Semua Bab 朝露のように、かすかな光を待ってる: Bab 11 - Bab 19

19 Bab

第11話

祐の胸に、ここ数日くすぶり続けていた苛立ちがついに爆発した。まるで導火線に火がついたかのように、一瞬で理性が吹き飛ぶ。彼は胸元のブートニアを乱暴にむしり取って、床に叩きつけた。ブートニアは弾かれ、赤い絨毯の上を転がり、ぽつんと取り残された。「ふざけんなよ、何の冗談だこれは!」祐の怒声が会場に響き渡り、場内の全員がびくりと身を震わせた。「結婚だぞ?花嫁が変わってるのに、なんで俺に一言もない!」場内がどっとざわめく。来賓たちは顔を寄せ合い、ひそひそと囁き合う。まるで驚かされた鳥の群れのように、ざわざわと騒ぎ立て、空気には「見世物を楽しむ」ような興奮が広がっていた。由奈は赤い絨毯の上で立ち尽くしていた。顔は真っ青で、どうしていいか分からず、ドレスの裾を強く握りしめている。指の関節は白く、目には涙がにじみ、今にもこぼれそうだった。真理子の表情が一気に険しくなる。勢いよく立ち上がった。「祐!場をわきまえなさい!」「わきまえるかよ!」祐は完全に爆発した。足元のフラワースタンドを蹴り倒す。ガシャン、と音を立てて倒れ、花瓶が砕け、水と花が床に散乱する。花びらは泥にまみれ、見るも無惨だった。「こいつが月城家の娘だろうが何だろうが関係ねえ!こいつと結婚しない!」言い捨てると、彼はそのまま大股で外へ向かった。革靴が割れた花瓶の破片を踏み砕き、バキバキと音を立てる。背後には、無惨に荒れた光景だけが残された。和也は数秒呆然とした後、慌てて後を追った。……祐は車を飛ばして屋敷へ戻った。道中、赤信号を三つ無視した。タイヤが路面を擦り、甲高い音を立てる。何度もガードレールに突っ込みかけたが、アクセルを緩めることはなかった。屋敷のドアを押し開ける瞬間も、彼はまだ思っていた。――あいつは、いる。いないはずがない。七年間もずっと俺を付き纏って、どれだけ追い払っても離れなかったあの女が、黙って消えるわけがない。きっといる。部屋に。キッチンに。書斎に。どこかで静かに座って、自分の帰りを待っているはずだ。「美礼!」彼は叫んだ。声が空っぽのリビングに響き、壁にぶつかって跳ね返る。まるで誰かが応えているように。だが、返事はない。彼は階段を駆け上がり、彼女の部屋の扉を押し開けた。
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第12話

祐はその紙を見つめたまま、瞳孔がきゅっと縮まった。――【もう、あなたを愛していません】その一行が、頭の中で何度も反響した。彼の手がぎゅっと握りしめられる。紙はくしゃくしゃに潰れ、縁が掌に食い込んだ。少し痛む。だが、彼は手を緩めない。「ふざけるな……!」怒声が迸り、がらんとした屋敷に響き渡る。まるで獣の咆哮のようだった。「愛してないだと!?七年だぞ!?七年も俺を付き纏ってきたくせに、今さらやめるだと!?」彼は指輪を掴み上げ、床へ叩きつけた。宝石がタイルに当たり、乾いた音を立てて弾み、壁際まで転がる。すぐに駆け寄って拾い上げ、また叩きつけた。拾っては投げ、投げては拾った――何度も繰り返した。やがて指輪には埃まみれになり、彼はそれを掌で握り潰すように掴んだ。関節が白く浮き、手の甲には青筋が浮き出ている。そのとき、扉が開いた。和也だった。目に飛び込んできた光景に、思わず足を止める。祐は空っぽのリビングに立ち尽くし、指輪を握りしめたまま、目を赤くし、胸を激しく上下させている。傷ついた獣のように、全身から今にも暴発しそうな危うい気配を放っていた。「……祐」和也は声を落とし、慎重に呼びかける。まるで逆毛を立てた猫をなだめるように。祐は勢いよく顔を上げた。声は掠れ、喉を擦り切られたようだった。「……あいつ、本当に出ていった」和也は小さく息をつき、ソファのそばまで歩く。少し迷ってから腰を下ろした。「……ああ。さっき母に聞いた。美礼が月城家の娘じゃないって話、一週間前にはもう出てたらしい。本当の娘は昨日帰ってきて……美礼は……一週間前に出ていったって」――一週間前、彼女はもういなかった。なのに、俺は何も知らなかった。その頃、俺は雫の家で、モチのことで泣く雫を慰めていた。そのとき、ふと一つの光景が祐の脳裏に浮かぶ。あの日、屋敷に戻ったとき、月城家の執事が出ていくのを見た。自分は尋ねた。「月城家の執事がなんで急に来た?」と。美礼は話題を逸らした。「それより……どうして急に帰ってきたの?」と。――あのとき、美礼はもう全部知っていた。月城家から出ていかなければならないことを。それでも何も言わなかった。訴えも、泣きわめきも、引き止めることも。袖を掴んで、もう一度だけ見て
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第13話

モニターの画面の中に散らばっていたのは――何通もの手紙。ピンクの封筒、青い封筒、白い封筒。中にはシールが貼られているものもある。どれも歪んでいて、貼るとき手が震えていたのが見て取れる。切り抜きも、何枚もあった。雑誌の表紙、新聞記事――どれも祐の写真ばかり。雑誌から切り取ったものは端がきれいに揃えられている。印刷したものは画質が粗く、ぼやけているのに、それでも美礼は残していた。キャンディの包み紙が一つ。しわだらけの透明なフィルムに、いちごの模様。祐が何気なく捨てたものを、美礼は拾っていた。それから一枚の写真。両家の集まりで撮った集合写真。彼は不機嫌そうに横を向き、彼女は目を細めて笑っている。口元がふわりと上がり、白い歯が少し覗いていた。裏には一行、文字が書かれていたが、かすれていて読めない。祐はそれらを見つめたまま、机の縁を強く握りしめる。爪が木に食い込み、ささくれが指の隙間に刺さる。痛みが走る。だが、手は離さない。彼女は、それらをすべて捨てた。自分に関するすべてを。ふと、あの言葉がよぎる。――「もうすぐ、あなたを煩わせることは、なくなるから」あれは、ただの強がりじゃなくて、事実だった。美礼は、本当に自分を手放したのだ。祐は勢いよく立ち上がる。椅子が弾き飛ばされ、金属の脚が床に叩きつけられ、耳をつんざく音が響いた。彼はそのまま歩き出す。足取りは荒く速い。倒れた椅子に躓きかけるほどだった。「どこ行くんだ!?」和也が慌てて追う。「……美礼を探す」祐の声は掠れ、目は血走っている。喉仏が上下した。「遠くへ行けるわけがない。金もない、行く当てもない。まだ南山市にいるはずだ」「どうやって探す?南山市は広いぞ……」「地の底まで掘り返してでも見つける!」祐は車に乗り込む。エンジンが唸りを上げ、タイヤが地面を擦り、車は弾丸のように飛び出した。テールランプが夜に二筋の赤い光を引く。和也は警備室の入口に立ち、その光が闇に消えていくのを見送り、ため息をついた。携帯を取り出し、電話をかける。「……月城美礼の行き先、調べてくれ。そう、祐の婚約者の……できるだけ早く」……祐は車を走らせ、南山市で美礼が行きそうな場所を片っ端から回った。彼女がよく通っていた書店のシャッターは閉じられ
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第14話

祐は首を振った。声は煙に燻されたみたいに掠れている。「……見つからない。まるで、この世から消えたみたいだ」和也はしばらく黙り、車のドアにもたれかかる。祐の隣に並んで立った。二人とも何も言わない。ただ、川の流れる音だけが耳に残る。ざあ、ざあと、急ぎもせず、止まりもせず。やがて和也が口を開いた。「祐、話がある」声は静かだが、どこか重みがあった。「……何だ」「覚えてるか。モチが死んだ夜、美礼が二階から落ちたこと」祐は眉をひそめる。指に挟んだ煙草から灰がまた落ちた。「今さらそれを持ち出してどうする」「あとで調べたんだ」和也は祐のほうへ顔を向けた。真剣な眼差しだった。街灯の光が和也の顔を照らし、半分は明るく、半分は影に沈んでいる。「モチを毒殺したのは美礼じゃない。あの使用人だ。猫の管理を怠ったと責められるのが怖くて、わざと美礼が逃がしたって嘘をついた。殺鼠剤も、あいつが餌に混ぜた。全部、濡れ衣だ」祐の瞳孔が一気に収縮する。指から力が抜け、煙草が地面に落ちた。地面を転がり、路肩の隙間へ消える。「……何だって?」「監視カメラに撮られてた」和也はスマホを差し出す。画面はすでに再生位置に合わせてあった。「自分で見ろ」映像の中で、使用人がこそこそとキッチンの棚から紙包みを取り出す。開いて、中の粉をキャットフードに混ぜる。混ぜながら何度も周囲を見回し、顔は強張り、手は震えている。やがて皿を持って階段へ。足早に上がり、途中でつまずきかけた。祐は画面を凝視する。スマホを握る手に力が入り、関節が白くなる。――美礼じゃない。自分が、美礼を疑った。酒を無理やり飲ませ、階段から突き落とし、死にかけるところまで追い込んだ。すべて、使用人の嘘のせいで。「……これだけじゃない」和也の声はさらに低くなる。「夏目雫の拉致の件も調べた。あれは……自作自演だ」祐が弾かれたように顔を上げる。目の充血がいっそう赤くなる。「……どういう意味だ?」「そのままの意味だ」和也は口を引き結ぶ。表情は複雑だった。「夏目雫は自分で拉致犯を雇って、拉致を演出した。お前に美礼を恨ませるためだ。あの鞭の傷も、夏目雫が自分でつけた。拉致犯はもう押さえた。全部吐いた。録音もある」祐は雷に打たれたように、その場で凍りついた。頭の中で、何かが
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第15話

祐はその場で固まった。涙がまつ毛に引っかかり、落ちることもできずに揺れている。「よく考えてみろ」和也は祐の目をまっすぐ見つめ、一語一語、ゆっくりと言った。「彼女がつまらないって言ってたよな。でも、指がタコだらけになるまでピアノを弾いてたとき――お前、こっそり見てただろ?古臭いって言ってた。でも、あいつにあれこれ口出しされるたびに――心のどこかで、ちょっと嬉しかったんじゃないのか?嫌いだって言ってた。でも、七年間ずっとお前を付き纏ってきた彼女を――一度でも本気で突き放したことがあったか?」祐は口を開いた。だが言葉は出ない。喉に何かが詰まったように、動かない。「夏目雫を連れて見せびらかして、美礼の前でわざとキスして――」和也の声は大きくない。だが、その一つ一つが槌のように、祐の胸を叩きつけた。「それがどれだけガキくさいことをしてるか分かってるか?お前が好きなのは夏目雫じゃない。お前はただ美礼を苛立たせたかった、嫉妬させたかった、お前のことで悩ませたかった、お前のことだけ見ていてほしかっただけだ」「……黙れ!」祐の声はひどくかすれていた。喉の奥から無理やり絞り出すような声。「お前は、とっくに美礼のことを好きになったんだ」和也は止まらない。指の間に挟んだ煙草から灰が落ち、地面に散る。「ただ、慣れてただけだ。あいつがいることに、あいつに口出しされることに、あいつに愛されることに。だから、美礼が本当にいなくなったとき、お前は焦った。わざとレースに出て、わざと落馬した。……あいつが来るかどうか、確かめたかったんだろ?」祐の身体がびくりと震えた。心の奥底、誰にも触れられたくなかった傷を、正確に突かれたように。痛みで、身体がわずかに丸まる。――そうだ。あのレースは、雫にネックレスを勝ち取るためじゃない。ただ美礼に、自分を気にかけさせたかっただけだ。自分を叱りに来てほしかった。目を赤くして、「バカじゃないの!?」と怒鳴ってほしかった。怒りながらも手当てしてくれて、「どうして私の言うこと聞かないのよ」って、ぶつぶつ言ってほしかった。でも、自分が落馬して入院しても、彼女は来なかった。そのとき、初めて怖くなった。家に戻ってきて、「車を壊されるのが怖い」なんて言い訳をしたが、本当は美礼がまだいるか確かめ
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第16話

女将は口をへの字に曲げ、手にしていたせんべいをそのまま口に放り込んだ。「婚約者がいるなんて一言も言ってなかったよ。ただ、一人で、家族もいないって」その言葉に、祐の胸が鈍く痛んだ。鋭い痛みではない。鈍い刃でじわじわと切りつけられるような、重く、何度も繰り返される痛み。彼は何も言わず、そのまま三階へ上る。歩幅は大きく、二段飛ばしで階段を上がった。301号室の前に立ち、深く息を吸う。指先がわずかに強張り、ノックした。扉が開く。美礼がそこに立っていた。色あせたTシャツを着て、襟元は緩んでいる。髪は適当に結ばれ、数本の後れ毛が頬にかかっていた。顔色は相変わらず青白く、唇はひび割れている。手首の包帯はまだ外されておらず、何重にも巻かれ、少し汚れて毛羽立っていた。彼を見た瞬間も、彼女の表情には何の波紋も浮かばなかった。喜びも、怒りも、悲しみもない。ただの――無関心。まるで、見知らぬ他人を見るような目。「どうして来たの?」淡々とした声。まるで天気の話でもするかのようだった。祐はその態度を見て、喉が何かで塞がれたように苦しくなる。言いたいことは山ほどあるのに、ひとつも言葉にならない。「……お前に会いに来た」ようやく絞り出した声は、紙やすりで擦られたようにかすれていた。「一緒に帰ろう」美礼は、ゆっくりと首を横に振る。まるで風に揺れただけのように、かすかな動きだった。「帰らない。もう、あそこは私の家じゃない」「じゃあ、俺が新しく家を作ってやる」祐は反射的に言った。視線は焼き付くように熱い。「美礼、俺は間違ってた。全部分かったんだ。モチのことも、拉致のことも――全部誤解だった。俺が最低だった、お前を疑ってしまって」美礼はしばらく黙っていた。まつ毛が伏せられ、影が目元に落ちる。指先がドア枠に触れ、白くなるほど力が入っている。「分かったところで……どうなるの?」彼女の声には、恨みも、悔しさもなかった。ただ、底の見えない疲労だけが滲んでいた。「償うよ」祐は一歩踏み出し、彼女の手を掴もうとする。だが指先が触れた瞬間、彼女はさっと引いた。「戻ってくれ。俺は――」美礼は一歩下がり、距離を取る。ドア枠にもたれ、彼を見つめた。「祐」彼女は顔を上げ、彼の目を見つめた。その瞳は、まるで波ひとつ立
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第17話

祐は宿の入口で、丸一日、座り続けていた。階段に腰を下ろし、スーツの上着は脱いで膝にかけている。シャツの袖は肘までまくり上げられ、腕には蚊に刺された跡がいくつも浮かんでいたが、彼は一度も掻こうとしなかった。彼は和也に電話をかけた。声はかすれていた。「雫を調べてくれ」「何を?」「ここ数年、あいつがやってきたこと全部だ。特に美礼に関係するものを」電話の向こうで、和也が一瞬黙った。やがてキーボードを叩く音が響く。「……やっと気づいたか?」「無駄口を叩くな。早く調べてくれ」一時間後。和也からファイルが送られてきた。十数ページ。びっしりと文字が詰まり、画面キャプチャ、録音、送金記録まで添付されている。祐はそれを開いた。読み進めるほどに、顔色が沈んでいく。雫がやってきたことは、拉致やでっち上げなど、そんなレベルではなかった。雫は人を雇い、美礼の車に細工をさせていた。ブレーキホースに切り込みを入れ、ブレーキが利かなくなるように。あの日、美礼が車で帰宅する途中、危うく高架橋から転落しかけた。その事故で、美礼は一週間入院した。肋骨を二本骨折し、頭を四針縫う怪我を負った。祐はそれをただの事故だと思い込み、見舞いにすら行かなかった。さらに雫は人を使って、美礼のデザイン画を盗ませていた。美礼は大学でジュエリーデザインを専攻していた。卒業制作は「蝶」をテーマにしたネックレスとイヤリング。三ヶ月かけて描き上げ、何度も何度も修正を重ねた作品だった。提出前日、そのデザインデータは、美礼のパソコンから消えた。そして一ヶ月後、そのデザインは別の学生の卒業制作展に現れ、金賞を受賞した。美礼は指導教授に呼び出され、「独創性が欠けている」と言われ、卒業すら危うくなった。――それだけではない。雫は月城家の使用人を買収し、美礼の食事にアレルギー物質を混入させていた。そのせいで、美礼のマンゴーアレルギーは、次第に悪化していく。最初は発疹。やがて呼吸困難。回を追うごとに症状は重くなった。美礼は自分の体質が変わったのだと思い、数回受診したものの、原因は不明のままだった。……祐はそれを読み終え、指先が震えていた。スマホの画面の文字が揺れて見える。彼はそのまま、雫に電話をかけた。「祐?」電話の向こうか
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第18話

祐は電話を切ると、顔色をひどく青ざめさせ、握りしめたスマホが今にも変形しそうなほど、力が込められていた。彼は弁護士に電話をかける。声は氷のように冷たかった。「夏目雫を訴える。故意傷害、名誉毀損、でっち上げ――全部まとめてだ」「証拠は十分ですか?」「十分だ」祐の声は、歯の隙間から無理やり絞り出すようだった。「足りなければ、作る」雫の件を片付けたあと、彼は再び宿の入口へ戻った。すでに夜は更けていた。街灯が灯り、くすんだ橙色の光がぼんやりと階段を照らし、彼の身体を照らし、長い影を引き伸ばしていた。彼は301号室のドアをノックした。「どうしてまた来たの?」中から美礼の声が聞こえる。疲れ切った、眠りから覚めたばかりのような声だった。「腹が減った」祐は言う。声はかすれている。「前はよく俺に料理してくれただろ。もう一度、作ってくれないか」ドアの向こうは長い沈黙に包まれた。返事がないまま、永遠に続くかのような時間。やがて――「もう、あなたのために料理はしない」彼女の声はとても小さく、遠くから漂ってくるようだった。「帰って」祐はドアにもたれ、額を冷たい木の板に押しつける。その声は、まるで紙やすりで削られたかのようにかすれていた。「帰らない。お前が出てくるまで、ずっと待つ」それきり、美礼は何も言わなかった。祐は本当に、その場に立ち続けた。一時間。二時間。三時間。……女将が何度も様子を見に来た。何か言いかけてはやめ、唇を動かすだけで、結局何も言わずに首を振って去っていく。廊下の照明は壊れていて、明滅を繰り返しながらジジッと電流音を立てていた。やがて完全に消え、廊下は闇に沈む。階段口の非常灯だけが、青白い光を放っていた。――午前二時。突然、ドアが開いた。美礼が立っていた。彼女は清潔な服に着替え、髪も結び直している。整然とした姿。手首のガーゼも新しいものに替えられていて、その白さがやけに目に刺さった。「……一体、何がしたいの?」彼女の声は震えていた。恐怖ではない。長く押し殺してきた感情が、今にも堤防を破ろうとしている震えだ。「もう十分に言ったでしょ?私はもうあなたを愛してない。これ以上、あなたと関わりたくない。分かった!?」「分かってる」祐は彼女を見つめる。その視線は恐ろし
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第19話

美礼は息を呑んだ。涙がまつ毛にかかり、震えながらも落ちない。祐は彼女を離し、一歩後ろへ下がる。ポケットから指輪を取り出した。透き通るような緑の宝石の指輪。そこには、彼が叩きつけたときについた浅い傷がいくつか残っていた。「……これ、返す」彼は掌を開き、指輪を差し出す。「お前がいらないものは、俺もいらない。でも、俺って人間までいらないって言うなら――」彼女を見つめる。その目は、何かを断ち切るように決然としていた。「……もう俺に、生きてる意味もない」美礼の瞳が大きく揺れる。顔色が一瞬で青ざめた。「どういう意味……?」祐は答えず、そのまま背を向けて歩き出す。足音が廊下に響く。コツ、コツ、コツ――その一歩一歩が、彼女の心臓を踏みつけるようだった。美礼は立ち尽くしたまま、その背中を見送る。胸の奥に、嫌な予感が込み上げる。張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。彼女は走り出した。一階。祐の車はまだそこにあった。エンジンが唸り、排気音が荒く響く。ヘッドライトが白く、前方を刺すように照らしている。彼は運転席に座り、窓を半分下げていた。追いかけてきた彼女を見ると、口元に苦い笑みを浮かべる。目はまだ赤いままだ。――次の瞬間、彼はアクセルを踏み込んだ。車が一気に飛び出す。「祐――!」美礼は叫んだ。その声は夜の闇に遠くまで響き、向かいの壁にぶつかってはね返り、何度もこだました。車は矢のように道路へ飛び出し、速度を上げていく。エンジン音が獣の咆哮のように響いた。美礼は無我夢中で走り出す。涙で視界が滲み、道が見えない。足の傷もまだ治っていない。踏み出すたびに刃の上を歩くような痛み。それでも止まらない。靴が片方脱げても、拾わない。裸足のまま、走り続ける。彼女はその道を知っている。――山を巡るあの道路。祐が昔、よく飛ばしていた道だ。カーブが多く、崖は深い。ほんのわずかなミスで、車は大破し、人の命も終わる。そのとき、彼女の携帯が鳴った。和也だ。「美礼!あのバカまた飛ばしてる!アクセル全開だ!早く止めろ――」「どうして知ってるの……」「『彼女が振り向かないなら死んでやる』って……くそ、本気だ!GPSで速度が200キロ近い!あれは山道だぞ!」それを聞いた美礼は路肩に立ち尽く
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