LOGIN南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。 名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。 無謀なスピード走行は禁止。 外泊は禁止。 そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。 だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。 ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。 そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。 周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。 南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。 写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。 しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。 その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」 個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。 祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。 七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。 目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。
View More美礼は息を呑んだ。涙がまつ毛にかかり、震えながらも落ちない。祐は彼女を離し、一歩後ろへ下がる。ポケットから指輪を取り出した。透き通るような緑の宝石の指輪。そこには、彼が叩きつけたときについた浅い傷がいくつか残っていた。「……これ、返す」彼は掌を開き、指輪を差し出す。「お前がいらないものは、俺もいらない。でも、俺って人間までいらないって言うなら――」彼女を見つめる。その目は、何かを断ち切るように決然としていた。「……もう俺に、生きてる意味もない」美礼の瞳が大きく揺れる。顔色が一瞬で青ざめた。「どういう意味……?」祐は答えず、そのまま背を向けて歩き出す。足音が廊下に響く。コツ、コツ、コツ――その一歩一歩が、彼女の心臓を踏みつけるようだった。美礼は立ち尽くしたまま、その背中を見送る。胸の奥に、嫌な予感が込み上げる。張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。彼女は走り出した。一階。祐の車はまだそこにあった。エンジンが唸り、排気音が荒く響く。ヘッドライトが白く、前方を刺すように照らしている。彼は運転席に座り、窓を半分下げていた。追いかけてきた彼女を見ると、口元に苦い笑みを浮かべる。目はまだ赤いままだ。――次の瞬間、彼はアクセルを踏み込んだ。車が一気に飛び出す。「祐――!」美礼は叫んだ。その声は夜の闇に遠くまで響き、向かいの壁にぶつかってはね返り、何度もこだました。車は矢のように道路へ飛び出し、速度を上げていく。エンジン音が獣の咆哮のように響いた。美礼は無我夢中で走り出す。涙で視界が滲み、道が見えない。足の傷もまだ治っていない。踏み出すたびに刃の上を歩くような痛み。それでも止まらない。靴が片方脱げても、拾わない。裸足のまま、走り続ける。彼女はその道を知っている。――山を巡るあの道路。祐が昔、よく飛ばしていた道だ。カーブが多く、崖は深い。ほんのわずかなミスで、車は大破し、人の命も終わる。そのとき、彼女の携帯が鳴った。和也だ。「美礼!あのバカまた飛ばしてる!アクセル全開だ!早く止めろ――」「どうして知ってるの……」「『彼女が振り向かないなら死んでやる』って……くそ、本気だ!GPSで速度が200キロ近い!あれは山道だぞ!」それを聞いた美礼は路肩に立ち尽く
祐は電話を切ると、顔色をひどく青ざめさせ、握りしめたスマホが今にも変形しそうなほど、力が込められていた。彼は弁護士に電話をかける。声は氷のように冷たかった。「夏目雫を訴える。故意傷害、名誉毀損、でっち上げ――全部まとめてだ」「証拠は十分ですか?」「十分だ」祐の声は、歯の隙間から無理やり絞り出すようだった。「足りなければ、作る」雫の件を片付けたあと、彼は再び宿の入口へ戻った。すでに夜は更けていた。街灯が灯り、くすんだ橙色の光がぼんやりと階段を照らし、彼の身体を照らし、長い影を引き伸ばしていた。彼は301号室のドアをノックした。「どうしてまた来たの?」中から美礼の声が聞こえる。疲れ切った、眠りから覚めたばかりのような声だった。「腹が減った」祐は言う。声はかすれている。「前はよく俺に料理してくれただろ。もう一度、作ってくれないか」ドアの向こうは長い沈黙に包まれた。返事がないまま、永遠に続くかのような時間。やがて――「もう、あなたのために料理はしない」彼女の声はとても小さく、遠くから漂ってくるようだった。「帰って」祐はドアにもたれ、額を冷たい木の板に押しつける。その声は、まるで紙やすりで削られたかのようにかすれていた。「帰らない。お前が出てくるまで、ずっと待つ」それきり、美礼は何も言わなかった。祐は本当に、その場に立ち続けた。一時間。二時間。三時間。……女将が何度も様子を見に来た。何か言いかけてはやめ、唇を動かすだけで、結局何も言わずに首を振って去っていく。廊下の照明は壊れていて、明滅を繰り返しながらジジッと電流音を立てていた。やがて完全に消え、廊下は闇に沈む。階段口の非常灯だけが、青白い光を放っていた。――午前二時。突然、ドアが開いた。美礼が立っていた。彼女は清潔な服に着替え、髪も結び直している。整然とした姿。手首のガーゼも新しいものに替えられていて、その白さがやけに目に刺さった。「……一体、何がしたいの?」彼女の声は震えていた。恐怖ではない。長く押し殺してきた感情が、今にも堤防を破ろうとしている震えだ。「もう十分に言ったでしょ?私はもうあなたを愛してない。これ以上、あなたと関わりたくない。分かった!?」「分かってる」祐は彼女を見つめる。その視線は恐ろし
祐は宿の入口で、丸一日、座り続けていた。階段に腰を下ろし、スーツの上着は脱いで膝にかけている。シャツの袖は肘までまくり上げられ、腕には蚊に刺された跡がいくつも浮かんでいたが、彼は一度も掻こうとしなかった。彼は和也に電話をかけた。声はかすれていた。「雫を調べてくれ」「何を?」「ここ数年、あいつがやってきたこと全部だ。特に美礼に関係するものを」電話の向こうで、和也が一瞬黙った。やがてキーボードを叩く音が響く。「……やっと気づいたか?」「無駄口を叩くな。早く調べてくれ」一時間後。和也からファイルが送られてきた。十数ページ。びっしりと文字が詰まり、画面キャプチャ、録音、送金記録まで添付されている。祐はそれを開いた。読み進めるほどに、顔色が沈んでいく。雫がやってきたことは、拉致やでっち上げなど、そんなレベルではなかった。雫は人を雇い、美礼の車に細工をさせていた。ブレーキホースに切り込みを入れ、ブレーキが利かなくなるように。あの日、美礼が車で帰宅する途中、危うく高架橋から転落しかけた。その事故で、美礼は一週間入院した。肋骨を二本骨折し、頭を四針縫う怪我を負った。祐はそれをただの事故だと思い込み、見舞いにすら行かなかった。さらに雫は人を使って、美礼のデザイン画を盗ませていた。美礼は大学でジュエリーデザインを専攻していた。卒業制作は「蝶」をテーマにしたネックレスとイヤリング。三ヶ月かけて描き上げ、何度も何度も修正を重ねた作品だった。提出前日、そのデザインデータは、美礼のパソコンから消えた。そして一ヶ月後、そのデザインは別の学生の卒業制作展に現れ、金賞を受賞した。美礼は指導教授に呼び出され、「独創性が欠けている」と言われ、卒業すら危うくなった。――それだけではない。雫は月城家の使用人を買収し、美礼の食事にアレルギー物質を混入させていた。そのせいで、美礼のマンゴーアレルギーは、次第に悪化していく。最初は発疹。やがて呼吸困難。回を追うごとに症状は重くなった。美礼は自分の体質が変わったのだと思い、数回受診したものの、原因は不明のままだった。……祐はそれを読み終え、指先が震えていた。スマホの画面の文字が揺れて見える。彼はそのまま、雫に電話をかけた。「祐?」電話の向こうか
女将は口をへの字に曲げ、手にしていたせんべいをそのまま口に放り込んだ。「婚約者がいるなんて一言も言ってなかったよ。ただ、一人で、家族もいないって」その言葉に、祐の胸が鈍く痛んだ。鋭い痛みではない。鈍い刃でじわじわと切りつけられるような、重く、何度も繰り返される痛み。彼は何も言わず、そのまま三階へ上る。歩幅は大きく、二段飛ばしで階段を上がった。301号室の前に立ち、深く息を吸う。指先がわずかに強張り、ノックした。扉が開く。美礼がそこに立っていた。色あせたTシャツを着て、襟元は緩んでいる。髪は適当に結ばれ、数本の後れ毛が頬にかかっていた。顔色は相変わらず青白く、唇はひび割れている。手首の包帯はまだ外されておらず、何重にも巻かれ、少し汚れて毛羽立っていた。彼を見た瞬間も、彼女の表情には何の波紋も浮かばなかった。喜びも、怒りも、悲しみもない。ただの――無関心。まるで、見知らぬ他人を見るような目。「どうして来たの?」淡々とした声。まるで天気の話でもするかのようだった。祐はその態度を見て、喉が何かで塞がれたように苦しくなる。言いたいことは山ほどあるのに、ひとつも言葉にならない。「……お前に会いに来た」ようやく絞り出した声は、紙やすりで擦られたようにかすれていた。「一緒に帰ろう」美礼は、ゆっくりと首を横に振る。まるで風に揺れただけのように、かすかな動きだった。「帰らない。もう、あそこは私の家じゃない」「じゃあ、俺が新しく家を作ってやる」祐は反射的に言った。視線は焼き付くように熱い。「美礼、俺は間違ってた。全部分かったんだ。モチのことも、拉致のことも――全部誤解だった。俺が最低だった、お前を疑ってしまって」美礼はしばらく黙っていた。まつ毛が伏せられ、影が目元に落ちる。指先がドア枠に触れ、白くなるほど力が入っている。「分かったところで……どうなるの?」彼女の声には、恨みも、悔しさもなかった。ただ、底の見えない疲労だけが滲んでいた。「償うよ」祐は一歩踏み出し、彼女の手を掴もうとする。だが指先が触れた瞬間、彼女はさっと引いた。「戻ってくれ。俺は――」美礼は一歩下がり、距離を取る。ドア枠にもたれ、彼を見つめた。「祐」彼女は顔を上げ、彼の目を見つめた。その瞳は、まるで波ひとつ立