夫・桜井颯(さくらい はやて)が愛人の妊娠を告げてきたのは、私の誕生日だった。その日、颯は水瀬杏奈(みなせ あんな)を家に連れてきた。彼女の腹は、服の上からでも分かるほど、わずかに丸みを帯びていた。「杏奈が妊娠した。彼女と腹の子には、ちゃんとした立場を用意してやりたい」颯は少しも悪びれず、当然のことのように言った。「だから悪いが、一度だけ籍を抜いてくれ。安心しろ。子どもが生まれたら、またお前と籍を入れ直す」私は取り乱すこともなく、ただ静かにうなずいた。そしてその日のうちに、颯と離婚届を出した。役所を出ると、颯は私の従順さに満足したようにうなずいた。「この間、おとなしくしていればいい。杏奈が子どもを産んだら、俺のほうから連絡する」けれど次の瞬間、その声は冷たくなった。「ただし、余計なことをして杏奈を困らせるようなら、復縁の話はなかったことにする。分かったな」私は素直にうなずいた。その日、私は桜井柚菜(さくらい ゆな)ではなく、夏川柚菜(なつかわ ゆな)に戻った。子どもが生まれたら、また籍を入れ直す。颯はそう言っていたけれど、杏奈が一人目を産み、やがて二人目の子どもが生まれても、彼が私を迎えに来ることはなかった。でも、もうどうでもよかった。私ももうすぐ出産を控えている。お腹の双子は男の子と女の子で、私もじきに一男一女の母になる。むしろ今さら颯が現れて、今の穏やかな暮らしをかき乱されるほうが怖い。なにしろ、今うちで私を待っているあの人は、ひどく嫉妬深い。一度すねると、機嫌を直してもらうのが本当に大変なのだ。……颯は、金払いだけは悪くなかった。離婚のとき、車と家に加えて、四億円近い金を渡してきた。その金で、私は小さな花屋を開いた。その日も、ちょうど客を一人見送ったところだった。スマホが短く震え、LINEの通知が一件入る。送り主の名前を見て、私は少しだけ目を細めた。桜井颯。三年もの間、一度も連絡してこなかった元夫だった。【明日午前九時、区役所に来い。籍を戻す】たったそれだけの文面だった。けれど、そこには相変わらず、こちらの都合など考えもしない命令口調がにじんでいた。その短い文章だけで、颯がどんな顔をして送ってきたのか、手に取るように分かった。
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