お騒がせ令嬢に転生した俺は、冷血宰相に求婚される ――心は男のままなのに、この人と恋に落ちてしまった의 모든 챕터: 챕터 1 - 챕터 10

33 챕터

第1話 ブル・シット・ジョブの果てに侯爵令嬢になりました

 午前三時。 玄関の鍵を閉めた瞬間、胸の奥に電流が走った。 激痛。 息が詰まり、視界が歪む。(……あ、これ) 膝から崩れ落ち、床に手をついた。 心臓が、変な打ち方をしている。(……過労死、ってやつか) 俺は、死ぬほど価値のある仕事をしていたのか。 答えはたぶん、違う。 社内政治にじわじわ押し潰されながら、流される方が楽だと黙っていた。 だから――「……もう二度と、流されない」 それだけ呟いた。 心臓の音が、遠ざかる。 天井が滲み、世界がほどけていく。 ――そして、俺は死んだ。*** 目を開けると、天井が高かった。 凝った模様が、やけにくっきり見える。(……豪華だな) そう思った次の瞬間、違和感が襲った。 胸が……重い。 柔らかい。 嫌な予感に、視線だけを下へ落とす。「……は?」 心臓が、爆音を立てた。 頭が真っ白になる。(待て待て待て待て待て) 思わず、上体を起こす。 薄いシーツが胸の上で、不自然に盛り上がった。 反射的に触れた瞬間、ぞっとした。 柔らかい。 俺の身体じゃない。 嫌な汗が背中を伝う。 呼吸が浅くなる。 まさか、と思いながら、震える手でシーツの下をごそごそ探る。「……うそだろ」 ない。 あるべきものが、どこにもなかった。「なんだよ……これ」 声が高い。 喉の奥から出た音が、自分のものに聞こえなくて鳥肌が立つ。 手も細い。指も白い。 長い髪が肩に落ちている。(嘘だろ。俺、女になってる?) 意味が分からない。 でも身体は、容赦なく現実を押しつけてくる。 胸の重さも、高い声も、何もかもが男だった俺を勝手に塗り替えていく。 そのとき。 コン、コン。 控えめなノック。 返事をする前に、扉が開いた。「あら……生き返られたんですね、お嬢様」 溜息まじりだ。 若い女。 ドラマやアニメで見るようなメイドの服を着ている。 お嬢様。 誰のことだ? この部屋には俺しかいない。 じゃ、俺のことなのか?「……誰だよ、お前」 メイドが怪訝そうに眉を寄せる。「本気で仰っているんですか?」 廊下から、足音が近づいてくる。 ゆっくり、迷いなく。「――ユリウス・フォン・アイゼン宰相閣下がお見えです」 メイドが小さく鼻で笑った。「冷血宰相とお騒がせ令嬢だな
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第2話 知らない婚約者は、令嬢の値段をよく知っていた

 婚約者。 その一言が、頭の中で嫌なくらいはっきり反響した。「……冗談だろ」「冗談で済む段階ならよかったのですが。あなたは今、王都で最も噂になっている令嬢の一人です。元婚約者の子爵令息ハインリヒ・フォン・ローゼンベルクとの破談騒ぎ、持参金を巡る家同士の対立、感情的な振る舞い、ついでに服毒」 ついでにで済ませるな。 元婚約者。持参金。令嬢。 どれも俺の人生と無縁だった単語なのに、今はそれが俺を潰しかけている。「……記憶が曖昧で」 とっさにそう言ってから、自分の声がちゃんと令嬢っぽく聞こえたことに気分が悪くなる。「目覚めたばかりで、頭が混乱していて……」 ユリウスの目が細くなる。 本当なのかを見極めるような視線だった。「では、今の状況だけ簡潔に伝えます。 あなたの名はリーゼロッテ・フォン・グラーフェン。侯爵家の令嬢です」 侯爵家。 令嬢。 その二語だけで、背筋が冷えた。 この世界の俺は、最初から「家に属する女」なんだと分かってしまう。「元婚約者との破談騒ぎの最中にあります。 醜聞は王都中に広がっている」「元婚約者?」「子爵令息ハインリヒ・フォン・ローゼンベルク」 名前に覚えはない。 だが、胸の奥で説明しづらいざらつきが走る。 この身体に残った何かだ。「あなたは感情的な令嬢として扱われ、家の立場も悪化している」「……感情的、ね」 その言い方は気に入らない。 でも、そういう女だったんだろうとも思う。「でも、いくら感情的だって、毒を飲むなんて相当だろ」 ユリウスをまっすぐ見る。「なんでそんなふうに追い込まれた?」「……そこから説明します。 あなたの家は、格式はあるが資金に余裕がない。 婚約と持参金に絡む問題で、今かなり不利です」「持参金?」「娘を嫁がせるには、金がいる。 場合によっては、それで家が傾くこともあります」 何だそれ。 言葉の意味は分かる。 だが、それが自分に向けられた話だと思うと、急に気分が悪くなった。 この世界での俺は、ただ女の身体になっただけじゃない。 いくら持たせて嫁に出せるか。 そういう勘定の中に置かれる側なんだ。(前の世界も都合がいい歯車だったけど。こっちも変わらないな)「……顔色が悪いですね」「当たり前だろ」 思わず吐き捨てる。「目が覚めたら女になってて」
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第3話 元婚約者は、クズだった

 明日中に返事をしろ。 そう言われて残された静けさの中で、俺はようやく現実を飲み込み始めていた。 契約結婚。 持参金不要。 返事が遅れれば意思は無視。 なんだあの男。 だが、腹を立てている暇はない。 前世で学んだ。 わけの分からない案件ほど、まずは情報だ。 感情で飛びついたら負ける。 だから俺は、その日のうちにリーゼロッテの周辺を洗い始めた。 使用人の顔色。 部屋に残された手紙。 机の引き出し。 寝室の奥に押し込まれていた日記。 拾えるものから拾う。 やがて見えてきたのは、単純な恋愛騒ぎじゃなかった。 リーゼロッテ・フォン・グラーフェン。 侯爵家の一人娘。 由緒も格式もある。 だが、現金には余裕がない。 そこへ現れたのが、ハインリヒ・フォン・ローゼンベルク。 顔がいい。 言葉が甘い。 社交界で人気がある。 そして――金遣いが荒い。 日記はひどく分かりやすかった。 優しかった。 私だけを見てくれた。 運命だと思った。 そんな言葉が並ぶ一方で、 別の書類には持参金の話、 婚約に伴う支出、 微妙に増えていく不自然な名目が積み上がっていた。 恋愛だと思っていたのは、どうやらリーゼロッテだけだったらしい。 さらに、父から直接話を聞いてようやく全体が繋がった。 父は無能ではなかった。 むしろ有能だった。 だからこそ、婚約と家名を利用した信用の食い荒らしに気づいた時には、もう後戻りしにくいところまで来ていた。 家を守るにも、娘を守るにも、遅れた。 そこで破談騒ぎ。 醜聞。 服毒。 綺麗に追い込まれている。「……最悪だな」 思わず零れた。 その夜、ハインリヒが来た。 来訪を聞いた瞬間、吐きそうになった。 胸の奥がざわつく。怒りとも嫌悪とも違う、もっと生々しい拒絶反応だった。 これは、俺の感情じゃない。リーゼロッテの身体に残っている何かだ。 正面から会えば、飲まれる。 そう判断して、俺は来訪を断らせた。「本日は、お嬢様はお会いになれません」 扉の向こうで、使用人がそう告げる。 それでも俺は、裏手へ回った。 会わない。だが、見る。 感情でぶつかる前に、どんな男かこの目で確かめたかった。 そう思って角を曲がった瞬間、視界の端で人影が重なった。 薄暗い廊下の陰で、男がメイド
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第4話 条件のあとで、口づけを

 翌日、ユリウスは時間ぴったりに現れた。  相変わらず無駄のない黒の礼装。  氷みたいな顔。  だが昨日より、こちらを見る目だけはわずかに変わっている気がした。 「返事を」  前置きもない。 「……わかった」  俺は椅子にもたれたまま言う。 「お前と結婚する」  ユリウスの瞳が、ほんの少しだけ和らぐ。  だが、そこで終わらせるつもりはなかった。 「でも、条件は交渉させてもらう」  ユリウスは静かに言った。 「聞きましょう」  短い返答だった。  でも侮りはない。  前世で嫌というほど見てきた。  曖昧な善意と口約束ほど、後で人を裏切るものはない。  だから条件を言葉にする。善意ではなく、責任の場所を決める。  だから、ここで引くわけにはいかなかった。 「まず、実家の保護」  ユリウスの視線が少しだけ鋭くなる。 「曖昧に守るじゃなくて、具体的にだ。  父と家を、今回の醜聞ごと切り捨てないこと」 「いいでしょう」  ユリウスの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。 「続けて」 「離縁後の自由。  契約結婚なら、終わりがある前提だ。  その時、どこでどう生きるかまで縛られるのはごめんだ」 「離縁を前提に話を進める婚約者は、初めて見ました」 「初対面で契約結婚を持ちかける宰相も、そういないだろ」  そこで、ユリウスがはっきり笑った。  その笑顔に、不意打ちみたいに胸が鳴った。 (……っ)  顔がいい。笑えば破壊力が増す。  それだけのはずなのに、ちゃんと交渉相手として扱われているのが少しだけうれしくて腹が立つ。 「最後に、私が使える予算と人員」  俺はわざと気を取り直すように続けた。 「結婚した後、ただ飾られて終わる気はない。  情報を集めるにも、動くにも、手足が要る」 「……本気ですね」 「お前が始めたんだろ」 「ええ」  ユリウスは静かに頷いた。 「ですが、ここまで条件を切ってくるとは思っていませんでした」 「口約束は信用ならない」  前世の教訓を、そのまま吐き出す。 「後で『そんなつもりじゃなかった』って言われるのが一番面倒なんだ」  ユリウスは、そこで初めて目を伏せた。  何かを考えるように。 「……惜しいですね」 「は?」 「こんなに胆力のある令嬢は、そう多く
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第5話 恋人のふりをした詐欺師

 応接間の扉が開いた瞬間、空気がわずかに変わった。  先に反応したのは控えていたメイドたちだ。  背筋を伸ばしたまま、視線だけが自然と一箇所に吸い寄せられていく。  金の髪。  柔らかな笑み。  ハインリヒ・フォン・ローゼンベルク子爵令息。  女好き。  それも、隠そうともしないタイプの。  視線の運び方が、もう慣れている。  女の表情、声色、立ち位置。  どこまで踏み込めば許されるかを、身体で覚えてきた男の目だった。 (……顔だけでここまで渡ってきたんだろうな。男に嫌われる男だぞ、こいつ)  優雅に一礼し、俺の前に腰を下ろす。  その視線は、心配する恋人のそれを装いながら、油断した獲物を測るようにこちらの表情を探っていた。 「リーゼロッテ……君が自殺未遂をしたと聞いて、心配で飛んできた」  甘く、柔らかい声。  けれど、口角の端がほんのわずかに上がっている。 「あの平民上がりの宰相に、無理強いされたんだろう?  僕が守る。だから、もう怖がらなくていい」  来た。  俺はわざと目を潤ませ、視線を伏せた。 「……ありがとうございます、ハインリヒ様」  声をかすれさせる。 「脅されて……署名を……。  でも……私の心はまだ、ハインリヒ様のものです……」  ハインリヒの目が一瞬だけ輝いた。  隠しきれない安堵。  計算がうまく回り始めた時の目だ。 (さんざん持参金を巻き上げて、まだ懐を狙うんだから欲が深い。けど、それがお前の命取りだ) 「そうだよ、リーゼロッテ。君は美しくて一途だ。  僕も君以外を愛することなどできない」  彼は立ち上がり、距離を詰めてくる。 「僕がそばにいれば、きっと幸せになれる……」  伸ばされた手が、俺の指先に触れかけた、その瞬間。  どくん、と心臓が跳ねた。 (……くそ、この身体、まだ反応するか)  条件反射。  理屈じゃない。  でももう誤魔化さない。  俺はそっと手を引いた。  代わりに、顔を伏せる。  泣いているように。 「……ハインリヒ様……父にもう一度頼んでみますわ。  ユリウス様との婚約を破棄して……ハインリヒ様と……」  子爵令息は舌なめずりをするみたいな笑みを浮かべた。 「もちろん。いつでも待っているよ。  君以外と結婚など考えられない」
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第6話 派手にやりましょう

 社交界から追い出された令嬢に、夜会の招待状など届くはずがない。  ……そう思っていたが、金箔の縁取りの封筒が、机の上に置かれていた。 (来たな)  差出人は――  ヴァルデン伯爵家。  俺が招待状を見せると、ユリウスは差出人の名に一瞬だけ目を走らせる。 「ヴァルデン伯爵家か。  王家とも宰相府とも距離を取っている、中立派だ」  淡々とした口調。  評価というより、事実の整理。 「未亡人の伯爵夫人で、社交界では顔が利く。  今回の招待は――  我々の婚約の様子見だろう」 「なるほど……」  俺は小さく頷きながら、胸の内で別の記憶を引きずり出す。 (日記には、何て書いてあったっけ)  ――噂好きの未亡人。  ――ドレスチェックが怖い。  ――でも、敵には回したくない。 (……派閥とかあるのは、結局はどこも一緒か)  俺は小さく息を整えてから、顔を上げた。 「あなたの言う通り、情報を集める。  被害を受けた令嬢たちの声も、噂の流れも――それからあの男の行状も」  ユリウスは机に置いていた書類から視線を上げる。  氷のような瞳が、こちらを静かに捉えた。 「それでいい」  短く言い切ってから、淡々と続ける。 「君が集めた情報は、すべてこちらで整理する。  証言の信頼性、金銭の流れ、時系列――  法的に使える形に落とし込むのは、俺の仕事だ」  それだけでは終わらないというように、言葉を継ぐ。 「貴族院と王家への根回しも、俺がやる。  宗教税との絡みで歪んでいる制度については、  抜け穴を塞ぐ改革案を用意する」  そこまで言って、ようやく視線が和らいだ……気がした。 「頼りにしていますよ、宰相閣下」  俺は招待状を畳み、そっとテーブルに置いた。  それから、ふと気づく。  ユリウスは、今日も当然のように俺の部屋に顔を見せに来ている。  王都でもっとも多忙なはずの男が、なぜか。  理由は、すべて建前で説明できた。  ――問題を起こした令嬢の監督。  ――婚約者としての最低限の確認。  どれも正しい。  正しいが……頻度が、少しおかしい。  俺は思わず、口に出していた。 「それにしても……宰相閣下。  今日も私の部屋にいらっしゃいますね」  わざとらしく首をかしげてみせる。 「お暇な
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第7話 あなたに触れられるくらいなら

「……自殺未遂、ですって」 「婚約破棄したくても、できなかっただけじゃない?」 「可哀想。  今度は宰相様に拾ってもらったのね」 「平民出身の変人宰相とお騒がせ令嬢、お似合いね」  その囁きが、夜会の空気をわずかに歪めた。  集められた令嬢たちは、最初、俺を囲むように立った。  誰も正面からは見ない。  扇子の陰。  肩越しの視線。  小声の笑い。  くすくす、と笑い声。  同情を装った、刃。 (ああ、これだ)  川に落ちた人間をつつく空気。  会社では、いつもの光景だ。  俺は、何も言わない。  ただ、鏡越しに全員の顔を見た。  家格。  年齢。  視線の向き。 (……なるほど) 「でも、運がよかったじゃない?」  誰かが言う。 「ハインリヒ様に捨てられただけで済んで」  その言葉に、別の令嬢が、ほんの一瞬だけ顔を強張らせた。  俺は、その瞬間を逃さなかった。 「……皆さま」  静かに声を出すと、笑い声が、すっと引く。 「一つだけ、伺っても?」  誰も答えない。  でも、全員がこちらを見る。 「ハインリヒ様から、  君だけだと言われたことのある方」  豪華な部屋に沈黙が落ちる。  ――一人、戸惑いながら手が上がった。 「あ……私……」  次の瞬間。 「……え?」  別の令嬢が、目を見開く。 「それ、私も……」  さらに。 「私も……です」 「……私も、そう言われました」  次々と、声が重なる。  空気が、変わる。  さっきまで俺をつついていた令嬢たちが、互いの顔を見る。  笑みが消え、理解が、恐ろしい速さで広がっていく。 「……嘘」 「私だけだって……」 「そんな……」  誰かの扇子が、床に落ちた。  俺は、淡々と続ける。 「持参金。  贈り物。  援助という名目のお金」  視線が、俺に集まる。 「皆さま、同じ時期に、同じ言葉をかけられていません?」  否定の声は、出なかった。  代わりに、  誰かが、震える声で呟く。 「……私だけじゃ、なかったの?」  その瞬間。  いじめの空気は、一気に、崩れた。  俺は、そこで初めて、はっきり言う。 「皆さんは、被害者です」  風向きの変え方は、よく知っている。  ここで彼女たちを責めれば、
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第8話 媚薬を盛られた夜に

 ――あの気取ったクソ女。  ハインリヒは、ワイングラスを強く握りしめた。  指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥の苛立ちはまったく収まらない。  主役は、僕のはずだった。  リーゼロッテは泣いて、縋って、最後には僕に選ばれる側の女だったはずだ。  それがどうだ。  今夜、皆の視線はあの女に集まり、僕は、ただの背景に押しやられた。 (……調子に乗りやがって)  優しくしてやれば、すぐ勘違いして、  少し触れれば、すぐ顔を赤くして、  「君だけだ」と言えば、簡単に縋りついてきた。  そういう女だったはずだ。  僕の言葉一つで、感情も、態度も、簡単に変わる――  都合のいい存在だった。 (それが、何を勘違いしている)  宰相?  所詮は平民上がりの理屈屋だ。   権力はあっても、人の扱い方は知らない。  女なんて、怖がらせて、依存させて、「自分にはこの男しかいない」と思い込ませれば、それで終わりだ。  今まで、全部そうしてきた。  リーゼロッテも、例外じゃなかったはずだ。  ハインリヒは、内ポケットに忍ばせた小瓶に指をかけた。 (……もう一度、思い出させてやる)  誰の言葉に震えるのか。  誰の前で、顔色が変わるのか。  誰の前で、声が掠れるのか。  あの澄ました顔が崩れる瞬間を、  今度は、最前列で見せてもらう。 ***  夜会の余韻が、ようやく引き始めたころだった。  ヴァルデン伯爵夫人の屋敷は、来客の波が引き、静けさを取り戻しつつある。  俺は客用の私室に通され、椅子に腰を下ろして、深く息を吐いた。 「今夜は、ご活躍でしたわね」  夫人はそう言って、静かに立ち上がる。 「少し休みなさい。  使用人に、飲み物を持ってこさせますわ」  それだけ告げて、扉の外へ出ていった。  しばらくして、控えめなノック。  夜会用の制服を着た若いメイドが、銀盆にグラスを載せて入ってくる。 「お疲れでしょう。お水を」  差し出されたグラスに、俺は礼を言って口をつけた。  ――その瞬間、違和感が走る。 (……変な味がする)  舌に残る、かすかな香り。  不自然なほど、後を引く。  ……少したってから。  喉を滑り落ちる液体が、熱い塊のように、胸の奥へ落ちてきた。  思考が、わずかに遅れる。
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第9話 氷の婚約者は奪わせない

「やめて……!」  頭では拒否しているのに、身体が、熱に負けていく。  視界が霞み、息が、熱く、浅くなる。  ハインリヒは、俺の肩を押して、ゆっくりとベッドに倒し込む。 「ほら、いい子だ。  もう、抵抗しなくていい」 「いやだ……!」  声が震えて、思わず手が彼の胸を押す。  力が入らない。  なのに、必死に。 「やめろっ……やめろって言ってるだろ!」  言葉が荒くなる。  普段の丁寧さなんて、どこかに吹き飛んでる。  ただ、逃げたい。  触られたくない。  なのに、身体は逆らって、熱を溜め込んでいく。  ハインリヒの目が、愉しそうに細まる。 「ふふ……そんな声、出されると、もっとしたくなるよ」  彼の指が、鎖骨をなぞりながら、さらに下へ。  俺は必死に首を振る。 「いや……っ、やめろ! 触るな!」  声が上擦る。  息が切れて、言葉が途切れ途切れになる。  それでも、止まらない拒絶の言葉が、喉から溢れ出る。 (いやだ) (それなのに)  その瞬間。  扉が、勢いよく開いた。  ユリウス・フォン・アイゼンが、そこに立っていた。  氷のような瞳が、部屋全体を一瞬で凍らせる。 「俺の婚約者に何をしている」 「違う、誘われたんだ。  このふしだら女に」  ハインリヒが、俺を指さした。  そう言われて、顔が熱くなる。 (……違う、ただ) (身体が、勝手に……)  喉が詰まる。  反論の言葉が、遅れる。  その沈黙を、ハインリヒは都合よく笑った。 「ほらな。  俺を誘惑して――」 「……違う」  自分でも驚くほど、声が冷たく出た。  まだ身体の奥に、熱の名残がある。  それが、悔しい。 「……薬……媚薬を盛られた。  だから、私……」  言い切った瞬間、空気が凍った。  ユリウスの瞳が、完全に色を失う。 「……誰に」  たった二文字。  それだけで、背筋が粟立つ。 「――こいつに」  俺が視線で示すより早く、ユリウスが一歩踏み出した。 「……俺の婚約者に、何をした」  声は低く、抑揚がない。  しかし、そこにあったのは、静かな、しかし確実な殺意。
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第10話 抱かれなかった夜のほうが、忘れられない①

 正直に言えば、もう、抱かれたいほどに熱くなっていた。  なのに、彼は――触れようともしなかった。  彼の瞳は、氷のように冷たいままだ。  けれど、その奥で、何かが揺れたように見えた。  微かに、息が乱れているのがわかる。 「……リーゼロッテ」  低く、抑えた声で呼ばれる。  俺はベッドに上体を起こし、外套を握りしめたまま、視線を合わせた。  身体はまだ熱い。  媚薬の残滓が、肌の下を這うように疼く。  息が、浅く、速い。  ユリウスは一歩近づき――  しかし、決して触れようとはしない。  彼の指先が、わずかに震えているのが見えた。 「今、君に触れたら……  俺は、理性が保てなくなるかもしれない」  声は、いつもより低く、掠れている。  普段の冷徹な宰相の仮面が、ほんのわずか、剥がれかけていた。  俺は、喉を鳴らす。 (……もう抱いて欲しい)  頭のどこかで、そう思ってしまう。  媚薬のせいだと、自分に言い聞かせる。  けれど、心の奥底では、違う声が囁いた。 (この男だから、抱かれたい……?)  俺は唇を噛んだ。  視線を逸らそうとして――逸らせなかった。 「ユリウス……お願い……私……」 (待て待て、俺は何を言おうとしてる?)  ユリウスは、ゆっくりと息を吐く。  喉仏が、上下に動く。 「君の身体が、求めているのはわかる。  だが……それは、君の本心じゃない」  彼は、ベッドの端に腰を下ろす。  距離は、触れられるほど近く。  それでも、決して触れない。 「今、俺が手を伸ばせば、  君は受け入れてしまうかもしれない。  だが、明日の朝……。  君は、俺を憎むだろう」  その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。  彼の瞳が、初めて見るような、苦しげな色を帯びる。 「俺は……君を、そんなふうに奪いたくない」  声が、わずかに震えた。  俺は、思わず手を伸ばしかける。  だが、ユリウスは静かに、その手を避けた。  触れさせない。 「今は、待つ」  それだけ言うと、ユリウスは立ち上がった。  踵を返し、そのまま扉の方へ向かう。 「……?」  声を出す間もなく、扉が静かに閉まった。  一人きりになった部屋は、急に広く感じた。  さっきまで確かにあった気配が消えて、  胸
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