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朝露のように、かすかな光を待ってる

朝露のように、かすかな光を待ってる

By:  かすかな光Completed
Language: Japanese
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南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。 名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。 無謀なスピード走行は禁止。 外泊は禁止。 そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。 だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。 ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。 そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。 周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。 南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。 写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。 しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。 その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」 個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。 祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。 七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。 目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。

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Chapter 1

第1話

南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。

名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。

無謀なスピード走行は禁止。

外泊は禁止。

そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。

だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。

ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。

そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。

周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。

南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。

写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。

しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。

その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」

個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。

祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。

七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。

目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。

彼女の目は泣き腫らして真っ赤で、体もひと回り細くなっていた。

彼が目を開けたのを見た瞬間、また涙がこぼれ落ちた。

そして彼女は自分の首からそのお守りを外し、ぎこちない手つきで彼の首にかけた。

「これはおばあちゃんがくれたもの。子どもの頃からずっと身につけてきて、これのおかげで一度も怪我をしたことがないの」あの時の美礼の声は、かすれていて、それでいてどこか強引だった。「今、これをあなたにあげる。ちゃんと身につけて。これから先、もう二度と怪我なんてしないで」

祐はずっとこの婚約者を疎んじていた。

本来ならその場で外して、彼女の顔に投げ返すはずだった。

だがあの日、なぜかそうしなかった。

ただ冷笑して言っただけだった。「ずいぶん横暴だな。一生外せないってわけか?」

彼女は長く沈黙したあと、ようやく小さな声で答えた。「私があなたを好きじゃなくなる日が来たら、その時は外していい。……その日になったら、私が自分で取りに来るから」

なぜか今、その言葉を思い出し、言葉にできない感情が胸の奥から湧き上がってきた。

だが祐はすぐにそれを押し殺し、相変わらずソファにもたれたまま、無造作に冷笑する。「で?取り返してどうするつもりだ?」

「別に」美礼の声は淡々としていた。「ただ、もうあなたにあげたくないだけ」

胸の奥に抑えきれない苛立ちが再び込み上げる。

祐は目の前の、見慣れた顔を見つめた。

幼い頃から、この顔はいつも同じだった。

上品で穏やかな名家の令嬢の仮面。常に整っていて、常に抑制されていて、そしていつも自分には退屈に映った。

彼はこれまで、彼女が自分の後ろを追いかけてきた姿や、あれこれ口出ししてくる姿を思い出し、ふと何かに気づいたように笑った。

「へえ――」わざとらしく語尾を引き伸ばし、口元に不良めいた笑みを浮かべる。「何年もやっても俺を好きにさせられなかったから、今度は『駆け引き』に出たってわけか?」

美礼は何も答えない。

祐は図星だと思い込み、立ち上がって彼女を見下ろした。「いいじゃないか。やりたいならやればいい。お守りも返してやるよ。ただし、このマンゴー、全部食え。そしたら返してやる」

その言葉が落ちた瞬間、個室の空気が凍りついた。

最初に耐えられなくなったのは雫だった。

彼の袖を引き、小声で言う。「祐……それ、ちょっとひどすぎない?月城さん、マンゴーにアレルギーがあるのに……」

祐は雫を見ることすらせず、視線を美礼に固定したまま言い放つ。「嫌なら食わなきゃいい。無理にやらせてるわけじゃないからさ」

彼が言い終わるや否や、美礼はテーブルの前に腰を下ろした。

マンゴーを一切れ手に取って、口に入れる。噛み、飲み込む。

一口目で、唇が赤くなり始めた。

二口目で、頬に細かい発疹が浮かぶ。

三口目で、呼吸が荒くなり、首には大きな赤い斑が広がっていく。

部屋は水を打ったように静まり返った。

祐はただ美礼をじっと見つめていた。

白かった肌がみるみる赤く染まり、呼吸が苦しくなっていく。

それでも美礼の手は止まらない。

一切れ、二切れ、三切れ――

皿が空になるまで一切れも残さず、美礼は食べ続けた。

そしてようやく顔を上げる。

目は腫れてほとんど開かず、唇は紫に腫れ上がっている。

声は途切れ途切れで、全身の力を振り絞るようだった。「……全部、食べた。……これで……返して、くれる?」

祐の胸の奥で燃え上がる何かが、さらに激しくなった。

彼は突然、目の前のテーブルを蹴り飛ばす。ガラスが砕け散る耳障りな音が響いた。

「ほらよ!」首からお守りを乱暴に引きちぎり、美礼に叩きつける。「消えろ!」

そう吐き捨てると、雫の手を掴み、振り返ることなくそのまま外へ向かった。

周囲の人間も、空気を読んで次々とその場を離れていく。

彼がまもなくドアを出ようとした、そのとき。

背後から、鈍い音が響いた。

雫が振り返り、悲鳴を上げる。「祐!月城さんが……倒れた!すごくひどいアレルギー反応よ、危ないんじゃない?病院に連れて行かないと――」

祐の足が止まる。思わず振り返ると、美礼は床に丸まり、全身を痙攣させていた。

顔中の発疹は一面に広がり、荒い息をしていた。

彼の胸がきゅっと締めつけられた。思わず駆け寄ろうとした、その瞬間――

雫が足をくじき、そのまま彼の胸に倒れ込んできた。

彼はすぐに向き直り、雫を支える。

眉をひそめた。「どうした?急に捻ったのか?痛むか?」

雫は彼に寄りかかり、弱々しく言う。「大丈夫……我慢できるから。先に月城さんを見てあげて……本当に危なそうだから……」

祐は振り返り、床に倒れる美礼に一瞬だけ視線を向けた。

胸の奥に説明のつかない苛立ちが渦巻く。

だが口から出たのは冷たい言葉だった。「放っておけ。彼女は自分で食ったんだ、死んでも自業自得だ。ちょうどいい、これで二度と煩わせられずに済む。先にお前の足を診てもらおう」

そう言い切ると、彼は雫を横抱きにし、そのまま大股で立ち去った。

個室は再び静寂に包まれる。

美礼は床に倒れたまま、最後の力を振り絞ってポケットから携帯を取り出し、【119】を押した。

「……南山市のノワールクラブ……三階……308号室……」声は途切れ途切れで、ほとんど聞き取れない。「アレルギー……救急車を……」

電話を切ると、彼女は冷たい床に頬を押しつけ、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。

「安心して、祐……」彼女は呟く。その声は羽のように軽かった。「もうすぐ……あなたを煩わせることは、なくなるから……」

――まだ知らないでしょう。

私は……月城家の娘じゃなかったの。

本当の令嬢が……もうすぐ戻ってくる。

そして私は……ここを去るの。
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第1話
南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。無謀なスピード走行は禁止。外泊は禁止。そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。 そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。彼女の目は泣き腫らして真っ赤で、体もひと回り細くなっていた。彼が目を開けたのを見た瞬間、また涙がこぼれ落ちた。そして彼女は自分の首からそのお守りを外し、ぎこちない手つきで彼の首にかけた。「これはおばあちゃんがくれたもの。子どもの頃からずっと身につけてきて、これのおかげで一度も怪我をしたことがないの」あの時の美礼の声は、かすれていて、それでいてどこか強引だった。「今、これをあなたにあげる。ちゃんと身につけて。これから先、もう二度と怪我なんてしないで」祐はずっとこの婚約者を疎んじていた。本来ならその場で外して、彼女の顔に投げ返すはずだった。だがあの日、なぜかそうしなかった。ただ冷笑して言っただけだった。「ずいぶ
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第2話
美礼は生まれながらにして月城家の令嬢だった。幼い頃から厳格に育てられ、あらゆる教養において秀でており、誰の目にも「完璧な名家の淑女」と映っていた。だが――それがどれほど息苦しいものかを知っているのは、彼女自身だけだった。起床の時間も、ピアノの練習時間も、読書の時間も。さらには笑うとき、口元をどれだけの角度で上げるかまで、すべて決められていた。彼女はまるで丹念に磨き上げられた陶器人形のようだった。美しく、完璧で――けれど、魂がない。そんな彼女の前に現れたのが、祐だった。南山市で最も名の知れた放蕩者。スピード違反まがいの走りも、喧嘩も、エクストリームスポーツまで何でもこなす男だった。自由奔放で、型にはまらず、何者にも縛られない風のような男。彼女が初めて彼を見たのは、両家の集まりの席だった。彼は一時間も遅れて、バイクで轟音を響かせながら現れた。ヘルメットを外すと、風にかき乱されたままの、それでも目を奪うほど整った顔が現れる。彼は周囲に向かってにやりと笑い、「渋滞しててさ」と軽く言い放ち、そのまま無造作に席へ座ると、妙に人を惹きつける目で彼女を一瞥し、顎で軽く合図を送った。その夜、美礼は眠れなかった。あんな人を、自分は見たことがなかった。彼の全身から「自由」が溢れているようで、一方で自分は、豪華な檻に閉じ込められたまま、羽ばたくことすら許されない鳥だった。両家に婚約があると知った日、彼女は一晩中眠れないほど嬉しかった。――だが、祐は美礼を嫌っていた。初対面の時から、ずっと。彼は彼女を「取り繕っている」と言い、「つまらない」と言い、「まるで波一つ立たない水面みたいだ」とさえ言った。やがて彼は、雫を好きになった。奨学金で通っている雫に向ける眼差しは、今にも溶けてしまいそうなほど優しかった。祐は何度も婚約解消を試みたが、うまくいかなかった。結局、開き直るしかなく、名ばかりの婚約関係を保ちながら、結婚の話は先延ばしにし続けた。美礼が嫌がることを、彼はむしろ意地になってやり続けた。雫を連れて堂々と街を歩き、婚約者である美礼の面目を潰した。美礼は仕方なく、毎日のように彼の後を追い、口出しし、止めに入った。まるで鬱陶しい追っかけのように。それでも――いつかは彼が気づいてくれると
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第3話
目を覚ましたとき、まず鼻をついたのは消毒薬の匂いだった。美礼はゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、無機質なほど白い天井。病室は静まり返っていて、点滴の滴る音さえはっきりと聞こえる。ふと顔を横に向けると、ベッドのそばを見た――誰もいない。意外でもなんでもなかった。祐が来るはずもないし、月城家の人間が来ることもない。それから数日間、彼女はひとりで病院に残り、静かに療養を続けた。スマホには毎日のようにニュースの通知が届く。どれも祐と雫に関するものばかりだった。祐が雫をプライベートドクターに連れて行ったり、祐が雫に限定モデルのバッグを棚一列分も買ってあげたり、祐が雫を海辺へ連れて行って気晴らしに付き合ったり……以前なら、こんなニュースを見ればすぐに手を止め、祐のもとへ駆けつけていた。そして雫のそばから彼を引きはがし、無理やり家へ連れ帰っていた。だが今は違う。通知を無言でスワイプして消し、ただ薬を服用し、食事をとり、眠るだけ。怪我がほぼ治ると、彼女は退院手続きを済ませ、タクシーであの屋敷へ戻った。そこは彼女が何年も暮らしてきた場所。両家の年長者たちが無理やり二人を同居させ、感情を育てさせようとした家だった。当時の美礼は嬉しくて仕方なかった。三ヶ月もの時間をかけ、自ら設計し、内装を整え、家の隅々までを自分の思い描いた「居場所」に作り上げた。リビングのカーテンは、彼女が選んだ淡いブルー。書斎の本棚は、彼女自身がデザインしたもの。キッチンの食器は、彼女が海外から一つひとつ持ち帰って揃えた。けれど今、この場所はもう彼女のものではない。美礼は二階へ上がり、持ち出す荷物の整理を始めた。クローゼットの服を半分ほど畳んだところで、スマホが鳴る。画面に表示された名前は――神谷和也(かみや かずや)。祐の友人だった。「美礼!大変だ!」和也の声は切羽詰まっている。「祐のやつ、頭おかしいぞ!夏目雫にネックレスを勝ち取るとか言って、競馬のレースに出るつもりだ!前の事故で入れたプレートもまだ抜いてないのに、また転んだら脚が駄目になる!」美礼は少し沈黙してから、静かに答えた。「……それで?私に何の関係があるの?」「何の関係があるだって?」和也は言葉に詰まり、すぐに声を荒げた。「……止めに来いってことだよ
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第4話
「美礼、お前どういうつもりだ!?」祐は大股で近づき、目の奥に鋭い詮索の色を宿す。「ここ数日、その『駆け引き』がうまくいってると思ってるのか?俺と雫がニュースになっても無視、俺が落馬して入院しても無視、それで今度は『もう干渉しない』だと?」彼は身をかがめ、その影で彼女を覆い込んだ。声には露骨な嘲りが滲んでいた。「美礼、最後に言っておく。そんな古臭い手で俺の気を引こうとしても無駄だ」美礼は疲れ切っていた。「誤解してる」と言おうとした、その時――入口のほうから、震えるようなか細い声が響いた。「月城さん……」雫だった。いつの間にかそこに立っていて、目はひどく赤く、風に吹かれれば倒れてしまいそうなほど、体を震わせている。おずおずと少し前に進み、祐と美礼の間を視線が揺れる。やがて俯き、蚊の鳴くような声で言った。「月城さん……お願いです……怒りは全部、私に向けてください。祐とはもう喧嘩しないで……彼、まだ怪我が治っていないんです……」言い終わる前に、糸の切れたように涙が零れ落ちた。「私……分かってるんです。祐にふさわしくないことくらい……」雫は口元を押さえ、肩を震わせながら泣く。「お二人が結婚したら、私は遠くへ行きます。二度と現れません……だからこの間だけ、どうか……少しだけ彼のそばにいさせてください……」その言葉は、蜜を塗った刃のように、正確に祐の心臓を刺した。「雫!何を言ってるんだ!」祐の表情が一瞬で変わる。ほとんど反射的に駆け寄り、雫を抱き締めた。その腕は強く、今にも彼女を自分の中に閉じ込めてしまいそうなほどだった。彼は雫が怯えていないか確かめながら、ふと顔を上げ、美礼を睨みつける。その視線には、露骨な嫌悪をにじませた。「俺がどれだけ美礼を嫌ってるか、他人が知らなくても、お前なら分かってるだろう!?俺は死んでもこいつを好きになんてならない!たとえ結婚したところで、あるのは名ばかりだ。それ以外は何もない!」腕の中の雫を落ち着かせると、祐は指先でそっと彼女の涙を拭った。声は先ほどとは打って変わって、溶けるように柔らかい。「いい子だ、泣くな。そんなに泣かれたら、こっちまで苦しくなる」雫は彼の胸に寄りかかり、しばらくしてようやく泣き止む。手で彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「祐……先のことは後でいい
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第5話
美礼は携帯を拾い上げた。画面に映し出された動画が再生された。顔の判別がつかない男が地面に跪き、血だらけになりながら叫んでいた。「月城様の指示だ!月城美礼様が夏目さんをさらえって言ったんだ!もうやめてくれ、頼む、殴るのはやめてくれ……!」頭の中で何かが弾ける音がした。 しばらくして、ようやく状況を理解する。――雫が拉致され、犯人は「月城美礼の指示」だと証言している。「……私じゃない」美礼は携帯を脇に置き、疲れきった声で言った。「この件は、私と関係ない。やってない」「お前じゃなきゃ誰だっていうんだ!?」祐の声が震えていた。怒りか、それとも別の感情か分からない。「前に俺の車を壊して、無理やり家に連れ戻した件は、全部我慢してきた!でも何度言えば分かる、雫は俺の大事な人だ!手を出すなって!もし俺が少しでも遅れてたら、どうなってたか分かってるのか!?」「何度言えば分かるの?私じゃない!」美礼の声に、初めて明確な起伏が生まれる。「あなたが夏目雫をどう愛そうと、もう私は関係ないって言ったでしょ?この数日、私があなたに干渉したことなんてあった?それなのに、どうして急に彼女をさらわせる必要があるのよ!?」その言葉は、祐の中にわずかに残っていた迷いを、一瞬で焼き払った。彼は冷笑する。「なるほどな。この数日、お前が何もしてこなかったのは事実だ。だが、それが『大きな仕掛け』の前触れじゃないとでも?美礼、お前のことはよく分かってる。自分の手に入らないものは、他人にも渡さない――そういう人間だろ?」「……あなた……!」美礼の胸が上下する。怒りが込み上げる。「もうたくさん……これ以上言い争うつもりはない。でももう一度言う。私はやってない!」「もういい!」祐は一言一言を噛みしめるように告げた。「大事にはならなかった。それだけが救いだ。今すぐ雫に謝れ。そして今後、一切彼女に手を出さないと誓え」「……謝らなかったら?」「父と母、そしてお前の両親を呼んで、この婚約を破棄する」「あなた、分かってるでしょ。この婚約は破棄できないって」祐は笑った。いつもはどこか気だるげな笑みを湛えているその目が、今は氷のように冷え切っている。「そうなのか?じゃあ、もし俺が死ぬと言ったら?」その一言で、美礼の心臓が強く打ち鳴った。――彼は、雫のためな
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第6話
美礼は弁解しようとした。自分は濡れ衣だと伝えようとした。だが口を開いた瞬間、広がったのは生臭い血の味だけだった。祐の視線が、部屋の隅に置かれた白いグランドピアノへと移る。それは彼女がこの屋敷に越してきたときに持ち込んだ、最も大切にしているものだった。その瞬間、彼は最も効果的な仕返しを思いついたかのように笑った。「そういえば、お前……ピアノが好きだったな?」言葉が落ちた瞬間、彼は床に散らばっていた花瓶の破片を拾い上げ、美礼の手首を乱暴に掴んだ。そして、鋭い破片で、彼女の手首を一気に切り裂いた。「――ああああっ!」美礼の絶叫が部屋に響き渡る。激痛が手首から弾けるように広がり、血が噴き出して、瞬く間に腕全体を赤く染めた。「あ……な……た……」全身が痙攣し、言葉にならない声が漏れる。彼女はただ、絶望的な目で彼を見つめることしかできなかった。祐は手を離し、苦しみにうずくまる彼女を見下ろす。その目には一片の情もなく、あるのは冷たい満足感だけだった。「覚えておけ。お前が雫に手を出したなら、俺はお前の一番大事なものを壊すんだ」彼は振り向き、震えが止まらない雫を引き寄せて抱きしめた。そして、柔らかな声で言う。「行こう。こんな場所、反吐が出る」二人の足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。……美礼は血の中に倒れたまま、声すら上げられない。意識がゆっくりと遠のいていく。朦朧とした中で、彼女は遠い昔を思い出した。まだ学生だった頃。手作りのチョコレートを祐に渡そうと体育館の裏へ行ったとき、彼と仲間たちの会話を聞いてしまった。「なあ祐、こんなにモテるのに、どんな子がタイプなんだ?」若い頃の祐は壁にもたれ、棒付きキャンディーをくわえながら、だらしなく笑っていた。だがその視線には、どこか気の抜けたような自信が漂っている。「ピアノ弾ける子かな」……その日から、美礼は狂ったようにピアノを練習した。指が腫れるまで、指先にタコができるまで。いつか、祐に一番綺麗な曲を聴かせるために。だが今は――彼女は血にまみれた自分の手首を見下ろし、ふと笑いたくなった。何年もかけて積み上げたものを、最後は彼自身の手で壊されたのだ。視界が暗く沈む。そして彼女は、完全に意識を失った。……次に目
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第7話
美礼は黙ったまま、何も答えなかった。ただ静かにまつげを伏せ、瞳の奥の感情を隠す。祐もそれ以上は構わず、立ち上がってリビングを歩き回り、周囲を見渡した。「モチは?」モチは彼と雫が何年も一緒に飼ってきた、大切なラグドールの猫だった。今回出かける前にも、彼はわざわざ使用人に、しっかり世話をするよう言い聞かせていた。部屋を一周しても、あの白い姿が見当たらない。彼の眉間の皺が深くなる。「モチはどこだ?」呼ばれた使用人は顔を青ざめさせ、慌てて部屋中を見回した。視線を泳がせた末、何かを決心したように、小さな声で言う。「若様……その……美礼様が……モチを外に出してしまいました……止めたんですが、聞いていただけなくて……」美礼ははっと顔を上げた。「何を言ってるの?私がいつモチを逃がしたの?」使用人は頭を下げたまま、さらに声を小さくする。「美礼様……モチのこと、お好きじゃないのは分かっています。でも、あれは若様と雫様が何年も一緒に育ててきた猫で……」「やってない」彼女の声が冷たくなる。「いい加減なことを言わないで」「もういい!」祐が鋭く遮った。その目は氷のように冷たく、露骨な嫌悪を帯びている。「美礼、お前はどこまで陰湿なんだ?モチは雫にとってどれだけ大切か、分かってるだろ。それすら許せないのか?」彼は数歩で距離を詰め、彼女の手首を乱暴に掴んだ。骨を砕きそうなほどの力だった。「モチが無事であることを祈れ。今すぐ探しに行け。見つからなければ、婚約はなしだ。ここにも二度と戻れないと思え」美礼は息を整えた。胸が上下する。だが、反論はしなかった。彼の手を振りほどき、そのまま外へ出ていく。……外は街灯もなく、手を伸ばしても指先さえ見えないほどの暗闇だった。彼女はスマホのライトをつけ、屋敷の周囲を一つ一つ探し始めた。草むら、木の陰、岩の裏。一時間近く探した頃、突然雨が降り出す。大粒の雨が体に叩きつけられ、美礼はあっという間に全身が濡れた。それでも戻れない。祐は言ったことを必ずやる男だ。モチが見つからなければ、本当に中に入れてくれない。ヒールが泥に取られ、まともに歩けない。彼女は靴を脱ぎ、裸足で地面を踏みしめた。さらに三十分ほど探し続け、ようやく湖の中で何かがばたついているのが見えた。――モ
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第8話
美礼はドア枠にもたれかかっていた。高熱で体は力が入らず、唇は青白い。声もかすれている。「……やってない。説明することもないわ」「やってないだと?」祐は一歩、また一歩と詰め寄る。目の奥の怒りは今にも噴き出しそうだった。「モチはお前が逃がして、お前が連れ戻して、それで毒を盛られた。美礼、俺をバカにしてるのか?」「やってないって言ってる」彼女はもう一度繰り返した。声はかすれている。「信じないなら……それでいい」その頑なな態度に、祐の怒りはさらに燃え上がった。彼は振り返り、テーブルの上の強い酒を掴んだ。蓋をねじ開けると、彼女の顎を強引に掴んで、そのまま喉へと酒を無理やり流し込む。「いい度胸だな。どこまで強がれるか、試してやる!」酒が喉に流れ込み、美礼は激しく咳き込む。涙がにじみ、アルコールが食道を焼くように痛んだ。押し返そうとしても、熱で体は言うことを聞かない。力が入らず、振りほどけない。半分以上を無理やり飲まされ、息が詰まりそうになる。必死に逃れようとするが、祐の手は鉄の枷のように彼女を縛りつけていた。「放して……っ、げほ……放して……」ようやく彼の手を振りほどき、彼女はよろめきながらドアへ向かう。胃の中がかき回されるようで、とにかく吐ける場所を探したかった。だが祐が追いつき、美礼の後ろ襟をつかむ。もがけばもがくほど、彼の手は強くなる。もみ合いの中で足を滑らせ、彼女はバランスを失い――二階の手すりを越えて転落した。「――ドンッ!」鈍い衝撃音が、がらんとしたホールに響く。美礼は冷たい床に叩きつけられ、全身の骨が砕けたような痛みに襲われた。額も腕も脚も、あちこちから血が流れている。痛みで声も出ない。ただ体を丸め、大きく息を吸い込むことしかできなかった。駆けつけたボディガードがその惨状を見て顔色を変え、上を見上げる。「若様……救急車を呼びますか?」祐は二階に立ち、眼下にある血まみれの人影を見下ろしたまま、長いこと黙り込んでいた。「必要ない」背を向け、彼は冷たく言い放つ。「少しは思い知ればいい。何にでも手を出していいわけじゃないってな」足音が遠ざかり、ドアの閉まる音だけがやけに大きく響いた。美礼は床に倒れ込み、発熱と酒のせいで意識が朦朧とし、全身の骨が砕けたような痛みに襲われていた。視界が
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第9話
雫はソファに身を縮め、猫のぬいぐるみを抱きしめていた。目は泣き腫らして赤く、声は擦り切れたようにかすれている。「モチ……もう、戻ってこないの……?」祐は隣に座り、眉をひそめたまま膝を指で軽く叩いた。声には抑えきれない苛立ちが滲む。「獣医に確認した。助からない。そんなに辛いなら、また飼えばいい。十匹でも何匹でも」「違うの……他の猫じゃない……モチがいいの……」雫は彼の胸に飛び込み、息もできないほど泣きじゃくる。涙で彼のシャツが大きく濡れた。「何年も一緒に暮らしてきたの……祐、分かる?モチは、私にとって家族みたいな存在なの……」祐の体が一瞬固まる。正直、こういう湿った泣き方は好きではない。じめじめしてまとわりつくようで、夏の湿気のように不快だ。だが彼女が愛猫を失ったばかりだと思い、ぎこちなく背中を叩いた。「……もういい、泣くな」その時、祐のスマホが鳴る。画面を一瞥し、通話を取る。声は淡々としている。「母さん、何だ?」電話の向こうから、祐の母・木野真理子(きの まりこ)の声が冷たく響く。反論を許さない強さを帯びている。「祐、結婚式は三日後に決まったわ。すぐ戻って準備しなさい。月城家とはもう話がまとまっている。これ以上の延期は認めないよ」その瞬間、祐の苛立ちが一気に噴き上がる。こめかみがどくどくと脈打った。「結婚なんてしないって言ってるだろ。話、通じてるか?」「あなたが決めることじゃない」真理子の声は一段と冷え込み、真冬に氷水を浴びせられたかのような冷たさを帯びていた。「両家の共同プロジェクトはすでに始まっているの。婚約は履行してもらうわ。もし欠席するようなら、もうあなたを息子とは思わない」通話は一方的に切れた。ツー、ツー、と続く機械音が、判決のように耳に残る。祐は携帯を乱暴にソファへ叩きつけた。弾かれたそれは床へ滑り落ち、画面にひびが入る。だが彼は一瞥もしない。胸が激しく上下する。内側に火の塊でも押し込まれたように、じっとしていられない。雫はおずおずと彼を見上げた。目元はまた赤くなり、唇がかすかに震える。蚊の鳴くような声で言った。「祐……もしかして、結婚しに戻るの……?」祐は答えない。顔色は重く沈み、今にも滴り落ちそうなほど暗い。「……ごめんなさい、こんなこと聞いちゃいけないっ
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第10話
三日後――木野家の本邸。祐は黒のスーツに身を包み、式場の入口に立っていた。顔には露骨な不機嫌が浮かんでいる。ネクタイが喉を締めつけ、息苦しい。何度か緩めたり締め直したりしたが、結局どうでもよくなって放り出した。本来なら来るつもりはなかった。だが真理子は、来なければ縁を切ると言い放った。反抗的ではあっても、両親と完全に決裂するほど愚かではない。会場には続々と客が集まり、グラスが交わされ、会場は華やかな喧騒に包まれていた。あちこちから笑い声やグラスのぶつかる音、社交辞令が飛び交い、空気にはシャンパンと香水が混ざり合った香りが漂っている。――甘ったるくて、むせ返るほどに。祐の友人・和也が近づいてくる。祐の肩を叩き、にやりと笑う。「祐、おめでとう。ついに結婚か。でもその顔、処刑場にでも行くみたいだな?」祐は冷笑を漏らし、口元に嘲るような弧を描いた。「処刑場に行くより気分が悪いな」和也は眉を上げ、通りがかったウェイターのトレイからシャンパンを二杯取り、一杯を差し出す。「そこまで嫌いか?美礼のこと。俺は結構いいと思うけどな。顔もいいし、家柄もいいし、お前に一途だし。何をそんなに意地張ってるんだ?」「好きならお前が彼女と結婚してくれ」祐は受け取らず、入口へ視線を向けた。眉間の皺がさらに深くなる。「……あいつ、どこだ?まだ来ないのか?」言い終えるのと同時に、重厚な木の扉がゆっくりと開いた。ぎい、と低い軋みが会場に響く。場内の視線が一斉にそちらへ向く。まるで見えない手に首を掴まれたかのように。祐も反射的に顔を上げる。十年以上見慣れた、あの顔を迎えるつもりで。いつも変わらない、上品で柔らかな微笑み。隙のない立ち姿。淡く控えめな装い。まるで一幅の絵から抜け出してきたような存在。だが彼は、固まった。赤い絨毯を歩いているのは、美礼ではない。見たこともない女だった。純白のウェディングドレスに身を包み、幾重にも重なるチュールがふわりと揺れる。細かなビジューが光を受けて、きらきらと瞬いていた。顔立ちは可憐で整っているが、纏う雰囲気はまるで違った。この女はどこか素朴で、慣れない緊張に満ちている。手はわずかに震え、裾を踏まないように一歩一歩、恐る恐る進んでいる。祐の瞳孔が一気に収縮す
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