「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」「わかったわ」瑞希はシステムの案内に従い、新しい身分を選んだ。システムによれば、この一か月のあいだに彼女は少しずつ今の記憶を失っていき、記憶が完全に消えたとき、今度はその身分の記憶が意識に流れ込んでくるという。一通りの手続きを終え、瑞希が真っ暗な部屋を出ると、気づけば街の広場に立っていた。そのとき、広場の大型ビジョンには、阿部浩一(あべ こういち)が全国各地で彼女にプロポーズしている映像が流れていた。「きゃああ、何この理想すぎるカップル!阿部さん、溺愛しすぎでしょ。さっき数えたんだけど、阿部さんって藤ヶ谷さんを二十一か国も連れて行って、そのたびにプロポーズしてるの!しかも毎回ちゃんと凝った演出つきで、お花も風船も全部そろってるし、何より毎回指輪が特注なんだよ?恋愛ドラマでもここまでできないでしょ?」「ほんとだよね。阿部さんって本当に藤ヶ谷さんのこと愛してるんだなあ。しかも藤ヶ谷さんを育て上げたのも彼だって聞いたことある」「阿部社長は藤ヶ谷さんを育てただけじゃないよ、彼女のためなら命だって惜しまないんだから。前に遊びに行ったとき、藤ヶ谷さんがうっかり川に落ちたことがあってさ、そのとき阿部社長、ためらいもなく飛び込んで助けに行ったの。なのに自分が泳げないの忘れてて、結局スタッフに二人まとめて助け上げられたんだって」「そうそう、それ覚えてる。前に藤ヶ谷さんがインタビューでその話してたよね。阿部社長、そのことがきっかけで水泳まで習いに行ったんだっけ……あはは、ほんと面白すぎる」たしかに、おかしかった。瑞希もあのときの騒動を思い出して、思わず笑ってしまった。けれど笑っているうちに、ふいに涙がこぼれ落ちた。誰もが知っている。浩一が瑞希を命より大切に想い、彼女のためなら命すら投げ出せることを。けれど誰も知らない。浩一が人目を避けるように郊外の屋敷で愛人を囲って、まだ端役ばかりの新人女優を丸一年も住まわせていたことを。会社の用事だ、残業
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