All Chapters of 十年追いかけた愛は嘘だった: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

修二は一瞬、呆然とした。その隙をつき、純子は慌てて彼から逃れる。乱れた呼吸のままバッグを漁り、震える手で診断書を取り出した。「赤ちゃん、もう6週目なの。もう心拍もあるのよ」修二は雷に打たれたように、その場で動けなくなった。「あの子、戻ってきてくれたのよ。また私たちの子どもになりたかったんだと思う。修二……今度こそ三人でちゃんと暮らそう?」純子は感情を込め、静かに訴えた。修二の脳裏に、一瞬のうちに夏美が妊娠したときの喜びがよぎる。検査室で子どもの心音を聞いた瞬間、彼と夏美は抱き合って涙を流した。あんなに子どもを愛していた夏美が、どうして中絶なんかしたのだろう。真実を確かめるために、修二はスリッパのまま家を飛び出そうとした。「修二、どこへ行くの?」純子は焦って修二の前に立ちはだかった。「結婚してくれなくてもいい。でも、お腹の赤ちゃんを見捨てないで!」純子は子どもを切り札にした。「隠し子だったあなたは、大変な思いをしてきたでしょう?だからお願い……この子まで、そんな思いをさせないで。幼い頃からいじめられたりされたら、かわいそうすぎる」その言葉が修二の急所を突いた。彼は目を細め、純子の腹を見つめながら、口元を歪めた。「そうだな。俺の子どもを隠し子にはできない。とりあえず病院へ行って、検診を受けよう」純子の胸がじんと温かくなり、彼の腕にそっと手を回した。「やっぱり、修二は私と赤ちゃんを愛してくれてるのね」病院で、純子はエコー写真に映った小さな豆粒のような姿に見入り、声を弾ませて言った。「修二、見て!これが私たちの赤ちゃんよ。可愛いでしょう……!」修二はモニターをじっと見つめ、無表情のまま言った。「純子、この子が好きか?」純子は小さくうなずいた。修二は彼女のお腹に手を当て、目に冷たい光を宿す。「そうか。じゃあ、取り出してお前にやるよ」その言葉が終わらないうちに、純子はベッドへ押さえつけられ、手術室へと運ばれていく。「修二、それ、どういう意味?」純子が絶叫する。「言葉通りの意味だ」「嫌よ……この子はあなたの子なのよ!あなたの子を産ませてくれるって約束したじゃない!」修二は何かを思い出したように、ベッドの前に立ちはだかった。「前回の中絶のとき、全身麻酔だっ
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第12話

修二は再び引き返し、静かに祈った。「どうかこの願いをお聞き届けくださいませ。夏美を見つけ出し、必ずや彼女を連れ戻させてください。この世で夏美を幸せにできるのは、この私だけなのですから」寺を出ると、純子は修二の車に押し込まれた。「修二、これで私たちのことは清算されたでしょ?もう私を解放してくれない?」「いいよ。ただし、最後に一か所だけ付き合ってもらう」観覧車。「純子、俺って優しいだろう?今日はこの観覧車、俺たち二人のためだけに動かしてるんだから」観覧車が頂上で止まる。修二は気だるげにシートにもたれ、純子に語りかける。「俺は十八のとき、夏美を妻にすると誓った。けど二十八になってもまだ叶ってない。なぜだと思う?」純子の心はすでに氷のように冷めきっていた。「俺は力不足だから」修二は顎を引き、深く息を吸い込むと、顔を背けて遠くの海を見つめた。「怖かったんだ。夏美はあまりにも純粋で、美しすぎだ。彼女と一緒にいると、自分が惨めに思えて仕方ない。彼女の特別な愛情に溺れながらも、本性を知られるのが怖かったんだ」修二は苦笑した。「後になってようやく気づいたよ。自分がどれほど愚かだったかを。夏美は最初から、俺が打算をもって近づいたことをわかっていたのに、それでも俺のそばにいてくれた」彼は深く息を吸い込んだ。「夏美は、俺がいちばん苦しくて、自尊心を失っていた時期を共に過ごしてくれた。あの暗い時期は、今でも口にしたくないほどだ。それからというもの、幸せを感じるたびに、胸の奥で『自分にはその資格がない』という思いがよぎる。俺はずっと、道徳の狭間で身動きが取れずにいたんだ。この世界で夏美にふさわしいのは、完璧な男だけだ。だが俺はどうしようもないクズだ。浮気と裏切りは、骨の髄まで刻み込まれた俺の本能なんだ。お前が夏美をじわじわと挑発したように、俺だって彼女の気持ちを顧みずに、何度も傷つけた。夏美が妊娠したと教えてくれたとき、初めて幸せというものに形が見えた。だからこの観覧車で、俺は彼女にプロポーズしたんだ」純子は淡々と言う。「浮気は避けられないものだったら、せめて私のことは解放してくれない?」彼はふっと笑い、純子に顔を近づけ、不気味な笑みを浮かべた。「でもさ、誰かが代償を払わなきゃいけないだろ?その
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第13話

純子が強制的に精神病院へ送られた後、修二はがらんとした自宅へ戻った。彼は秘書に修一の妻に関する調査を命じたが、なかなか報告が上がってこない。「夏美が最近誰と会っていたか、詳しく調べろ」修二はこめかみを抑え、疲れ切った表情を浮かべる。夏美はまるでこの世から消えたかのようで、彼は手がかりを集めるために、ただひたすら動き回るしかなかった。やがて秘書から報告が入る。夏美が一か月前、浜辺市で行われる令嬢たちの食事会に出席していたらしい。浜辺市で行われる令嬢たちの食事会?夏美は修二と共に浜辺市を離れて以来、その世界と縁を切っていたはずなのに、どうして?修二の胸の奥が重く沈む。「こっちもパーティーを開こう。お嬢様たち全員を招待するんだ。手段は問わない」秘書は困惑したように言葉を詰まらせた。「相手は浜辺市の名門ばかりで、全員招待するのは……」修二の目が鋭く光る。「万が一のことがあっても俺が責任を取る。それとも、俺の指示に逆らう気か?」電話を切った修二は、昔夏美が用意してくれたスーツに着替えた。今回のパーティーでは、自分は何か大切なことを知ることになる――そんな予感が胸をよぎる。海沿いの会員制クラブで、修二は主賓席に腰を下ろしていた。そこには浜辺市の名門、斎藤家と篠田家の令嬢も同席している。「白野修二?そうね、最後に会ったのはお父さんの五十歳の誕生日パーティーの時だったかしら。あの時、あなたが隠し子だってことも公表されたのよね」篠田亜紀(しのだ あき)は、お嬢様らしい傲慢な笑みを浮かべた。「隠し子のくせに、海崎市であそこまでのし上がるなんて、なかなかやるわね」修二はグラスを指先で弄びながら、中の液体をゆるく揺らした。表情は読めない。亜紀は入り口に目をやり、わざと声を張り上げる。「夏美は来てないの?彼女がいないと、からかう相手が減ってパーティーもつまらなくなっちゃうじゃない」「聞いた話、結婚式の前日に婚約者が愛人とデートしてたんだって。そりゃ恥ずかしくなって来れなくなるわよ」修二は手にしたワイングラスを強く握りしめ、指先が白くなる。ずっと黙っていた斎藤悦子(さいとう えつこ)が修二のそばに身を寄せ、小声で尋ねる。「夏美、まだ見つからないの?前に彼女から聞いたけど、海外の建築学院から合格通
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第14話

「亜紀、適当なことを言わないで」悦子が反論した。「別に適当なんかじゃないわよ。白野さんが浮気してたこと、世間に知れ渡ってるじゃない。それで夏美がこの界隈で笑い者になったのよ。悪いのは白野さんであって、私じゃないわ」悦子は亜紀の袖を引き、これ以上言うなと目で合図した。修二の声は冷たく沈んでいた。「言わせておけ」亜紀は前髪を耳にかけ、ドサリと椅子に腰を下ろした。彼女はグラスを手に取り、赤ワインを喉へと流し込む。声には苦みが滲んでいる。「白野さん、私たちのことを恨んでるでしょうけど、バカなのは夏美のほうだったのよ。彼女は藤田家のお嬢様だし、三十までに結婚すれば藤田家の財産も相続できる。それに白野の叔父様の後ろ盾まである。本来なら何不自由ない幸せな一生を送れたはずなのに……白野さん、あなたが彼女を巻き込んで、笑い者にしたのよ」亜紀の声は震えていた。「白野さん、あなたが海崎市で最初に手掛けたプロジェクトの資金が、夏美が銀行から借りたお金だって、本気で信じてたの?実はあれ、彼女が両親の遺産を担保に、私に借りたお金なの。あなたが彼女を連れて駆け落ちした時点で、彼女と白野家の縁は切れてた。だから白野家には頼れなくて、追い詰められて私に頭を下げに来たわけ。私はカッとなって、彼女を一時間も罵倒し続けた。彼女は白いワンピースを着て、今あなたが座ってるその場所に座り、唇を噛みしめながらただ黙って私の罵声に耐えていた。最後に私がくたくたになって喋るのをやめた時、彼女は静かに言ったんだ――『亜紀、修二を支えられるのは私だけなの。私も彼を見捨てたら、彼、一人ぼっちになっちゃうの』って」修二の頭は真っ白になり、思考が一瞬で途切れた。あれは彼にとって海崎市での最初のプロジェクトで、極めて重要な仕事だった。だが、資金が足りなかった。夏美があの金を差し出したとき、彼は受け取るつもりなどなかった。夏美が「銀行があなたの計画書を評価したから、貸してくれたの」と、少し誇らしげに笑って言ったのだ。あのとき彼女はまだ十九歳。真偽も定かでない恋心だけを頼りに、自分のすべてを賭けようとした。本当に愚かだった。亜紀は勢いよく立ち上がり、もう一杯ワインを飲み干すと、空になったグラスを乱暴に置いた。指を修二に突きつける。「あのあと、あなたは彼女
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第15話

修二は動揺した。彼は亜紀と悦子に小切手を差し出し、声を詰まらせながら言った。「いくらでも出す。たとえ全財産を失っても、夏美を見つけたいんだ」亜紀は一瞬、息をのんだ。次の瞬間、怒りが彼女の顔に広がり、小切手を引き裂いて修二の顔に投げつけた。「お金があるからってなんでもできると思ってんの?あなたの財力じゃ、世間知らずの女の子をたぶらかすのが関の山よ。あなたみたいな男、こっちの世界じゃ『井の中の蛙』っていうのだから」亜紀はバッグから小切手の束を取り出し、修二の顔に叩きつけた。「さあ、言いなよ。いくら出せばこの浜辺市から消えてくれる?」修二はうつむいたまま、亜紀の罵声を黙って受け流した。一言も言い返せない。亜紀が罵り疲れて、踵を返そうとしたその時、修二は嗚咽をこらえながら哀願した。「本当に悪かった。俺はただ夏美を見つけて、ちゃんと償いたいだけなんだ……お願い、チャンスをくれないか?どうか、今回だけは俺を信じてくれ……」亜紀は振り返りもせず、勢いよくドアを叩きつけて出ていった。悦子は深いため息をつくと、含みのある口調で言った。「夏美があなたと一緒にいたのは、幸せになりたかったから。あなたのそばから離れたのもまた、幸せになるためなのよ。どうしてそこまで彼女に執着するの?」修二の目にたまっていた涙が、ついにこぼれ落ちた。顔を覆い、嗚咽がもれる。泣き声は次第に大きくなり、やがて全身が震えだした。夏美は、たった一人彼に温もりを与えてくれた人で、彼の世界を照らす光だった。その光が今、消えてしまった。これから、どう生きていけばいい?わがままだと言われようが、強引だと罵られようが、構わない。何としてでも夏美を見つけ出すと、修二は決めていた。翌日、修二はクリス建築学院に姿を現した。ここは夏美がかつて夢見てきた学びの場である。あの時、もし修二が彼女の進学を応援していたら、今とは違う未来が、二人を待っていただろうか。思考を遮ったのは、けたたましいスマホの着信音。秘書からの電話だ。「社長、高須県の山奥の小学校で藤田様らしき人物を見かけたという情報が入りました。写真を送りますので、ご確認ください」修二のもとには毎日のように秘書から情報が届く。駅、空港、遊園地……横顔が似ている、髪型が似ている、姿がそっくりだ、
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第16話

「すみませんが、藤田さんのお名前までは分かりません。彼女は学校で子どもたちと一週間を過ごしたら、一億円を寄付して去って行ったんです。子どもたちは皆、彼女に懐いていたんですが、どうやら奥谷県の別の小学校へ向かう予定があったらしく、すぐ旅立ってしまったのです」修二の目が見開かれ、唇がかすかに震えた。「いつ出発したんですか?その小学校の住所は分かりませんか?夏美、どうして俺を待ってくれなかったんだ……」校長は困ったように顔を曇らせる。「藤田さんは大変控えめな方で、寄付の際も匿名を希望されていたんですが、打ち解けてから初めて、『藤田』だと教えてくれました。寄付金は、子どもたちが己の努力でこの村を出ていけるようにとの願いを込めて、すべて学習支援に使ってほしいと、はっきりと仰っていました」修二は目の前に連なる山々を見つめ、しばしの間、どこへ向かうべきかもわからず立ち尽くした。彼は小切手を取り出し、「藤田夏美」の名義で、改めて学校に一億円を寄付した。校長は慌てて手を振る。「こんな大金……恐れ入ります。藤田さんの旦那様からも、高い金額のご寄付をいただいているんです。お二人で合わせれば、もう四億円ですよ。旦那様も本当にお立派な方で、大企業の社長さんかと思ってしまうような風格なのに、すごく接しやすくて……いやはや、ただただ頭が下がります……」修二の足がその場で固まった。足の裏からゾッとするような寒気が走り、一気に全身に広がった。「彼女の旦那、ですか?」「ええ、そうですよ。二人とも結婚指輪をしていてね、結婚して間もないみたいです。まさに新婚さんで、とても仲が良かったですよ。そうそう、写真もありますから、よかったらご覧になってください」校長は職員室から一枚の引き伸ばし写真を持ってきた。化粧気のない夏美が、明るく花のように笑っている。その隣に立つ男は、他ではない修一だった。修一は親しげに夏美の肩を抱き、顔を傾けて夏美を見つめていた。その瞳には、惜しみない愛情が滲み出ていた。修二は写真をじっと見つめ続けた。十分間が過ぎ、やがて溢れ出た涙で視界がかすんだ。彼は写真を校長に返すと、無言のまま、一人で山道を歩き出した。朝靄が晴れ、夕日が空を茜に染め、夜露が降りるまで。彼はただ歩き続けた。夏美がかつて歩いた道を、あてもなく。胸奥は
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第17話

「というのは……」「とりあえず相手の出方を見守ろう。俺には考えがあるから、心配するな」電話を切った修一は、ふっと息を吐いた。振り返ると、夏美の目がうっすらと赤くなっているのに気づいた。彼は夏美をそっと抱き寄せ、彼女の薬指の指輪を指先で回しながら、静かに尋ねる。「夏美、俺を信じてくれるか?」夏美は視線を逸らし、何も言わなかった。「白野グループの皆が俺を見ている。俺が動揺すれば、組織全体が混乱しかねない。もし万一、お前と白野グループのどちらかを選ぶ時が来たとしても――俺は迷わずお前を取る。だが今は、そんなことにならないよう、俺は全力で頑張る。どうか信じてくれ」夏美は修一の性格をよく知っている。彼があの言葉をわざと副社長に聞かせたのだと、すぐに察していた。けれど、実際にその言葉を耳にすると、どうしても胸の奥がきゅっと痛んだ。修一のことが大切だからこそ、気になってしまう。彼女は修一を本気で愛しているのだ。すべての始まりは自分にある。だからこそ、これ以上大ごとにはしたくない。夏美は顔を向けて、修一を見つめる。「ねえ、やっぱり……」修一は彼女の言いたいことを察し、そっと彼女の手を握り返して安心させ、副社長にメッセージを送った。【修二が何をしても相手しないように。あいつを恐れるほど、白野グループはヤワじゃない】スマホをしまうと、修一はさりげなくミネラルウォーターのキャップをひとひねりし、夏美に手渡しながら優しく言った。「夏美がやりたいことには、俺は必ずつき合う。修二のことも気にするな、ちょっと懲らしめてやれば、すぐ大人しくなるさ」夏美は心配そうに眉を寄せて尋ねる。「長く留守にしていて、会社の方は本当に大丈夫なの?」修一はふうと軽く息を吐いた。「まあ、不安がないわけじゃないさ。万一会社が潰れてしまったら……その時はお前と一緒に野宿の名人でも目指そうかな」からかわれたと気づき、夏美はこぶしで軽く彼の腕をトントンと叩いた。修一はその流れで彼女を腕の中に引き寄せ、髪にキスを落とし、かすれた声で言い続ける。「夏美……今夜は、きちんと埋め合わせをしてもらうよ」夏美の顔は瞬時に、耳の先まで紅潮した。修一は彼女の耳を伝う熱を指先でなぞりながら、低く、艶やかに笑った。「初めてじゃないのに、どうし
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第18話

結婚式が終わり、夏美は懐かしい白野家へ戻った。両親が事故に遭ったのは、彼女が10歳の時だった。10歳から18歳までを白野家で過ごし、修二と駆け落ちしてからは一度も戻らなかった。十年ぶりに戻っても、そこには変わらない、懐かしい温もりがある。「俺たちの新居と実家、どっちがいいか分からないから、とりあえず実家に戻ってみた。俺たちはもう夫婦だけど、お前がすぐに俺のことを受け入れられないかもしれない。だから、お前が心から俺を夫として受け入れてくれる時に、新居へ移ればいい」修一は夏美の肩をそっと抱き寄せ、優しく言った。「お前の部屋は定期的に家政婦が掃除している。今夜はゆっくり休んで。明日、俺たちの新居を案内するよ」夏美の胸の奥がじんわりと温かくなった。「俺たちの家」――これからは、もう一人じゃないんだ。彼女が寝室のドアを押し開けると、目に飛び込んできたのは見慣れたシルクの小花柄の寝具一式だ。ベッドに腰を下ろした瞬間、十八歳の自分が幸せそうに笑いながら、得意げにこう言う姿が浮かぶ。「私って、本当に恵まれてるよね。十八歳で、一生を共にできる人と巡り会えたんだもの」夏美は首を振り、目頭が少し熱くなった。彼女は自分の小さなベッドに横たわり、自分に問いかける。「夏美、あなたは本当に修二を愛しているの?しかも無条件で?たとえ何度も傷つけられても、許してあげられるの?」目の前に、修二と純子の体が絡み合う光景がよぎる。吐き気がする。彼女は修二を愛しているわけではない。ただ、諦めきれないだけだ。愛とは片方だけ寄り添い続けるのではなく、互いに尊重し合うもののはずだ。そう思った瞬間、彼女の脳裏に修一の姿が浮かんだ。今夜は新婚の夜。自分の部屋へ向かうとき、たしかに修一の目に一瞬の寂しさが宿った。けれど、彼は何も言わず、引き止めようとはしなかった。夏美はベッドの上で何度も寝返りを打ち、枕の下に硬いものがあるのを感じた。手で探ると、そこにあったのは一冊の日記帳だ。彼女は表紙に手を置いたまま、開こうとしなかった。修二と十年も付き合った。彼は、もう十年前の少年ではない。彼女もまた、十八歳の夏美ではないのだ。その瞬間、ふっと心の中のしがらみが消えた。彼女は日記帳を枕の下に戻し、そっと部屋の鍵をかけると、まっす
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第19話

翌日、新居へ向かう車中、修一の心はずっとざわついていた。夏美の好みが、まだよくわからないのだ。「気になるところがあったら、遠慮なく言ってくれ。家具でも、壁の色でも……家自体がダメなら、別のを探そう」夏美は振り返り、彼の目の下のクマに気づいて、心配そうに聞く。「昨夜、眠れてないの?」整備された道路を車が走り、小さくガタンと揺れた。修一は自然に夏美の後頭部を庇うように手を添え、そのまま後部座席に身を預けた。悪戯っぽく笑いながら言う。「寝るなんて退屈だろ?べったりくっついてくる子猫みたいなお前が、俺の胸に潜り込んでくるんだ。そりゃあ、心がくすぐったくなるさ」夏美は恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして玄関の扉を押し開けた瞬間、夏美は五分もの間、ただ立ち尽くしていた。水色の壁一面を、夏美の写真が何枚もバランスよく飾られていた。リビングにはテレビはなく、中心には建築模型のジオラマが置かれ、設計用の道具が一式揃っている。外の庭はきちんと手入れされているが、その脇には木材の板が山積みになっている。「……部屋が汚れるとか、気にしないの?」夏美の胸に、ふと切なさが込み上げた。修二と一緒にいた頃は、建築を学ぶことは、何か後ろめたいことのようにさえ感じていた。それが、修一となら違う。彼は家全体の空間をすべて使って、彼女が思いのままに創造できる場を整えてくれた。修一は両手をポケットに突っ込み、軽く首を傾げて問い返す。「家にソファやテレビ、それからテーブルを置かなきゃいけないって決まりはないだろ?俺たちの家は、お前が決めればいいんだよ」夏美の目頭が熱くなった。次に口を開いたとき、その声には少し甘えるような響きがあった。「じゃあ、食事と睡眠はどうするの?このまま床に座る?」修一は真面目な顔でからかうように言う。「食事の時は床に座ってもいいけど、寝る時はちゃんとベッドだな。安心しろ、うちのベッドは丈夫だから」夏美は顔を真っ赤にし、逃げるように庭へ出ると、模型用の資材を手に取り、その扱い方に没頭し始めた。修一はポケットに手を入れたまま、窓ごしに彼女の作業に打ち込む姿を、じっと見つめていた。ほどなくして、夏美が腹を押さえて身をかがめた。「夏美!」胸がざわめき、慌てて駆け寄ると、修一は夏美の腰を抱きかか
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第20話

最初の訪問先は、両親が交通事故に遭った場所でもある高須県の山間部の小学校。大雨の日、両親は道路に飛び出してきた野良猫を避けようとしてハンドルを切り損ね、車はそのまま崖下へと転落した。夏美は崖の下に、両親を供養するための墓を建てた。彼女は修一の腕に手を添えながら、その墓に向って両親に報告し始めた。「お父さん、お母さん……彼、白野叔父さんの息子さんなの。前に会ったことあるよね。お母さん、彼……お母さんに似て、私の話を全部覚えててくれる人。それに、私への気持ちを何年もずっと、大切にしまっていてくれた人なの。お母さんがよく言ってたよね。人は言葉じゃなくて、行動で見なさいって。私、ほんとに運がよかった。私を誰よりも大切にしてくれる人に巡り会えたんだ。……もう、心配しないで。きっと、とっても幸せになるからね」修一は夏美を抱き寄せ、彼女を自分の肩にそっともたれさせた。「お義父さん、お義母さん、安心して夏美を私に任せてください。何よりも大切にし、必ず幸せにしてみせます」……帰り道、二人は突然の豪雨に見舞われた。車を停めた場所まではまだ距離があり、安全を考えて二人は近くの洞窟に駆け込み、雨宿りすることにした。雨に濡れた夏美は、山風に吹かれて小刻みに震えていた。修一は上着を脱ぎ、彼女の体にそっと掛けた。雨はいっそう激しさを増し、洞窟の中はひんやりと湿っていた。夏美が震える声で呟く。「修一……このまま、ここで死んじゃうかな?」「ご両親の前で誓ったばかりなのに、もう神様からの試練が訪れたなんてね。でも大丈夫、俺は怖くないし、お前のことをちゃんと守るから」夏美は少し心配そうに言う。「両親が亡くなってから……『子供の頃は親を不幸にし、大人になったら夫を不幸にする』って、陰口を叩かれたことがあるの。それ、当たったりしないよね」修一はまるで気にも留めないような目で彼女を見た。「もちろん、当たらないさ」「でも、どうやら私、人を不幸にするだけじゃなく、自分まで不幸にするタイプみたい。ほら、水、もう踝まできてる」夏美は無理に笑みを作った。彼女がうつむいた瞬間、修一は首にかけていた仏像のペンダントを外し、彼女の首にそっとかけた。「留学中に、このペンダントを通りすがりの奴に奪われたことがあるんだ。取り返そうとして腹を三回も刺
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