ログイン幸い処置が早かったおかげで命に別状はなかったけれど、理紗は脚を骨折し、それ以来、彼女は車椅子で暮らしていくことになった。そして司もまた――誰もが一目置く一ノ瀬グループの社長だった彼は、今では世間から哀れな男として見られる存在にまで成り下がってしまったらしい。そこまで話すと、彩加はしみじみとため息をついた。そして少し肩の力を抜いたように笑いながら言った。「あのとき離婚しておいて、本当によかったよ。じゃなかったら今ごろ若菜まで、司と一緒に苦しい思いしてたかもしれないし」私は肩をすくめながら、腕の中の子猫の背中をそっと撫でる。司がどんなに惨めな毎日を送っていようと――もう私には関係ない。だって今の私は、とても幸せだから。新しい家があって、新しい猫がいて、それから……私を想ってくれる人もいる。そう。英治が「恋人のふり」をしてくれるようになってから、彼は少しずつ、自然に私の生活の中へ入り込んでくるようになった。気がつけばもう、あれは演技なんかじゃなくて――まっすぐに私を想ってくれていた。そのことを知ったのは、つい最近のことだ。英治は大学の頃から、ずっと私のことを想ってくれていたらしい。けれど気持ちを伝える前に、私が司と付き合い始めたと聞いて――その想いをずっと胸の奥にしまい込んだままだったという。でも、司と過ごした八年間が報われることはなかった。だから今の私は、どうしても恋に慎重になってしまう。それでも英治は、そんな私の気持ちをちゃんと理解してくれていて。無理に答えを急がせることもなく、ただ静かに隣にいてくれる。だから――いつか。隣に英治がいる人生も、悪くないって思える日が来るのかもしれない。……その後、私は英治のプロポーズを受けた。私が花が好きだと知っていた英治は、家の近くに小さな花屋を開いてくれた。仕事の合間にはいつも店に顔を出して、花束を包むのを手伝ってくれる。風が吹くたび、店先の風鈴が澄んだ音を鳴らし、薔薇の香りがふわりと店の中へ流れ込んでくる。特別なことがあるわけじゃないけれど、あたたかくて満ち足りた毎日だった。そんなある日のことだった。店の扉が開き、ひとりの客が入ってくる。私はいつものように声をかけた。「いらっしゃいませ。どんなお花をお探しですか
英治は背筋を伸ばし、胸を軽く叩いた。「俺だよ」英治は、自分が私の新しい恋人のふりをすれば、司もきっぱり諦めるはずだと言った。私は思わず目を丸くした。すると英治はそんな私を見て笑った。「どうした?俺じゃ役不足か?」私はお茶をひと口飲んで、くすっと笑った。「先輩、またそんなこと言って。学生のころ、先輩のこと好きな人なんていくらでもいたじゃないですか」すると英治はふっと表情を引き締めた。「冗談じゃないよ。本気だ」その日、夕焼けに染まる湖を渡る風が、水面だけじゃなく、私の心まで静かに揺らしていた。そのあと私は英治と一緒に帰国した。戻ってすぐ、家の近くで司が待っているのが見えた。私の姿を見つけた途端、司は慌てて駆け寄ってくる。けれど私の隣を英治が並んで歩いているのを見て、司ははっきり動揺した様子を見せた。司は警戒するように英治を見てから、私に問いかけた。「若菜、そいつ誰だ?」私は小さく笑った。「紹介するね。私の恋人の氷川英治さん」それを聞いた司は、信じられないというように首を振った。「嘘だ。そんなはずない!お前はあんなに俺のこと好きだったじゃないか。俺を捨てるなんてありえない。どうせ俺を騙すために連れてきたんだろ!」今にも壊れてしまいそうなその様子を見て、私はふとやるせない気持ちになった。今さら後悔したって、もう遅いのに。私はまっすぐ司を見て言った。「司、たしかにあなたを愛していた時期はあったよ。でも、それはもう過去の話。今の私は、もうあなたを愛していない」司は相当こたえたのか、声を詰まらせるように呟いた。「若菜……」私はその先を言わせず、静かに言った。「司、これ以上がっかりさせないで」司は何か言いかけたけれど、結局何も言えなかった。最後にもう一度だけ私を見つめて、司はぽつりと言った。「……わかった」そう言うと力なく背を向け、そのままふらつくように去っていった。……私の生活は、ようやく元の落ち着きを取り戻していた。そのあと司の様子を聞いたのは、彩加からだった。彩加の話では、離婚してからの司はすっかり参ってしまって、部屋に閉じこもって酒ばかり飲んでいるらしい。何度も飲み過ぎで体を壊して、そのたびに病院に運ばれているという話だった。
「どうしてだよ、若菜。どうして離婚なんだ?俺はお前がいないとだめなんだ!」私はもう何も言わず、そのまま通話を切った。翌日、ゴミを出しに外へ出ると、家の前の端にうずくまっている司の姿が目に入った。私に気づいた司は、はっとしたように立ち上がった。目は真っ赤で、ろくに眠っていないのが一目でわかる。髪もぼさぼさで、ひどくやつれていて、まるで別人みたいだった。司は慌てて駆け寄り、私の手をつかんだ。「若菜、頼む。行かないでくれ。俺は本当に、お前がいないとだめなんだ!」私は反射的に手を振りほどいた。「一ノ瀬さん。もう私たちは離婚しています。ですから、ここから立ち去ってください」私の冷たい態度に焦ったのか、司はその場で膝をついた。「若菜、誓う。もう二度とあいつには会わない!だから戻ってきてくれ。頼む……戻ってきてくれ。本当に愛してるんだ!」私は彼を見下ろした。まるで知らない人を見るみたいな気持ちだった。「愛してる?司、自分で言ってておかしいと思わないの?私を置いて藤森のところへ行ったときも、藤森のために私を責めたときも、私が贈った財布の中に藤森との写真を入れていたときも――自分が私を愛してるなんて思えた?」私の言葉に、司は震えながら後ずさった。かすれた声で、彼は言った。「本当に……悪かったと思ってる」その目には、まだ期待が残っていた。私が許してくれるんじゃないかと。私は冷たく言い放った。「今のあなた、これと同じ。見てるだけで気持ち悪い」そう言ってゴミを捨て、そのまま家に戻った。玄関のドアを閉めると同時に、司の縋るような視線も遮った。それから数日間、司はずっと家の前に居座っては、離婚しないでくれ、もう一度だけチャンスをくれと繰り返していた。でも司。私はあなたに、一度どころじゃない。何度もチャンスをあげてきたのに。私が無視し続けていると、司は食事もろくに取らず、家の前に膝をついたままだった。あまりにもしつこく付きまとわれて、さすがに耐えきれなくなり、気分転換に海外へ行こうとドイツ行きの航空券を取った。けれど――そこで思いがけない再会が待っているなんて、そのときの私は思いもしなかった。飛行機に乗ってしばらくした頃、隣からふいに弾んだ声が聞こえた。「若菜?」顔
司はすぐに車を走らせ、理紗のマンションへ向かった。理紗は少し熱があるようで、司はおかゆを作って食べさせ、そのまま眠るまでそばについていた。ようやく落ち着いたのを見届けて、司は小さく息をついた。ソファに腰を下ろしたとき、ふと違和感を覚えた。いつもなら、半日家を空けただけでも若菜から電話がかかってきて様子をうかがってくる。それなのに今回は、二日帰っていないというのに何の連絡もない。少し考えてから、司は若菜に電話をかけた。だが、呼び出し音が鳴り続けるだけで出る気配はない。司は眉をひそめ、小さく舌打ちした。「若菜のやつ、また拗ねてるのかよ。本当に手がかかるな」そう思いながら車を走らせ、家へ戻った。だが玄関を開けた瞬間、家の中は真っ暗だった。いつもなら、若菜が食事を用意してソファに座り、帰りを待っている時間のはずだった。司が帰ると、あれこれ気遣うように声をかけてくるのが当たり前だったのに。その気配が何もないことに、司は苛立ちを覚えた。若菜はどうしたんだ。今はもう、自分のことなど気にもかけていないのか。それどころか食事すら用意していないのか。「若菜!若菜!」玄関を入るなり名前を呼ぶ。だが返事はない。家の中は妙に静まり返っていた。そこでようやく胸騒ぎを覚え、司は慌てて二階へ駆け上がった。寝室に入った司は、その場で立ち尽くした。残っていたのは自分の物だけで、若菜の荷物はきれいになくなっていた。司は一気に気が焦り、慌てて若菜に電話をかけたが、やはり出ない。仕方なく彩加に電話をかけると、二回鳴ったところでつながった。「もしもし?」「西野か?若菜はそっちにいるのか?」電話がつながるなり、司はすぐに問いただした。彩加は私をちらりと見たが、言葉を挟む間もなく司が続ける。「西野、お前から若菜に言っとけ。もう子どもみたいな真似はやめろってな。今すぐ帰ってくるなら、今回は許してやる」彩加の様子がどこかおかしいことに気づき、私は声をかけた。「どうしたの?」彩加は口パクで私に伝える。「司」私はスマホを受け取り、短く言った。「私が出る」私の声が聞こえた途端、司は間を置かずに言った。「若菜、理紗が具合悪くて、俺が二日付き添ったくらいで何なんだよ。わざわ
「奥様、どうしてこちらに?」声をかけられて、思わず目を見開いた。そこに立っていたのは、司の秘書の桜田陽太(さくらだ ようた)だった。私はやわらかく微笑んで尋ねる。「司は?」陽太は言いにくそうに視線を泳がせた。「社長は、その……」その様子を見れば十分だった。どうせ、まだ理紗のそばにいるのだろうと思った。小さくうなずく。「そう」離婚協議書を司のデスクの上に置いた。そして陽太に言った。「司が戻ったら、これを渡して。内容に問題がなければ、そのまま署名してもらって」陽太は書類に目を落とし、驚いたように目を見開いたあと、私を見た。けれど何も言わず、小さくうなずいた。「かしこまりました、奥様。社長が戻られたら必ずお伝えします」その返事を聞いてから、司のオフィスをあとにした。家に戻ると、荷物をまとめ始めた。司は会社にもいなかったし、家にも帰っていない。きっと今ごろは理紗のそばに付き添っているのだろう。――そのほうがいい。そのほうが、私にとっても気が楽だった。荷造りの途中で、司から電話がかかってきた。「もしもし、若菜。今夜は家に帰る」私は淡々と答えた。「そう」電話の向こうで、司は一瞬言葉を詰まらせたようだった。少し間を置いてから言う。「俺は、お前が浮気するような女じゃないって信じてる。だから帰ったらちゃんと説明しろ。納得できれば今回のことは不問にしてやる」信じてる……?思わず、口元に薄い笑みが浮かんだ。――今さら、そんなものはいらない。私は何も答えずに電話を切ると、SIMカードを抜き取ってゴミ箱に放り込み、そのまま荷造りを続けた。私の荷物はもともと少ない。まとめるのに時間はかからなかった。スーツケースを引いて外へ向かいながら、最後に八年間暮らしたこの家を振り返る。あの日も私はスーツケースをひとつ引いて、大きな期待を胸にこの家へ入ってきた。そして今、出ていくときも――持っているのはやっぱりスーツケースひとつだけだった。玄関まで行くと、彩加がもう車を手配して待っていてくれた。彩加は私の手からスーツケースを受け取ると、静かに聞いた。「決めたんだね?」私はうなずき、小さく笑った。迷いのない私の表情を見て、彩加は微笑みながら手を差し
胸の奥に、どっと疲れが広がった。もうこれ以上、彼に何かを説明する気にもなれない。失望をにじませながら、私は口を開いた。「司、私たち――離……」そこまで言いかけたところで、不意に着信音が鳴り響いた。表示された名前に目を落とす。理紗。思わず、小さく息を吐いて顔をそむけた。司はちらりと私を見たあと、どこか気まずそうに視線を逸らす。そして体を少し背け、そのまま電話に出た。私に聞かせないつもりなのだろう。けれど――理紗の声は、はっきり耳に届いた。「司さん……こほっ……私、体調を崩しちゃって。来てくれませんか?」その瞬間、司の表情が変わった。「ひどいのか?」「大丈夫です……そんなにひどくは……こほっ……」受話器の向こうから、か細い咳混じりの声が聞こえてくる。司は眉を強く寄せた。「そんな咳してて大丈夫なわけないだろ。待ってろ、今すぐ行く」通話を切ると、司は私を睨んだ。「若菜。その話は帰ってからだ。あとでちゃんと説明してもらう」そう言い残すと、もう私には目もくれず、足早に部屋を出ていった。まるで逃げるみたいに去っていく背中を見ていると――思わず笑いそうになった。テーブルの上に置かれた、出来たばかりの離婚協議書に目を落とす。もう終わりにしなきゃいけない。翌朝になっても、司は帰ってこなかった。仕方なく、離婚協議書を持って彼の会社へ向かった。司のデスクは相変わらずきれいに整えられていて、必要最低限の仕事道具しか置かれていない。けれど――椅子の上にだけ、小さなピンク色のブタのぬいぐるみがぽつんと置かれていた。理紗がいたころ、彼女が司に買ったものだ。オフィスが殺風景すぎるから、明るい色のぬいぐるみを置いて雰囲気を和らげたい――そんな理由だった。司はもともと几帳面な性格で、オフィスに余計な物を置くのをいちばん嫌う人だった。以前、私が観葉植物を置こうとしたときも、司は眉をひそめて言った。「若菜。ここは仕事をする場所だろ。こういうのは好きじゃない。もう買ってこなくていい」それなのに今は、そのこだわりも理紗の前ではあっさり覆されている。思わず、口元に苦笑が浮かんだ。ふと、デスクの上の財布が目に入った。就職したばかりのころ、初めてまとまったお金で司に贈った