《御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

60 章節

11.通らない改善案

藤崎亮の名前は、浜口の口から出た。「ECのことなら、藤崎に聞いた方がいいと思います」サンプルルームの棚には、まだKUZÉ ma vieの商品候補が並んでいた。淡い包装紙、小さな瓶、焼き菓子の香り。発酵調味料の深い琥珀色。美緒はそれらを見ながら、商品は確かにここにあるのだと思った。手で作られ、箱に詰められ、誰かの元へ届くのを待っているものたち。けれど、商品があるだけでは届かない。誰に、どう見つけてもらい、どこで買ってもらい、どう次につなげるのか。そこを見なければ、この企画はまた、きれいな資料の中だけで終わってしまう気がした。美緒は手帳を開いた。KUZÉ ma vie。原価。在庫。商品。製造数。賞味期限。取引先負担。浜口佐和。そこへ、新しく書き足す。EC。購入導線。リピート。藤崎亮。細いペン先が紙の上を滑る音が、サンプルルームの静けさの中で小さく響いた。書かれた名前は、まだ見知らぬ人のものだった。けれど美緒には、その名前が森川の赤い付箋や浜口の商品メモと同じ場所へつながっているように見えた。森川は数字を見ていた。浜口は商品を見ていた。そして今度は、届け方を見ている人がいるらしい。けれど、そのどれもが、なぜか会社の中心へ届いていない。浜口は資料を片づけながら、少し言いにくそうに続けた。「若手ですが、ECのことはかなり見ています。何度も改善案を出していますし」「改善案、ですか」「はい。ただ、なかなか通らなくて」通らない。その言葉に、美緒は小さく息を止めた。森川の数字も、浜口の商品側の注意も、出されていた。赤い付箋も、コメントも、資料の端に確かに残っていた。それでも十分には扱われていなかった。藤崎の改善案もまた、通らないものとしてどこかに積まれているのだろうか。美緒は手帳を閉じ、
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12.売れているように見えるのに

久世物産を出る頃には、外の光が少し傾いていた。エントランスの壁には、創業当時の写真が飾られている。古い商家の前に立つ初代、百貨店との取引開始を報じる地元紙の記事、地域イベントで笑う義父の写真。どれも、久世物産が長くこの土地に根を張ってきたことを示していた。歴史がある。信頼がある。地域に支えられ、地域を支えてきた会社。そう見えるように、そこには丁寧に整えられた過去が並んでいた。けれど美緒の腕の中には、別の久世物産があった。森川の赤い付箋。浜口の商品メモ。藤崎の未採用改善案。どれも、華やかな歴史の額縁には入らないものだった。美緒は受付に会釈して、ガラス扉を出た。夕方の空気が肌に触れる。昼間の熱がまだ少し残っているのに、風だけは冷たかった。通りを行き交う人たちは、それぞれの帰り道へ急いでいる。久世物産の社名板は、西日を受けて鈍く光っていた。外から見れば、立派な会社だ。少し古いが、堅実で、地元に根を張った老舗企業。百貨店との取引もあり、地域イベントにも名を出し、久世家の看板は今もこの土地で力を持っている。だが、美緒の頭の中には別の言葉が並んでいた。販促費。返品。在庫滞留。製造数要確認。取引先負担大。EC導線不足。未採用改善案。同じ会社を見ているはずなのに、表と裏が重ならない。エントランスに飾られた久世物産の歴史は、今日も誇らしげだった。けれど美緒の腕の中には、その誇らしさの下で薄くなっている数字があった。タクシーの後部座席で、美緒は資料の束を膝に置いた。スマホには、藤崎から送られてきたファイルが並んでいる。EC導線改善案。スマホ商品ページ改修案。百貨店催事×EC連動案。KUZÉ ma vie EC展開案。どれもまだ採用されていない資料だった。手帳には、今日一日で増えた文字が残っている。森川修二。浜口佐和
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13.面談前夜

鷹宮奏真の名前を初めて聞いたとき、美緒は手帳を閉じる途中だった。数字。商品。届け方。残らない。誰の仕事?昨夜書いた言葉は、まだ手帳の上に残っている。答えは出ていない。ただ、見てしまったものをもう見なかったことにはできないという感覚だけが、胸の奥に残っていた。久世家のダイニングには、夕方の薄い光が差し込んでいた。庭の木々は少しずつ影を濃くし、磨かれた床板には窓枠の形が細く伸びている。美緒はテーブルの上に広げていた資料を揃え、手帳を閉じようとしていた。そこへ、怜央が帰ってきた。いつもより少し早い時間だった。玄関の扉が開く音がして、美緒が顔を上げる。廊下を歩いてくる足音は普段と同じようでいて、どこか急いていた。怜央はスーツの上着を脱ぎながら、片手でスマホを操作している。ネクタイはまだ締めたままで、表情には外で見せる余裕が残っていたが、指先の動きだけが少し忙しない。「おかえりなさい」「ただいま」怜央は短く返し、スマホの画面を見ながらダイニングへ入ってきた。美緒は手帳の表紙に指を置いたまま、夫を見た。怜央は何かの返信を打っている。眉間に深い皺が寄っているわけではない。けれど、いつものように軽く流している様子でもなかった。「明日、鷹宮さんとの面談が入った」怜央はスーツの上着を椅子の背にかけながら、そう言った。美緒は顔を上げた。「鷹宮さん、ですか」「鷹宮奏真」怜央はその名前を、少しだけ慎重に発音した。鷹宮奏真。その響きだけで、いつものように軽く流せない相手なのだと分かった。「外部支援の候補。投資家っていうか、事業支援もやってる人でさ。地方のメーカーとか、老舗企業の再生支援とか、ブランドの立て直しとか、そういうのを何件もやってるらしい」怜央は早口気味に続けた。「EC展開にも詳しいって。親父も、今回はちょっと本気で見せたいみたいだ」美緒は手帳をそっと閉じた。「大事な面談なんですね」
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14.華やかな発表

翌朝、美緒はいつもより早く目を覚ました。会議に出るわけではない。久世物産へ行く予定もない。怜央と莉奈が鷹宮奏真に会うだけで、美緒自身の一日は、いつもと同じ久世家の中で始まる。それでも、怜央の書類ケースに昨夜送った資料が入っていると思うと、胸の奥が落ち着かなかった。まだ薄暗い寝室で身を起こすと、隣の怜央はすでに目を覚ましていた。珍しいことだった。普段なら、起こすまで眠っていることも多い。だが今日は、スマホの画面を見ながら、眉間にわずかな皺を寄せている。「おはようございます」美緒が声をかけると、怜央は画面から目を離した。「おはよ。莉奈、もう会社に着いてるらしい」「早いですね」「あいつ、昨日も遅くまで資料見てたみたいだからな」怜央の声には、少しだけ緊張が混じっていた。けれど彼自身は、それを隠すように軽く笑った。「まあ、見せ方は悪くないから。あとは鷹宮さんがどう見るかだな」美緒はベッドから下り、カーテンを細く開けた。庭の木々はまだ朝の色の中に沈んでいる。葉の先に残った露が、かすかな光を受けて白く光っていた。「うまくいくといいですね」そう言ったあと、自分の作った資料がどんなふうに使われるのかを、聞いてはいけないような気がした。怜央は、いつもより丁寧に身支度をした。濃紺のスーツ。白いシャツ。落ち着いたグレーのネクタイ。革靴は昨夜のうちに美緒が磨いておいた。怜央は鏡の前で襟元を直し、タブレットを確認し、何度かスマホの画面を見る。美緒は朝食を整えながら、その様子を見ていた。味噌汁の椀を置き、焼き魚の皿を並べ、小鉢を添える。佳乃子の湯呑みを定位置に置き、怜央のコーヒーは冷めないよう最後に淹れた。いつもと同じ手順だった。けれど、ダイニングの空気はいつもより少し硬い。怜央の書類ケースは、椅子の横に置かれていた。その中に、昨夜まで美緒の画面の中にあった資料が入っている。KUZÉ ma vie 初回展開確認メモ。販売チャネル別採算補足。
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15.答えられない質問

莉奈のプレゼンは、悪くなかった。少なくとも、会議室に流れた空気はそれを示していた。スクリーンには、KUZÉ ma vieのロゴが淡く映っている。薄いピンクベージュの背景に、細い金色の文字。地方の上質を、私らしい毎日へ、というコピーは、久世物産の古い会議室に新しい色を落としていた。小瓶のジャム、米粉クッキー、低糖質和菓子、ハーブティー。自然光の中で撮られた商品写真はやわらかく、会議室の重い木目とはまるで違う時間を持っているように見えた。莉奈は、少し緊張しながらも、やり切った顔をしていた。プレゼンを終えたあとの頬には、ほんのりと血色が戻っている。指先は資料の端に触れたままだったが、先ほどまでの小さな震えはもうなかった。自分の企画を語り切ったという安堵と、鷹宮の反応を待つ期待とが、表情の中に混ざっていた。鷹宮奏真は、それをすぐには否定しなかった。「世界観は整理されていますね」その一言で、莉奈の肩から少し力が抜けた。「ありがとうございます」「既存の久世物産さんの印象とは、確かに違う。入口としては、分かりやすいと思います」入口としては。その言葉の端に含まれた留保には、まだ誰も深く反応しなかった。怜央も、若専務らしい余裕を取り戻したように口元を緩めた。「ありがとうございます。弊社としても、既存の顧客層だけではなく、新しい接点を作る必要があると考えています」声は滑らかだった。「KUZÉ ma vieは、その第一歩として位置づけています。百貨店での信頼を活かしつつ、ECやSNSを組み合わせ、若い顧客層へ広げていく取り組みです」宗一郎も重々しく頷いた。会議室の空気は、悪くなかった。莉奈の資料は華やかで、怜央の説明は整っていた。宗一郎も、鷹宮の反応が決して否定的ではないことに、少し安心しているように見えた。けれど鷹宮は、そこで資料を閉じなかった。彼の手は、莉奈の淡い色の資料ではなく、その隣に置かれた薄いファイルへ伸びた。
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16.呼び出し

スマホが震えたとき、美緒は応接室の花瓶に手を添えていた。白い花の向きを少しだけ直し、背の高い枝を奥へ回す。花器の口元に落ちていた小さな葉を指先で拾い、畳の上に影が落ちない位置へ置き直した。佳乃子に頼まれた贈答品リストは、座卓の端に置いたままだった。封筒に入れる礼状も、まだ糊づけをしていない。久世物産では、今ごろ鷹宮奏真との面談が進んでいるはずだった。手帳には、細い字で予定が書かれている。鷹宮氏面談 10:00。その横に、美緒の名前はない。あるのは、贈答品確認、礼状準備、応接室の花、茶葉確認、怜央会食予定という、いつもの用事ばかりだった。美緒は、会議のことを考えないようにしていた。考えたところで、自分はその場にいない。会議室にいるのは怜央と莉奈で、資料を説明するのも二人だ。美緒は、昨夜ファイルを整え、送信した。それで役目は終わっている。そう思おうとするほど、資料の中の言葉が、かえってはっきり頭に浮かんだ。初回展開商品の分類。発酵調味料の扱い。ギフトボックスの分解可否。販促費込み粗利。EC導線。未確認事項。怜央は、どこまで読んだだろうか。莉奈は、商品分類の理由を理解しているだろうか。鷹宮という人は、どこまで質問する人なのだろうか。そこまで考えて、美緒は花瓶から手を離した。気にする立場ではない。そう思い直し、贈答品リストを手に取る。相手の名前、住所、品物、発送日、礼状の有無。確認すべきことは、いつも通りそこにある。ひとつずつ見ていけばいい。家の用事をしていれば、自分の場所が分かる。スマホが、もう一度震えた。画面には、怜央の名前が浮かんでいた。美緒は、面談が終わった報告だと思った。「はい」電話に出ると、怜央の声はいつもより低かった。「美緒」「はい。面談、終わりましたか」「いや、まだ」「まだ、ですか」
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17.見つけられた人

会議室に入った瞬間、美緒はまず、机の上の資料を見た。淡い色のロゴが入った莉奈のプレゼン資料ではない。昨夜まで自分の画面にあった、薄いファイルだった。KUZÉ ma vie 初回展開確認メモ。その表紙を見た瞬間、胸が小さく縮んだ。やはり、この資料のことだ。どこかに不備があったのだろうか。数字を間違えたのか。確認事項を入れすぎたのか。怜央に、余計な負担をかけたのだろうか。会議室の空気は、屋敷の応接室とは違っていた。長い会議机。深い色の木目。壁に掛けられた社訓。宗一郎が上座近くに座り、その隣に怜央がいる。莉奈は白いジャケットのまま、資料を前にして少し硬い表情をしていた。数名の役員が無言でこちらを見ている。そして、机の向こう側に、見知らぬ男性が座っていた。鷹宮奏真。怜央から名前だけ聞いていた人だった。落ち着いた濃い色のスーツに、無駄のない姿勢。年齢は怜央より少し上だろうか。柔らかな礼儀をまとっているのに、視線だけはひどく静かで、目の前にあるものを逃さず見ているようだった。美緒は深く頭を下げた。「お待たせして申し訳ございません」「妻の美緒です」怜央の声が、横から入った。「資料を少し確認してもらっていました」妻。少し確認。その言葉で、美緒の立つ場所が決められる。久世物産の会議室に呼ばれた人ではなく、怜央の妻。資料の担当者ではなく、少し手伝った人。その方が安全だと思った。美緒も、怜央の言葉に合わせるように、もう一度頭を下げた。「久世美緒です。資料を少し確認させていただきました」そう言えば、いつもの場所に戻れる気がした。夫を支える妻。頼まれた資料を見ただけの人。会議の中心に立つ人間ではなく、必要なときだけ呼ばれて、終われば静かに下がる人間。けれど、会議机の向こうの男は、静かに資料をめくった。「鷹宮です。急にお呼び立てして申し訳ありません」
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18.これは手伝いではありません

「久世美緒さん」鷹宮の声は、先ほどまでと同じように静かだった。けれど、その静けさの奥に、逃げ場を与えない確かさがあった。美緒は顔を上げた。会議室の空気は、ほんの少し前より重くなっている。長い机の上には、莉奈の淡い色のブランド資料と、美緒が作った薄い確認メモが並んでいた。けれど今、誰の視線も自然と後者に寄っている。KUZÉ ma vie 初回展開確認メモ。確認メモ。そう名づけたのは、美緒自身だった。改善案でも、事業計画でも、経営資料でもない。ただの確認メモ。そう呼べば、自分がしたことを小さくしておける気がした。頼まれて、気になったところを見て、皆から聞いたことを並べただけ。そう言える場所へ戻れる気がした。「整理しただけ、ですか」鷹宮は言った。美緒は、喉の奥が少し詰まるのを感じながら頷いた。「はい。森川部長や浜口さん、藤崎さんから伺ったことを、資料に並べただけです。私の判断というほどのものではありません」それを口にした瞬間、少しだけ息がしやすくなるはずだった。けれど鷹宮は頷かなかった。彼は美緒の資料を、ゆっくりと閉じた。淡い色のブランド資料ではなく、表と項目ばかりの薄いファイル。その表紙へ一度視線を落とし、それから美緒を見た。「それを、普通は手伝いとは言いません」会議室の空気が変わった。美緒は、すぐには意味を理解できなかった。手伝いではない。では、何なのだろう。怜央が、場の空気を戻すように軽く笑った。「鷹宮さん、大げさですよ」その声は明るく聞こえるよう整えられていた。だが、美緒にはその奥に硬さがあるのが分かった。「家内は元銀行員なので、数字を見るのが少し得意なんです。社内の資料を見て、補足してくれただけで」家内。補足。その言葉を聞いた瞬間、美緒は反射的に頷きかけた。そうです、と言いそうになった。
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19.安く見積もりすぎています

面談が終わったあとも、美緒はすぐには立ち上がれなかった。宗一郎が鷹宮に礼を述べ、怜央が今後の資料提出について答え、莉奈が少し固い笑顔でファイルを閉じる。役員の一人が日程の候補を口にし、別の担当者が資料共有の方法を確認する。会議室は、何事もなかったように片づけの空気へ移っていった。けれど美緒の中では、まだ何も片づいていなかった。これは手伝いではありません。経営判断です。鷹宮の声が、胸の奥で何度も響いている。そんな大きな言葉ではない。そう思おうとするたびに、机の上の薄いファイルが目に入った。KUZÉ ma vie 初回展開確認メモ。確認メモ。そう名づけたのは自分だった。補足でしかないと、自分のしたことを小さくしておくために。頼まれて、気になったところを見て、社内の人たちから聞いたことを並べただけ。そう言えるように。けれど鷹宮は、違う名前で呼んだ。経営判断。その言葉は、美緒の手に余った。宗一郎が重々しく頷いた。「では、追加資料については後日ということで」「はい」怜央が答える声は、若専務らしく整っていた。「商品別採算とEC導線、それから初回発注数の根拠について、社内で改めて整理いたします」「ありがとうございます」鷹宮は静かに応じた。「支援範囲を検討するにあたっては、そこを確認できると判断しやすくなります」「承知しました」怜央はきちんと頭を下げた。けれど、その横顔は面談前よりずっと硬かった。美緒はそれに気づき、胸の奥がすっと冷えるのを感じた。やはり、何かを間違えたのかもしれない。聞かれたことに答えただけだった。けれど、結果として怜央の顔を潰したのかもしれない。若専務として説明すべき場で、妻である自分が呼ばれ、資料の内容を話し、鷹宮から評価された。それは怜央にとって、面白いことではなかったのかもしれない
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20.戻された場所

久世物産を出てからも、鷹宮の声はまだ美緒の中に残っていた。これは手伝いではありません。経営判断です。あなたは、自分を安く見積もりすぎています。その言葉は、褒め言葉というより、胸の奥に置かれた重い石のようだった。すぐに受け取れるものではない。けれど、なかったことにもできない。隣で怜央は、車の窓ではなくスマホの画面を見ていた。面談のあとから、ほとんど口をきいていない。久世物産の玄関を出るときも、受付の女性に会釈しただけで、美緒を見ることはなかった。車に乗ってからも、画面を指で滑らせ、ときどき短い返信を打っている。忙しいのだろう。そう思おうとした。面談が終わったばかりだ。宗一郎への報告もある。莉奈との連絡もある。鷹宮へ提出する追加資料の段取りもある。怜央が黙っているのは、不機嫌だからではなく、仕事のことで頭がいっぱいだからかもしれない。けれど、横顔が硬い。美緒は膝の上で手をそろえ、窓の外へ視線を向けた。午後の街並みが流れていく。久世物産の本社ビルから離れるにつれ、重い会議室の空気も、鷹宮の静かな視線も、少しずつ遠くなるはずだった。けれど、遠くならない。経営判断。その言葉は、まだ胸の中にあった。作成者として。小さくしないでください。鷹宮の声は静かだった。責めるのでも、慰めるのでもなく、ただ正確に置かれた言葉だった。美緒はそれを、どう扱えばいいのか分からない。誇ればいいのか。喜べばいいのか。それとも、忘れた方がいいのか。そう考えかけたとき、信号で車が止まった。怜央が、ようやく口を開いた。「今日のことだけど」美緒は反射的に背筋を伸ばした。「はい」怜央はスマホを伏せた。だが、美緒の方は見なかった。前方の信号を見たまま、低い声で続ける。「鷹宮さんの前で、あそこまで話さなくてもよかった」その一言で、鷹宮の声が少し遠のいた。
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