All Chapters of 何年過ぎても、君とはもう逢えない: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」「わかったわ」瑞希はシステムの案内に従い、新しい身分を選んだ。システムによれば、この一か月のあいだに彼女は少しずつ今の記憶を失っていき、記憶が完全に消えたとき、今度はその身分の記憶が意識に流れ込んでくるという。一通りの手続きを終え、瑞希が真っ暗な部屋を出ると、気づけば街の広場に立っていた。そのとき、広場の大型ビジョンには、阿部浩一(あべ こういち)が全国各地で彼女にプロポーズしている映像が流れていた。「きゃああ、何この理想すぎるカップル!阿部さん、溺愛しすぎでしょ。さっき数えたんだけど、阿部さんって藤ヶ谷さんを二十一か国も連れて行って、そのたびにプロポーズしてるの!しかも毎回ちゃんと凝った演出つきで、お花も風船も全部そろってるし、何より毎回指輪が特注なんだよ?恋愛ドラマでもここまでできないでしょ?」「ほんとだよね。阿部さんって本当に藤ヶ谷さんのこと愛してるんだなあ。しかも藤ヶ谷さんを育て上げたのも彼だって聞いたことある」「阿部社長は藤ヶ谷さんを育てただけじゃないよ、彼女のためなら命だって惜しまないんだから。前に遊びに行ったとき、藤ヶ谷さんがうっかり川に落ちたことがあってさ、そのとき阿部社長、ためらいもなく飛び込んで助けに行ったの。なのに自分が泳げないの忘れてて、結局スタッフに二人まとめて助け上げられたんだって」「そうそう、それ覚えてる。前に藤ヶ谷さんがインタビューでその話してたよね。阿部社長、そのことがきっかけで水泳まで習いに行ったんだっけ……あはは、ほんと面白すぎる」たしかに、おかしかった。瑞希もあのときの騒動を思い出して、思わず笑ってしまった。けれど笑っているうちに、ふいに涙がこぼれ落ちた。誰もが知っている。浩一が瑞希を命より大切に想い、彼女のためなら命すら投げ出せることを。けれど誰も知らない。浩一が人目を避けるように郊外の屋敷で愛人を囲って、まだ端役ばかりの新人女優を丸一年も住まわせていたことを。会社の用事だ、残業
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第2話

「どいて、道を開けろ!」聞き慣れた声が耳に飛び込んできたかと思うと、次の瞬間、瑞希の体はふわりと抱き上げられていた。「阿部社長が来た!本物、めっちゃかっこいい!」瑞希がけがをしていないか、どれほど痛い思いをしたかなんて、誰も気にしていなかった。誰もが羨ましそうな目で、浩一が彼女を抱き上げる姿を見つめていた。二十人ほどのボディガードに守られながら、浩一は彼女を抱いたまま、一歩ずつ人混みの外へ出ていった。瑞希を車に乗せ、自分の膝の上に座らせると、脚や手の擦り傷を見て、浩一の胸がたまらなく痛んだ。「レストランで待っててって言ったのに、どうして一人で出てきたんだ?痛むか?手と脚のほかに、どこかけがしてないか?」「大丈夫よ」瑞希は痛みをこらえながら、そっと手を引っ込めた。浩一は安心できず、どうしても病院で検査を受けさせると言い張った。移動のあいだ中、彼は彼女を抱いたまま下ろそうともせず、傷ついた手をそっと包んではふっと息をかけ、頭を撫でながら優しくあやしていた。「大丈夫だ、もうすぐ病院に着くからな」その心配そうな表情は偽物には見えなかった。さっき現場で見せた焦りも、嘘には思えなかった。あれほど私を愛し、大切にしているのなら、どうしてほかの女を愛して、毎晩のように抱けるのだろう。瑞希にはわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。彼がいとおしむように彼女に口づけようとしたとき、瑞希は顔をそむけてそのキスを避けた。「キスしないで。汚い」浩一は、彼女の顔が汚れていると言われたのだと思ったのか、甘やかすように彼女の顔を包み込み、その頬に強くキスを落とした。「汚くなんてない。俺の嫁さんがいちばん綺麗だ」汚いのはあなたよ。瑞希は心の中でそうつぶやいた。浩一は軽い潔癖症で、人に自分や自分の物を触られるのを嫌っていた。けれど七歳のとき、泥だらけだった彼女を阿部家へ連れ帰ったのは、ほかでもない彼だった。今この瞬間も、土埃にまみれた彼女の頬に、ためらうことなく愛おしさのこもった口づけを落としていた。彼はかつて言っていた。自分の体も心も、受け入れられるのは彼女だけで、彼女以外の誰にも触れさせない、と。今になって思えば、その言葉はあまりにも皮肉だった。胸をえぐられるような痛みは、きっとこういうことを言うのだ
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第3話

【ウサギのおまわりさんが、オオカミさんを捕まえちゃうよ~】添えられていた写真には、美桜がバニーガール風の挑発的なコスチューム姿で、ある男の膝の上に腰かけていた。手は男の下腹部よりさらに下へ伸び、男もまた両腕で彼女を引き寄せていた。その節くれ立った手は見間違えようがなかった。とくに手首の腕時計は、今朝、瑞希が自分の手でつけてやったものだった。薬指の指輪も、彼女が自らはめたものだ。さらに下へスクロールすると、もっと際どい写真が出てきた。二人はベッドに横たわり、上半身裸の浩一の胸元に、美桜が口づけしていた。写真だけではなかった。十五秒の動画まであった。映像は天井を向いていて、人の姿は映っていない。けれど、声には聞き覚えがありすぎた。「ねえ、ダーリン、私のこと好き?」「最後まで入ってるのに、好きかどうかなんて聞くのか?ん?」「やだぁ、どうしてそんな言い方するの」「お前がそんなにいやらしいからだろ」甘えた吐息と戯れる声がスマホ越しに耳に流れ込み、瑞希は一瞬、目の前がくらんだ。胸が苦しくて、息すらできなくなりそうだった。そのとき、朔夜が検査結果を持って彼女のもとへ歩いてきた。「瑞希さん、結果が出ました」瑞希はすぐにスマホを閉じ、顔を上げて彼を見た。「医者によれば、とくに問題はないそうです。薬を出してもらえば、そのままお帰りいただけます」「そう」瑞希はわずかに顎を上げ、涙がこぼれないよう必死にこらえた。病院から家へ戻るころには、もう空は暗くなり始めていた。家に着くなり、浩一から電話がかかってきた。夕食は家では食べないから、適当に何か食べておいてくれ、という。浩一は潔癖気味で、家の中に他人を入れるのを好まなかった。そのせいで、二人が別に住むようになってからは、住み込みの家政婦は雇っていなかった。引っ越したばかりのころ、瑞希は家政婦がいない生活に慣れず、自分でも料理ができなかった。すると浩一は毎日のように午後の早いうちに仕事を切り上げて帰り、彼女のために食事を作ってくれた。あのとき彼女は、笑いながらこう言ったものだ。「うちの大社長、何百億の案件を断って帰ってきて私にごはん作るなんて、損にならないの?」すると彼はこう答えた。「妻のために料理するくらいで、損するわけないだろ。奥さんを粗末にする
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第4話

「この人、誰?」「芸能界の新星、高瀬美桜よ。この前、山下監督の映画を撮り終えたばかりで、しかも山下監督に直々に引き抜かれたんだって。どこかの大物に溺愛されてて、山下監督が推して売り出すらしいよ!」最後のひと言に、瑞希は思わず足を止めた。そういえば、山下監督が今年撮る予定の映画には、彼女もオーディションを受けていた。最初は主演に決まったと言われていたのに、そのあと山下監督から電話があり、もっと適任が見つかったと言われたのだ。その相手が、まさか美桜だったなんて。瑞希は反射的に浩一を見た。けれど当の本人は美桜のほうを見ようともせず、彼女の手を引いてレストランへ向かった。「お腹すいただろ。先に食事にしよう」皆も浩一と瑞希に続いてレストランへ入っていった。中に入ると、瑞希は手を洗いに行った。そして席へ戻ってみると、美桜がいつの間にか同じテーブルについていて、彼女とは一席分だけ離れた場所に座っていた。その間の席にいたのは、ちょうど浩一だった。「美桜は今、うちの所属俳優なんです。ちょうどこの近くで撮影していたものでね。藤ヶ谷さん、一人増えても構いませんよね?」山下監督は浩一ではなく、わざと瑞希にそう尋ねた。そのことが、彼女にはたまらなく不快だった。つまり山下監督は、浩一と美桜の関係を知っているのだ。「構いません」瑞希は淡々と答え、それ以上は何も言わなかった。食事のあいだじゅう、浩一は瑞希の世話を焼きっぱなしだった。料理を取り分けてやり、海老も殻をむいて食べやすくしてやっていた。けれど誰にも見えないテーブルの下では、美桜と浩一の脚がわざとらしくもなく、自然に絡み合っていた。表向きは穏やかでも、テーブルの下ではとっくに波立っていた。瑞希には食欲がなかった。数口食べただけで、もうお腹いっぱいだと言い、少し外を歩いてきたいと告げた。「俺も一緒に行こうか?」本当に一緒に行く気があるなら、そんなふうに尋ねたりはしない。「いいわ。みんなとお酒でも飲んでいて」ただ胸の奥が詰まって、苦しかった。少し外を歩いていると、以前共演した俳優とばったり会い、しばらく立ち話をした。それからレストランに戻ると、みんなはもう食事を終えて、三階のプレイルームへ移ったと店員に告げられた。瑞希はスマホを取り出して浩一に連絡し
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第5話

スキー板を制御できず、そのまま滑り落ちてきたのは美桜だった。そして彼女が叫んだのは浩一の名前だった。「助けて――」浩一はほとんど反射的に瑞希の手を放し、手にしていたスキー板を投げ出して、まっすぐ美桜のもとへ駆けていき、そのまま彼女を受け止めた。浩一が美桜を抱きとめたのを見て、まわりにいた人たちは一斉にほっと息をついた。「よかった、阿部社長の反応が早くて。じゃなきゃ高瀬さん、転んでたよ」「でも阿部社長って潔癖気味で、ほかの女には触れないんじゃなかった?」「緊急事態だったんでしょ。しかも高瀬さんの後ろには、相当な大物がついてるって噂じゃない。何人もの監督が彼女に気に入られようとしてる、気づかなかった?後ろ盾でもなければ、山下監督や葉野監督みたいなクラスの人たちが、新人相手にあそこまで肩入れするわけないでしょ」「昨日聞いたんだけど、その大物、高瀬さんにリゾートまで一つ贈ったらしいよ。しかも名目だけじゃなくて、本当に丸ごと。実際の収益まで全部彼女のものなんだって」瑞希はその場に立ち尽くしたまま、血の気が引いていくのを感じていた。なるほど。このリゾートは、美桜に贈られたものだったのか。彼女は何も言わず、まるで他人事のように周囲の噂話を聞いていた。そして同時に、美桜が甘えた声で浩一に礼を言うのも耳にしていた。一応は礼儀正しくお礼を言ったあと、美桜は浩一の耳元へ顔を寄せ、彼にしか聞こえない声で囁いた。「阿部社長に命を救っていただいたご恩……この身でお返ししたいんです。だめ……ですか?」これだけ人目がある以上、浩一は美桜の体をまっすぐ立たせ、それから瑞希のところへ戻ってきて、こう説明した。「まだ営業前のリゾートだからな。彼女がここで事故でも起こして開業に響いたら困る。だから支えただけだ。行こう、上で俺が一緒に滑ってやる」「急に気分が悪くなったの。みんなで滑ってて。私は先に帰るわ」もうこれ以上、浩一に合わせて芝居を続ける気力なんて、瑞希には残っていなかった。彼女はスキーウェアを脱ぐと、そのまま背を向けて立ち去った。瑞希が去っていくのを見て、美桜の目には得意げな色がよぎった。浩一が追いかけようとする気配を察すると、彼女はすぐに歩み寄り、わざとらしく柔らかな口調で言った。「瑞希さん、どうして帰っちゃうんですかぁ?もし
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第6話

電話は二回鳴っただけですぐにつながった。けれど、スマホの向こうから聞こえてきたのは浩一の声ではなく、美桜の甘ったるい吐息混じりの声だった。「ダーリン、すごい……気持ちよすぎるよぉ~」「これがお前の望んでたことじゃないのか?」「私が欲しいのはこんなのだけじゃないよ。あなたの愛、全部ほしいの。くれる?」「欲張りだな」「ねえ、くれるの、くれないの?」「やるよ。命だってくれてやる」極限までねっとりとしたやり取りに、熱でぼんやりしていた瑞希の頭は一瞬で少しだけ冴えた。これ以上はとても聞いていられなくて、彼女は通話を切った。暗い部屋の中で、全身から冷や汗がにじんでいた。スマホを握る手は激しく震えていた。浩一。どうしてあなたは、ここまで私に残酷でいられるの?せめてこの一か月だけでも、静かに過ごさせてはくれないの?浩一が帰ってきたのは、翌朝早くのことだった。昨夜、朦朧とした意識の中で目を覚ましたときも、熱は下がっていなかった。瑞希は苦しみながらベッドから起き上がり、服を着替えて病院へ行こうとしていた。まだ階下へ降りきる前に、外から戻ったばかりの浩一が慌ただしく入ってきた。「瑞希、ただいま」浩一は何事もなかったかのように声をかけ、そのまま大股で歩み寄って彼女を抱きしめようとした。瑞希は体を少しずらして、その腕を避けた。あの濃い香水の匂いは、わざわざシャワーを浴びてきたのだとしても、完全には消えていなかった。もともと体調が悪いところへ、その匂いをかいで、いっそう吐き気がこみ上げた。「ねえ、怒らないでくれよ。お前が先に帰るってメッセージくれたとき、俺も戻って付き添うつもりだったんだ。でも向こうで急にちょっとしたことが起きて、それで残るしかなくて」「そう」瑞希は目を上げて浩一を見た。無表情のまま、一言だけ返した。「そうなんだよ。航平のやつが遊びたがって、わざわざ上級コースで滑ろうとしてさ、転んで骨折したんだ。だから俺、付き添いで病院まで行ってたんだよ」たしかに彼の体からは消毒液の匂いがした。けれどそれが本当に友人・葉野航平(はの こうへい)のために病院へ行ったせいなのかどうかまでは、わからなかった。瑞希の表情が少しだけ和らいだように見えたのか、浩一は手を伸ばして彼女の手を握った。「手、こんな
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第7話

その腹をかばうようにそっと撫でる仕草に、瑞希は眉をひそめた。「浩一さんとあれだけ長く一緒にいたのに、一度も子どもができなかったでしょう……それだけで、もう十分わかるわ。あなたはその程度の存在だったってこと。あなたにプロポーズして、結婚の約束までしたのだって、長年一緒にいた情に流されただけよ。でも私は違う。浩一さんは私といるとき、一度だって避妊なんかしなかった。最初から、私に自分の子を産ませるつもりだったのよ。ちゃんと期待に応えられてよかったわ。私のお腹、なかなか優秀でしょう?しかも先生に、双子だって言われたの。浩一さんも、阿部家のみなさんも、今から私のお腹の子が生まれてくるのを楽しみにしてるわ」どん――頭の中で何かが激しく弾けたようだった。頭も、心臓も、同時に打ち砕かれ、血だらけになった気がした。「瑞希さん、あなたには浩一さんの子どもを産む資格なんてないのよ。ああ、違うか。資格がないんじゃなくて――産めないんだったわね?」瑞希の顔から血の気が引いた。どれほど力を入れても感情を押さえきれず、指先も唇もかすかに震えていた。浩一は、どれほど美桜を愛しているのだろう。こんなことまで、彼女に話していたなんて。しかも、自分がもう子どもを望めない体になったのは浩一をかばったせいなのに、彼はそのことに一言も触れず、その事実さえ、美桜に彼女を踏みにじる材料として使わせていた。「黙って。もうそれ以上言わないで!」瑞希は感情を抑えきれず、声を荒らげた。「どうして黙らなきゃいけないの?子どもができないんだから、言われたくないってこと?」美桜は得意げに笑った。その自信に満ちた笑みは何も言わずとも、自分がすでに勝っていると瑞希に突きつけていた。「だから言ってるでしょ。浩一さんはあなたなんか愛してないの。だからあなたのことは何でも私に話す。でも、あなたは私のことを何も知らない。違う?」その一言が瑞希の胸を貫いた。心臓のいちばん太い血管を突き破られたようだった。心がずたずたに裂けるようだった。瑞希は唇をきつく噛みしめた。美桜のあの勝ち誇った顔を見ているうちに、ついに我慢できなくなり、起き上がって手を振り上げた。その平手を美桜の頬へ打ち下ろそうとした、まさにそのときだった。病室のドアが開き、浩一の母――阿部夫人が入ってきた。
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第8話

ドアの隙間から見えたのは、美桜だった。そしてそこには、先ほど「少し遅れる」とメッセージを送ってきた浩一の姿もあった。そのとき浩一は、甲斐甲斐しく美桜に食事を口元まで運んでいた。しかも彼が食べさせていたのは、阿部夫人が手ずから作った、椎茸と鯛の雑炊だった。「さっき瑞希ちゃんのところへ行って、何を言ったの?」阿部夫人は部屋に入るなり、美桜を問い詰めた。「何も言ってませんよ。具合が悪いって聞いたから、ちょっと気にかけただけです」美桜は浩一の腕の中に身を縮め、猫の前の鼠のようにおとなしくしていた。「瑞希のところへ行ったのか?」浩一も眉をひそめ、不快そうな顔をした。「言ったはずだろ、俺たちのことは絶対に瑞希に知られてはいけないって!俺の妻になれるのは、瑞希だけなんだ!」「でも、私……」美桜は唇を噛み、ひどく悔しそうな顔をした。「じゃあ、お腹の子はどうなるんですか?」「美桜、まずは落ち着いて。子どものことは、阿部家としてちゃんと認めるわ。ただ、もうすぐ浩一と瑞希の結婚式なのよ……」「そんなの知りません。私、自分の子が生まれた瞬間から隠し子なんて呼ばれるの、絶対に嫌です!しかも一人じゃなくて、二人なんですよ!」「隠し子なんてことになるわけがないよ。私がちゃんとあなたの味方をするから、心配しなくていいわ」「おばさま、そう言ってもらえて安心しました」美桜は手首の腕輪を軽く持ち上げて、さらに言い添えた。「阿部おばあさまからおばさまに受け継がれた腕輪まで私にくださったんですもの。そりゃ安心しますよ」……瑞希はドアの外に立ち尽くし、血の気が凍りついたように感じていた。そうだったのか。阿部夫人は、ずっと前から全部知っていたのだ。何も知らず、彼女がこのことを知ったら自分のために胸を痛めるだろうと心配していた自分だけが、まるで笑い話だった。考えすぎだったのだ。苦しくて、泣きたくてたまらないのに、もう涙は一滴も出てこなかった。感情のせいなのかどうかわからないが、いったん下がっていた瑞希の熱はまたぶり返した。今度はそのまま42度まで上がり、どうしても下がらなかった。意識はずっと朦朧としていて、食事も喉を通らず、水さえ飲めなかった。浩一は病床のそばに付き添っていた。彼女が食べなければ、彼も食べなかった。医者
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第9話

何事もなくここを離れるために、瑞希はブライズメイドたちを部屋には入れず、外で待たせていた。だからこのとき、部屋の中にいるのは彼女一人だけだった。そして、浩一は中へ入ってきた。屋敷は内も外もすっかり飾りつけられていた。瑞希がいちばん好きなピンクを基調に、ピンクの風船とピンクローズが部屋いっぱいにあしらわれていて、温かくてロマンチックな雰囲気に包まれていた。ついさっきメイク担当が、ウェディングドレスをまとい、化粧を終えた瑞希の横顔を一枚撮って送ってきた。その横顔だけでも息をのむほど美しかった。実際に本人を目にしたら、どれほど心を奪われるのか、想像もつかなかった。浩一が瑞希を好きになったのは、十年前のことだった。藤ヶ谷家と阿部家は、昔から子ども同士を結婚させる約束をしていた。だから瑞希は阿部家に引き取られたそのときから、浩一の将来の嫁のように見なされていた。子どものころから浩一は、自分は大きくなったら瑞希を嫁にもらうものだと思っていた。ただ、あのころの彼女に対する気持ちは責任感に近いものだった。それが、十七歳の夏だった。クラスに突然転校してきた男子生徒が、瑞希をひと目見た瞬間に一目惚れし、彼女を口説くと言い出したのだ。そのときになって初めて、浩一は思い知ったのだ。自分が瑞希を想うのは、責任や両家の婚約のせいだけではない、と。彼女以外の人と結婚する気になれないのは、心の底から彼女を深く好きだからなのだと。それに彼には潔癖があり、たしかにほかの女に触れられるのは耐えられなかった。物心ついてから今に至るまで、家族以外で自分のそばに寄れたのは彼女だけだった。だから周囲はよく冗談まじりに言っていた。瑞希こそ、神様が浩一に与えた運命の相手なのだと。浩一自身も、その言葉を心から信じていた。浩一は緊張しながら部屋の扉をノックし、その場で襟元を整えた。少しの乱れもあってはならないと思った。「瑞希?どうして返事しないんだ。もしかして俺と同じで緊張してるのか?」扉に寄りかかるようにしてそう言うと、自分で言って自分で笑ってしまった。「知ってるか?俺、この日を十年も待ってたんだ」浩一の手には、ピンクのバラの花束が抱えられていた。初めて正式に彼女へ想いを打ち明けたときと、同じように。ただ、あのときは学生服
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第10話

浩一はハムスターの小屋の前に立ち、危うくその場で倒れそうになった。彼は潔癖で、どんなペットも好まなかった。以前、瑞希が犬を飼いたいと言い出したときも、彼は却下した。すると彼女は、犬も猫もだめなら、小さなハムスターを何匹か飼うくらいならいいでしょう、とねだったのだ。「ハムスターならケージの中から出てこないし。ねえ、お願い、許して?いいでしょ?」浩一はしぶしぶ了承した。しかも庭のそばにわざわざ小さな小屋まで作らせて、ハムスターたちはそこで飼うことにした。瑞希は本当に細やかに世話をした。最初は二匹だけだったのに、いつの間にかどんどん増えていった。浩一はハムスターのにおいが嫌で、ここには一度も来なかった。ただ、瑞希が送ってくる動画を通して、その様子だけは見ていた。だが今、その十数匹のハムスターたちは、瑞希と一緒に消えていた。「瑞希……俺がペットを飼うのにすんなり賛成しなかったから、怒ってるのか?そうなんだろ?戻ってきてくれないか。戻ってきてくれるなら、猫でも犬でも、お前が飼いたいものは何でも許すから」浩一はふらつく足取りで小屋の中へ近づいた。中にはまだハムスターのにおいが残っていたが、彼は少しも顔をしかめなかった。けれど、小屋の中は空っぽだった。「社長……」秘書がびくびくしながら入り口まで来て、報告した。「屋敷中をくまなく探しましたが、瑞希さんは見つかりませんでした」「役立たずどもが!こんな大人一人見つけられないのか!」浩一は目を赤くして怒鳴った。「引き続き探せ!」「監視カメラは確認したのか?」「確認済みです。瑞希さんが屋敷を出て行く様子は映っていませんでした」ここは高級住宅街の一角だ。周囲には監視カメラが張り巡らされていて、死角はほとんどない。しかも、屋敷の門前には朝からずっと人が立っていた。裏庭には出入口がなく、もし塀を越えようものなら警報が鳴る。瑞希は女性一人で、しかもウェディングドレス姿だった。あの短時間で二階の窓から飛び降り、塀を越えて外へ出るなど、あり得ない。そのことは、浩一自身がいちばんよくわかっていた。それなのに、どうして瑞希は突然いなくなったのか。「探せ!どこに隠れていようと、必ず見つけ出せ!!」「かしこまりました、社長」朔夜はいったん下がったが、しばらくしてま
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