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今さら復縁?私はもう双子の母になります

今さら復縁?私はもう双子の母になります

By:  みかんしずくCompleted
Language: Japanese
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夫・桜井颯(さくらい はやて)が愛人の妊娠を告げてきたのは、私の誕生日だった。 その日、颯は水瀬杏奈(みなせ あんな)を家に連れてきた。彼女の腹は、服の上からでも分かるほど、わずかに丸みを帯びていた。 「杏奈が妊娠した。彼女と腹の子には、ちゃんとした立場を用意してやりたい」 颯は少しも悪びれず、当然のことのように言った。 「だから悪いが、一度だけ籍を抜いてくれ。 安心しろ。子どもが生まれたら、またお前と籍を入れ直す」 私は取り乱すこともなく、ただ静かにうなずいた。 そしてその日のうちに、颯と離婚届を出した。 役所を出ると、颯は私の従順さに満足したようにうなずいた。 「この間、おとなしくしていればいい。杏奈が子どもを産んだら、俺のほうから連絡する」 けれど次の瞬間、その声は冷たくなった。 「ただし、余計なことをして杏奈を困らせるようなら、復縁の話はなかったことにする。分かったな」 私は素直にうなずいた。 その日、私は桜井柚菜(さくらい ゆな)ではなく、夏川柚菜(なつかわ ゆな)に戻った。 子どもが生まれたら、また籍を入れ直す。 颯はそう言っていたけれど、杏奈が一人目を産み、やがて二人目の子どもが生まれても、彼が私を迎えに来ることはなかった。 でも、もうどうでもよかった。 私ももうすぐ出産を控えている。 お腹の双子は男の子と女の子で、私もじきに一男一女の母になる。 むしろ今さら颯が現れて、今の穏やかな暮らしをかき乱されるほうが怖い。 なにしろ、今うちで私を待っているあの人は、ひどく嫉妬深い。 一度すねると、機嫌を直してもらうのが本当に大変なのだ。

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Chapter 1

第1話

夫・桜井颯(さくらい はやて)が愛人の妊娠を告げてきたのは、私の誕生日だった。

その日、颯は水瀬杏奈(みなせ あんな)を家に連れてきた。彼女の腹は、服の上からでも分かるほど、わずかに丸みを帯びていた。

「杏奈が妊娠した。彼女と腹の子には、ちゃんとした立場を用意してやりたい」

颯は少しも悪びれず、当然のことのように言った。

「だから悪いが、一度だけ籍を抜いてくれ。

安心しろ。子どもが生まれたら、またお前と籍を入れ直す」

私は取り乱すこともなく、ただ静かにうなずいた。

そしてその日のうちに、颯と離婚届を出した。

役所を出ると、颯は私の従順さに満足したようにうなずいた。

「この間、おとなしくしていればいい。杏奈が子どもを産んだら、俺のほうから連絡する」

けれど次の瞬間、その声は冷たくなった。

「ただし、余計なことをして杏奈を困らせるようなら、復縁の話はなかったことにする。分かったな」

私は素直にうなずいた。

その日、私は桜井柚菜(さくらい ゆな)ではなく、夏川柚菜(なつかわ ゆな)に戻った。

子どもが生まれたら、また籍を入れ直す。

颯はそう言っていたけれど、杏奈が一人目を産み、やがて二人目の子どもが生まれても、彼が私を迎えに来ることはなかった。

でも、もうどうでもよかった。

私ももうすぐ出産を控えている。

お腹の双子は男の子と女の子で、私もじきに一男一女の母になる。

むしろ今さら颯が現れて、今の穏やかな暮らしをかき乱されるほうが怖い。

なにしろ、今うちで私を待っているあの人は、ひどく嫉妬深い。

一度すねると、機嫌を直してもらうのが本当に大変なのだ。

……

颯は、金払いだけは悪くなかった。

離婚のとき、車と家に加えて、四億円近い金を渡してきた。

その金で、私は小さな花屋を開いた。

その日も、ちょうど客を一人見送ったところだった。

スマホが短く震え、LINEの通知が一件入る。

送り主の名前を見て、私は少しだけ目を細めた。

桜井颯。

三年もの間、一度も連絡してこなかった元夫だった。

【明日午前九時、区役所に来い。籍を戻す】

たったそれだけの文面だった。

けれど、そこには相変わらず、こちらの都合など考えもしない命令口調がにじんでいた。

その短い文章だけで、颯がどんな顔をして送ってきたのか、手に取るように分かった。

まるで、声をかければ私が喜んで戻ってくると信じて疑わないような、あの顔だ。

私はスマホを伏せ、そのまま返事をしなかった。

昔の私なら、颯からの連絡にはほとんど反射的に返していた。

けれど今回は、十分ほど経っても、私は一文字も返さなかった。

すると珍しく、颯のほうから二通目のメッセージが届いた。

【これが最後の機会だ。逃せば二度とない】

私は思わず眉をひそめた。

この男は、本当に昔から変わらず自分勝手だ。

あの頃の私なら、たしかに彼を深く愛していた。

けれど、あれだけ堂々と浮気をして、別の女との間に子どもまで作っておいて、それでも私が待っていると本気で思っているのだろうか。

私はメッセージ画面を閉じ、そのまま颯をブロックした。

翌日の午前十時。

私は急ぐ様子もなく、区役所の前に姿を見せた。

階段に足をかけたところで、背後から不機嫌な声が飛んできた。

「おい、柚菜。お前、時間を守る気はあるのか」

振り向くと、颯が苛立ちを隠そうともせず、こちらを睨んでいた。

「俺はここで、一時間も待たされたんだぞ」

振り向くと、そこにいたのは颯だった。

私はかすかに眉を寄せた。

返事をしなかった時点で、私にそのつもりがないことくらい察すると思っていた。

それなのに颯はここに来て、しかも一時間も待っていたらしい。

珍しいこともあるものだ。

いつもなら、私を五分待っただけで、颯は機嫌を悪くしていた。

それでも今日だけは、私が来るまで帰るつもりはなかったらしい。

「もういい。いつまで突っ立ってる。行くぞ」

そう言って、颯は当然のように区役所の中へ入ろうとした。

けれど、私がついてこないことに気づくと、不機嫌そうに振り返った。

「柚菜、いい加減にしろ。

一時間も待ってやったんだ。これ以上、俺を試すような真似はするな」

どこまで自分中心に考えれば、そんな言葉が出てくるのだろう。

私は冷めた目で彼を見た。

「あなたを待たせた覚えはないけれど」

颯の目つきが変わった。

「……どういう意味だ」

私は小さく笑った。

「言葉どおりよ。あなたともう一度籍を入れる気なんて、最初からないの」

だが、颯はそれを鼻で笑った。

「意地を張るな。

わざと一時間も遅れてきたくせに、結局ここまで来たんだろう。

分かってる。お前は昔からそうだ。少し拗ねても、最後には俺のところへ戻ってくる」

あまりの思い込みに、言葉を失いそうになった。

数年ぶりに会った元夫は、相変わらず何も見えていないらしい。

私は颯を見据えた。

「誰が、あなたと籍を入れるために来たと言ったの?」

颯の表情がわずかに固まる。

私はその顔を見ながら、ゆっくり告げた。

「今日はたしかに婚姻届受理証明書をもらうに来たわ。でも、相手はあなたじゃない」
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第1話
夫・桜井颯(さくらい はやて)が愛人の妊娠を告げてきたのは、私の誕生日だった。その日、颯は水瀬杏奈(みなせ あんな)を家に連れてきた。彼女の腹は、服の上からでも分かるほど、わずかに丸みを帯びていた。「杏奈が妊娠した。彼女と腹の子には、ちゃんとした立場を用意してやりたい」颯は少しも悪びれず、当然のことのように言った。「だから悪いが、一度だけ籍を抜いてくれ。安心しろ。子どもが生まれたら、またお前と籍を入れ直す」私は取り乱すこともなく、ただ静かにうなずいた。そしてその日のうちに、颯と離婚届を出した。役所を出ると、颯は私の従順さに満足したようにうなずいた。「この間、おとなしくしていればいい。杏奈が子どもを産んだら、俺のほうから連絡する」けれど次の瞬間、その声は冷たくなった。「ただし、余計なことをして杏奈を困らせるようなら、復縁の話はなかったことにする。分かったな」私は素直にうなずいた。その日、私は桜井柚菜(さくらい ゆな)ではなく、夏川柚菜(なつかわ ゆな)に戻った。子どもが生まれたら、また籍を入れ直す。颯はそう言っていたけれど、杏奈が一人目を産み、やがて二人目の子どもが生まれても、彼が私を迎えに来ることはなかった。でも、もうどうでもよかった。私ももうすぐ出産を控えている。お腹の双子は男の子と女の子で、私もじきに一男一女の母になる。むしろ今さら颯が現れて、今の穏やかな暮らしをかき乱されるほうが怖い。なにしろ、今うちで私を待っているあの人は、ひどく嫉妬深い。一度すねると、機嫌を直してもらうのが本当に大変なのだ。……颯は、金払いだけは悪くなかった。離婚のとき、車と家に加えて、四億円近い金を渡してきた。その金で、私は小さな花屋を開いた。その日も、ちょうど客を一人見送ったところだった。スマホが短く震え、LINEの通知が一件入る。送り主の名前を見て、私は少しだけ目を細めた。桜井颯。三年もの間、一度も連絡してこなかった元夫だった。【明日午前九時、区役所に来い。籍を戻す】たったそれだけの文面だった。けれど、そこには相変わらず、こちらの都合など考えもしない命令口調がにじんでいた。その短い文章だけで、颯がどんな顔をして送ってきたのか、手に取るように分かった。
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第2話
颯は一瞬、言葉に詰まった。けれどすぐに、馬鹿にしたように口元を歪める。「もういい、柚菜。意地を張るな。お前が俺を忘れられるはずがないだろう。ほかの男と結婚なんて、できるわけがない」その声には、揺らぎのかけらもなかった。私が最後には戻ってくると、本気で信じている顔だった。もうとっくに終わったことだと思っていたのに、その確信に満ちた目を見た瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。私は、たしかに颯を愛していた。愚かなくらい、一途に。自分のすべてを差し出してもいいと思うほどに。けれど颯は、その気持ちに甘えただけだった。私なら何をしても許すと決めつけて、平気で踏みにじった。そして私は、周囲の笑い者になった。けれど、その疼きはすぐに消えた。残ったのは、颯への冷めきった思いだけだった。私はもう、これ以上この男に付き合う気はなかった。「信じるかどうかは、あなたの勝手よ」私の態度に苛立ったのか、颯は突然、私の手首をつかんだ。「柚菜、調子に乗るな。拗ねるのもいい加減にしろ。杏奈のことは、俺も悪かったと思っている。だからこうして迎えに来てやったんだろう。これ以上、何が不満なんだ。これ以上くだらない意地を張るなら、この話はなかったことにする。あとで泣きついてきても知らないぞ」その声には、もう隠す気もない苛立ちがにじんでいた。泣きつく?そんな日は、もう二度と来ない。むしろ悔やむことがあるとすれば、もっと早く颯から離れなかったことくらいだ。離れてみて初めて分かった。私の世界は、颯ひとりでできていたわけじゃない。「颯、もう一度だけ言うわ。あなたとやり直すつもりはない。今も、この先も。それに、私はもう結婚しているの。だから二度と私に関わらないで」私は颯の手を振りほどき、そのまま背を向けた。ここまで言えば、さすがに伝わると思っていた。けれど颯は、まだ納得していないようだった。「……ありえない」三年も経っているのに、颯がここまで話の通じない男になっているとは思わなかった。私は思わず眉をひそめる。「何がありえないの?私たち、もう三年も前に別れたのよ。それに、このお腹を見てもまだ分からない?」ひと目で妊娠していると分かるはずだった。しかも、お腹の子は双子
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第3話
「念のために言っておくけど、私たちはもう離婚しているの」怒りをむき出しにする颯に対して、私の声は妙に落ち着いていた。「離婚は一時的なものだと言っただろう。俺の妻はお前だけだ。指輪だって、一日も外していない。それなのに、そんなに待てなかったのか。俺のいない間に、別の男のものになったのか」そう言って、颯は左手を持ち上げた。薬指にはたしかに、かつて私たちで選んだ結婚指輪がはまっている。その顔は、まるで妻の裏切りを責める夫そのものだった。手首をつかむ力があまりにも強く、骨がきしむほど痛くなければ、私は本当に笑っていたかもしれない。指輪を外さなかったから、何だというのだろう。それだけで、今さらまともな夫の顔ができるとでも思っているのだろうか。ばかばかしい。結婚していた頃、颯はその指輪をはめたまま、平然とほかの女を連れ歩いていた。そんな男が、今さら裏切られた夫のような顔をしている。これ以上、言葉を重ねる気にもなれなかった。私は低く告げた。「離して」けれど颯は、私の手を放そうとしない。「今日ここで話をつけるまで、帰すつもりはない」振りほどこうとしたけれど、妊娠中の私の力ではどうにもならなかった。何度か身をよじっても、颯の手はびくともしない。家を出るとき、ボディガードの同行を断ったことを、今さらながら後悔した。胸の奥に押し込めていた怒りが、とうとうこらえきれなくなる。私は冷えた目で颯を見据えた。「先に裏切って、離婚を言い出したのはあなたでしょう。今さら私を責める資格があると思っているの?」颯は当然のように言い返した。「だから、一時的なものだと言っただろう」私は小さく息を吐いた。「私は一度も納得していない。あなたが勝手にそう決めただけよ。もう一度だけ言うわ。私たちは三年前に終わっているの」颯は一瞬、言葉を失った。けれど次に口を開いたとき、その表情から怒りとは別のものがにじんでいた。「その子をおろせ。そうすれば、今回のことはなかったことにしてやる」「……正気なの?」私は彼の手を振りほどこうとした。けれど颯は、さらに強く私の手首を握りしめた。もみ合うようにしていたそのとき、颯がふいに目を見開いた。「危ない!」次の瞬間、私は強く横へ押しのけ
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第4話
若くてきれいな女は、次から次へと現れた。最初に颯がほかの女と親しくしていると知ったとき、私は泣いた。責めもした。自分でも手に負えないほど取り乱した。初めのうち、颯は面倒そうにしながらも、まだ私をなだめようとはしていた。けれどそのうち、隠すことすらしなくなった。女を連れて堂々と人前に出るようになり、私がどんな目で見られるかなど、少しも気にしなくなった。颯への気持ちは、失望を重ねるたびに少しずつ削られていった。そして私は、離婚を切り出した。けれど颯は、まるで本気にしなかった。「俺くらいになれば、外に女の一人や二人いたところで珍しくもないだろう。それでも俺は、お前を妻の座から下ろしたわけじゃない。金にも困らせていないし、カードだって好きに使わせている。桜井の妻でいられるだけで、羨む女はいくらでもいるんだぞ」それだけではない。私の母まで、離婚だけは思いとどまるようにと言った。「今別れたら、それこそ外の女の思うつぼじゃない。颯さんが戻ってくる家は、あなたのところなんでしょう?だったら、わざわざその場所を譲る必要なんてないじゃない」あのとき、颯の口元に浮かんだ薄い笑みを、私は今でも忘れられない。「柚菜、お義母さんの言うとおりだ。お前も少しは大人になれ。妻なら、そのくらい受け流せるようにならないと」けれど、妻という肩書きだけに、いったい何の意味があったのだろう。我慢して、飲み込んで、何度も自分に言い聞かせた。それで颯が私を大切にしてくれることはなかった。むしろ彼は、私がどれだけ傷ついても、結局は離れられない女なのだと思い込んだ。そして、ますます歯止めが利かなくなっていった。「柚菜?」颯の声で、私ははっと我に返った。どうやら彼には、私が怖がって動けなくなっているように見えたらしい。颯が私の肩を軽く揺らしていた。理由はどうあれ、颯が私をかばって怪我をしたのは事実だ。このまま放っておくわけにはいかない。結局私は、颯を病院まで連れていった。医師が颯の傷を手当てしている最中、診察室のドアが乱暴に開いた。入ってきたのは、杏奈だった。よほど急いできたのだろう。髪は少し乱れ、息も上がっている。その後ろには、まだ幼い二人の子どもが不安そうについてきてい
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第5話
颯はそこでようやく、形だけ子どもたちをたしなめた。「もうやめろ。柚菜さんは悪い人じゃない。これからは、お前たちの面倒も見てくれる人なんだから」その言葉に、杏奈の顔から血の気が引いた。私を見る目には、はっきりと憎しみが浮かんでいる。私は思わず声を荒らげた。「颯、誰があなたの子どもの世話をするって言ったの?」颯は眉をひそめた。「柚菜、さっきも言っただろう。腹の子さえ諦めるなら、今回のことはなかったことにしてやる。これからは杏奈と一緒に、この子たちを見てくれればいい。そうすれば、お前の居場所くらいは用意してやる」あまりの言い草に、耳を疑った。つまりこの男は、私を呼び戻して、杏奈との子どもたちの面倒を見させるつもりなのだ。そのために、私のお腹の子までなかったことにしろと言っている。さすがに我慢の限界だった。「颯、あんた頭でもおかしくなったの?さっきから寝言ばかり言ってるけど、本気?」颯の顔が一気に険しくなった。「柚菜、口の利き方に気をつけろ。これからはこの子たちの面倒を見る立場になるんだ。そんな言い方は改めろ」私は思わず額に手を当てた。怒るのも馬鹿らしくなってくる。「何が面倒を見る立場よ」私は吐き捨てるように言った。「寝言は寝てから言って」颯の顔が一気に険しくなった。「柚菜、いい加減にしろ。人前でぎゃあぎゃあ騒ぐな。見苦しい。そういうところだ。少しは杏奈を見習え」そう言い捨てるなり、颯は私の手首をつかみ、産婦人科のほうへ引っ張っていった。「やめて、離して!」私は必死に足を踏ん張った。けれど颯の力は強く、激しく抵抗すればお腹の子に響きそうで、思うように逆らえなかった。「先生、この子を堕ろしてください」颯は私を診察室へ連れ込み、医師にそう言い放った。医師はすぐに表情を硬くした。「ご本人の同意なしに、そのような処置はできません」「だったら同意させます。とにかく早くしてください」颯はまるで聞く耳を持たなかった。そのあまりの異常さに、足元が冷えていく。そのとき、背後の扉が大きな音を立てて開いた。「彼女に触れるな」
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第6話
低く鋭い男の声が診察室に響いた。次の瞬間、黒いスーツの男たちを従えた一人の男性が、入口に姿を現す。背が高く、姿勢もいい。何も言わずに立っているだけで、その場の空気が一瞬で張り詰めた。さっきまで私に向かって騒いでいた二人の子どもは、びくりと肩を震わせ、慌てて杏奈の後ろに隠れる。その人の姿を見た瞬間、私はようやく息をついた。よかった。間に合ってくれた。現れたのは、今の私の夫であり、南雲グループを率いる南雲深也(なぐも しんや)だった。けれど深也の目を見た途端、私は胸の中で小さく呻く。まずい。「深也……!」自分に非があることは分かっていた。だから私は、できるだけ素直そうに、少しだけ甘えるような笑みを向ける。けれど深也は、私をちらりと見ただけで、すぐに視線をそらした。帰ったら覚えていろ。そう言われた気がして、私は思わず肩をすくめる。……うん。今回は、完全に私が悪い。深也はいつも、私にボディガードをつけようとしてくれていた。けれど私は、誰かに見張られているようでどうしても落ち着かず、今日は一人で家を出てきてしまったのだ。まさかそこで颯に会い、杏奈たちにまで絡まれることになるなんて、思ってもみなかった。深也の視線が、颯に強くつかまれたままの私の手首へ落ちる。その瞬間、彼のまとう空気が変わった。声を荒げたわけでも、表情を大きく変えたわけでもない。それなのに、診察室の空気がひやりと冷える。深也はゆっくりとこちらへ歩いてきた。彼が近づくにつれ、颯の顔から少しずつ余裕が消えていく。深也は私の肩を抱き寄せ、ごく自然に自分の腕の中へ収めた。そして、颯がまだ私の手首を握っているのを見下ろす。「桜井さん。そろそろ、妻の手を放していただけますか」静かな声だった。「妻……?」颯は呆然とその言葉を繰り返した。その顔に、驚きがじわじわと広がっていく。やがて目の奥に、悔しさとも痛みともつかない色が浮かんだ。一方で、杏奈の反応は正反対だった。私が本当に再婚していると知って、ようやく安心したのだろう。深也が現れてから、彼女の表情は目に見えて緩んでいた。もう私が颯を取り戻しに来たのではないと、分かったからかもしれない。隠しているつもりなのだろうが、口元に浮かぶ笑みは隠しきれていなかっ
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第7話
「言っただろう。離婚は一時的なものだ」颯は歯を食いしばるようにして言った。私は思わず笑ってしまった。「三年も経っているのに?あなたの言う一時的って、ずいぶん長いのね」「三年は……たしかに長かった」颯は少しだけ言葉を詰まらせたものの、すぐにまた当然のような顔をした。「だが、俺に腹を立てているからといって、得体の知れない男と結婚していい理由にはならないだろう」私は額に手を当てた。何を言っても通じない相手を前にしていると、ここまで疲れるものなのか。この男は、どうして人の話を聞こうとしないのだろう。私は颯を見て、はっきりと告げた。「颯、これで最後にするわ。私たちはもう離婚している。私はあなたを愛していない。だから、二度と私に関わらないで」それ以上相手をする気もなく、私は背を向けた。「信じない」背後から、颯の声が追いかけてくる。「お前は、あれほど俺を愛していたんだ」「そう思いたいなら、勝手にすれば」私は振り返らず、そのまま車に乗り込んだ。これでさすがに伝わったと思っていた。けれど颯は、想像以上にしつこかった。それから毎日のように、うちの前に現れるようになったのだ。雨の日も風の日も関係なく、ただ門の前に立ち続ける。さすがにうんざりした。彼が今さら何を求めているのか、考えるのも馬鹿らしくなっていた。その日は、朝からひどい雨だった。颯は傘も差さずに門の前に立ち、あっという間に全身ずぶ濡れになっていた。そこへ、一本の傘が差しかけられる。「柚菜……」颯の顔に、ぱっと喜びが浮かんだ。「やっぱり、まだ俺のことが気になるんだな」けれど、傘の下にいる人物を見た瞬間、その笑みは凍りついた。「……お前か」深也は唇の端をわずかに上げた。「ほかに誰だと思ったんですか、桜井さん」穏やかな口調なのに、その目は少しも笑っていなかった。「以前、妻には二度と近づかないようにと申し上げたはずですが。どうやら、聞き流されたようですね」颯の表情が、わずかにこわばった。それでも彼は、すぐに平静を取り繕う。「柚菜はお前の持ち物じゃない。俺が柚菜に会うのを、お前に止める権利はない。金と力で脅せば、俺が引くとでも思っているのか。柚菜はまだ俺を愛してる。お前と結
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第8話
颯は、深也がただ者ではないことくらい分かっていた。けれど、ここまでとは思っていなかった。たった一本の電話で、桜井グループは一気に追い詰められた。今は深也に食ってかかっている場合ではない。颯はすぐに会社へ戻り、事態の収拾に動くしかなかった。だが、会社に着いたころには、状況はすでに彼の想像を超えていた。わずか数分のうちに、桜井グループの株価はストップ安まで落ち込んでいたのだ。「くそっ!」颯は足元にあった椅子を蹴り倒した。けれど、それはまだ始まりにすぎなかった。以前から桜井グループを狙っていた競合他社が、この機を逃すはずもない。さらに、社内で颯に不満を抱いていた株主たちまで動き出し、颯の社長としての立場は一気に危うくなった。外からは競合に追い込まれ、内側からは株主に突き上げられる。颯は次々と押し寄せる問題に追われ、息つく暇もなかった。そこへ追い打ちをかけるように、銀行から借入金の早期返済を求める連絡が入った。大口の契約は次々と白紙になり、会社の資金繰りは目に見えて悪化していく。会社を回す金も足りない。返済の期限も迫っている。追い込まれた颯は、手元にある価値のあるものを売り払うしかなかった。住んでいた邸宅はもちろん、この数年で杏奈に買い与えたジュエリーやブランドバッグまで。そうして四人は、ワンルーム同然の狭い部屋で暮らすことになった。広い家での生活に慣れきっていた杏奈と子どもたちが、そんな暮らしにすぐ馴染めるはずもない。不満が溜まっていくのは、当然だった。そんなころ、杏奈から電話がかかってきた。どうしても会って話がしたいという。最初は断るつもりだった。けれど、ふと思い当たることがあり、私は考えを変えた。ちょうどいい。杏奈が何を言い出すつもりなのか、聞いてみるのも悪くない。約束の時間にカフェへ行くと、杏奈はもう席についていた。以前のような華やかさは、どこにもない。顔には疲れがにじみ、化粧でも隠しきれないほどやつれて見えた。おそらく使用人もいなくなり、家事も育児も、すべて自分でこなさなければならなくなったのだろう。まだ手のかかる子どもを二人抱えての生活は、彼女が思っていた以上に堪えているはずだ。私の姿を見ると、杏奈の目がわずかに揺れた。そし
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第9話
「あなたに比べれば、私なんてまだ可愛いものよ」私は口元に笑みを浮かべたまま、杏奈を見た。その瞬間、杏奈の表情がわずかに強ばる。「あの日、区役所で植木鉢を落としたのはあなたでしょう?」「何の話ですか?私には分かりません」杏奈は顔を青ざめさせながらも、必死に平静を装った。私は小さく笑った。「認めないの?別にいいわ。あなたが植木鉢を落としたところなら、防犯カメラに最初から最後まで映っているから」そう言って、私は手にしたスマホを軽く持ち上げた。「そんなはずないわ。私が確認したとき、あのカメラは壊れて……」杏奈は反射的に言い返した。けれど、私の顔を見た瞬間、自分が鎌をかけられたのだと気づいたらしい。杏奈の表情が、みるみる歪んでいく。「……だったら何?」とうとう開き直ったように、杏奈は吐き捨てた。乾いた音が響いた。私は思いきり、杏奈の頬を平手で打った。私だけを狙うなら、まだよかった。けれど、お腹の子まで巻き込もうとしたことだけは、どうしても許せなかった。杏奈は赤くなった頬を押さえ、信じられないものを見るように私を睨んだ。「……何するんですか」私は冷たく笑った。「もっと早くこうしておけばよかった。人の夫だと分かっていて近づいたことも。私だけじゃなく、お腹の子まで巻き込もうとしたことも。どれも、許すつもりはないわ」そう言うたびに、私は杏奈の頬を打った。六度目の音が響いたところで、ようやく手を止める。杏奈は頬を真っ赤に腫らしたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。そのとき、颯が慌ただしく駆けつけてきた。杏奈の腫れ上がった頬を見るなり、颯の表情が一気に険しくなった。「柚菜、お前……いつからそんなにひどい女になったんだ」颯は杏奈をかばうように抱き寄せ、険しい顔で私を睨んだ。私は思わず笑った。「ひどい?私なんて、彼女に比べたらまだ可愛いものよ」そう言って、私はバッグから一通の封筒を取り出した。「ああ、そうだ。ちょうどよかった。あなたに渡したいものがあったの。お礼はいらないわ」私は封筒を颯に差し出し、そのまま背を向けた。颯、気に入ってくれるといいけれど。私が手を下すまでもない。この封筒を開けば、二人の関係は勝手に崩れていくはず
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第10話
「よくも俺を騙したな」颯は杏奈の細い首をつかみ、怒りに任せて怒鳴った。「ほかの男の子どもを、俺の子だと言って産んだのか!」杏奈の顔はみるみる赤くなり、息もできないほど苦しげに歪んでいく。けれど怒りで我を忘れた颯には、もう彼女の様子など目に入っていなかった。二人の子どもの泣き声で我に返らなければ、颯は本当に杏奈を殺していたかもしれない。「出ていけ」颯は荒い息のまま、低く言った。「その子どもたちも連れて、二度と戻ってくるな」杏奈は二人の子どもを連れ、追い出されるように家を出た。けれどその直後、彼女は駆けつけた警察に連れていかれた。杏奈は知らなかったのだ。私が区役所の向かいにある店で、あの日の防犯カメラ映像を見つけていたことを。映像には、杏奈が上の階から植木鉢を落とし、私を狙った一部始終がはっきりと残っていた。殺人未遂の疑い。それが、彼女に向けられた容疑だった。杏奈を待っていたのは、もう泣いてすがって済むような相手ではない。法による裁きだった。母親が逮捕され、すぐに面倒を見られる大人もいなかったため、二人の子どもは児童相談所に一時保護された。一方、深也は桜井グループへの手を緩めなかった。ほどなくして、桜井グループは破産した。自分の子だと信じていた二人の子どもは、どちらも他人の子だった。そのうえ、会社まで失った。立て続けに突きつけられた現実に、颯はついに耐えきれず、その場で血を吐いて倒れた。颯は三日三晩眠り続け、ようやく意識を取り戻した。けれど彼を待っていたのは、さらに残酷な知らせだった。検査の結果、胃に悪性腫瘍が見つかったのだ。医師によれば、今の状態では、残された時間は長くても三か月ほどだという。それを聞いた瞬間、颯の顔から血の気が引いた。生きる気力まで失ってしまったのかもしれない。颯は、医師の見立てよりもずっと早くこの世を去った。思えば、颯は昔、私に言ったことがある。もし裏切るようなことがあれば、地獄に落ちても構わない、と。まさかその言葉が、こんな形で返ってくるとは思わなかった。颯は最後まで、安らかな最期とは程遠いまま逝った。颯が亡くなる少し前、一度だけ電話があった。「柚菜……俺、後悔してるんだ。もう長くないって、医者に言わ
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