All Chapters of 死んだはずの君は、他の子の父親に: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。しかも二人とも、私の誕生日に。私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」子どもは不満そうに頬をふくらませた。改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」パパ?二人は死んでいなかった。それどころか、子どもまでいたのだ。「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」親戚の子が言った。その声に反応して、始が振り向いた。そして、私を見た。私はその場に立ち尽くしたまま、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。あの二人は、私のせいで死んだわけではなかった。それを喜ぶべきなのか。それとも、二人がいちばん残酷な形で私を裏切っていたことを、悲しむべきなのか。どうしてなのだろう。始は、私の幼なじみだった。二十歳のときには、わざわざ名前を「始」に変えてまで、私に告白してきた。彼はこう言った。「過ぎ去ったものは、すべて序章にすぎない。俺たちの過去は恋の始まりで、これからの一生こそが本編なんだ」あのときの私は、それが私たちの物語の始まりを意味しているのだと信じていた。誕生日の前日、始は私にこう言っていた。「夏穂、一生俺が守る。お前につらい思いなんてさせない」けれど、いつだって私をいちばん傷つけるのは、ほかでもない彼自身だった。いったい、いつから彼の心は私から離れていたのだろう。私にはわからなかった。そのとき、突然チャイムが鳴った。死んだはずの親友、駒井翔子(こまい しょうこ)。その娘である美羽は、もう一人の生徒と一緒に慌
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第2話

ドアが開くより先に、私は玄関先から逃げ出していた。顔を合わせる勇気なんてなかった。ただ何も考えず、外へ向かって走った。公園まで来て、ようやく足を止めた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。私はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。夜が深まっていく。この世界にはもう、私を愛してくれる人なんていないのだと思った。しびれた脚をさすりながら、私は迷いに迷った末、もう自分の居場所ではない「家」へ戻った。父と母は、それぞれ気まずそうな顔をしていた。しばらく沈黙が続いたあと、とうとう父が口を開いた。「夏穂。実は翔子は……死んでいないんだ」二人は探るように私の顔色をうかがいながら、言葉を続けた。「翔子は始くんと結婚している。子どももいるんだ」私が黙ったままでいると、母の声が少し強くなった。「翔子を責めないで。あなたと翔子は、生まれたときに取り違えられていたの。本当ならあなたが背負うはずだった苦労を、翔子が代わりに背負ってきたのよ」母は私をなだめるように続けた。「始くんのことは……つらいと思う。でも、あなたが香村家の娘であることは変わらないでしょう」私は、それで満足するべきなのだろうか。なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。責めることも、恨むことも、私には許されない。泣きわめいて怒れるのは、愛されている人だけだ。私には、その資格がない。私はただ、小さくうなずいた。父も母も、少し意外そうな顔をした。私がここまで何も言わないとは思っていなかったのだろう。「美羽ちゃんの学校、今の家からだと少し遠いの。だからしばらく、三人にはうちで暮らしてもらうことにしたから」もう決まっている話だった。その夜、始は翔子と美羽を連れて、この家に移ってきた。みんなが嬉しそうだった。家の中は、たちまち三人の荷物でいっぱいになった。母はキッチンに立ち、忙しく手を動かしながら、私が見たこともないほどやわらかな笑みを浮かべていた。何度も翔子に声をかけている。「翔子、ゆっくりでいいのよ。疲れたら休んで。あとはお母さんがやるから。あなたは小さい頃からずっと苦労してきたんだもの。思うだけで胸が痛いわ」始はソファに座ったまま、玄関に立ち尽くす私を横目で見た。「そんなところに立ってないで、こっちに座れ」私は
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第3話

「出ていくのか?」私は慌ててスマホを拾い上げた。どうやら始の目に入ったのは、最後の一文だけだったらしい。彼は私を見下ろし、もう一度、低い声で尋ねた。「俺のせいか?」私は思わず身を引き、冷たく答えた。「違う。ただ、別の街へ気晴らしに行くだけ」始はまだ何か言いたげだったが、私はその前に扉を閉めた。翌日、部屋で荷物を整理していると、古い箱が出てきた。中には始との写真と、昔、告白されたときにもらったネックレスが入っていた。そこには、始の名前が小さく刻まれていた。あの頃の始の目には、私しか映っていなかった。あの頃の両親も、たしかに私を愛してくれていた。胸の奥がきゅっと痛んだ。私はそれらを袋にまとめて、捨てに行くことにした。部屋を出ると、美羽と鉢合わせた。美羽は床にしゃがみ込み、積み木で遊んでいた。私を見るなり、不思議そうに首をかしげる。「夏穂お姉ちゃん、それ、捨てるの?」私はしゃがみ、美羽の頭をそっと撫でた。冷えきった指先が子どものぬくもりに触れ、ほんの一瞬、ぼんやりしてしまう。「たいしたものじゃないよ。もう必要ないものだから」美羽はぱちぱちと瞬きをして、私の顔をじっと見上げた。「夏穂お姉ちゃん、私とママのこと、嫌いなの?」始によく似たその顔を見ていると、胸の奥が少しだけやわらいだ。「嫌いじゃないよ。美羽のこと、好きだよ。とても可愛いと思ってる」「じゃあ、どうしていつも悲しそうなの?」美羽は私の手を握り、不思議そうに首をかしげた。「パパがね、夏穂お姉ちゃんは昔、お姫様みたいに大事にされてたって言ってたよ。おばあちゃんも、夏穂お姉ちゃんは小さい頃から可愛がられて、何でも持ってて、いちばん幸せなんだって」お姫様みたいに。その言葉が、胸に冷たく刺さった。今の私には、皮肉にしか聞こえなかった。みんな、そう思っているのだ。夏穂は、ずっと幸せに生きてきたのだと。しかし、誰も、私がどれだけ傷ついているかなんて考えもしない。涙がこみ上げてきて、私はそっと顔を背けた。美羽に泣き顔を見せたくなかった。そのとき、始と翔子がこちらへやってきた。美羽が私のそばにいるのを見ると、始はわずかに目を見開いた。翔子はすぐに駆け寄ってきた。私が子どもの前で余計なことを言うとでも思ったの
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第4話

私はすぐに首を振り、ごまかすように言った。「最近、乾燥してるせいか、鼻血が出やすくて」始がまだ何か言おうとしたそのとき、翔子が慌てて飛び出してきた。「始、美羽の様子がおかしいの。アレルギーかもしれない……怖い、どうしよう」始は私を一度だけ見て、すぐに家の中へ駆け戻った。足音が遠ざかってから、私はこらえきれずに咳き込んだ。口元を押さえた手を開くと、指の間が真っ赤に濡れていた。あの袋を処分したあと、私は病院へ行き、痛み止めを少し出してもらった。主治医はもう一度、抗がん剤治療を勧めてきた。私は小さく笑う。「治療しても、半年延びるだけですよね。それに、とてもつらいんでしょう。この数年、生きているだけで苦しかったんです。せめて最期くらい、少しでも楽でいたいんです」主治医はしばらく黙って私を見つめたが、結局それ以上は何も言わなかった。私はそのまま病院で一晩を過ごした。翌日、家に戻ると、リビングではみんなが重い顔でソファに座っていた。「夏穂、どうしてあんなことをしたの?」母が目を赤くして怒鳴った。もしかして、私が病気で、治療をやめたことを知ったのだろうか。胸がざわついた。何が起きたのかわからないまま、私は一歩近づいて尋ねた。「どうしたの?」始が冷たい顔で、怒りを押し殺した声で言った。「美羽は昨日、ピーナッツアレルギーで危なかった。翔子もピーナッツアレルギーだって、お前も知っていたよな。それなのに、料理にピーナッツバターを入れたんだろ」私は翔子を見た。翔子は何も言わず、一瞬だけ目をそらした。まさか私を陥れるために、自分の娘まで危険にさらすなんて思わなかった。「私じゃない。そんなことしてない」けれど、その短い否定は、母には言い逃れにしか聞こえなかったらしい。母は勢いよく立ち上がると、私の頬を思いきり打った。乾いた音が、リビングに響いた。頬が熱を持ち、視界がぐらりと揺れる。私は床に崩れ落ち、喉の奥まで上がってきた血の味を、必死にのみ込んだ。父が慌てて私を起こそうとしたが、母がそれを止めた。「甘やかしすぎたのよ。人を傷つけておいて、まだしらを切るなんて」涙がぽたりと床に落ちた。母は私を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。「こんなことになるなら、最初からあなた
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第5話

夏穂の誕生日の日、家の中は朝から慌ただしかった。母はわざわざ早起きしてエプロンをつけ、何度も献立を見直していた。メモに並んでいるのは、夏穂が昔から好きだった料理ばかりだった。母はまな板を拭きながら、ついこぼすようにつぶやいた。「あの子、こんなに長く家を空けたことなんてなかったのに。外のご飯ばかりじゃ口に合わないでしょう。また痩せて帰ってきたらどうしよう」リビングには、イチゴのショートケーキも用意されていた。母が三日前に店へ頼んでいたもので、プレートには【わが家のお姫様へ お誕生日おめでとう】と書かれている。それは昔、夏穂が誕生日のたびに受け取っていたケーキだった。ただ、この五年、誰も彼女のために用意していなかった。だから誰も気づかなかった。今の夏穂が、その「お姫様」という言葉を何より嫌がっていることに。父も部屋の飾りつけをしていた。夏穂が好きだったシャクヤクの花束まで、わざわざ用意している。「夏穂が帰ってきたら、ちゃんと謝ろう。これまでずいぶん苦しませてしまった。これから少しずつでも、埋め合わせをしていけばいい」そう言う父の声には、後悔と、どこか期待のようなものが混じっていた。始はすべての仕事を断り、新しいネックレスを用意していた。ペンダントには、昔と同じように自分の名前を刻ませてある。そのネックレスを見つめていると、贈り物を受け取ったときの夏穂の、きらきらした瞳ばかりが頭に浮かんだ。始はただ、夏穂にあの頃の姿へ戻ってほしかった。無邪気で、よく笑っていた夏穂に。けれど胸の奥の不安は、時間が経つほど大きくなっていく。最近の夏穂の様子は、どう考えても普通ではなかった。一方、翔子は部屋で美羽とおもちゃで遊んでいた。けれど心の中は、少しも落ち着かなかった。みんなが夏穂のことばかり気にかけている。その光景を見るたび、胸の奥に黒いものが溜まっていく。どうして。香村家の実の娘は自分なのに。始の妻も、自分なのに。それなのに、みんながまだ夏穂を気にかけている。今日だって、みんなは夏穂のために誕生日を祝おうとしている。翔子はたまらなく苛立った。五年もかけて、ようやくここまで来た。夏穂の居場所に入り込み、夏穂が持っていたものを全部手に入れるために。それなのに、どれだけ望んでも、
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第6話

頭の中が、ぶん、と鳴った。始の思考は一瞬で真っ白になり、周りの音がすべて遠のいていった。ただ「お亡くなりになりました」という言葉だけが、耳の奥で何度も繰り返される。胸の奥が、きしむように痛んだ。亡くなった?そんなはずがない。昨日、俺は夏穂に電話をかけたばかりだった。誕生日を家で祝おうと誘ったとき、夏穂はただ静かに「帰らない」と答えただけで、声もいつもと変わらなかった。たった一晩で、どうして亡くなるというのか。信じられない。信じられるはずがなかった。「何を言ってるんですか。夏穂が死んだなんて、あるわけないでしょう。人違いじゃないんですか?名前を間違えてるんじゃないんですか?」始は電話に向かって怒鳴った。声には、自分でも抑えきれない震えが混じっていた。涙が勝手にこぼれ、スマホの画面を濡らした。電話の向こうの看護師は、一拍置いてから、落ち着いた声で言った。「間違いではありません。患者様は香村夏穂様、二十六歳。ひと月ほど当院に入院されていました。詳しいことは主治医からご説明いたしますので、ご家族の方はできるだけ早く病院までお越しください」通話が切れた。ツー、ツーという音だけが耳に残る。次の瞬間、始の手からスマホが滑り落ち、床で鈍い音を立てた。始はその場に立ち尽くしていた。指先が震え、喉がひどく詰まって、何も言えない。その様子に、父と母の顔色が変わった。母がたまらず始に詰め寄り、腕をつかむ。「始くん、どうしたの?夏穂に何かあったの?お願い、何か言って」始は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、やっとのことで言葉を吐き出す。「夏穂が……亡くなったって」「亡くなったって……どういうこと?」母はその場に崩れ落ちた。血の気の引いた顔から、涙がぼろぼろとこぼれる。「嘘よ。うちの夏穂が亡くなるわけないでしょう?今日はあの子の誕生日なのよ。まだ二十六なのよ。帰ってきて、ケーキを食べるはずだったのに。嘘でしょう。ねえ、嘘だって言ってよ!」父も呆然としたまま後ずさり、ソファの背に手をついた。そうしなければ、立っていられなかった。父も母も、一瞬で生気を失ってしまったように見えた。翔子は胸の奥にこみ上げる喜びを押し隠し、いかにも心配しているような顔を作った。「落ち着い
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第7話

主治医の言葉に、その場にいた誰もが息をのんだ。夏穂は、いつからうつ病を患っていたのか。自傷まであったなんて。どうして、誰も知らなかったのだろう。あの馬鹿。病気だったなら、どうして言ってくれなかったのか。けれど胸を締めつけたのは、それ以上に、もっと早く気づけなかった後悔だった。誰もがずっと思い込んでいた。夏穂は香村家のお嬢様で、何不自由なく、大切に育てられてきた。たとえ裏切られても、時間が経てばきっと立ち直れる。父も母も、そう思い込んでいた。だから五年前も、翔子たちが死を偽ったことを知りながら、黙って隠し通した。始を失っても、夏穂にはまだ自分たちがいる。翔子が幼い頃に背負ってきた苦労も、これで少しは報われるはずだ。そうやって、自分たちに言い聞かせていた。夏穂が何も言わなくなっても、傷ついているのだとは思わなかった。ただ拗ねているだけだと思った。痩せていく姿を見ても、わざと食べないで困らせているのだと決めつけた。誰も考えようとしなかった。すべてを持っているように見えた夏穂の心が、もうとっくに傷だらけだったことを。最期のときまで、そばには誰ひとりいなかったことを。始はベッドのそばまで歩み寄り、ゆっくりと膝をついた。そして、夏穂の手をそっと握った。その手は骨ばっていて、浮き出た関節の形まではっきりわかるほどだった。もう、ぬくもりは残っていなかった。始は血の気のない夏穂の顔を見つめた。次の瞬間、こらえていたものが崩れたように、ベッドにすがりついて泣き崩れた。自分さえいなければ、夏穂はきっと、もっと幸せに生きられたはずだった。夏穂をここまで追い詰めたのは、自分だった。病気のことにも、もっと早く気づくべきだった。始はかつて、夏穂を一生守ると誓った。つらい思いなんてさせないと、そう言った。けれど最後まで夏穂をいちばん傷つけたのは、ほかでもない自分だった。償いたかった。けれどこの世界に、もう夏穂はいない。「夏穂……ごめん……俺が悪かった……戻ってきてくれ……もう二度と離れないから……頼む、戻ってきてくれ……」始は夏穂の手を握りしめ、何度も何度も謝り続けた。けれど返ってきたのは、窓の外を吹く風の音だけだった。母はベッドにすがりつき、夏穂の冷たい
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第8話

子どもの何気ない一言に、全員の視線が一斉に翔子へ向いた。信じられないものを見るような目だった。始の表情が、すっと消えた。彼はゆっくりと翔子を見た。喉の奥から押し出すような声だった。「美羽にピーナッツ入りのおやつを渡したのは、お前だったのか。それを夏穂が料理に入れたことにしたんだな。夏穂を陥れるために、自分の娘まで使ったのか」翔子の顔から血の気が引いた。彼女は思わず後ずさり、いつもの優しげな顔を保てないまま、感情をむき出しにして叫んだ。「私がやったから何?私は悪くない!当の香村家の娘は私なのよ。始と結婚したのだって私でしょう!夏穂は何でも持っていたじゃない。なのに、どうしてみんな、まだ夏穂を気にするの? どうして夏穂のことばかり考えるの?私は夏穂が憎かった。小さい頃から何もかも持っていたくせに、始まで奪った夏穂が憎かったの!私は夏穂の代わりに、あんな家で二十年以上も苦しんできたのよ。自分のものを取り戻して、何が悪いの?どうしてみんな夏穂の味方をするの?どうしてよ!」翔子の叫びで、今まで必死に隠してきた本音が、すべてさらけ出された。誰もが言葉を失った。彼らはずっと、翔子は弱くて優しい子で、ただ家族を欲しがっているだけなのだと思っていた。けれど実際は、夏穂を陥れるためなら、自分の娘さえ利用できる人間だった。この何年も見せていた優しさも、思いやりも、すべて作り物だったのだ。。母は翔子を見つめた。その目からは、これまでの愛情も、負い目も消えていた。残っているのは、深い失望だけだった。母はゆっくり首を横に振り、冷えた声で言った。「私が愚かだったのね。実の娘だからって、あなたのことばかりかわいそうだと思って、夏穂につらい思いをさせた。……本当に、あなたには失望したわ」父も翔子を見た。声はひどく沈んでいた。「私たちはずっと、お前に申し訳ないと思ってきた。だから何かしてやりたいと思っていたんだ。それなのに、お前はこんな形で夏穂を傷つけた」始は翔子をにらみつけた。その目には、抑えきれない怒りがあった。「俺はお前のために夏穂を裏切った。死んだふりまでして、夏穂を五年も罪悪感で苦しめた。あんなに追い詰めてしまった。それなのにお前は、夏穂が苦しんでいるときにまで陥れようとしたのか。翔子、もう無理だ
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第9話

綴られた言葉のひとつひとつに、夏穂が誰にも言えなかった苦しみが滲んでいた。始は冷たい床に座り込んだまま、日記を抱きしめた。胸が締めつけられて、息をすることさえ苦しかった。――夏穂がどれほど絶望していたのだろう……ごめん……数日後、始は翔子に離婚を切り出した。その態度は変わらなかった。翔子がどれだけ泣きわめいても、始が振り返ることはなかった。始は財産を何ひとつ受け取らず、夏穂の日記と、あのネックレスだけを持って家を出た。父と母も、それ以来、翔子に関わろうとはしなかった。翔子は美羽を香村家に残していった。離婚したあと、始は夏穂がかつて使っていた部屋に移り住んだ。毎日、夏穂の日記を読み、写真の前でぼんやりと時間を過ごした。仕事も辞めた。夏穂が行った公園へ行き、夏穂が歩いた道を歩き、夏穂が好きだったものを食べた。少しでも償いたかった。けれど、何もかも遅すぎた。夏穂の命日、始はシャクヤクの花束を買った。夏穂がいちばん好きだった花だった。花を抱え、始は夏穂の墓へ向かって車を走らせた。道中、頭に浮かぶのは夏穂の姿ばかりだった。視界が少しずつにじんでいく。涙で、前が見えなくなった。ぼんやりした意識のまま、始は向かいから来る大型トラックに気づくのが遅れた。耳をつんざくブレーキ音と、激しい衝突音が同時に響いた。血に染まったシャクヤクが、車内に散らばった。夏穂の日記と、始の名前が刻まれたネックレスだけは、最後まで彼の手の中にあった。始は、そんな形で夏穂のもとへ逝った。もう二度と届かない償いを抱えたまま。始が死んだあと、翔子も心を病み、精神科の病院へ入った。美羽は、息の詰まるような香村家で暮らすことになった。やがて美羽は、あまり話さなくなった。笑うことも、ほとんどなくなった。父と母がどこへ行ったのか、美羽にはわからなかった。香村家からは、笑い声がすっかり消えた。きっと、最初の一歩から間違えていたのだ。――番外編――私は閻魔殿で、すべての顛末を見届けた。けれど、少しも嬉しくはなかった。人の世は冷たく、人の心もまた、ひとつではない。閻魔大王は、生前の行いが認められたとかで、ひとつだけ願いを叶えてやると言った。私は、まだ幼い美羽のことを思
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