私は一ノ瀬若菜(いちのせ わかな)。夫の一ノ瀬司(いちのせ つかさ)と秘書の藤森理紗(ふじもり りさ)は、とてもただの上司と部下には見えなかった。私が「藤森って、もう辞めたの?」とひと言聞いただけで――司はいきなり手にしていたグラスを私に投げつけた。そして私を、嫉妬に取りつかれた女だと罵った。「お前が余計なことを言うから、理紗は辞めることになったんだ!離婚はしないって言ってるだろ! 若菜、お前はいったい何がしたいんだ!」私は何も言い返せなかった。腕に走った鋭い痛みを感じながら、床に散らばった破片を黙って拾い集める。司は知らない。私はもう、離婚協議書を用意している。腕には浅くない傷ができ、じわりと血がにじんでいた。胸の奥まで刃物で刺されたみたいに痛かった。私はしばらく、その傷口を見つめたまま動けなかった。これまで、私がどんなに拗ねても、司が手を上げたことなんて一度もなかった。まして、物を投げつけられるなんて。それなのに司は、私のほうを一度も見ようともせず、不機嫌そうな声で言った。「若菜、お前っていつからそんなに嫉妬深くなったんだ。本当に失望したよ」そう言い捨てると、振り向きもせず部屋を出ていった。残されたのは、冷たい背中だけだった。その迷いなく遠ざかっていく背中を見つめながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。嫉妬深い……?鼻をすすって涙をこらえようとしたのに、苦しさだけが胸の奥いっぱいに広がっていった。司と結婚してからの八年間、私はずっと彼を支えてきた。会社だって一緒に立ち上げて、何もないところからここまでやってきたのに。昔の司は、私のことを世界でいちばん優しい子だと言ってくれた。そしてそっと抱きしめながら、こう約束してくれたのだ。「若菜、絶対に幸せにする。お前に辛い思いなんてさせない」あの頃の私は、本気でそう信じていた。司と結婚できたことが、人生でいちばんの幸せだと。――でも。理紗が現れてから、すべてがおかしくなっていった。司はことあるごとに理紗の話をしては、優秀だとか気が利くだとか褒めてばかりいた。そのうち助手席に乗せるようになり、同じコーヒーを二人で分け合って飲むようになっていった。私が不機嫌になると、司は眉をひそめて私を見る。
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