Mag-log in社畜のまま過労死した俺が目を覚ますと、そこは持参金と醜聞に追い詰められた侯爵令嬢の身体だった。元婚約者に搾取され、毒まで盛られ、家ごと沈みかけた俺に手を差し伸べたのは、“冷血宰相”ユリウス。 「持参金は要らない。俺と契約結婚しろ」 それは生き残るための取引のはずだった。だが二人で暴いたのは、令嬢を値札付きの商品として売り買いする貴族社会と教会の闇。心は男のままなのに、俺は次第にこの冷たい男と惹かれ合っていく。契約結婚から始まる、制度改革と執着愛。 ※TS(性別転換)転生/精神的BL要素を含みます。 主人公は前世男性で、女性の身体に転生します。
view more午前三時。
玄関の鍵を閉めた瞬間、胸の奥に電流が走った。 激痛。 息が詰まり、視界が歪む。 (……あ、これ) 膝から崩れ落ち、床に手をついた。 心臓が、変な打ち方をしている。 (……過労死、ってやつか) 俺は、死ぬほど価値のある仕事をしていたのか。 答えはたぶん、違う。 社内政治にじわじわ押し潰されながら、流される方が楽だと黙っていた。 だから―― 「……もう二度と、流されない」 それだけ呟いた。 心臓の音が、遠ざかる。 天井が滲み、世界がほどけていく。 ――そして、俺は死んだ。 *** 目を開けると、天井が高かった。 凝った模様が、やけにくっきり見える。 (……豪華だな) そう思った次の瞬間、違和感が襲った。 胸が……重い。 柔らかい。 嫌な予感に、視線だけを下へ落とす。 「……は?」 心臓が、爆音を立てた。 頭が真っ白になる。 (待て待て待て待て待て) 思わず、上体を起こす。 薄いシーツが胸の上で、不自然に盛り上がった。 反射的に触れた瞬間、ぞっとした。 柔らかい。 俺の身体じゃない。 嫌な汗が背中を伝う。 呼吸が浅くなる。 まさか、と思いながら、震える手でシーツの下をごそごそ探る。 「……うそだろ」 ない。 あるべきものが、どこにもなかった。 「なんだよ……これ」 声が高い。 喉の奥から出た音が、自分のものに聞こえなくて鳥肌が立つ。 手も細い。指も白い。 長い髪が肩に落ちている。 (嘘だろ。俺、女になってる?) 意味が分からない。 でも身体は、容赦なく現実を押しつけてくる。 胸の重さも、高い声も、何もかもが男だった俺を勝手に塗り替えていく。 そのとき。 コン、コン。 控えめなノック。 返事をする前に、扉が開いた。 「あら……生き返られたんですね、お嬢様」 溜息まじりだ。 若い女。 ドラマやアニメで見るようなメイドの服を着ている。 お嬢様。 誰のことだ? この部屋には俺しかいない。 じゃ、俺のことなのか? 「……誰だよ、お前」 メイドが怪訝そうに眉を寄せる。 「本気で仰っているんですか?」 廊下から、足音が近づいてくる。 ゆっくり、迷いなく。 「――ユリウス・フォン・アイゼン宰相閣下がお見えです」 メイドが小さく鼻で笑った。 「冷血宰相とお騒がせ令嬢だなんて、お似合いですこと」 (冷血宰相? お騒がせ令嬢? どういうことだ?) メイドが一歩下がる。 「ちょっ……待て」 止めるより早く、男が現れた。 黒の礼装と、肩にかかる銀髪。 装飾を削ぎ落とした立ち姿に、氷のような瞳。 怖い、と思った。 同時に、息を呑むほど綺麗だとも思ってしまって腹が立つ。 (なんでだよ、こんな状況で) しかも相手は、男だ。 なのに、この身体はその男が近づくだけで勝手に緊張していた。俺の意思とは無関係に。 ベッド脇の机に、書類を置く。 音一つ、立てずに。 「……放蕩、面会拒否の次は、服毒による自殺未遂ですか」 淡々とした声。 放蕩? 面会拒否? 服毒? いや、待て待て。 それは俺が、いや、この身体がやったのか? 「……どういうことだ?」 「記憶がないのですか?」 「ああ」 ユリウスは、そこでわずかに首を傾けた。 「……では、俺のことも忘れましたか? あなたの知らせを聞いて胸を痛めていたのに」 次の瞬間、するりと腕が背中に回った。 逃がさないとでも言うみたいに引き寄せられ、耳元に吐息が触れそうな距離まで詰められた瞬間、身体がびくりと震えた。 声音だけ聞けば、傷ついた婚約者そのものだった。 けれど距離の詰め方が正確すぎる。 (……っ、いや、待て待て。近いだろ) 心臓がうるさい。 理性では警戒しかないのに、身体は勝手にこわばる。 そのとき、気がついた。 唇に、薄い笑みが浮かんでいる。 ――こいつ、笑ってる。 簡単に操れると思っている、そういう顔に見えた。 責任を押しつける前にだけ優しい顔をする上司を、前世で何人も見てきた。 「……演技だろ」 ユリウスの動きが、ほんの一瞬止まった。 「なぜ、そう思うんです?」 「近づき方がうますぎる。 傷ついた顔も、声も、全部きれいすぎる。 人をその気にさせるやつのやり方だ」 そこで言葉を切る。 ドキドキが消えない。 でも、その完成度の高さには、同じ男として少しだけ感心してしまった。 女を落とすことにも、人を観察することにも慣れている。 こんな男が本気で甘い顔をしたら、たぶん大抵の女は落ちる。 「……でも、本気じゃない」 ユリウスはしばらく黙っていた。 薄い笑みが消える。 そこで初めて、目の前の男がこちらをきちんと見た気がした。 「あなたは、噂とは少し違うようだ」 「……噂?」 「放蕩で、軽薄で、感情的な令嬢だと聞いていました」 「知らない」 吐き捨てるように言ってから、息を吸う。 「放蕩も、軽薄も、何のことだか分からない。 目が覚めたら、この身体だったんだ」 言ってから、しまったと思った。 だがユリウスは笑わなかった。 「……そうですか」 声音は変わらない。 信じ切ったわけでも、戯言として切ったわけでもない。 ただ保留したまま、情報として棚に上げるような返事だった。 ユリウスは、わずかに視線を下ろした。 胸元、喉、指先。 俺の今の有様を一度で把握するみたいに。 それから、何でもないことみたいに言った。 「では、自己紹介をしておきましょう」 冷たい灰銀の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。 「私はユリウス・フォン・アイゼン」 一瞬の間。 「あなたの婚約者です」「……よろしくお願いします」 セインは肩をすくめ、元の冷たい微笑みに戻る。 「……仕方ありません」 その夜から、俺たちの「潜入」は、本格的に始まった。 *** 深夜の廊下は、音がない。 祈りの時間が終わってから一刻以上が経っている。 蝋燭の火が、わずかに揺れる。 俺はセインと並んで、管理室の扉の前に立っていた。 「……鍵は?」 小声で尋ねると、セインは肩をすくめた。 「祈るより簡単ですよ」 細い針金が、鍵穴に滑り込む。 かすかな音。 ほんの数秒。 ――かちり。 俺は思わず息を止めたまま、扉を押す。 中には、棚。棚。棚。 床から天井まで、帳簿の山だった。 「……うわ」 思わず本音が漏れる。 セインが低く笑った。 「でしょうね。 俺がいくら鍵を開けられても、これじゃ探しようがない」 数百冊はある。 革表紙、紙表紙、色も厚さもばらばら。 普通なら、ここで詰む。 ――でも。 俺は、棚の前に立ったまま、目だけを動かす。 背表紙の色。 紙の焼け方。 角の擦れ具合。 綴じ糸の緩み。 インクの染み。 ……見覚えがある。 前世で、毎日見ていた。 誰も読まない資料の束。 締切前夜に積まれた、意味のない報告書。 「重要そうに見せる」ためだけの装丁。 (……似てる) 俺は、左から三段目の棚に手を伸ばした。 一冊、抜き取る。 薄い。 新しい。 でも、端だけが不自然に擦れている。 ――頻繁に開かれている。 ページをめくる。 「……あった」 声が、思ったよりも静かだった。 そこには、整いすぎた文字が並んでいた。 受け入れた日付。 番号。 名前。 年齢。 出身家名。 そして、その横に淡々と記された移送先と、謝礼金額。 最後に押された、教会の受領印。 言い訳の余地もない。 「……これ」 俺が帳簿を差し出すと、セインは眉をひそめたまま覗き込み、次の瞬間、わずかに目を見開いた。 「……本気かよ」 ぽつり、と呟く。 いつもの皮肉でも、軽口でもない。 「金額まで書いてある……」 「……ええ」 俺はページをめくり続ける。 日付。 印章。 受領確認の署名。 そこ
保護院の門をくぐった瞬間、空気が変わった。 昼間の荘厳さとは違う、重く、湿った静けさ。 シスターが、俺を小さな部屋まで案内する。 「ここが、あなたのお部屋です。 明朝から、祈りと手伝いを始めていただきますわ」 部屋は簡素だった。 ベッド、机、二重円環の聖紋がひとつ。 扉が閉まったあと、俺は深く息を吐いた。 (……入った) これで、内側から見られる。 でも、すぐに動くわけにはいかない。 まずは、様子見だ。 夜の祈りの時間。 保護院の娘たちが、礼拝堂に集められる。 白いドレスを着た少女たち。 膝を揃え、目を伏せ、祈りの言葉を繰り返す。 ……整いすぎている。 その中に、エルミーネの姿があった。 列の端。 俯いたまま、肩がわずかに震えている。 俺は、遠くから見つめるしかなかった。 (……エルミーネ) 目が合わないよう、視線を逸らす。 それでも、胸が痛む。 祈りが終わると、シスターが穏やかに言った。 「皆さん、神の御意志に従い、 明日も穏やかな一日を」 少女たちは、無言のまま部屋へ戻っていく。 俺は自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。 (……まだ、何も掴めていない) だが、やることは決まっている。 (証拠を探す) (教会が、仲介料を受け取っているという証拠を) 噂や感情では足りない。 帳簿でも、記録でも、金の流れでもいい。 否定できない「形」が必要だ。 (……どこかに、あるはずだ) この建物の中に。 この教会の、どこかに。 俺は、静かに息を整えた。 (まずは、様子を見るところから) 扉が、かすかにノックされた。 俺は、反射的に息を止めた。 こんな時間に、誰が—— ゆっくりと扉が開く。 そこに立っていたのは、白い修道女服を着た若い女性だった。 ……美人。 一瞬で、そう思った。 長い黒髪を後ろで束ね、伏せた睫毛は異様に長い。 鼻筋は通り、唇は淡く紅を差したように赤い。 (ユリウスが言ってた、セイン・クローディア) (……本当に、男なのか?) 女装だと分かっているのに、そう疑いたくなるほど、仕草のすべてが洗練されていた。 歩き方、立ち姿、視線の落とし方。 すべてが女性として完璧すぎる
振り返る前から、分かってしまう。 振り返った瞬間、そこにいたのは——ユリウスだった。 一瞬、息が止まる。 「……どうして、ここに?」 問いかけると、彼は視線を逸らしたまま答えた。 「……夫人から、連絡を受けた」 「……止めに来たんですか?」 わずかに間があった。 「……止めたかった」 低い声だった。 「……でも、君を止められそうにない」 胸の奥が、わずかに揺れる。 「この間は、すまなかった」 俺は、思わず瞬いた。 「……君の言っていることは、正しい」 「……本気で、そう思ってるんですか?」 問い返すと、ユリウスはわずかに眉を寄せた。 「教会のやり方は歪んでいる。 だが俺が動けば、あの連中は必ず改革派ごと潰しに来る」 「……やっぱり、立場の話ですか」 そう言うと、ユリウスの目がわずかに揺れた。 「……それだけじゃない」 声が、少し低くなる。 「教会を見るたび、思い出す。……姉のことを」 俺は、息を呑んだ。 彼が止めていた理由に、姉のことが絡んでいるなんて、想像もしなかった。 「泣きながら、俺の袖を掴んでいた。 行きたくない、と……言い続けていた」 指先が、わずかに強く握られている。 「だが俺は、何もできなかった」 静かな告白だった。 「……だから、また同じことが起きるのが怖かった」 しばらく、言葉が出なかった。 「……それで、私を止めたんですか」 「……ああ」 肯定だった。 「……でも」 俺は、小さく息を吸った。 「私は、あなたに守られている側でいるだけじゃ……嫌なんです」 ユリウスの視線が、はっきりと俺を捉えた。 「……君は、強いな」 「強いわけじゃないです。ただ……もう、逃げたくないだけで」 沈黙が落ちる。 やがて、ユリウスが静かに言った。 「……それでも、君を危険にさらしたくない」 「……分かっています」 「失うことに、耐えられない」 胸が、はっきりと鳴った。 「……それでも、行きます」 しばらく、何も言わなかった。 やがて、ユリウスは小さく息を吐いた。 「……だろうな」 そして、低く続ける。 「……だから、一人では行かせない」 顔を上げる。 「俺の側近をつける。名はセイン・クローディア」 「…
ヴァルデン伯爵夫人は、紅茶をひとくち飲んでから、しばらく何も言わなかった。 ただ、俺をじっと見ている。 値踏みではない。 同情でもない。 ——決断を測っている目だった。 「……あなた、本気なのね」 静かな声だった。 「ええ」 俺が頷くと、夫人はわずかに口角を上げた。 「困った令嬢ですこと。 持参金制度の次は、教会とか」 責める調子ではない。 むしろ、呆れと、ほんの少しの感心が混じっていた。 夫人は、しばらく俺を見つめてから、ふと、何気ない調子で尋ねた。 「……宰相閣下は、ご存じなの?」 その一言で、胸の奥が、きしりと鳴った。 ——閉まる扉の音が、はっきりと思い出される。 『……今は、この話を続けるべきじゃない』 あの、冷えた声。 俺は、ほんの一瞬、息を止めた。 「……いいえ」 そう答えるまでに、わずかな間があった。 夫人は、すぐには何も言わなかった。 ただ、俺の表情を見て、すべてを察したようだった。 「……そう」 それだけ言って、視線を紅茶に落とす。 責めるでもなく、詮索するでもなく。 ただ、静かな理解だけがあった。 それが、余計に痛かった。 俺は、膝の上で指を強く組み直す。 (……それでも) あの人に否定されたから、やめるのか。 ——違う。 むしろ、あの扉が閉まった瞬間から、 俺は、もう戻れなくなっていた。 「教会に踏み込めば、あなたはもう客人ではいられなくなります」 「……分かっています」 「表から抗議しても、扉は閉ざされるだけ。 内部に入れば、今度は簡単には抜けられない」 紅茶の表面が、わずかに揺れる。 「それでも?」 俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。 正直に言えば、怖い。 俺には何一つ身を守るすべはない。 教会という「聖域」に、自分から踏み込むなど、正気の沙汰ではない。 ……でも。 「それでもです」 声は、思ったより静かだった。 「見なかったことには、できません」 夫人は、ふう、と小さく息を吐いた。 「……やれやれ」 そして、ついに言った。 「方法が、ひとつだけありますわ」 胸が、かすかに強く打った。 「教会に預けられる側になれば、あなたは守られるだけの存在になります」 「…