LOGIN夫・桜井颯(さくらい はやて)が愛人の妊娠を告げてきたのは、私の誕生日だった。 その日、颯は水瀬杏奈(みなせ あんな)を家に連れてきた。彼女の腹は、服の上からでも分かるほど、わずかに丸みを帯びていた。 「杏奈が妊娠した。彼女と腹の子には、ちゃんとした立場を用意してやりたい」 颯は少しも悪びれず、当然のことのように言った。 「だから悪いが、一度だけ籍を抜いてくれ。 安心しろ。子どもが生まれたら、またお前と籍を入れ直す」 私は取り乱すこともなく、ただ静かにうなずいた。 そしてその日のうちに、颯と離婚届を出した。 役所を出ると、颯は私の従順さに満足したようにうなずいた。 「この間、おとなしくしていればいい。杏奈が子どもを産んだら、俺のほうから連絡する」 けれど次の瞬間、その声は冷たくなった。 「ただし、余計なことをして杏奈を困らせるようなら、復縁の話はなかったことにする。分かったな」 私は素直にうなずいた。 その日、私は桜井柚菜(さくらい ゆな)ではなく、夏川柚菜(なつかわ ゆな)に戻った。 子どもが生まれたら、また籍を入れ直す。 颯はそう言っていたけれど、杏奈が一人目を産み、やがて二人目の子どもが生まれても、彼が私を迎えに来ることはなかった。 でも、もうどうでもよかった。 私ももうすぐ出産を控えている。 お腹の双子は男の子と女の子で、私もじきに一男一女の母になる。 むしろ今さら颯が現れて、今の穏やかな暮らしをかき乱されるほうが怖い。 なにしろ、今うちで私を待っているあの人は、ひどく嫉妬深い。 一度すねると、機嫌を直してもらうのが本当に大変なのだ。
View More「よくも俺を騙したな」颯は杏奈の細い首をつかみ、怒りに任せて怒鳴った。「ほかの男の子どもを、俺の子だと言って産んだのか!」杏奈の顔はみるみる赤くなり、息もできないほど苦しげに歪んでいく。けれど怒りで我を忘れた颯には、もう彼女の様子など目に入っていなかった。二人の子どもの泣き声で我に返らなければ、颯は本当に杏奈を殺していたかもしれない。「出ていけ」颯は荒い息のまま、低く言った。「その子どもたちも連れて、二度と戻ってくるな」杏奈は二人の子どもを連れ、追い出されるように家を出た。けれどその直後、彼女は駆けつけた警察に連れていかれた。杏奈は知らなかったのだ。私が区役所の向かいにある店で、あの日の防犯カメラ映像を見つけていたことを。映像には、杏奈が上の階から植木鉢を落とし、私を狙った一部始終がはっきりと残っていた。殺人未遂の疑い。それが、彼女に向けられた容疑だった。杏奈を待っていたのは、もう泣いてすがって済むような相手ではない。法による裁きだった。母親が逮捕され、すぐに面倒を見られる大人もいなかったため、二人の子どもは児童相談所に一時保護された。一方、深也は桜井グループへの手を緩めなかった。ほどなくして、桜井グループは破産した。自分の子だと信じていた二人の子どもは、どちらも他人の子だった。そのうえ、会社まで失った。立て続けに突きつけられた現実に、颯はついに耐えきれず、その場で血を吐いて倒れた。颯は三日三晩眠り続け、ようやく意識を取り戻した。けれど彼を待っていたのは、さらに残酷な知らせだった。検査の結果、胃に悪性腫瘍が見つかったのだ。医師によれば、今の状態では、残された時間は長くても三か月ほどだという。それを聞いた瞬間、颯の顔から血の気が引いた。生きる気力まで失ってしまったのかもしれない。颯は、医師の見立てよりもずっと早くこの世を去った。思えば、颯は昔、私に言ったことがある。もし裏切るようなことがあれば、地獄に落ちても構わない、と。まさかその言葉が、こんな形で返ってくるとは思わなかった。颯は最後まで、安らかな最期とは程遠いまま逝った。颯が亡くなる少し前、一度だけ電話があった。「柚菜……俺、後悔してるんだ。もう長くないって、医者に言わ
「あなたに比べれば、私なんてまだ可愛いものよ」私は口元に笑みを浮かべたまま、杏奈を見た。その瞬間、杏奈の表情がわずかに強ばる。「あの日、区役所で植木鉢を落としたのはあなたでしょう?」「何の話ですか?私には分かりません」杏奈は顔を青ざめさせながらも、必死に平静を装った。私は小さく笑った。「認めないの?別にいいわ。あなたが植木鉢を落としたところなら、防犯カメラに最初から最後まで映っているから」そう言って、私は手にしたスマホを軽く持ち上げた。「そんなはずないわ。私が確認したとき、あのカメラは壊れて……」杏奈は反射的に言い返した。けれど、私の顔を見た瞬間、自分が鎌をかけられたのだと気づいたらしい。杏奈の表情が、みるみる歪んでいく。「……だったら何?」とうとう開き直ったように、杏奈は吐き捨てた。乾いた音が響いた。私は思いきり、杏奈の頬を平手で打った。私だけを狙うなら、まだよかった。けれど、お腹の子まで巻き込もうとしたことだけは、どうしても許せなかった。杏奈は赤くなった頬を押さえ、信じられないものを見るように私を睨んだ。「……何するんですか」私は冷たく笑った。「もっと早くこうしておけばよかった。人の夫だと分かっていて近づいたことも。私だけじゃなく、お腹の子まで巻き込もうとしたことも。どれも、許すつもりはないわ」そう言うたびに、私は杏奈の頬を打った。六度目の音が響いたところで、ようやく手を止める。杏奈は頬を真っ赤に腫らしたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。そのとき、颯が慌ただしく駆けつけてきた。杏奈の腫れ上がった頬を見るなり、颯の表情が一気に険しくなった。「柚菜、お前……いつからそんなにひどい女になったんだ」颯は杏奈をかばうように抱き寄せ、険しい顔で私を睨んだ。私は思わず笑った。「ひどい?私なんて、彼女に比べたらまだ可愛いものよ」そう言って、私はバッグから一通の封筒を取り出した。「ああ、そうだ。ちょうどよかった。あなたに渡したいものがあったの。お礼はいらないわ」私は封筒を颯に差し出し、そのまま背を向けた。颯、気に入ってくれるといいけれど。私が手を下すまでもない。この封筒を開けば、二人の関係は勝手に崩れていくはず
颯は、深也がただ者ではないことくらい分かっていた。けれど、ここまでとは思っていなかった。たった一本の電話で、桜井グループは一気に追い詰められた。今は深也に食ってかかっている場合ではない。颯はすぐに会社へ戻り、事態の収拾に動くしかなかった。だが、会社に着いたころには、状況はすでに彼の想像を超えていた。わずか数分のうちに、桜井グループの株価はストップ安まで落ち込んでいたのだ。「くそっ!」颯は足元にあった椅子を蹴り倒した。けれど、それはまだ始まりにすぎなかった。以前から桜井グループを狙っていた競合他社が、この機を逃すはずもない。さらに、社内で颯に不満を抱いていた株主たちまで動き出し、颯の社長としての立場は一気に危うくなった。外からは競合に追い込まれ、内側からは株主に突き上げられる。颯は次々と押し寄せる問題に追われ、息つく暇もなかった。そこへ追い打ちをかけるように、銀行から借入金の早期返済を求める連絡が入った。大口の契約は次々と白紙になり、会社の資金繰りは目に見えて悪化していく。会社を回す金も足りない。返済の期限も迫っている。追い込まれた颯は、手元にある価値のあるものを売り払うしかなかった。住んでいた邸宅はもちろん、この数年で杏奈に買い与えたジュエリーやブランドバッグまで。そうして四人は、ワンルーム同然の狭い部屋で暮らすことになった。広い家での生活に慣れきっていた杏奈と子どもたちが、そんな暮らしにすぐ馴染めるはずもない。不満が溜まっていくのは、当然だった。そんなころ、杏奈から電話がかかってきた。どうしても会って話がしたいという。最初は断るつもりだった。けれど、ふと思い当たることがあり、私は考えを変えた。ちょうどいい。杏奈が何を言い出すつもりなのか、聞いてみるのも悪くない。約束の時間にカフェへ行くと、杏奈はもう席についていた。以前のような華やかさは、どこにもない。顔には疲れがにじみ、化粧でも隠しきれないほどやつれて見えた。おそらく使用人もいなくなり、家事も育児も、すべて自分でこなさなければならなくなったのだろう。まだ手のかかる子どもを二人抱えての生活は、彼女が思っていた以上に堪えているはずだ。私の姿を見ると、杏奈の目がわずかに揺れた。そし
「言っただろう。離婚は一時的なものだ」颯は歯を食いしばるようにして言った。私は思わず笑ってしまった。「三年も経っているのに?あなたの言う一時的って、ずいぶん長いのね」「三年は……たしかに長かった」颯は少しだけ言葉を詰まらせたものの、すぐにまた当然のような顔をした。「だが、俺に腹を立てているからといって、得体の知れない男と結婚していい理由にはならないだろう」私は額に手を当てた。何を言っても通じない相手を前にしていると、ここまで疲れるものなのか。この男は、どうして人の話を聞こうとしないのだろう。私は颯を見て、はっきりと告げた。「颯、これで最後にするわ。私たちはもう離婚している。私はあなたを愛していない。だから、二度と私に関わらないで」それ以上相手をする気もなく、私は背を向けた。「信じない」背後から、颯の声が追いかけてくる。「お前は、あれほど俺を愛していたんだ」「そう思いたいなら、勝手にすれば」私は振り返らず、そのまま車に乗り込んだ。これでさすがに伝わったと思っていた。けれど颯は、想像以上にしつこかった。それから毎日のように、うちの前に現れるようになったのだ。雨の日も風の日も関係なく、ただ門の前に立ち続ける。さすがにうんざりした。彼が今さら何を求めているのか、考えるのも馬鹿らしくなっていた。その日は、朝からひどい雨だった。颯は傘も差さずに門の前に立ち、あっという間に全身ずぶ濡れになっていた。そこへ、一本の傘が差しかけられる。「柚菜……」颯の顔に、ぱっと喜びが浮かんだ。「やっぱり、まだ俺のことが気になるんだな」けれど、傘の下にいる人物を見た瞬間、その笑みは凍りついた。「……お前か」深也は唇の端をわずかに上げた。「ほかに誰だと思ったんですか、桜井さん」穏やかな口調なのに、その目は少しも笑っていなかった。「以前、妻には二度と近づかないようにと申し上げたはずですが。どうやら、聞き流されたようですね」颯の表情が、わずかにこわばった。それでも彼は、すぐに平静を取り繕う。「柚菜はお前の持ち物じゃない。俺が柚菜に会うのを、お前に止める権利はない。金と力で脅せば、俺が引くとでも思っているのか。柚菜はまだ俺を愛してる。お前と結