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死んだはずの君は、他の子の父親に

死んだはずの君は、他の子の父親に

Por:  こばん猫Completo
Idioma: Japanese
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私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。 婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。 しかも二人とも、私の誕生日に。 私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。 だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。 五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。 私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。 ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。 思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。 「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」 子どもは不満そうに頬をふくらませた。 改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。 「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」 パパ? 二人は死んでいなかった。 それどころか、子どもまでいたのだ。 「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」 親戚の子が言った。 その声に反応して、始が振り向いた。 そして、私を見た。

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Capítulo 1

第1話

私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。

婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。

しかも二人とも、私の誕生日に。

私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。

だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。

五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。

私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。

ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。

思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。

「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」

子どもは不満そうに頬をふくらませた。

改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。

「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」

パパ?

二人は死んでいなかった。

それどころか、子どもまでいたのだ。

「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」

親戚の子が言った。

その声に反応して、始が振り向いた。

そして、私を見た。

私はその場に立ち尽くしたまま、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。

あの二人は、私のせいで死んだわけではなかった。

それを喜ぶべきなのか。

それとも、二人がいちばん残酷な形で私を裏切っていたことを、悲しむべきなのか。

どうしてなのだろう。

始は、私の幼なじみだった。

二十歳のときには、わざわざ名前を「始」に変えてまで、私に告白してきた。

彼はこう言った。

「過ぎ去ったものは、すべて序章にすぎない。俺たちの過去は恋の始まりで、これからの一生こそが本編なんだ」

あのときの私は、それが私たちの物語の始まりを意味しているのだと信じていた。

誕生日の前日、始は私にこう言っていた。

「夏穂、一生俺が守る。お前につらい思いなんてさせない」

けれど、いつだって私をいちばん傷つけるのは、ほかでもない彼自身だった。

いったい、いつから彼の心は私から離れていたのだろう。

私にはわからなかった。

そのとき、突然チャイムが鳴った。

死んだはずの親友、駒井翔子(こまい しょうこ)。その娘である美羽は、もう一人の生徒と一緒に慌てて教室へ戻っていった。

私はどうしていいかわからないまま、その場に立ち尽くしていた。

始が私に近づいてくる。

見つかった気まずさなど少しもなく、昔と変わらない慣れた口調で言った。

「夏穂、思っていたより早く気づいたんだな」

胸の奥に、じわりと苦い痛みが広がった。

私に知られることまで、彼の想定内だったのだろうか。

私は顔を上げて彼を見つめ、深く息を吸ってから尋ねた。

「いつから?」

始は少し考えるそぶりを見せた。

けれどその顔には、申し訳なさよりも、どこか他人事のような諦めが浮かんでいた。

「お前が翔子のために喧嘩した日かもしれない。守られている女も、案外悪くないと思ったんだ。

それとも卒業の日かな。翔子が着ていた、色褪せたシャツに惹かれたのかもしれない……」

始はわずかに目を細めた。

まるで年上の者が、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、落ち着いた口調だった。

「夏穂、人が次の瞬間に何を好きになるかなんて、誰にもわからないんだ。

俺だって昔は、金持ちのお嬢様なんて大嫌いだった。それなのに、お前を好きになっただろう」

残酷なほど率直に人を傷つけるのは、昔から始の得意なことだった。

私は胸の痛みを押し込め、さらに問いかけた。

「だったら、どうして直接言ってくれなかったの?どうして死んだふりまでして、隠れて結婚する必要があったの?」

始は、私がそう聞くことも読んでいたように、落ち着いた声で言った。

「俺はお前のことをよく知っているからだよ、夏穂。あの頃のお前はまだ、愛情と利益のどちらを取るべきか、ちゃんと考えられなかった。

騒ぎが大きくなれば、両家にとっても、翔子にとってもよくない。

でも今のお前なら、わかるだろう。そうでなければ、こうして俺の前に立っているはずがない。とっくに世間にばらしていたはずだからな」

何もかも、始の計算どおりだった。

私が黙って飲み込むことまで、彼には見透かされていた。

たしかに、私はもう騒がない。

けれどそれは、損得を考えられるようになったからではない。

私はもうすぐ死ぬからだ。

残された時間は、あと半年しかない。

だからこそ、残りの時間は大切なことにだけ使いたかった。

学校を出たあと、私はカフェで長いあいだ席を立てずにいた。

自分の病気のことを、どう両親に伝えればいいのか。

そのことばかりを考えていた。

夕闇が深まるころ、家の玄関先まで戻ると、中から女の子の笑い声が聞こえた。

不思議に思って立ち止まったそのとき、母の声がした。

「翔子、あと五分したら、美羽を連れて帰ってね。夏穂がもうすぐ戻るって言っていたから。

それに……五年前のことは、さすがにやりすぎだったと思うの。夏穂はこの五年間、ずっとつらそうだった。実の娘じゃないとはいえ、見ているこっちまで苦しくなるのよ」

父は深いため息をつき、重い声で言った。

「これから少しずつでも、償っていくしかないな」

翔子は穏やかな声で答えた。

「お父さん、お母さん、悪いのは私よ。夏穂には、できるだけ早く全部話すから」

その瞬間、いろいろなことが腑に落ちた。

どうして母はいつも、翔子も家に呼んで一緒に食事をしなさいと言っていたのか。

どうして母は翔子を見るたびに泣きそうな顔をして、こっそりお金を渡していたのか。

それから、家の中で時々見かけた、女の子が遊ぶような着せ替え人形のことも。

本当は、翔子こそが母の実の娘だったのだ。

翔子が死を偽り、子どもを産んでいたことも、両親はとっくに知っていた。

体の芯から冷えていくようだった。

父も母も、私が五年ものあいだ罪悪感に苦しんでいるのを、黙って見ていたのだ。

それなら、それでいい。

私が死んだあと、両親が悲しみすぎる心配をしなくて済む。

二人ももう、必死になって私を騙し続ける必要はない。

そう思って、私は主治医に抗がん剤治療を中止したいとメッセージを送った。

そのとき、不意に目の前のドアノブが回った。
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第1話
私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。しかも二人とも、私の誕生日に。私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」子どもは不満そうに頬をふくらませた。改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」パパ?二人は死んでいなかった。それどころか、子どもまでいたのだ。「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」親戚の子が言った。その声に反応して、始が振り向いた。そして、私を見た。私はその場に立ち尽くしたまま、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。あの二人は、私のせいで死んだわけではなかった。それを喜ぶべきなのか。それとも、二人がいちばん残酷な形で私を裏切っていたことを、悲しむべきなのか。どうしてなのだろう。始は、私の幼なじみだった。二十歳のときには、わざわざ名前を「始」に変えてまで、私に告白してきた。彼はこう言った。「過ぎ去ったものは、すべて序章にすぎない。俺たちの過去は恋の始まりで、これからの一生こそが本編なんだ」あのときの私は、それが私たちの物語の始まりを意味しているのだと信じていた。誕生日の前日、始は私にこう言っていた。「夏穂、一生俺が守る。お前につらい思いなんてさせない」けれど、いつだって私をいちばん傷つけるのは、ほかでもない彼自身だった。いったい、いつから彼の心は私から離れていたのだろう。私にはわからなかった。そのとき、突然チャイムが鳴った。死んだはずの親友、駒井翔子(こまい しょうこ)。その娘である美羽は、もう一人の生徒と一緒に慌
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第2話
ドアが開くより先に、私は玄関先から逃げ出していた。顔を合わせる勇気なんてなかった。ただ何も考えず、外へ向かって走った。公園まで来て、ようやく足を止めた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。私はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。夜が深まっていく。この世界にはもう、私を愛してくれる人なんていないのだと思った。しびれた脚をさすりながら、私は迷いに迷った末、もう自分の居場所ではない「家」へ戻った。父と母は、それぞれ気まずそうな顔をしていた。しばらく沈黙が続いたあと、とうとう父が口を開いた。「夏穂。実は翔子は……死んでいないんだ」二人は探るように私の顔色をうかがいながら、言葉を続けた。「翔子は始くんと結婚している。子どももいるんだ」私が黙ったままでいると、母の声が少し強くなった。「翔子を責めないで。あなたと翔子は、生まれたときに取り違えられていたの。本当ならあなたが背負うはずだった苦労を、翔子が代わりに背負ってきたのよ」母は私をなだめるように続けた。「始くんのことは……つらいと思う。でも、あなたが香村家の娘であることは変わらないでしょう」私は、それで満足するべきなのだろうか。なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。責めることも、恨むことも、私には許されない。泣きわめいて怒れるのは、愛されている人だけだ。私には、その資格がない。私はただ、小さくうなずいた。父も母も、少し意外そうな顔をした。私がここまで何も言わないとは思っていなかったのだろう。「美羽ちゃんの学校、今の家からだと少し遠いの。だからしばらく、三人にはうちで暮らしてもらうことにしたから」もう決まっている話だった。その夜、始は翔子と美羽を連れて、この家に移ってきた。みんなが嬉しそうだった。家の中は、たちまち三人の荷物でいっぱいになった。母はキッチンに立ち、忙しく手を動かしながら、私が見たこともないほどやわらかな笑みを浮かべていた。何度も翔子に声をかけている。「翔子、ゆっくりでいいのよ。疲れたら休んで。あとはお母さんがやるから。あなたは小さい頃からずっと苦労してきたんだもの。思うだけで胸が痛いわ」始はソファに座ったまま、玄関に立ち尽くす私を横目で見た。「そんなところに立ってないで、こっちに座れ」私は
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第3話
「出ていくのか?」私は慌ててスマホを拾い上げた。どうやら始の目に入ったのは、最後の一文だけだったらしい。彼は私を見下ろし、もう一度、低い声で尋ねた。「俺のせいか?」私は思わず身を引き、冷たく答えた。「違う。ただ、別の街へ気晴らしに行くだけ」始はまだ何か言いたげだったが、私はその前に扉を閉めた。翌日、部屋で荷物を整理していると、古い箱が出てきた。中には始との写真と、昔、告白されたときにもらったネックレスが入っていた。そこには、始の名前が小さく刻まれていた。あの頃の始の目には、私しか映っていなかった。あの頃の両親も、たしかに私を愛してくれていた。胸の奥がきゅっと痛んだ。私はそれらを袋にまとめて、捨てに行くことにした。部屋を出ると、美羽と鉢合わせた。美羽は床にしゃがみ込み、積み木で遊んでいた。私を見るなり、不思議そうに首をかしげる。「夏穂お姉ちゃん、それ、捨てるの?」私はしゃがみ、美羽の頭をそっと撫でた。冷えきった指先が子どものぬくもりに触れ、ほんの一瞬、ぼんやりしてしまう。「たいしたものじゃないよ。もう必要ないものだから」美羽はぱちぱちと瞬きをして、私の顔をじっと見上げた。「夏穂お姉ちゃん、私とママのこと、嫌いなの?」始によく似たその顔を見ていると、胸の奥が少しだけやわらいだ。「嫌いじゃないよ。美羽のこと、好きだよ。とても可愛いと思ってる」「じゃあ、どうしていつも悲しそうなの?」美羽は私の手を握り、不思議そうに首をかしげた。「パパがね、夏穂お姉ちゃんは昔、お姫様みたいに大事にされてたって言ってたよ。おばあちゃんも、夏穂お姉ちゃんは小さい頃から可愛がられて、何でも持ってて、いちばん幸せなんだって」お姫様みたいに。その言葉が、胸に冷たく刺さった。今の私には、皮肉にしか聞こえなかった。みんな、そう思っているのだ。夏穂は、ずっと幸せに生きてきたのだと。しかし、誰も、私がどれだけ傷ついているかなんて考えもしない。涙がこみ上げてきて、私はそっと顔を背けた。美羽に泣き顔を見せたくなかった。そのとき、始と翔子がこちらへやってきた。美羽が私のそばにいるのを見ると、始はわずかに目を見開いた。翔子はすぐに駆け寄ってきた。私が子どもの前で余計なことを言うとでも思ったの
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第4話
私はすぐに首を振り、ごまかすように言った。「最近、乾燥してるせいか、鼻血が出やすくて」始がまだ何か言おうとしたそのとき、翔子が慌てて飛び出してきた。「始、美羽の様子がおかしいの。アレルギーかもしれない……怖い、どうしよう」始は私を一度だけ見て、すぐに家の中へ駆け戻った。足音が遠ざかってから、私はこらえきれずに咳き込んだ。口元を押さえた手を開くと、指の間が真っ赤に濡れていた。あの袋を処分したあと、私は病院へ行き、痛み止めを少し出してもらった。主治医はもう一度、抗がん剤治療を勧めてきた。私は小さく笑う。「治療しても、半年延びるだけですよね。それに、とてもつらいんでしょう。この数年、生きているだけで苦しかったんです。せめて最期くらい、少しでも楽でいたいんです」主治医はしばらく黙って私を見つめたが、結局それ以上は何も言わなかった。私はそのまま病院で一晩を過ごした。翌日、家に戻ると、リビングではみんなが重い顔でソファに座っていた。「夏穂、どうしてあんなことをしたの?」母が目を赤くして怒鳴った。もしかして、私が病気で、治療をやめたことを知ったのだろうか。胸がざわついた。何が起きたのかわからないまま、私は一歩近づいて尋ねた。「どうしたの?」始が冷たい顔で、怒りを押し殺した声で言った。「美羽は昨日、ピーナッツアレルギーで危なかった。翔子もピーナッツアレルギーだって、お前も知っていたよな。それなのに、料理にピーナッツバターを入れたんだろ」私は翔子を見た。翔子は何も言わず、一瞬だけ目をそらした。まさか私を陥れるために、自分の娘まで危険にさらすなんて思わなかった。「私じゃない。そんなことしてない」けれど、その短い否定は、母には言い逃れにしか聞こえなかったらしい。母は勢いよく立ち上がると、私の頬を思いきり打った。乾いた音が、リビングに響いた。頬が熱を持ち、視界がぐらりと揺れる。私は床に崩れ落ち、喉の奥まで上がってきた血の味を、必死にのみ込んだ。父が慌てて私を起こそうとしたが、母がそれを止めた。「甘やかしすぎたのよ。人を傷つけておいて、まだしらを切るなんて」涙がぽたりと床に落ちた。母は私を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。「こんなことになるなら、最初からあなた
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第5話
夏穂の誕生日の日、家の中は朝から慌ただしかった。母はわざわざ早起きしてエプロンをつけ、何度も献立を見直していた。メモに並んでいるのは、夏穂が昔から好きだった料理ばかりだった。母はまな板を拭きながら、ついこぼすようにつぶやいた。「あの子、こんなに長く家を空けたことなんてなかったのに。外のご飯ばかりじゃ口に合わないでしょう。また痩せて帰ってきたらどうしよう」リビングには、イチゴのショートケーキも用意されていた。母が三日前に店へ頼んでいたもので、プレートには【わが家のお姫様へ お誕生日おめでとう】と書かれている。それは昔、夏穂が誕生日のたびに受け取っていたケーキだった。ただ、この五年、誰も彼女のために用意していなかった。だから誰も気づかなかった。今の夏穂が、その「お姫様」という言葉を何より嫌がっていることに。父も部屋の飾りつけをしていた。夏穂が好きだったシャクヤクの花束まで、わざわざ用意している。「夏穂が帰ってきたら、ちゃんと謝ろう。これまでずいぶん苦しませてしまった。これから少しずつでも、埋め合わせをしていけばいい」そう言う父の声には、後悔と、どこか期待のようなものが混じっていた。始はすべての仕事を断り、新しいネックレスを用意していた。ペンダントには、昔と同じように自分の名前を刻ませてある。そのネックレスを見つめていると、贈り物を受け取ったときの夏穂の、きらきらした瞳ばかりが頭に浮かんだ。始はただ、夏穂にあの頃の姿へ戻ってほしかった。無邪気で、よく笑っていた夏穂に。けれど胸の奥の不安は、時間が経つほど大きくなっていく。最近の夏穂の様子は、どう考えても普通ではなかった。一方、翔子は部屋で美羽とおもちゃで遊んでいた。けれど心の中は、少しも落ち着かなかった。みんなが夏穂のことばかり気にかけている。その光景を見るたび、胸の奥に黒いものが溜まっていく。どうして。香村家の実の娘は自分なのに。始の妻も、自分なのに。それなのに、みんながまだ夏穂を気にかけている。今日だって、みんなは夏穂のために誕生日を祝おうとしている。翔子はたまらなく苛立った。五年もかけて、ようやくここまで来た。夏穂の居場所に入り込み、夏穂が持っていたものを全部手に入れるために。それなのに、どれだけ望んでも、
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第6話
頭の中が、ぶん、と鳴った。始の思考は一瞬で真っ白になり、周りの音がすべて遠のいていった。ただ「お亡くなりになりました」という言葉だけが、耳の奥で何度も繰り返される。胸の奥が、きしむように痛んだ。亡くなった?そんなはずがない。昨日、俺は夏穂に電話をかけたばかりだった。誕生日を家で祝おうと誘ったとき、夏穂はただ静かに「帰らない」と答えただけで、声もいつもと変わらなかった。たった一晩で、どうして亡くなるというのか。信じられない。信じられるはずがなかった。「何を言ってるんですか。夏穂が死んだなんて、あるわけないでしょう。人違いじゃないんですか?名前を間違えてるんじゃないんですか?」始は電話に向かって怒鳴った。声には、自分でも抑えきれない震えが混じっていた。涙が勝手にこぼれ、スマホの画面を濡らした。電話の向こうの看護師は、一拍置いてから、落ち着いた声で言った。「間違いではありません。患者様は香村夏穂様、二十六歳。ひと月ほど当院に入院されていました。詳しいことは主治医からご説明いたしますので、ご家族の方はできるだけ早く病院までお越しください」通話が切れた。ツー、ツーという音だけが耳に残る。次の瞬間、始の手からスマホが滑り落ち、床で鈍い音を立てた。始はその場に立ち尽くしていた。指先が震え、喉がひどく詰まって、何も言えない。その様子に、父と母の顔色が変わった。母がたまらず始に詰め寄り、腕をつかむ。「始くん、どうしたの?夏穂に何かあったの?お願い、何か言って」始は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、やっとのことで言葉を吐き出す。「夏穂が……亡くなったって」「亡くなったって……どういうこと?」母はその場に崩れ落ちた。血の気の引いた顔から、涙がぼろぼろとこぼれる。「嘘よ。うちの夏穂が亡くなるわけないでしょう?今日はあの子の誕生日なのよ。まだ二十六なのよ。帰ってきて、ケーキを食べるはずだったのに。嘘でしょう。ねえ、嘘だって言ってよ!」父も呆然としたまま後ずさり、ソファの背に手をついた。そうしなければ、立っていられなかった。父も母も、一瞬で生気を失ってしまったように見えた。翔子は胸の奥にこみ上げる喜びを押し隠し、いかにも心配しているような顔を作った。「落ち着い
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第7話
主治医の言葉に、その場にいた誰もが息をのんだ。夏穂は、いつからうつ病を患っていたのか。自傷まであったなんて。どうして、誰も知らなかったのだろう。あの馬鹿。病気だったなら、どうして言ってくれなかったのか。けれど胸を締めつけたのは、それ以上に、もっと早く気づけなかった後悔だった。誰もがずっと思い込んでいた。夏穂は香村家のお嬢様で、何不自由なく、大切に育てられてきた。たとえ裏切られても、時間が経てばきっと立ち直れる。父も母も、そう思い込んでいた。だから五年前も、翔子たちが死を偽ったことを知りながら、黙って隠し通した。始を失っても、夏穂にはまだ自分たちがいる。翔子が幼い頃に背負ってきた苦労も、これで少しは報われるはずだ。そうやって、自分たちに言い聞かせていた。夏穂が何も言わなくなっても、傷ついているのだとは思わなかった。ただ拗ねているだけだと思った。痩せていく姿を見ても、わざと食べないで困らせているのだと決めつけた。誰も考えようとしなかった。すべてを持っているように見えた夏穂の心が、もうとっくに傷だらけだったことを。最期のときまで、そばには誰ひとりいなかったことを。始はベッドのそばまで歩み寄り、ゆっくりと膝をついた。そして、夏穂の手をそっと握った。その手は骨ばっていて、浮き出た関節の形まではっきりわかるほどだった。もう、ぬくもりは残っていなかった。始は血の気のない夏穂の顔を見つめた。次の瞬間、こらえていたものが崩れたように、ベッドにすがりついて泣き崩れた。自分さえいなければ、夏穂はきっと、もっと幸せに生きられたはずだった。夏穂をここまで追い詰めたのは、自分だった。病気のことにも、もっと早く気づくべきだった。始はかつて、夏穂を一生守ると誓った。つらい思いなんてさせないと、そう言った。けれど最後まで夏穂をいちばん傷つけたのは、ほかでもない自分だった。償いたかった。けれどこの世界に、もう夏穂はいない。「夏穂……ごめん……俺が悪かった……戻ってきてくれ……もう二度と離れないから……頼む、戻ってきてくれ……」始は夏穂の手を握りしめ、何度も何度も謝り続けた。けれど返ってきたのは、窓の外を吹く風の音だけだった。母はベッドにすがりつき、夏穂の冷たい
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第8話
子どもの何気ない一言に、全員の視線が一斉に翔子へ向いた。信じられないものを見るような目だった。始の表情が、すっと消えた。彼はゆっくりと翔子を見た。喉の奥から押し出すような声だった。「美羽にピーナッツ入りのおやつを渡したのは、お前だったのか。それを夏穂が料理に入れたことにしたんだな。夏穂を陥れるために、自分の娘まで使ったのか」翔子の顔から血の気が引いた。彼女は思わず後ずさり、いつもの優しげな顔を保てないまま、感情をむき出しにして叫んだ。「私がやったから何?私は悪くない!当の香村家の娘は私なのよ。始と結婚したのだって私でしょう!夏穂は何でも持っていたじゃない。なのに、どうしてみんな、まだ夏穂を気にするの? どうして夏穂のことばかり考えるの?私は夏穂が憎かった。小さい頃から何もかも持っていたくせに、始まで奪った夏穂が憎かったの!私は夏穂の代わりに、あんな家で二十年以上も苦しんできたのよ。自分のものを取り戻して、何が悪いの?どうしてみんな夏穂の味方をするの?どうしてよ!」翔子の叫びで、今まで必死に隠してきた本音が、すべてさらけ出された。誰もが言葉を失った。彼らはずっと、翔子は弱くて優しい子で、ただ家族を欲しがっているだけなのだと思っていた。けれど実際は、夏穂を陥れるためなら、自分の娘さえ利用できる人間だった。この何年も見せていた優しさも、思いやりも、すべて作り物だったのだ。。母は翔子を見つめた。その目からは、これまでの愛情も、負い目も消えていた。残っているのは、深い失望だけだった。母はゆっくり首を横に振り、冷えた声で言った。「私が愚かだったのね。実の娘だからって、あなたのことばかりかわいそうだと思って、夏穂につらい思いをさせた。……本当に、あなたには失望したわ」父も翔子を見た。声はひどく沈んでいた。「私たちはずっと、お前に申し訳ないと思ってきた。だから何かしてやりたいと思っていたんだ。それなのに、お前はこんな形で夏穂を傷つけた」始は翔子をにらみつけた。その目には、抑えきれない怒りがあった。「俺はお前のために夏穂を裏切った。死んだふりまでして、夏穂を五年も罪悪感で苦しめた。あんなに追い詰めてしまった。それなのにお前は、夏穂が苦しんでいるときにまで陥れようとしたのか。翔子、もう無理だ
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第9話
綴られた言葉のひとつひとつに、夏穂が誰にも言えなかった苦しみが滲んでいた。始は冷たい床に座り込んだまま、日記を抱きしめた。胸が締めつけられて、息をすることさえ苦しかった。――夏穂がどれほど絶望していたのだろう……ごめん……数日後、始は翔子に離婚を切り出した。その態度は変わらなかった。翔子がどれだけ泣きわめいても、始が振り返ることはなかった。始は財産を何ひとつ受け取らず、夏穂の日記と、あのネックレスだけを持って家を出た。父と母も、それ以来、翔子に関わろうとはしなかった。翔子は美羽を香村家に残していった。離婚したあと、始は夏穂がかつて使っていた部屋に移り住んだ。毎日、夏穂の日記を読み、写真の前でぼんやりと時間を過ごした。仕事も辞めた。夏穂が行った公園へ行き、夏穂が歩いた道を歩き、夏穂が好きだったものを食べた。少しでも償いたかった。けれど、何もかも遅すぎた。夏穂の命日、始はシャクヤクの花束を買った。夏穂がいちばん好きだった花だった。花を抱え、始は夏穂の墓へ向かって車を走らせた。道中、頭に浮かぶのは夏穂の姿ばかりだった。視界が少しずつにじんでいく。涙で、前が見えなくなった。ぼんやりした意識のまま、始は向かいから来る大型トラックに気づくのが遅れた。耳をつんざくブレーキ音と、激しい衝突音が同時に響いた。血に染まったシャクヤクが、車内に散らばった。夏穂の日記と、始の名前が刻まれたネックレスだけは、最後まで彼の手の中にあった。始は、そんな形で夏穂のもとへ逝った。もう二度と届かない償いを抱えたまま。始が死んだあと、翔子も心を病み、精神科の病院へ入った。美羽は、息の詰まるような香村家で暮らすことになった。やがて美羽は、あまり話さなくなった。笑うことも、ほとんどなくなった。父と母がどこへ行ったのか、美羽にはわからなかった。香村家からは、笑い声がすっかり消えた。きっと、最初の一歩から間違えていたのだ。――番外編――私は閻魔殿で、すべての顛末を見届けた。けれど、少しも嬉しくはなかった。人の世は冷たく、人の心もまた、ひとつではない。閻魔大王は、生前の行いが認められたとかで、ひとつだけ願いを叶えてやると言った。私は、まだ幼い美羽のことを思
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