眉を寄せる。 「……なぜ」 「教会に手を出せば、貴族だけでなく、民衆の反発も招く。  これは司法ではなく、政治の問題になる」  正しい。  完璧に、正論だった。  だからこそ、胸の奥が冷える。 「……つまり」  俺は静かに言った。 「今は見捨てろ、と?」  ユリウスの眉が、わずかに動いた。 「そうは言ってない」 「いや、言ってる」  俺が即座に返すと、空気がぴり、と張り詰めた。  ユリウスは、しばらく俺を見つめていたが、やがて口を開く。 「……どうして、そこまで肩入れするんだ」  声が、少しだけ低くなっていた。 「エルミーネ嬢とは……数回、会ったことがある程度だろう」  俺は、息を止めた。 「あなたがここまで感情的になる理由が、俺には分からない」  机の上の書類に視線を落としたまま、ユリウスは続ける。 「……あなたは、宰相の婚約者だ。  一人の令嬢のために、国を揺るがすような行動を取る立場ではない」 「……っ」 「それが分かっていながら、なぜ、そこまで——」  俺は、思わず一歩、彼に近づいていた。  ユリウスの言葉を遮るように、口を開く。 「……あなたが、それを言うのか、ユリウス」  ユリウスの目が、確かに揺れた。 「あなたの言うことは正論だ。  でも……見捨てたくない」 「彼女は、怯えていた。  でも、最後は私たちのために証言してくれた」  一瞬、別の光景がよぎる。  俯いて、唇を噛みしめていた少女。  「……言えません」と、小さく首を振っていた姿。  それでも最後には、震えながら前に出て、必死に言葉を絞り出していた。 「それを簡単に見捨てろと?」  ユリウスは、すぐには答えなかった。  ほんのわずかに、眉が寄る。 「それに……私は、運が良かった。  あなたに見つけられたから。  たまたま、助かる側に回れた。  もし、ほんの少しでも歯車が違っていたら」  ――その立場になるのは、俺だった。  そう思うと、背筋がぶるりと震えた。   「もう後悔はしたくない」 「後悔?」 「私は」  唇
last updateLast Updated : 2026-05-04
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第27話 白いドレスは、血を隠すためにある

 教会の門は、名を告げた瞬間にすぐ開いた。 「リーゼロッテ・フォン・グラーフェン様ですね。  本日はお越しいただき、誠に光栄に存じます」  院長である年配の修道女が、深く頭を下げる。 「宰相殿下のご婚約者様をお迎えできるとは……」  案内されたのは、明るい談話室だった。  壁には花が飾られ、数人の少女が刺繍をしている。  皆、笑顔。  礼儀正しく、よく躾けられている。  ……あまりに、整いすぎている。 「皆、事情のある娘たちですが、  神の御許で穏やかに過ごしております」  穏やかな声。  非の打ち所のない光景。  けれど、俺は確信していた。 (……ここじゃない)  静かに顔を上げる。 「エルミーネ嬢に、お会いしたいのですが」  その瞬間。  シスターの表情が、ほんのわずかに止まった。  視線が、俺ではなく、廊下の奥へと流れる。  ほんの一瞬、誰かを探すような目。   ……確認している。  次の瞬間、穏やかな微笑みが貼りついた。 「どうぞ、こちらへ」  声だけが、変わらず柔らかかった。  通されたのは、礼拝堂の奥ではなかった。  中庭を抜けた先に建つ、別棟。  外観は質素だが、窓は高く、格子がはめられている。 「こちらが、保護棟でございます」  その言葉を、修道女はあまりにも穏やかに口にした。  その瞬間、俺は違和感に気づいた。  娘たちは皆、白いドレス。  膝を揃え、背筋を伸ばし、視線を床に落としている。 「こちらが、現在保護されている娘たちです」  シスターが、穏やかに微笑んだ。 「皆、神の御意志に従うことを学んでおりますの」  俺は、列の端から端まで、静かに視線を走らせた。  誰も、こちらを見ない。  誰も、瞬きをしない。  まるで――飾られた人形の列。  ……いや。  一人だけ、わずかに違った。  列の一番端。  俯いたまま、肩だけが、微かに震えている。  胸の奥が、嫌な予感で締め付けられる。   俺は、一歩、近づいた。 「……」  喉の奥が、ひどく乾いていた。 「……エルミーネ様?」  名を呼んだ瞬間だった。  その少女は、ほんのわずかに顔を上げた。  青白い頬。  やつれた目元。  結いきれない髪。  けれど、間違いない。  エルミーネ嬢だっ
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第28話 彼女を失うのが怖い

 宰相府の執務室は、深夜になっても静まり返っていた。 ユリウスが大きくため息をつく。「……大きなため息ですね」 背後から、静かな声が落ちた。 ユリウスは顔を上げない。「……セインか」「はい。西部の三大諸侯の同意は取り付けました」 背後から、静かな声が落ちた。 振り返れば、そこに立つのは中性的な美貌を持つ青年――宰相の懐刀、セイン・クローディアだった。  ユリウスは、顔を上げない。「……予想より早いな」「表向きは、家格維持のための現実的な調整という建前で通しています。 これ以上の反発は、当面は出ないでしょう」「持参金の制度改革はうまく進みそうだな」「ええ」 足音もなく、セインが机のそばに立つ。 淡々と続ける。「そして、今度は教会ですか。  どうするんですか?」 「時期尚早だと思っていた。 でもリーゼのことではじめて気が付いた」 ユリウスの声は低く、淡々としていた。 セインは、しばらく何も言わなかった。 その沈黙は、考えているというより――測っているようだった。 やがて、静かに口を開く。「……気付いた、とは?」 ユリウスは、しばらく答えなかった。 机の上の書類に視線を落としたまま、指先が微かに動く。「……俺は、冷静だと思っていた。 証拠が足りない。 時期が早い。 今踏み込めば、改革派が潰れる」 淡々と、言葉を並べる。「そうやって、自分を納得させていた」 セインは、静かに聞いていた。「……だが違った」 ユリウスの声が、ほんのわずかに低くなる。「ただ、怖かっただけだ」 その言葉が、夜の執務室に、静かに落ちた。 セインは、目を細めた。「……教会が、ですか」「……ああ」 ユリウスは、ようやく顔を上げた。 その目には、疲労とも怒りともつかない、深い影があった。「教会に近づくたび、姉の顔が浮かぶ。 白いドレス。細い手。 ……爪の間の、血」 セインの視線が、わずかに鋭くなる。「……やめてくれ、と。 行きたくない、と。 泣きながら、俺の袖を掴んでいた」 言葉が、少しだけ詰まった。「だが、俺は何もできなかった。 ただ、見ていることしかできなかった」 沈黙が落ちる。 ユリウスは、低く息を吐いた。「だから俺は、待っているという言葉で……ただ、逃げていた」 しばらく、何も音がし
last updateLast Updated : 2026-05-06
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第29話 厄介な令嬢ですこと

 ヴァルデン伯爵夫人は、紅茶をひとくち飲んでから、しばらく何も言わなかった。  ただ、俺をじっと見ている。  値踏みではない。  同情でもない。  ——決断を測っている目だった。 「……あなた、本気なのね」  静かな声だった。 「ええ」  俺が頷くと、夫人はわずかに口角を上げた。 「困った令嬢ですこと。  持参金制度の次は、教会とか」  責める調子ではない。  むしろ、呆れと、ほんの少しの感心が混じっていた。  夫人は、しばらく俺を見つめてから、ふと、何気ない調子で尋ねた。 「……宰相閣下は、ご存じなの?」  その一言で、胸の奥が、きしりと鳴った。  ——閉まる扉の音が、はっきりと思い出される。 『……今は、この話を続けるべきじゃない』  あの、冷えた声。  俺は、ほんの一瞬、息を止めた。 「……いいえ」  そう答えるまでに、わずかな間があった。  夫人は、すぐには何も言わなかった。  ただ、俺の表情を見て、すべてを察したようだった。 「……そう」  それだけ言って、視線を紅茶に落とす。  責めるでもなく、詮索するでもなく。  ただ、静かな理解だけがあった。  それが、余計に痛かった。  俺は、膝の上で指を強く組み直す。 (……それでも)  あの人に否定されたから、やめるのか。  ——違う。  むしろ、あの扉が閉まった瞬間から、  俺は、もう戻れなくなっていた。 「教会に踏み込めば、あなたはもう客人ではいられなくなります」 「……分かっています」 「表から抗議しても、扉は閉ざされるだけ。  内部に入れば、今度は簡単には抜けられない」  紅茶の表面が、わずかに揺れる。 「それでも?」  俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。  正直に言えば、怖い。  俺には何一つ身を守るすべはない。  教会という「聖域」に、自分から踏み込むなど、正気の沙汰ではない。  ……でも。 「それでもです」  声は、思ったより静かだった。 「見なかったことには、できません」  夫人は、ふう、と小さく息を吐いた。 「……やれやれ」  そして、ついに言った。 「方法が、ひとつだけありますわ」  胸が、かすかに強く打った。 「教会に預けられる側になれば、あなたは守られるだけの存在になります」 「…
last updateLast Updated : 2026-05-10
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